第7話 日曜日のぐちゃぐちゃ
日曜日。
学校の制服ではない。
木庭晴恵が何かの会を開くときのスタッフの制服だ。
木庭晴恵。
三十年ほど前に『
最新作がその『荒野の子供たち』。
その木庭晴恵が、瑠音のお母さん。
本名は
古原というのはお母さんのもともとの苗字だ。じゃあ、お父さんは「
「婿養子とか嫁取りとか、そういう発想がものっすごく古いのよ」
と吐き捨てるように言った。
瑠音はいまでは木庭晴恵の「スタッフ」の一人だ。
「校正刷り」というのも見さされるし、その校正刷りなどの文書を封筒に入れて出版社に送ったり、ときには原稿が遅れるというお
調べ物を頼まれることも多い。前に、調べ物を頼まれたので、ネットで調べた結果をプリントして持って行くと
「ネットで見られるようなものをわざわざ頼むわけないでしょ? ちゃんと図書館に行って調べなさいっ!」
とどなられたことがある。
「スタッフ」の一人。
特別扱いはしてもらえない。
前に、同じような会場で、出版社の編集の人に声をかけられ、名刺をもらったことがある。それは、原稿の締切を何度か遅らせるように瑠音がメールを書いた相手の方だったので、瑠音も
「あなた作家でもなんでもないのに何を偉そうに編集の人なんかとあいさつなんかしてるの!」
と怒られた。
だから、それからは、「スタッフ」としてイベントを手伝っても、できるだけ目立たないようにしている。
色白ではなく、目立たない、貧相でまずい容姿、というのは、その目的のためには役に立った。
そして、今日も、だった。
瑠音の役割は、隣のショッピングセンターに入っている書店で、その新刊『荒野の子供たち』を買ったお客さんを講演会場に案内する係……。
「木庭晴恵サイン会&講演会の会場はこちらです」と書いた札を持って立っているだけの役目だった。
ペデストリアンデッキに立っているだけの、単純でつまらない仕事だ。
でも、そのぶん、気も楽だった。
高校の制服を着ずにこの場所にいると、だれも「あの高校の生徒」という正体に気づかない。
そのことが、なぜか瑠音の優越感をくすぐった。
その瑠音が、その時間のあいだ、あっ、と思って緊張した時間があった。
駅から、朱色っぽい赤いスーツを着て、さっそうと、ではないけど、顔を上げて歩いて来る、背のあまり高くない少女がいた。
頬が赤いのは、お化粧しているのだろう。
朱色……その「朱」という字が名まえに入った、だれかがいた……。
……と思って見てみると、それが、その
しかし、朱理さんは瑠音に気づかない。
緊張した、ちょっと不安そうな顔つきで、瑠音の横を通り過ぎた。そして、吸い込まれるようにそのパールトンホテルに入って行った。
お母さんのサイン会の列には並ばなかったから、サイン会と講演会に来たのではないらしい。
でも、知っているだれかが通りかかったのは、そのときだけだった。
やがて、書店から、用意した本が売り切れた、という連絡があり、瑠音の仕事は終わった。
このまま仕事から解放されるわけではない。講演会のお客さんがみんな帰り、お母さんが一部の高級なお客さんとレセプションとかいうお食事会に行ってから、会場を片づける仕事がある。
それまで、四時間ぐらい、この服のまま待っていなければならない。
それも、お客さんの目につかないところで。
どうしよう、と思った。
学校の友だちには、本屋のあるショッピングセンターのカフェをたまり場に使っているような子がいる。それは知っていた。
でも、瑠音は、そのまねをしたいとは思わなかった。
かといって、家に帰るわけにもいかない。
「呼び出されたらすぐに会場に来れるところにいなさい」と言われている。
どうしよう、と、ペデストリアンデッキをうろうろしていると、
「瑠音」
と声をかけられた。
目立ってはいけないのに!
でも、名を知られているなら、返事もしないで逃げるわけにもいかない。
それで、その声をかけた、背の高い女を振り返ってみる。
「ああ、
ほっとして、体の力が抜ける。
「ああ。成美。どうしたの?」
「お母さんのサイン会だからさ、瑠音、いるだろうと思って、様子、見に来た」
ああ!
お母さんのところには、ホテルの外に行列ができるくらいにお客さんが来ているのに、瑠音には、一人も来ない。
それでいい、といまのいままで思っていたのだけど。
その瑠音を訪ねてきてくれた、一人がいた。
それが、とても嬉しい。
そこで、瑠音は、言った。
言ってしまった。
「そういえば、さっき、朱理さんがこっち来たよ。
「ああ」
成美は、あまり関心がない、という声で答える。
瑠音が続ける。
「そこのホテルに入って行ったけど、お母さんのサイン会に来たんじゃなさそうだった。何なのかな」
何でもいい。そんなことは瑠音が気にするようなことではない。
だから、成美からは
「さあ」
という程度の答えしか期待していなかった。
でも、成美は、軽く眉を寄せた。
言う。
「ここのホテルの上のほう、最上階に近い階に、
え?
