ミッドナイトキャット
那智 風太郎
妻と喧嘩をした。
今年に入ってもう何度目だろうか。
彼女によっていつのまにか取り決めをされた家庭での細かなルールや規則。
それを度々押し付けられることに不快感を募らせる僕。
新婚当初は互いに笑って許せていたようなほんの些細なことでも今では簡単に暴発してしまう。
今日は浴室の掃除が中途半端だと文句を言われた。
入浴後すぐに窓を開け、湯を抜き、バスタブとタイルを洗い流し、壁や天井の水滴を拭き取る。
彼女はカビを前世の仇のように憎んでいる。
だからただちに浴室内に残った湿気を排除しなければならないのだ。
ただ僕からしてみればせっかく温めた体をパジャマ姿で清掃することで冷やしてしまう、そういう矛盾を感じる作業だ。
けれど、それはまあいい。
もう習慣化していて特になんとも思わない。
しかし今日はそれに加えて排水口の掃除までしろと言われ頭に来た。
「明日やればいいだろ」
「髪の毛なんかが溜まってて汚いでしょ。それに水気が残るし」
「だからって」
「いいでしょ。たかが数分で済むんだからそれぐらい」
「毎日、十分以上かけて風呂掃除している身にもなってくれよ」
「それはこっちのセリフよ。昼間、しっかり掃除し直してるのは私なのよ」
「だからそのときすればいいだろ」
「それまで残しておくのが嫌だから言ってるのよ」
「こっちは昼間、目一杯仕事して疲れてんだよ。それでも毎晩、食後の後片付けにこの風呂掃除、あと洗濯物たたんだりとかもちゃんとやってる。頼むからこれ以上仕事増やさないでくれよ」
「なによ、それじゃこっちが家事サボってるみたいな言い方じゃない。私だってパート行きながら掃除、洗濯、料理もちゃんとやってる。私だって疲れてるわよ」
「そういうこと言ってんじゃないんだよ」
「じゃあ、なによ」
「もういいよ」
「こっちだってもういい」
それで苛ついた僕はパジャマの上にロングコートを羽織って、ひっそりとした夜の街に飛び出したというわけだ。
もちろん向かう宛などあるはずもない。
とりあえずまだ冷たい三月の夜気でオーバーヒート気味の頭を冷やそうと考えていただけだ。
けれど目的もなくただ歩くだけというのもやってみるとなかなかに物足りないものでどうにも足が進まない。
そのときふと思いついた。
近所にある神社に行ってみようか、と。
以前は休日になると妻と二人でよくその神社を詣でていたが、そこが安産祈願で評判であると知ってからはあまり行かなくなった。
子供が欲しくないわけではない。
むしろ子宝を願っていた。
けれどできない。
検査をしてみたが医学的には二人とも特に問題はなかった。
焦りもあった。
そんなときその神社のご利益を耳に挟んだものだから、かえって足が向かなくなった。
あからさまに神様に妊娠を願う行為はなんだかちょっと強欲がすぎる思いがして気が引けたのだ。
それは彼女も同じだったらしい。
天の邪鬼なようだが僕たち二人はそういうところはよく似ているかもしれない。
僕は立ち止まってしばし逡巡した。
さっきからしきりにあくびが出る。
詰まらないことを考えずに早く帰って寝てしまったほうがいいんじゃないか。
理性的にそう考えたけれど、まだ起きているだろう妻と顔を合わせることに抵抗があった。
まあ、いい。
どうせ明日は日曜日だ。
少しぐらい夜更かししたって問題はない。
僕は踏ん切りをつけるように一度大きく息を吸い込み、右足から踏み出した。
歩きながらそういえば日曜日は彼女のパートも休みだと思い出し、明日苛まれるであろう気詰まりの予感を僕は二、三度頭を振って追い出した。
石鳥居の前に立つとその先にある濃い暗闇に僕は怯んだ。
