暗闇の泣き声

広之新

暗闇の泣き声

 今夜もやはり眠れない。私は今日も深夜の散歩に出かけた。空には星がきれいに輝いていた。だがその美しさに浸る前に私の耳にあの泣き声が聞こえるのだ。あの日からずっと・・・

 

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 あれは寝苦しい夜だった。私はベッドに入ったが、なかなか眠りに落ちなかった。


(寝るのをあきらめて気晴らしに少し外を歩いてみようか・・・)


 そう思って外に出た。ひんやりした空気が体を包んで心地よかった。深夜だから町はひっそりと静まり返り、道の電灯が家々をほのかに浮かび上がらせた。今夜は月がない分、空には星がたくさん輝いていてきれいに見えた。

 私はどこか知らないところに来てしまったような感覚に襲われていた。夜の町は昼間とは違う顔を見せる。別世界なのだ。


 しばらく歩くとどこかで人が泣いている声が聞こえた。それは心から悲しむように・・・。


(なんだろう・・・)


 私はその声のする方に向かった。すると道端に一人の高齢の男性がうずくまり、顔に手を当てて泣いていた。こんな時間にただ事ではないと私は声をかけた。


「どうかしたんですか?」


 するとその男性は顔を上げた。電灯の光に照らされてその顔が見えた。しわが深く刻まれ、疲れたように目が落ちくぼんでいる。その涙でぬれた目を私に向けた彼は言った。


「妻を殺しました・・・」

「えっ!」

「儂が殺しました。この手で・・・」


 その男性は震える両手を広げて見せた。


 ◇


 すぐにその男性の自宅に捜査員が向かった。通報した私もその男性を捜査員に引き渡してから現場に駆けつけた。そこは少し古い一戸建てだった。近所の家々もそうで、この辺りはかつての新興住宅地だった。都会に勤めるサラリーマンのベッドタウンだったが、年月が経って、今は高齢者の町と化している。

 その町は普段は老人だけで静かだろうが、殺人事件が起きたということで騒然としていた。警察バッジを見せてバリケードテープの中に入った私はそこで思わぬ人に会った。


「脇坂さん!」

「おう、日比野か。お前さんが通報したんだってな」


 それは江南署捜査課の脇坂刑事だった。六十前のベテランの捜査員で、私が刑事になった頃、捜査のことを教えていただいたのだ。いやそればかりでなく、ご自宅で奥様の手料理をよくごちそうになった。


「あの時はお世話になりました。奥様はお元気ですか?」

「いや、妻は3年前にがんで死んだ」


 脇坂さんは少し悲しそうな顔をした。私は聞いてはいけないことを聞いてしまったのだ。


「すいません」

「いや、いいんだ。もう3年も前のことだ。それより気になってここに来たんだろう。」

「はい。あの男が本当に妻を殺したのか・・・。あんなに悲しそうに泣いていたので」


 私はあの男性のことを思い出していた。彼はいつまでも泣き続けていた。それほど深く悲しむ人が果たして殺したのだろうかと。


「被害者は高野洋子、72歳。1階の和室の布団の上で殺されていた。首に跡があったから絞殺されたのだろう。容疑者は高野順二、78歳。被害者の夫だ。定年後、2人でここで暮らしていたのだろう。2人の間に子供はいない・・・」


 わかっているのはそれだけだった。


「動機は?」

「まだわからない。署で容疑者を取り調べているから何かわかるだろう」


 私は家の中を一通り見てみた。雑然と物が広がっており、全く片付いていない。被害者の遺体はもうないが、寝ていたという布団は汚れていて少しにおいがしていた。近くにはポータブルトイレが置かれていた。


(もしかして被害者は体が不自由だったのか・・・)


 夫の順二がずっと妻の世話をしていたのかもしれない。だとすると・・・。


(介護が苦になって殺してしまったか・・・)


 私はそう思った。日頃、優しく見える人間が急に悪魔になる・・・私は幾度となく見てきた。順二は思い余って妻を殺してしまったのに違いない。


 ◇


 私はこの事件が気になっていた。だから班長に頼んで、江南署の管轄であるこの殺人事件の捜査に加えてもらった。それにもう一つ、脇坂さんと再会して、また彼の下で捜査がしたくなったのだ。

