RE:くねくね

暁太郎

順化

「くねくね、という怪異を知っているか?」

「知っていますよ、二十年ほど前に流行った都市伝説……ネットロアでしょう」

「とぼけるな。連続殺人鬼、鎌谷真一」


 運転席の男――山岡は横目で鋭い視線を助手席の男に向けた。


 初老の男が二人、車に乗っていた。

 山岡は薄毛で浅黒い肌をした筋肉質のガッチリとした体型。対して助手席にいる、鎌谷と呼ばれた男は色白で細身、そして眠るように目を閉じて、山岡の視線を軽く受け流していた。


 二人が乗る車は見渡す限りの田園風景の中を走っている。遠くには深緑に彩られた山々が積乱雲の間から覗かせる太陽の輝きを浴びていた。

 緑の景色を縫うように並べられた電柱と電線、そして僅かに見える木造の年季の入った家々が辛うじてその場に人と文明の存在を示している。


 タイヤが砂利を巻き込む音が車内に響いていた。

 鎌谷は目を瞑ったまま、おもむろに口を開き、気怠げに言った。


「……訂正願えますか。その件はもう時効だ。せめて元殺人鬼と」

「殺人の公訴時効が廃止される前で良かったな。お互い」


山岡の言葉に鎌谷は小さく鼻で笑った。


「……それで、山岡さん。貴方はネットの古臭い怪談話に花を咲かせる為に、情報屋に高い金を払って私を見つけ出し、ここまで相乗りしているわけで――」

「あんたは『奴』を殺したんだ!!」


 山岡が突然、悲鳴とも歓喜ともつかない叫声を上げた。鎌谷は動じることなく、ずっと目を閉じ続けている。いや、開く必要がない。

 冷めた様子の鎌谷をよそに、山岡は興奮しまくし立てるように言葉を続けた。


「アレは実在している。目に入るだけで人の精神を犯す『何か』! だがどんな物事にも完璧はあり得ない。単純な話だ。見ればおしまいならば、見なければいい」

「…………」

「あんたが何故そうしたかは聞かないし聞きたくもない。だが、のあんたは奴の影響を受けることなく――あろうことか、ナイフを突き立ててバラしちまったッ! 今でもハッキリ思い出せるよ、白い肉塊の側でほくそ笑んでいたあんたの事をな」

「……なるほど、見ておられて……いや、聞いておられたのですかな。私とした事が気づかなかったとは」


 鎌谷が視力を失ったのは、まだ十歳にもなっていない頃の事だ。眼の病気で彼の双眸は光を失った。

 だが、人は、いや生物は自らが置かれた状況に適応しようとする。やがて、鎌谷は世界を色ではなく音で捉えるようになっていた。

 鎌谷は自らの出来事に天啓を感じていた。目に頼る必要がない。暗闇の中でも正確に人間を感じ取り……手にかける事ができる。

 

「あんたはこの世で最悪の人種だ。だが、時にその最悪が反転して善をもたらす事が、ほんの稀にだがある。結果的に、あんたはこの村を救ったんだからな」


 車の速度が徐々に落ちていき、やがて止まった。


「…………『あれ』だ。ずっとあそこにいやがる。あんた、わかるか?」


 山岡が片手で目を覆いながら助手席の窓に向けて顎をしゃくった。鎌谷は助手席の窓を開け、左耳に手を当てて感覚を研ぎ澄ませた。


「……これは……!」


 今まで淡白な反応だった鎌谷の口から、感情が漏れた。

 田園の遠くの方に小さく、しかし蠢く何かがいた。そして鎌谷の耳に僅かに聞こえる、異音。例えるなら、紙にミートパティを載せて肉ごと紙をこすり合わせているような音。


「……数ヶ月前の話だ。村の若いのが田んぼで作業をしている時に『あれ』を見た。十歩ほどの先に、『あれ』は立っていた。この数十年、影も形も無かったってのに」

「ええ……間違いない……あの時の……」

「明らかに以前より凶悪になっている。一瞬、見ただけでもダメだ。家に帰ってきた時には起こった事を話すのが精一杯だったそうだ」


 鎌谷はドアを開けた。途端に湿気を伴った熱気が鎌谷の身体にまとわり付く。外に出ると、異形が奏でるノイズが少しはっきりと聞こえるようになった。


「ああっ……まさか、また会えるなんて……!」


 鎌谷は感激するや否や、遊び盛りの童子のように田んぼに飛び込み、『それ』に向かって駆けていった。


「お、おい待て!」


 山岡の静止を鎌谷は気にもとめず、音の主へと一直線に近づいていく。田んぼのぬかるみに足を取られてたたらを踏み、靴やズボンに泥がついて靴下が湿ってぐじゅぐじゅと音を立てた。