常夜灯のいくつかぐらいは灯っているだろうとした僕の算段は外れて、鳥居の向こう側は墨を塗ったようにわずかな光もない。
そして一陣の風が吹き、鎮守の杜が一斉に葉擦れ、ゾゾゾと音を立てて蠢く。
まあ、無理して入る必要もないか。
小心な僕はあっさりと諦め、参道に向けて軽く手を合わせた後で踵を返す。
けれど、そのときだった。
僕は背後に冴えた鈴の音を聞いた。
振り返ると真っ暗闇だったはずの参道がそこだけ月に照らされたように青白く一本のすじとなって見えた。
そして目を瞠る間もなくややしゃがれた声が聞こえる。
「せっかく来たんやから寄っていってよ」
驚いておもわず肩が引き攣った。
そして足下から聞こえたその関西訛りに目線を落とすとそこに金色の目を光らせた真っ白な猫がちょこんと座っていた。
「夜はまだ長いし、ちょっとぐらい付き合ってくれてもええやん」
そう言葉を放った白猫が顔を洗うと首につけた鈴がチリンと鳴った。
僕はかろうじて保たれている平常心にすがりながらたずねる。
「猫……だよね」
「そやで。この神社でお世話になってますんや。ちなみに名前は大福。ちょっと太ってますさかいなあ、えへへ」
腹をさすりながらそう話す猫に僕はおどおどと立ち尽くすしかない。
これはきっと夢だろう。
もしかして現実の自分はすでにベッドの中にいるとか。
「まあまあ、とりあえず中入って。お茶ぐらいは出しますさかい」
猫はそう言って立ち上がり、背を向けて歩き始めた。
夢だと思えばさほど怖くもない。
むしろふくよかな体型の白猫は愛想も良くてかわいい。
僕は言われるがまま白猫の後ろについて参道を進んだ。
案内されたのは本殿の軒下だった。
「狭いとこやけど、まあ上がって上がって」
上がってと勧められながら軒下に潜り込んでいくというのはどう考えてもちょっとおかしな話で僕は笑声を喉元に押し込める。
「いや、どないしました。なんかおもろいもんでもありました」
訝しげな顔つきで尋ねる大福に僕は「いやいや、なんでもないよ」と首を振った。すると彼は軽くうなずき、それからさらに奥へと僕を誘っていく。
腰を屈めて、途中何度か蜘蛛の巣を払いながら暗闇をしばらく進むとやがて思いがけず明るく天井の高い空間にたどり着いた。
そのスペースの真ん中には年季の入ったちゃぶ台が置いてあり、薄汚れた座布団まで用意されている。
「あ、そこ座っといてくれます。茶でも入れるさかい」
猫はそういうと明るみの外にその姿を消した。
もはやこうなればなにを驚くということもない。
僕は言われるままにそこに座り、茶が出てくるのを待った。
見渡すと古めかしい箪笥や火鉢のようなものも背後にあった。
なんだかテレビで見る昭和初期の撮影セットみたいなところだなと思っているとやがて暗闇から大福が湯呑みを載せた盆を大事そうに持って現れた。
その危なかしげな二足歩行に僕は手を差し出して盆を受け取る。
「えろうすんまへん」
大福は耳を寝かして礼を言うとおどけた声をそれに続けた。
「ほなどうぞ、粗茶ですが。えへへ」
僕は軽く頭を下げ、ちゃぶ台に置いた盆から湯呑みを持ち上げてそれを啜った。
なんのことはない。
ちょっと味の薄い緑茶だった。
しかもかなり温かったが、なるほど猫だからなと密かに得心して湯呑みを置く。
「ねえ、キミさ。ここに住んでるの」
「そうですわ」
「いつから」
「さあ、もう何年になりますやろ。親とはぐれてからやさかい、ひい、ふう、みい……」
器用に爪を引っ込めたまま指を折っていく猫に僕はおもわず吹き出しそうになった。
「あら、どないしました。わて、顔になんかついてます?」
「いやいや、なんでもないよ。でも、ここって住み心地はどうなの」
聞くと大福は胸を張って背伸びをした。