いま、「恒子」って言った?
「そこは、会社が使ってないときは、恒子が自由に使っていいんだけど」
成美は、たぶん、普通に表情をつけてしゃべっているのだろう。
しかし、それが、瑠音には、音声解説マシンの無機質な声としてしか、届かない!
「まあ、あの別荘で
「朱理さんは、そこに行ったの?」
そうきかなければいけない。
でも、その声は出ない。
もうひとつ、言わなければいけないことばの声と、
なんで……。
なんで、成美は知ってるの?
その、口から出ていない質問に答えるように、成美は瑠音の顔を見た。
目を、自分の目で、じっと見つめた。
「わたしも一度行ったことがあるよ。下着まで巻き上げられたのは、そのときのことだけど」
ぷっ!
駆け出していた。
口と鼻を押さえて、駆け出していた。
サイン会のために並んでいる「読者」さんの列の横を駆け抜ける。
何人かの人が、この子スタッフのはずだけど、何を走っているのだろう、という不審そうな顔を向けたのにも気がついた。
もしかして、何か起こったのか?
自分は無事に木庭晴恵のサインがもらえるのか?
そんな心配をしたのかも知れない。
でも、相手にしていられない。
瑠音は走る。
奥にトイレがあった。そこは、トイレなのに、何の汚れもついていない、きれいな場所だった。
全力でそこに駆け込む。
しかし!
そこは満室だった。
トイレから飛び出すと、グランドピアノが置いてあって、そこから少し戻ったところに二階への階段がある。
その階段を駆け上がる。
ホテルの階段だけあって、長い!
遠い!
その上でしばらくまた行ったり来たりする。
自分は何をしているのだろう、と思ったところで、トイレが見つかった。
駆け込む。
「ばん!」と個室の扉を閉め……。
そして、座って、泣き出した。
声が漏れる。
んはっ、んっ、あう、あっ、こっ、あ、うおっ……。
スマホに電話がかかってきた。その音が、その泣き声に対して、とても無機質に流れる。
取り出してみる。
「岩瀬成美」
瞬間、スマホを床に投げつけた。スマホはそのまま個室の扉の外に滑って行ってしまう。
んはっ、んっ、あう、あっ、こっ、あ、うおっ。
ぐちゃぐちゃだ!
恒子さんの別荘に呼ばれて、恒子さんの「それ」の相手をさせられて、でも、恒子さんに気に入られて。
そのあと、親友だけど、自分より美人で、自分より成績のいい成美も、同じ恒子さんの「それ」の相手をしていたことがわかった。
でも、成美は親友だから、と、納得していた。
親友だから、許そう。
親友だから、成美が恒子さんに気に入られていても、それ以上に成美は瑠音と仲がいいのだから、許そう!
その成美に、そういう恒子さんのお相手は十人ぐらいはいると伝えられた。
でも。
それは、あの
二人とも、たいしたことはない。
恒子さんとしても、ただのひまつぶしだろう。
その二人が思っているほど、恒子さんは本気じゃないんだと思うと、この二人の一年生がかわいそうだ、とすら、思った。
それなのに!
ぐちゃぐちゃだ!
んはっ、んっ、あう、あっ、こっ、あ、うおっ。
朱理さん。
スーパー書記補の朱理さん。
それが、緊張した面持ちで向かった先が、このホテルの上にいる恒子さんのところ。
恒子さんが上の階にいた。
その下で、そのずっと下の階で、瑠音は母親にこき使われていた。
こき使われていた。
こき使われていた。
惨め!
しかも。
しかも!
朱理さんは、あの
よりによって、生徒会室で抱き合って、チュッチュチュッチュしてたじゃないか!
いや。
このぶんだと。
あの「ザ・清楚美人」の柚子も、やっぱり恒子さんと関係があるのかも知れない。
仲よく「恒子さんのそれ」をしているのかも知れない!
もっといろんなものを捧げているのかも知れない。
それはそうだ。
目立たなくて小さい貧相な瑠音のものより、清楚美人のもののほうが、恒子さんだって手に入れたいだろう。
清楚美人のいろんなもののほうが、恒子さんだって手に入れたいだろう!
スーパー書記補のいろんなものだって、恒子さんは手に入れたいだろう!
そして、美人の……。
……成美!
ぐちゃぐちゃだ!
んはっ、んっ、あう、あっ、こっ、あ、うおっ。
んはっ、んっ、あう、あっ、こっ、あ、うおっ。
瑠音は泣き続けた。
ぐちゃぐちゃに泣き続けた。
恒子さんと、朱理さんと、成美と、柚子。
その「ぐちゃぐちゃ」のなかに、瑠音は入っていない。
はるか上のそのひとたちの足もとの、はるかにはるかに下で、瑠音は
そのぐちゃぐちゃに届けないぶん。
それを取り返せるくらいにまで。
瑠音は、いつまでも、トイレの個室でぐちゃぐちゃに泣き続けた。
(終)
続おばかさん ぐちゃぐちゃ編 清瀬 六朗 @r_kiyose
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