簿記二級

大塚

第1話

「父も母もおりませぬ。崇拝者だけがおりました。

 わたくしははじめから、わたくしひとりだけでございます。


 名前はありませぬ。わたくしは混沌でございます。ぐちゃぐちゃでございます。

 わたくしは水の中におりました。或いは森の中におりました。望まれれば都にも向かいました。

 人を殺しました。家を壊しました。獣の血を啜りました。

 望まれましたので、すべてを行いました。


 わたくしは、


 わたくしはばけものでございます。

 そう。

 ばけもの。

 わたくしがばけものであると、混沌ではない、人に、動物に、都に、国に、害をなすものであると気付いた、もしくは気付かれた瞬間から、崇拝者は敵となりました。


 詮無い話。


 わたくしは混沌でありたかった。ばけものにはなりたくなかった。わたくしは。

 ぐちゃぐちゃのままで良かった。


 ばけもののわたくしに居場所はございませぬ。各地を放浪いたしました。

 どの土地にも長く棲むことは許されませぬ。何せばけものでございますから。土地に変事を招いてしまう。

 いく度目かの放浪先で、何者かが、おそらく人間だったと思うのですが、その方がわたくしを●●●●と呼びました。

 わたくしはばけものから●●●●という存在に変貌いたしました。


 わたくしは。


 ●●●●になったわたくしは、混沌から、ぐちゃぐちゃから離れ、模倣を行うようになりました。そう、人間の姿に。

 人間の真似をしているわたくしは正しいわたくしではありませぬ。ですが、以前のように石を投げ付けられたり、土地を追われることはなくなりました。

 わたくしは、●●●●でいることを選びました。

 人の真似をして生きることを、選びました。


 あなたが知りたいと仰ったのに。


 わたくしは混沌でございます。ぐちゃぐちゃでございます。かつては崇拝者もおりました。あなたがたの言葉を借りれば、○でございます。


 なにとぞよろしくお願いいたします。」


 とんでもない履歴書だと思った。


 ──そもそも履歴書の体を成していない、なんだこの怪文書は。


 丁寧に二つ折りにされた藁半紙を片手に、錆殻さびがら光臣みつおみは目の前の来客用ソファに腰を下ろす男をじっと見詰める。ぱっと見は人間だ。だがこの履歴書を信用するならば、彼は人間ではない。●●●●だ。その上○だ。

 どうすればいい。


「……仕事を探しているのか?」


 問いに、男は静かに頷いた。


「うちは、確かに経理のアルバイトを募集してはいたが」

簿、合格しております」

「……」


 もっと他に向いている仕事があるだろう。この男には。

 いや、この、ばけものには。

 どうすればいい。錆殻光臣は苦虫を噛み潰したような顔で、履歴書と、簿記二級を所持するばけものとを、交互に見詰める。

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簿記二級 大塚 @bnnnnnz

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