 一歩を踏みしめるたび、鎌谷の耳に、脳にあの甘美が響いていく。


 『音』を聞きたかった。様々な音を。特に、『かき混ぜる』音だ。

 鎌谷はその中でも肉の音が好きだった。最初は動物だったが、やはり人間が一番だと気がついた。腹を裂き、内蔵を潰し、ナイフで、フォークで、骨で撹拌した。

 人にそれぞれ個性があるように、『音』もまた千差万別だった。いつか捕らえられ、罰を受ける日まで自らの行いを止める事は無いだろうと思っていた。


「ダメだ……ダメなんだ、君でなくては……!」


 鎌谷がうわ言のように唱える。


「この村に隠れていた時、君と出会ったんだ。興味本位だった。今まで聞いたことのない音だったから……。素晴らしかった……! 君が奏でる音は……!」


 鎌谷の犯罪は、『その日』を境にぱったりと終わった。唯一無二の曲を聞き終えた鎌谷に、『音』への情熱はすっかり失われていた。以来、身を潜める事に専念し、ついに時効を迎えた。

 鎌谷が音の主についにたどり着く。『それ』は鎌谷の接近にも何の反応も示さず、ただ佇み、ゆらぎ、音をばら撒くのみだった。


 鎌谷は、震える手でウェストポーチからサバイバルナイフを取り出した。ゆっくりとナイフの先端を『それ』に当て、力を入れて刀身を食い込ませる。

 『それ』は一切の抵抗もなく、鎌谷の行為を受け入れていた。刀身が『それ』に沈み込んでいくにつれて、鎌谷の口端も吊り上がっていく。

 そして、ナイフに力を込めてファスナーでも下ろすように『それ』を裂いた。果たして、『それ』の中に詰まっているものが一体何なのか、鎌谷には知り得ない。ただ、やる事は決まっていた。


 鎌谷は『それ』を押し倒し、突き立てていたナイフをゆっくりとかき回し始めた。


「ッ………~~~~ッ!!」


 鎌谷は喉から溢れそうになる歓声を必死で抑えていた。あの日聞いたものと寸分違わぬ音が、鼓膜を通じて脳を撫でている。その快楽を、自分の声ごときで邪魔するわけにはいかなかった。

 

 ぐちゃぐちゃ。


 この音を評して最も近く、しかし最も断絶した形容だと鎌谷は思った。所詮、文字程度では深淵な芸術を表現できるわけがない。

 鎌谷はただただ、数十年ぶりのアンコールに聞き入っていた。音が枯れ果てた脳に清流のように注がれていく。


 数秒とも永遠ともつかない体感が鎌谷を通り過ぎていった。


 鎌谷が我を取り戻した時には、日が山の向こうに沈みかけていた。

 『それ』は沈黙し、何の音も発する事なく、瞬間、掻き消えた。


「やった……のか?」


 鎌谷の後方で心配そうな山岡の声がした。鎌谷が立ち上がり、長い旅路から戻ってきたかのように汗を拭い、大きく深呼吸をした。


 夕暮れの中、遠くでカラスとひぐらしが鳴いていた。


「山岡さん……順化、という言葉を聞いたことがありますか?」


 静かな口調で、鎌谷が言った。


「なんだ、突然……?」

 

 全く脈略のない問いかけに、山岡の声には困惑の色が浮かんでいた。


「ざっくりと言えば、生物や植物が環境の変化に自らの身体を適応させる事を指します。これに限らず、我々は環境や自らの状態に合わせて最適化するよう努力する。眼が使えなくなった私が、耳で世界を把握するよう変化したのと同じです」

「何を……言っている?」

「『これ』もまた、長い時をかけて変質していったのですよ。山岡さん、犠牲になった方は、一瞬でも『これ』を見たからそうなったわけじゃあない」

「え……」


 山岡の喉から、ごくりと息を呑む音が聞こえた。蒸し暑さで流れていた汗は量を増し、呼吸が早くなっていく。


「見たからではなく……聞いたからですよ。はっきり、わかる……あの至福の時間、私の、頭――脳内細胞から作り変えられていく、あの――――――!!」

「あ……ぁっ…………!?」


 山岡の脳裏にある予感が浮かんだ。今、再び鎌谷の手で解体された『これ』は、人の精神に異常をもたらす。

 ならば、

 元から狂った精神を持つ人間が、もし『これ』の影響を受けた時は?

 かつての熱気が枯れ果てた殺人鬼が、その脳を揺さぶられた時は――。


 ゆっくりと、鎌谷が山岡の方を振り向いた。その顔には、大きく、歪んだ笑顔が張り付いていた。

 声を上げる暇さえなかった。


 その日、とある村で住民全員が一夜にして死に絶えたという――。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

RE:くねくね 暁太郎 @gyotaro

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