動乱の前夜へ③

 その岬には、明治五年に北海道で最初の灯台が立ったという。

 今あるものは昭和初期に建てられた二代目だが、代を経ても岬からの風景は変らない。

 春から夏にかけて北方から流れ込む冷たい海水が、南から張り出す温かい湿った空気を冷やすことで生まれる霧。その白さが見通しの効かない海の風景を作り出す。

 北海道の東の端。その先には、北方領土の島々しかない。根室市・納沙布のさっぷ岬である。

 短い夏が過ぎ、九月に入ると閉ざされた風景は一変する。晴れ渡った青い空と、深く蒼い海。その中に、高さ一三.五メートルのずんぐりとした形の白亜の灯台が、緑の下草を従えてくっきりと浮かび上がるのだ。

「へぇ~、何だかかわいいお城みたい。真っ白さ加減が、海と空の青さの中で映えるわねぇ。きれい、きれい。ねぇ、絵理奈」

「きれい、きれい。きれい、きれい」

 手をつなぎながら灯台に向って歩く真鈴と絵理奈の足どりは軽やかで、声にも心浮き立つものが感じられる。対照的に後をついていく本田の足どりは重く、気分は沈みがちだった。もう一人の家族がここにいなかったからだ。

 二〇一九年九月半ば。遅い夏休みをとった本田は、真鈴と絵理奈を連れて北方領土・歯舞群島を望める岬・納沙布を訪れていた。

 納沙布岬は、幼い頃の本田がたびたび母方の祖母・玉井輝子に連れられてきた場所だ。

 ここで、故郷・志発島しぼつとうの話をする時の輝子は心から楽しそうだった。

 本田は、手元の白い布に包まれた骨壺に目を落すと、もうあの笑顔が見られないことへの寂しさに駆られた。

 輝子は、本田がロシアに渡って行方不明になった直後に体調を崩し、本田の身を案じながら去年九月の末に亡くなった。

 輝子にとって唯一の親族は、孫の本田だった。だが、本田が行方不明だったために代わって妻の真鈴が、喪主を務めて輝子の葬式を出すことになった。千島協会関係の参列者が膨大な数に上り、葬式の仕切りは大変だったらしい。輝子の遺骨はその後、根室市内の菩提寺に安置されていた。

『——私が死んだら遺骨は、故郷(志発島)に続く海に流してほしい。それも一馬の手で』

 死期を悟った輝子は、本田が無事に帰ってくることを願って真鈴に遺言を残していた。

 一周忌を前に、漸く休暇をとった本田は輝子の遺言どおり、海に遺骨を流すことにした。残念ながら岬の周辺は、断崖が切り立っているので海の近くで散骨することはできない。

 散骨は近くの漁港ですることにしていたが、その前に輝子に故郷へ続く海を見てもらおうと、納沙布岬まで来ることにしたのだ。

「きょうは晴れてよかったね。水晶島すいしょうとうまでくっきり見えて。おばあちゃんも嬉しいんじゃないかな。きれいな島の景色が見られて」

 真鈴が、本田の手元の骨壺に目をやりながら声をかけてきた。

「やっとおばあちゃんも故郷に帰れるのね。あなたが帰ってきてくれたおかげで」

 本田は真鈴の方を見た。顔には、漸く肩の荷を下ろしたように安堵した笑顔が浮かんでいた。本田が行方不明となり、ダウン症の絵理奈を引き取った途端に輝子が倒れた。真鈴は、パティシェの仕事と介護、育児を一身で引き受けてきた。

 自身が記者として再起することばかりを考えて突っ走り続けたことが、いかに彼女に苦労を背負わせてしまったか。今さらながら本田は申し訳なさで心が痛んだ。本田は、労わるように真鈴の肩に優しく手を置いた。

「ああ、でも……できることなら、生きているうちに帰してあげたかったけどな。あと、もう少し……もう少しだったんだけれど」

 あともう少しで……黒崎昭造とミシチェンスキーが仕掛けたロシアのベゾブラゾフ政権転覆と新政権による北方四島の全面返還は実現するところだった。

 だが、クーデターは未然に鎮圧され、黒崎とミシチェンスキーが交わした密約を盾にとったベゾブラゾフ政権は、一切の領土交渉を拒否するばかりか、外交官の追放など国交断絶に等しい措置をとり続けている。

 黒崎の死で、江藤総理は四月の保守党総裁選で勝利し、続投することになった。だが、ロシア側の頑な態度に音を上げたのか、北方領土交渉について発言・行動することは殆どなくなっていた。

 黒崎たちの策謀は、領土交渉の門を固く閉ざす結果を残して、平均年齢八〇代半ばをこえた元住民と、その家族たちにのしかかっていた。

 だがもし、黒崎たちが仕掛けた計画——〝ポセイドン〟が成功していたらどうなっていただろうか。

 北方領土の全面返還とウクライナの内戦終結が実現し、世界は危機を脱していただろうか。だが、黒崎は返還された北方四島へのアメリカ軍駐留を認めず、そのことをきっかけに在日米軍の撤退を進めて、日米安保体制の見直しを打ち出そうとしていた。アメリカ軍に代わる実力を自衛隊に持たせるため、核武装にも踏みこもうとしていた。

 単に領土の返還だけではない。その先には従来の日本という国のあり方を大きく変え、東アジアにおける「覇権国家」になることを思い描いていたのだ。

 だが、そんなことを、アメリカは勿論、ロシアも中国も到底認めるとは思えない。

また、そんな国になっていくことを本当に国民が望んでいるのか? 反ロ感情が熱病のように広がる中ではあるが、「覚悟」という点では甚だ心許ないのではないか?

 本田自身は、まっぴら御免だと思っている。

だが、北方領土返還とは、日本人にそこまでの「覚悟」を問うものだということを〝ポセイドン〟が突きつけたことは間違いない。

「また来ようね。できるかぎりここへ」

 先刻から押し黙り、沈痛な表情を浮かべる本田を励ますように真鈴は声をかけた。

「来ようね」

 口真似をする絵理奈。

「いつか、おばあちゃんに、この岬から海に向かって、いい知らせができる日がくるわ。きっとくるはずだから。ねえ」

「ねえ」

 また、絵理奈が真鈴の口真似をした。

 沖から一陣の強風が吹きつけ、その冷たさに本田は目の覚める思いがした。

「そうか、いつか婆ちゃんにいい知らせができる日がくるか。あきらめちゃいけないか…‥ありがとう」

 本田は、真鈴と絵理奈を抱き寄せた。

 改めて思った。何とやわらかくて、あたたかいものなのだろうか。

 北方領土をめぐる国家どうしの争いをくぐり抜ける中で、今、世界は、巨大な動乱の前夜であることを骨身に沁みて感じた。どのような悲劇が、惨劇が、或いは喜劇が、幕を開けるのか。未来は容易には見通せない。

 だが、一つだけ確かなことがあった。今、自分が腕の中で抱きしめているもの。これだけは、何としても守り抜かなくてはならない。二度と手放してはならないと。

 本田は二人を抱きしめたまま顔を上げた。視線の先には秋晴れの下、歯舞群島へと続く、深く蒼い海が日差しを浴びて輝いていた。

                                      了  

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ポセイドンの密約 幸田七之助 @Aoyama-Moon

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