まだ生きていた“私”へ
藤咲 沙久
A定食とスパゲティ
子供の頃、すごく欲しいぬいぐるみがあった。ふわふわのモコモコなクマで、毛並みが桃色で、キラキラしたリボンをつけている子だった。だけどそれは母の方針に反していたのだ。
「え、なんでっすか? 値段が高いから? それともアレルギー関連でアウトとか。オレも埃だめなんすよねー」
口の周りをミートソースだらけにしながらスパゲティを頬張る後輩が、不思議そうに顔を上げた。そんなに急いでかっ込まなくても昼休みはまだ長い。私も止まっていた箸をA定食へと伸ばした。
ぬいぐるみだなんて、随分と懐かしい話だ。発端は彼が姪っ子への贈り物に悩んでいると相談してきたこと。普段の研究では発想力とひらめきに長けている彼も、これに至ってはお手上げだったらしい。曰く、母たる姉には悔しいので頼りたくないそうだ。
とはいえ身内でもない成人女性からすれば、今時の女児が持つ興味関心など未知に等しい。なのに参考までにと拝まれ、仕方なく幼少期の話題に触れたわけだ。
そうして思い出した。母の“意識の高さ”を前に主張を阻まれた、本当は欲しかったものを。あのクマの表情を。
「いわゆる女の子らしさ、男の子らしさってやつ。よくない言葉だって話題になったことあるでしょう。ウチの母は昔からそういうの嫌いで……私に女の子っぽいものを着せない、持たせないことがこだわりだった」
「ははぁ。じゃあ女の子らしさの権化たるピンクでキラキラで可愛らしいぬいぐるみなんてものは」
「言語道断だね。お、今日の煮物美味しいな」
与えられるオモチャや色は全面的に中性的で男女差を感じないもの。髪は肩より伸ばせなかったし、制服のスカートもきっとあの人は嫌ってた。強い言葉こそかけられなかったが、私はそのうち、母がいい顔をするかどうか伺いながら選択することを覚えていった。
実家はとうに離れた。いつまでも母の好みに合わせる必要もない。それでも私は今も髪を伸ばせないでいた。そして大学院修了目前の今、男にも女にも寄りがたい存在である私がどんな風に社会へ溶け込めるのだろうかという不安だって、実は感じている。それを馬鹿馬鹿しいと笑うように、ミニトマトが箸からスルリと逃げていった。
「今で言うジェンダーレス感を目指してたんすかね」
「というか、性別にとらわれない自分に酔ってたが正しい。あとは……そもそも女の子っぽいもの好きじゃなかったんだと思うよ。あの人はあの人で、実家ではお嬢様だったから色々押し付けられて生きてたんだろうし」
「でも
「子供の頃の話だよ。それに青山君からすれば、私のイメージに合わないだろう?」
別に好きでもいいっすけどね、と言いながら彼は皿の上を空にした。君、食べるのが早いな。私は少し急く気持ちで味噌汁を啜った。あと五分は待って欲しい。
「まあ、瑞樹先輩的にも今さら変えられないのかもしれないっすけど。今からでも好きと思えるものは、手に入れてたったらどうすか。たぶんその方が楽しいし。もちろんぬいぐるみでも」
「冗談。もう二十代後半だよ、周りに笑われるさ」
手を合わせて「ご馳走さまでした」と小さく呟く。青山君は慌てるように遅めの合掌をした。口を拭うのも忘れないでね。ついクスクス笑ってしまったが、彼自身は気づいてなさそうだ。どころか、やや考えるような表情をしている。
「それも一緒っすよ、きっと」
「一緒?」
「瑞樹先輩が“大人らしくない”からダメって遠ざけるのがね。“女の子らしい”からダメって遠ざけられたのと、一緒じゃないかなーって。もう自分らしければ良くないっすか?」
「自分らしく……、フ」
なんだか格好いいようなことを言ってくれているのに、べったりついたソースが可笑しくて集中できない。吹きそうになるのだけは堪えながら、やっぱり青山君は、面白いことを言うなぁと思った。
幼少期に形成された自己は覆り難く、それほど気軽にどうこう出来るものではない。選ぶ色、デザイン、本当に私の趣味と化してる部分も少しはあるのだ。今さら可愛い女になる気だってもちろんなかった。だけど……だけど。
(ぬいぐるみを可愛いと思う感覚は……なくなって、ないな)
ふわふわで、モコモコで、キラキラ。あの子を思い出した時にきゅっとなった胸の高鳴りは、まだ生きていた。私の中に残っていた。なんだかそれがわかっただけでも気持ちが温かい。……充分だ。本当に可笑しくて、私はまたフフと笑った。
「わざわざ買いには行かないけどさ。でも、うん。なんか、ありがとうね青山君」
「どもっす。まあ年相応ってのも必要な場面はあるっすけど。人には見せない、自分の好きなものを楽しむ時間も大事なんじゃないすかね。実はオレも未だにライダーマン好きっすし。知ってます? ヤバいんすよ今時の特撮」
「楽しそうな話だ。でもそろそろ講義室行かないと」
「マジすかやべぇ」
「やべぇね、フフフ」
食器を鳴らしながらトレイを手にする青山君へ、先にこっち! と紙ナフキンを渡してあげた。ようやくソースを落とした彼と食堂をあとにする。私は廊下を歩きながら、前だけを見て小さく「青山君」と呼んだ。どこか緊張した声音になった。
「姪御さんへのプレゼントさ」
「あっ忘れてた!」
「フフ。親御さんの考えとか、関係とか、わからない私があまり言うことでもないだろうけど。もし可能なら……本人が欲しいものを、贈ってあげて」
「……っすね!」
隣で彼が笑う気配を感じた。それはとても心地が良いものだった。君ならきっと大丈夫だ。喜んでもらえるといいね。
愛くるしいクマのぬいぐるみ。もしも今後、どうしても欲しいと思える子にまた出会えたとしたら。その時は──……考えてみようかなんて、胸の裡でこっそりと思った。それが、まだ奥底に生きていた“自分らしさ”に寄り添うことになるのなら、いいな。
まだ生きていた“私”へ 藤咲 沙久 @saku_fujisaki
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