十年分の全てを捨てて、君をさらってしまいたい

高峠美那

第1話

 ……シュ、シュ…。


 鳥のさえずりさえ聞こえない暮明くらがりの中、竹刀を振る音だけが響き渡る。


…シュ、シュ…。


 だが太陽の光は少しずつ差し込み、薄明かりが朝もやを切る竹刀と春芳はるよしを照らした。


 ここで見る東雲しののめは、今日が最後かもしれない…。


 夜の闇が徐々に茜色あかねいろに染まりはじめる。


 茜色…。

 忘れることなど出来ない記憶。


 泣き叫ぶ子供の声と、肌を焼く灼熱の炎…。

 十年たった所で、忘れるわけがない。


 

 ―――屋敷は、真っ黒い黒煙を空に吐いて燃え盛り、庭にある桜を巻き込んでゴウゴウとうねっていた。 


 ガラスが爆ぜる音、業火、怒り狂った大蛇おろちが暴れまわっているようで…。

 

 ――恐ろしい。

 燃える…。…燃える。…何もかも。


「この子を頼むぞ、春芳!」

  

 そう言って、父は再び燃え盛る屋敷に飛び込んでいった。


 小さな浴衣姿の少女を僕に託して…。


 それからすぐ…、屋敷は音をたてて崩れ落ちた――。


 …シュ、シュ!!


 春芳が竹刀を下ろすと、玉のような汗が、どっ…とふきでてきた。

 足と腕の筋肉が、震える。


「ちっ」


 この程度で…と、鋭く舌打ちし、はあ…、はあ…と忙しい自分の心臓に叱咤する。


 …父はかえらなかった。少女の両親と一緒に、火にのまれて死んでしまった。


 ――明治九年。

 太政官は帯刀禁止令たいとうきんしれい廃刀令はいとうれい)を布告した。これにより、大礼服着用者または、勤務中の軍人や警察官吏けいさつかんり以外は刀を身に付けることが禁じられた。


 徳川幕府が崩壊し、文明開化で賑わうこの国は、もう…戦う必要などない。


 だが、その抜刀令を支持した少女の両親は殺され、父も死んだ。


 武士の子息だとか、身分とかにしがみつきたい輩の犯行だったのだろう。


 真相は闇に葬られ、犯行に及んだ人物は、今ものうのうと暮らしている。


 あれから十年。

 一日たりとも鍛錬を怠った日はない。


 それは…、隣で竹刀を振る彼女も同じ。


 ――あの燃え盛る屋敷から父が助け出した少女。


ともえ。お母さまが…つけてくれたのっ。すごく昔の、お姫様と同じ名前なんだって」  


 香坂こうさか 巴。香坂家の一人娘。 


 たった六歳の少女が、嗚咽を漏らしながらも、震える小さな手をきつく握りしめて不安と悲しみに耐えている。


 このとき、春芳は決めたのだ。


「…それじゃあ、お姫様。僕が今日からキミを守るよ」


 巴はパチパチと瞬きを繰り返すと、ゔぇっと、また泣き出してしまった。  


 泣きじゃくる巴を抱き上げ、その頭に自分の羽織を被せると、頭を撫でてやる。  


「もう、大丈夫。心配ないよ。僕が必ず守るから」


 ……僕が、必ず犯人をみつけだして仇をとるから。


 抱き上げている腕に力が入ってしまったのか少女がパッと顔を上げた。 


「…違うっ」


「え?」


「違うの! 巴がお兄ちゃんを守るのっ」 


 そう言って小さな手が春芳の頬に触れた時、やっと自分も泣いていたのだと気づいたのだった。



 ――巴は、今でも覚えているだろうか?


 思い出したくないのなら、無理に思い出さなくてもいい。


 全て、僕が背負ってやる。


 でも…。

 

 巴の汗が朝日に光る。頬を伝って、光る雫が白い首筋に伝う。


 程よくついた筋肉は、よわい十六の少女とは思えない程の早さと正確で、立ちはだかる男どもを薙ぎ払ってきた。


 上下した胸元を抑えて、それでも清々しく再び竹刀を振る。


 香坂流師範代のともえは、誰よりも強くなった…。


 ―――巴御前のように。

 大太刀を振るい、荒馬を乗りこなし、男でも使えない強弓ごうきゅうをを引いたと伝えられる一人当千いちにんとうせんの女武者。

 

 でも…僕は知ってる。香坂 巴は、寂しがりやで泣き虫で、誰かが傷つくのを見ていれないとても優しい女の子なんだって…。

 

 今夜…、春芳が一人で行くと言っても、きっと巴は聞かないだろう。


 それでも僕は、連れては行かないよ…。


 他の男のもとで、美しい着物を纏い、幸せに暮らしてほしい。


 幸せに…。


 本当にそう思っているのに、他の男といる巴を思い浮かべると、刃の切っ先が揺らぐ。

 息が苦しくなって…、このまま何もかも忘れて暮らすのもいいんじゃないか…と、考えてしまう。


 そしたら、この十年の二人の鍛錬と、春芳が警官になった意味がなくなってしまうのに。


 ふと、いつの間にか巴の竹刀も止まっていた。

 朝焼けを浴びながら、巴が春芳を見て笑う。


「…最後まで、一緒に」


 …それは、なんだと受け取ればいいのかな。



           おわり




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