 脇坂さんはどんな些細なことも見落とさないように、いろんなところに足を運んで粘り強く捜査した。それでいくつかの難解な事件を解決に導いていった。今回の事件は介護を苦にした夫が妻を殺した・・・という単純なものかもしれない。だがその奥に何かが隠れているような気がしていた。

 だが今回は、脇坂さんは机の前に座り込んだままで自ら動こうとしない。あれほど現場周囲をあちこち調べ歩いていた人が・・・。仕方がないので私だけで聞き込みに回った。


 容疑者の順二は取調室では憔悴しきって、「私が殺しました・・・」としか言わない。詳しいことを話そうとしないのだ。

 だが捜査会議では様々なことが浮かんでいた。それぞれの捜査員が報告を上げた。


「被害者は2年前から病気で寝込んでいたそうです。家事の一切は順二がしていたと近所の人の証言があります」

「その近所の人の話では最近、順二はかなり疲れていた顔をしていたようです」

「布団はかなり長い間、敷きっぱなしでした。順二が足腰が悪くなって布団を干せなくなっていたようです」


 容疑者の生活について様々な報告が上がった。やはり順二は介護に疲れて一思いに殺してしまったのか・・・。

 だが解剖所見から思わぬ報告があった。


「死因は栄養不良による餓死。絞殺ではないようです」


 だが被害者の首には手で絞められた跡があった。あれは・・・。捜査課長がその疑問を尋ねた。


「首に手の跡がついていたが、あれはどうだ?」

「確かに首を絞められた跡ですが、これは死因ではないようです。死亡数日前のものの様です」


 だがそれで順二の容疑が消えたわけではない。


「胃の内容物はなし。食事を長い間、与えられていないようです」

「するとネグレクトか。食事を与えず、死なせたか。よし、これで決まりだ。高野順二に対する逮捕状を請求しろ! 容疑は殺人だ」


 捜査課長は息巻いて言った。これで捜査会議は終わりとなった。脇坂さんはすぐにふっと立ち上がり、何も言わずに出て行った。その後姿は元気がなかった。そういえば会議の間、脇坂さんは何も発言していない。


「脇坂さんに何かあったのですか?」


 私は隣にいた江南署の刑事に聞いてみた。


「さあ。でも3年前に奥さんを亡くされてからたまにあんなになることがあったかな。」


 その刑事は答えた。私は心配になって脇坂さんを探した。すると彼は屋上にいた。柵に手をついて、ぼうっと物思いにふけっている。


「脇坂さん。どうしたんですか?」

「日比野か。今日は天気がいいなあ」


 穏やかな顔をして空を見上げていた。


「捜査のことですが・・・」


 すると脇坂さんの顔が急に険しくなった。


「どんな理由があろうと人を殺した者は許されない。どんなことがあってもだ!」


 脇坂さんはそう言うとまたフラッと行ってしまった。やはり何かがおかしい・・・私はそう思った。

 

 ◇


 相変わらず脇坂さんは机の前に座ったきりだ。どこにも行こうとしない。私は順二のことだけでもなく、被害者の洋子のことも調べた。病院に行って洋子の主治医に話を聞いたり、訪問看護ステーションでケアマネージャーに会ったりした。もちろん近所の人たちにも詳しく聞き取りをした。