「そら、ええとこでっせ。飯は神主さんとこがくれるし、なんやしらん縄張り争いもないし、最高ですわ」
「ふうん、そうなんだ。で、ひとりで住んでるの」
なんとなくそうたずねると彼は後ろ足で耳を掻く。
「あたたた。あんさん、痛いとこ突きますなあ」
「え、どういうこと」
「いや、お恥ずかしい話、わて、いま、別居中でんねん」
そして照れ臭そうにひとしきり太ももの毛繕いをした大福は顔を戻しとつとつとその身の上話を始めた。
それは取り留めもない長い話だったが、要するにどうやら大福の浮気がその原因だったらしい。
奥さんが懸命に子育てをしている最中にあろうことか彼は他の雌猫に手を出そうとしたというのだ。
僕は眉をひそめた。
するとそれを見て大福は尻尾をくるりと回す。
「いやいや、わては猫ですさかいな。あんまり責められても困りますねん。これ、すなわち本能っちゅうもんやし」
「だけど、それはさすがにまずいんじゃないの。だって奥さんは子育てで大変だったんでしょ。夫なら協力しなくちゃ」
僕がそう異論を唱えると彼はいかにも苦虫を噛み潰すというように口をくちゃくちゃ鳴らした。
「やっぱりそういうもんやろか」
「そうだよ、絶対」
大福の髭がぴくぴくと動く。
「なあ、あんさん。わてどないしたらええと思います?」
僕はしばらく腕組みをした後、おもむろに彼の金色の瞳を見据えた。
「ねえ、ひとつ聞きたいんだけどさ。大福くん、キミ、奥さんのこと愛してる」
それは思いがけない質問だったようで、彼の瞳がまん丸になったり細くなったりを繰り返す。そしてうつむき、やがて顔を上げた大福は真剣な表情でうなずいた。
「じゃあやっぱ、謝るしかないんじゃない。素直になってさ」
僕の言葉に猫にこんな表情ができるのかと思えるほど彼は体裁の悪い顔つきになった。
その後も僕は大福といろいろな話をしたように思う。
けれどその内容はよく覚えていない。
気がつくと僕はベッドで寝ていた。
そしてそばでは妻が背を向けて眠り、カーテンの隙間からは白い朝陽が差し込んでいた。
上半身を起こすと妻がそれに気がついたのか背を丸めた。
僕はベッドから出て、洗面所に行って顔を洗った。
ふと足もとを見るとパジャマの裾が汚れていた。
指で触ってみるとそれは蜘蛛の巣の切れ端と乾いた泥のようだった。
まさか……な。
僕は首をひねり、着替えをしたあとキッチンへ向かう。
そして手動ミルで豆を挽き、セラミックフィルターを使ってコーヒーを淹れた。
その香りにつられたのか妻が起きてきた。
けれど目は合わせない。
おはようも言わない。
彼女はパジャマにカーディガンを引っ掛けたままの格好で椅子に腰を下ろし、寝癖で乱れた髪に手櫛を入れる。
僕はふたり分のコーヒーをドリップしてそれぞれのマグカップに注ぐ。
「夕べはごめん」
僕は唐突に言った。
そして湯気の上がるマグカップを彼女の前に置く。
妻はうつむいたまま探るようにしてマグカップの取手を摘み、それを口元に運んだ。
黙ってその様子を見つめているとやがて彼女はカップをテーブルに戻し、それから低くくぐもった声で呟いた。
「まあ、私も……」
あやふやな声だったけれどたしかにそう聞こえた。
素直になってさ。
夢の中で自分が大福に放った声が鼓膜の奥に甦っていた。
素直に。
「ねえ、久しぶりに神社に行ってみない」
思い切って提案するとしばらくして妻の細い顎がこくんとうなずいた。
嬉しくなった。
そして確信した。
大丈夫。僕はまだちゃんと彼女を愛している。
ミッドナイトキャット 那智 風太郎 @edage1999
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