敬虔なる修道士の悲哀と渇望

ヨシコ

どちらでもなくてどちらでもある

 一日は昼と夜とに分けられている。

 昼は人間の時間。光差す安全な時間。

 夜は獣の時間。血に飢えた異形の獣が跋扈する時間。



 ◇



 怪我をした小鳥が部屋の中にぽとりと落ちた。


 弱々しくさえずるその小鳥を手当てしたのは成り行きで、甲斐甲斐しく世話をしたのは義務感だった。

 

 手の中で震える小さな命。

 その羽毛の温かさ。

 いつもと同じのはずだった。


 でも、その日、その瞬間、修道士の中の何かが違った。

 今までにも嗅いだことのある血の匂い、その日それを嗅ぎ取ったその瞬間、修道士の中で何かが終わり、そして始まった。






 修道士にとって、他の多くの人間と同じように、夜は恐れるべきものだった。

 でも、他の多くの人間と異なり、昼も同じぐらい怖かった。


 陽の明るさを遮る黒い布。常に目元を隠すその布を取ってしまえば、明るい日差しに目を焼かれると、半ば本気で信じていた。


 恐れるべきものは、もっと他にあったのに。


「行ってはいけません」


 黄昏をとうに過ぎ、老女の忠告は的確で平静だった。

 修道士は、危険な外と安全な屋内とを分かつ扉にかけていた手を止めた。


「外は危険です」


 重ねられた声音は倦み疲れ、僅かな熱すらも感じることができないいつも通りのものだった。

 もしそこにいくばくかの哀願を感じ取れたなら、違う答えを出せたのかもしれない。


 親代わりでもあった年老いた修道女は、それ以上何を言うつもりも無いらしい。そしてそれが、修道士にとって最後の一押しとなった。

 自らの目元を覆い隠していた布に、修道士はその細い指をかけた。


「さようなら」


 修道女と同じぐらい、修道士も倦み疲れていた。訣別の言葉となるそれにすら、なんの熱も感じさせられないほどに。


 取り払った布がはらりと床に落ちる。

 忠告を無視した若い修道士がひとり、育った修道院を後にした。






 黄昏時を超え宵の深まる深更の時。

 それは「夜の獣」の時間である。


 陽が沈み再び陽が昇る瞬間まで、人間は夜を恐れ家の窓と扉を固く施錠する。

 決して開くことのないように。

 鋭い鉤爪が扉と壁の隙間を求めがりがりと掻くその音を聴きながら、家族で身を寄せ合い過ごすのだ。

 逃れることのできない不吉な音を少しでも聴かないで済むよう互いに耳を塞ぎ、祈り焦がれるように再び昼が巡るのを待つ。


 夜に彷徨い出た人間を狩りを楽しむように追い詰め、嬲り犯し殺す夜の獣。

 鋭い鉤爪で獲物の皮膚を裂き、その凶暴な牙で骨をも噛み砕く。不吉に光る金の双眸が逃げようという気力すらをも奪い尽くす。

 頸を掻いて溢れ出るその血を飲み干し、熟れた果実を啜るようにはらわたを喰らい尽くす。

 非力な人間にとって、それは異形の姿をした災厄。

 

 夜に出歩いてはいけない。


 それが人間として生きるための絶対的なルール。

 破ればその殆どが老若男女の分け隔てなく次の昼がやってくる前に、血だまりに、あるいはただの肉片と成り果てる。


 夜は獣の時間。

 人間ではない、異形の者共が跋扈する時間。

 人間として生き続けるためには、夜を恐れなければならない。






 遮るもののない視界。

 清涼な夜の空気。

 修道士は自由だった。

 どんなしがらみもなく、気が向くままに、気楽な散歩のように身軽だった。

 修道院を出てしばらくはゆっくりと大地を踏み締めて歩いていたが、気が付けば騒めく木々を抜け踊るように駆け抜けていた。

 修道士は、生まれて初めて生きていることを実感できたような気がした。


 夜は怖い。夜の獣は恐ろしい。

 だが修道士にとっては、昼も同じぐらい怖かった。人間が恐ろしかった。

 異形と罵られることを恐れていた。迫害を恐れていた。


 人間の腹から生まれたけれど、人間にはなり切れず。

 獣を種に生まれたけれど、獣ではなかった。

 人間でも獣でもないこれまでを、修道士は息を潜めこの世界から隠れて生きてきた。

 昼に属せず夜の者になることもできず。

 どちらでもない者として。


 不吉に光る金の双眸さえ隠してしまえば、人間になれると思っていた。

 己の中に芽生えた、血肉への渇望を自覚するまでは。

 

 夜が深まる。

 人間の時間に最も遠い獣の時間。血に飢えた異形の獣が跋扈する時間。


 この時間を謳歌するのは、夜の獣だけ。

 夜に彷徨い出た人間を狩りを楽しむように追い詰め、嬲り犯し殺すのは夜の獣。

 鋭い鉤爪で獲物の皮膚を裂き、その凶暴な牙で骨をも噛み砕く。不吉に光る金の双眸が逃げようという気力すらをも奪い尽くす。

 頸を掻いて溢れ出るその血を飲み干し、熟れた果実を啜るようにはらわたを喰らい尽くす。

 非力な人間にとって、それは異形の姿をした災厄。


 そこにいるのは既に、修道士などではなかった。


 涎が垂れた。

 牙が疼く。

 荒い息が漏れた。

 鼻先をくすぐるようなその匂いに歓喜する。

 窮屈な皮膚を脱ぎ捨てれば、鋼を纏った獣皮が現れた。

 鋭い爪が地を抉り、跳ねるように闇を駆ける。

 思わず舌なめずりをしていた。


 ほらそこに、人間がいる。

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