 それで一つの結果を得た。それで間違いがないかと脇坂さんのもとに行った。彼にまず聞いてほしかったからだ。


「脇坂さん。自分なりに今回の事件を調べました」

「そうか。ご苦労だったな」

「結論から言います。高野順二は殺人犯ではありません!」


 それを聞いて脇坂さんの目が鋭くなった。


「高野洋子は胃癌でした。全身に転移してもう助からない状態でした。何も食べようとしなかったようです」


 順二は何も食べさせなかったわけではない。洋子が食べようとしなかったのだ。それで洋子は死亡した。自然死だったのだ。それを聞いて脇坂さんはじっと考え込んでいた。


「高野順二に罪はありません。彼は懸命に妻の介護をしていたんです」


 私は重ねていった。脇坂さんはそれに対して正しいとも間違いだとも言ってくれない。しばらく沈黙の時間が続き、脇坂さんはふらっと立ち上がった。


「脇坂さん!」

「だからと言って許されることはない・・・」


 そうつぶやくとまたどこかに行ってしまった。やはり何かおかしい・・・


 捜査課長は順二を殺人で逮捕するつもりだったが、彼を殺人犯にするわけにはいかない。私は調べたことを取り調べ中の順二にぶつけた。するとようやく話し出した。


「洋子の命がもうわずかだとわかっていた。でも儂は少しでも長く・・・。でも死期を悟ったのか、洋子は何も食べなくなってしまった。それに全身に強い痛みが出てきた。薬を使っても抑えられない・・・。あまりの苦しさに洋子は『死なせて! 苦しいから死なせて!』と訴えていた。それで哀れになって儂は洋子の首を絞めた・・・だができなかった。儂にはできなかった。儂は何もしてやることができなかったのだ」


 順二はうつむいて涙を流していた。彼は苦しむ妻のために何もできずに、ずっとそばにいて心の中で泣いていたのだ。


「ではどうしてあなたは自分が殺したとおっしゃったのですか?」


 私はそう尋ねた。その質問に意味がないとは思いながら・・・。


「あの日の夜、何とか少しでも食べさせようと食事をもっていった。でも声をかけても体をさすっても反応がない。気づかないうちに洋子はもう死んでいたのだ・・・。儂は洋子を救ってやれなかった。苦しいままに洋子を死なせてしまった。儂が洋子を殺したんだ・・・」


 順二は自責の念に耐え切れず、真夜中に外に出て泣いていたのだろう。そこに私が散歩で通りかかり、そんなことを言ってしまったのだろう。


「儂は・・・儂は・・・」


 泣き続ける順二に私はこういう言うしかなかった。


「奥さんはそんな風に思っていないと思いますよ。多分、ご主人に感謝して逝かれたのですよ」


 これが慰めになるかどうか・・・だが捜査は終わった。


 ◇


 私は脇坂さんの様子が気がかりだった。この事件の捜査中、ずっと暗い顔をしていたし、その態度もおかしかった。何か悩んでいたことがあったのかもしれない。もう一度、脇坂さんを訪ねようと思っているうちに数日が過ぎた。

 そしてその日、脇坂さんが辞表を出したのを班長から聞いた。前触れもなくいきなりだったので、そのことは署内ですぐにうわさになって広まったという。私は何か悪い予感がしていた。


「班長、すいません。ちょっと行ってきます」

「そうだな。俺も気になっている。見に行ってくれ」


 それで私は脇坂さんの家に向かった。奥さんをなくして一人暮らしのはずだ。もう帰っている頃と思うが、家の電話も彼の携帯電話も出てくれない。変な気を起こさねばいいが・・・だが私の予感は的中してしまった。

 脇坂さんの家の電気は消えていた。ひっそりと静まり返っている。だが玄関のドアは開いていた。


「脇坂さん! 失礼しますよ!」


 私は電気をつけて部屋に上がった。そこで私が見たものは・・・。

 脇坂さんは首を吊って死んでいた。その足元には、


「日比野へ」


 という封書があった。私はそれをすぐに開いた。


「これを読んでくれる頃には俺はこの世にいない。多分、日比野が俺を見つけてくれるだろうと思ってこれを書いた。お前にだけは言わねばならない気がしていたからだ。今回の事件は3年前のことを思い出させた。俺の妻も末期のがんだった。医者からもう助からないと言われて、長期休暇を取って妻を家に引き取った。最期の時まで少しでも長くそばにいてやろうと思ったからだ。だが俺の前で妻は激しい痛みに苦しんだ。『死なせて。もう耐えられない!』と何度も言って。俺は見ていられず、思わず妻の首を絞めていた。そして気が付くと妻は死んでいた。往診してくれた医者はその辺の事情を察してくれたのだろう。自然死ということで終わった。だが俺が妻を殺した。そのことには変わりはない。決して許されることではない。それで俺は自分で決着をつけることにした・・・」


 脇坂さんは苦しんでいたのだ。誰にも言えず、彼も心の中で声を出せずに泣いていたのだ。

 

        ーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 今夜もやはり眠れない。あの事を思うと・・・。私はベッドから出て真夜中の散歩に出かけた。空にはやはり星がきれいに輝いていた。まるでこの世とは別世界であるかのように・・・。それであの出来事を少しでも忘れさせてくれるかもと期待した。だがあの泣き声だけは頭から離れなかった。

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