ReMix
御角
ReMix
空が、焼けるように赤い。窓からするりとそよ風の匂いがして、机に置いたプリントはその音に耳をすませる。まるで飛び上がる瞬間を、待ち望んでいるみたいに体を浮かせて。
「ちょっと、
「そうか、クラウチングスタートだ」
「……は?」
慌てて口を抑え、一瞬で我に返った。……間に合わなかった。不意にこぼれ落ちた思いつきは、二度と私の頭の中には戻れない。
「ご、ごめん。なんの話だったっけ」
「……もういいよ。伊織に話そうと思った私がバカだったわ」
友達は大きなため息を一つついて、苛立たしげにリュックを背負い直す。
「あ、あの、本当に、ごめん」
「だから、もういいってば。これ以上……!」
歯軋りの音が、聞こえた気がした。あるいは、リュックの肩掛け紐を握りしめる音か。いや、スニーカーのゴム底が木目と擦れる音かもしれない。
「あんたってさ、本当、そういうところあるよね」
バイバイ。元友達は手を振ることもなく、靴を鳴らして足早に教室を出て行った。またね、なんて言い合う日は、きっともう二度とやってこないような気がする。
「ゴム底が擦れる音、だったんだ」
こんな時だというのに、私の脳みそは未だにどうでもいいようなことを考え続けていて。そんな自分が酷く憎らしいはずなのに、一滴の涙も出ないことが、ただただ悔しくて、悲しかった。
人は考える
『伊織ちゃんって、なんか変じゃない?』
『全然話聞いてないよね。なんで? 普通はわかるでしょ』
幼い頃から散々言われてきたこと。わかってる。努力だって、しようとは思ってる。でもそんなちっぽけなものじゃ、私は全然普通の人間にはなれなくて。
「みんな、結局最後は諦めてるじゃん。私が諦めて、何が悪いの……」
風にはためくプリントが、押さえつけていた両手をすり抜けて宙に舞った。ピストルの鋭い幻聴が脳内から鼓膜に突き刺さる。
だから、気が付かなかった。教室の扉が乱暴に開かれた音に。飛ばされたプリントを握り潰して笑う、仁王立ちの小さな女の子に。
「あれ、なんだ。まだ人、残ってんじゃん」
彼女はそう呟いて、背負った大きな荷物を下ろし、遠慮なく近くの机にどかっと腰掛けた。
その小さな体には似つかわしくないほどの、大きくて黒い袋。そして隙間からチラリと覗く、
「ちょ、ちょっと、それ」
武器か。まさかストライキか。そんな思考が突発的に、脳内でぐるぐると暴れだす。だって、だって彼女は。
「何、もしかして、不登校が急に学校来てビビってるとか? ウケんね」
彼女は不敵に口角を吊り上げて、袋のチャックをゆっくりと下ろした。
「——え、なんで、ギター……?」
「さあ、なんででしょう」
クラシカルな、昔ながらのアコースティックギターを得意げに一鳴らしして、彼女は抜け殻となった袋を勢いよく蹴飛ばした。
「自分から不登校になったとはいえ、家にずっといると、やっぱ暇でさ。……もう、飽きちゃったんだよね。練習するの」
原田りとな。クラスでも有名な、不登校の同級生。一年ほど前から学校に来なくなって、クラス替え以降も全く登校していなかった彼女が、ただギターを披露するためだけにここに来たというのか。
「……意味が、わからない」
「あんただって、さっき、なんかよくわからないことばっかり言ってたじゃん」
「聞い、てたの」
「人聞き悪いなぁ。あんなに怒鳴られてたら嫌でも聞こえるっての」
チューニングをしながら、彼女はなんでもないような顔で人の垣根を踏み倒す。
そういうところが。先ほど言われた言葉が脳裏をよぎって、湧き上がって、消える。そうか、おこがましくも、私は彼女に苛立ってしまったのだ。友達だった人が、私に抱いた感情そのままに。
「私って、やっぱり世界のゴミなのかも」
「……なんで」
「だって! 普通じゃない、から。人をイライラさせてばかりで、ボーッとして余計なことを考えちゃうせいでまともに会話も出来なくて。……いつも、誰かのお荷物で。生きてる価値、ない。かも」
最後の方はもう息が続かなかった。掠れた囁きはあまりにも
「あ、あれ、惨めと滲むって、ちょっと似てる」
また、考えなしの突飛な思考が、口をついて出てしまう。
「……ぶふっ」
手元が狂ったのか、せっかく音程を合わせた弦が無理に引き伸ばされて間抜けな声を上げる。彼女は体を震わせて、なぜか満面の笑みを浮かべていた。
「ねえ、いわゆる余計なことって、さっきみたいなやつのこと?」
「う、うん。まあ、そんなところ」
「ふーん」
正しく調律された弦を一本一本確かめるように弾いて、彼女は
「ボーッとして無駄にしちゃうくらいならさ、全部。全部吐き出しちゃいなよ。この少しだけ書いてあるポエム、あんたのやつでしょ? 完成させてよ。今、ここで」
それは、あの時、飛んでいったプリントの裏に走り書きされた、私の一部。現実にはみ出した、私のぐちゃぐちゃなインスピレーションそのもの。
無意識に腕を伸ばす。シワを直すような暇もなく、頭が手に書けと命じる。溢れたものを、全て受け止め、書き留めようとするかのように、ペン先は白い大地を走り続けてやまない。
「……出来た」
「ほー、やれば出来るんじゃん?」
どのくらい集中していたのだろう。日は既に、落ちるか落ちないかといったギリギリのラインを
ジャラン。夕闇の中、一日の終わりを告げるかのように、旋律が教室を照らす。
「擦れる、踏みしめた泥の香りが、僕らがただの葦であると告げる。ズレる、噛み締めた血の味に、明日の僕が惨めに滲む」
ここには二人きり、観客は私一人。なのに彼女は、全身全霊で、声が枯れるまで、私の詩を歌い上げ続ける。バラバラだった私の思考の切れ端が、彼女という糸で繋がり、ウタという形を得る。
「明日の僕に——いつかを見せる。……はぁっ、もう限界! やっぱり不登校が急に大声出すもんじゃないわ」
薄暗い教室で、粒立った拍手の音が何度も、何度も反響する。それが私から発せられていると自覚した時、冷め切っていた目頭が急に熱を持ち始めた。
「すごかった。すごかった……!」
「やめてよ。まだまだ荒削りだし、私の曲レベルも下の下だし」
「そ、そんなことは……」
「そもそも、歌詞の意味がよくわかんないし!」
「うぐっ」
「でも、さ」
夕日が放つ最後の
「やっぱり、あんた。最高に面白い」
案外いいコンビになれるかもね。ギターをしまいながらそうニヤける彼女に、私はそっと笑い返した。笑うフリをして涙を拭ったのは、まだしばらく内緒にしておこうと思う。
「あんたじゃなくて。伊織って、呼んでよ」
「言うじゃん。よし、なら、私のことも下の名前で呼んでいいよ。特別だぞ? 伊織」
それぞれの荷物を、気だるげに、でもほんの少し誇らしげに背負い込んで。私たちは、並んで一歩踏み出した。
「ありがとう……よろしくね、りとな!」
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます