厩の猿

葛西 秋

厩の猿

 私がその博物館に辿り着いたのは、昼をだいぶ過ぎた時間だった

 辿り着いた、という言葉が示すように、ここまで来るのにおよそ5時間、歩き続けたことになる。


 とはいっても距離にすれば7~8km、黙々と歩けば2時間弱の散策で済むはずだった。

 だが今回、取材旅行で訪れたのは岩手県、途中の道端には都会とは比べ物にならないほど様々な石碑が残されている。


 私の興味がある馬頭観音の他にも、この地にしか見られない信仰の跡が石に刻まれている。風雨に晒され輪郭が曖昧になったそれらの石碑は私の興味を強く引いた。


 数歩あるいて脇道に逸れ、脇道からさらに隘路を折れて。


 そんなことをしていると、時間があっというまに過ぎていった。


 元々はその博物館を目当てにこの地を訪れたようなものである。辿り着く前に日が暮れてはそれこそ本末転倒だ。朽ち果てた木造のお堂の中にひっそりと佇む石仏に手を合わせている私の耳にお昼のチャイム放送が聞こえてきて、そこでようやく私は遅ればせながらの焦りを覚えた。


 私の目的地は、この地域が開設している牛の博物館という名の小さな博物館である。

 岩手県は云わずと知れた酪農が盛んな土地柄だが、肉牛としてのいわゆる和牛の生産も盛んである。


 牛の飼育の歴史は弥生時代にまで遡る。当初は祭礼の添え物に使われてきた牛が、いつから人間に使役されるようになったのかは分からない。しかし平安期の移動手段として既に牛車がメジャーであったことから、古代の終わりには使役動物としての計画的な繁殖が始まっていたはずである。


 ここで本邦における牛の歴史は暗黒期に入る。

 武家の台頭とともに、彼らと戦場を共にする馬の生産と馬にまつわる文化は華々しく歴史の表舞台で語られてきた。しかし人間の生活にあまりに近すぎた牛の記録はどうも曖昧なのである。


 長野県や千葉県には牧と呼ばれる国の公設の牧場があったともいう。牛馬共に飼育されていたはずだが、馬に関しての記録は見つけられても牛に関する記録があまりにも少ない。


 少ない、というのは語弊がある。

 江戸名所図会や東海道の名所を書いた浮世絵に牛は頻繁に登場する。だが当たり前すぎて描き方の種類が少ないのである。


 馬は様々な場面が描かれた多数の資料がある。馬の疲れを取るためのお灸を据える場所、蹄の手入れの仕方、毛並みの整え方、なんなら馬と娘の婚姻譚もある。


 しかし、牛。牛の資料が無い。

 だいたい荷物を引いているか、田畑を耕しているかである。時々天神様を乗せたりはしている。あまりにもパターン化されている。その他のシーンの牛の様子が浮かばない。


 東京の図書館で私は頭を抱えた。

 いったい牛は何をしていたのだろう?


 そんな疑問を解決するための取材旅行だったので、牛の博物館は最も訪問を優先すべき目的地だったのだ。


 石仏に一礼して壊れかけたお堂からそろりそろりと退出し、気持ち速足で歩くこと半時間、ようやく私は牛の博物館に到着した。


 初めて訪れた牛の博物館は近代的な建築で、前庭からは北上川が大きく蛇行して流れている壮大な風景を望むことができた。東北本線の二両編成のおもちゃのような列車が走っていく。しばらくその景色を眺めて上がった息が落ち着くのを待ち、私はいよいよ博物館の中へと足を踏み入れた。


 展示室は一階と二階に分かれていた。

 一階は現代の和牛の生産につながる展示で、日本各地の牛肉料理のサンプルが壁一面にレイアウトされていた。ここで焼肉の匂いなど漂ってきたら食欲の制御は不可能だったが、そんなミラクルが生じるはずもなく、思ったよりも大きな牛の実物剥製に驚かされながら私は展示室を二階に上がった。


 二階は牛の歴史がメインの展示だった。

 古代にいたる前の旧石器時代、日本には野生の牛が生息していたのだという。バイソンの仲間であるハナイズミモリウシとよばれる種である。これは家畜化せず人間の狩猟によって絶滅のルートをたどった大型哺乳類である。これは現在、暫定的に和牛のルーツではないと見なされている。


 そしてもう一種。弥生時代以降の遺跡で今度こそ家畜牛の原種である牛の化石が発掘されており、これが和牛のルーツであるという事らしい。


 古代、平安と人間の移動や農耕に使役された牛は、鎌倉時代になるとその重要性が高まった。「国牛十図」という絵巻では、国内に流通した牛の種類が描かれている。それに先んじて、律令国家の成立と共に京に置かれた中央政府から役人が派遣され、彼らが牛を各地にもたらしたと考えてよいのだろう。


 宮城に多賀城が置かれ、奥州藤原氏が栄華を築いたのもこの時代である。

 牛は広くこの地に浸透し、人と牛、そして馬の共同生活が営まれるようになった。


 この辺りはまさしく私が求めていた情報である。東京では得られなかった牛の歴史の端緒を得ることができ、私の心は浮き立っていた。


 そんな私の目前に次の展示のケースが現れた。

 一言でいうと、異様である。


 ケースの中には干からびた動物が入っていた。

 牛でもない。馬でもない。


 猿である。


 猿のミイラ化した頭部や腕、手が並んでいるのである。


 解説には「厩猿うまやざる」とある。

 なんでも牛馬の守護として猿がともに飼われていた歴史があるのだという。飼っていた猿が死ぬとその死体を乾かして布でくるみ、生前と変わらず牛馬の守護を頼んで厩の梁に掲げて祀ったのだという。やがて猿を飼うという過程が省かれ、「厩猿」をつくるために猿が狩られたという。


 東北地方でその風俗の名残が多く見られるが、全国に広く分布していた風習らしい。

 曲屋まがりやという牛馬と一つ屋根の下に人間が生活する風習と、それは重なる信仰だったのだろう。


 これは本当に私が初めて知ることだった。

 こんな知識との出会いがあるから、地方の博物館は面白い。


 厩猿の展示ケースをためつすがめつ、他に客がいないのをいいことに私はしばらくそこに留まった。


 気がつくと時間は14時を過ぎていた。およそ1時間、この博物館に滞在したことになる。公共交通機関と徒歩を移動手段としている私にとって、電車やバスの時間厳守は死活問題だ。


 名残惜しく写真を撮って1階にもどると、この期間限定の胆沢地方の民俗学の写真記録企画展示があって、さらにこの地の文化風習をディープに紹介している。


 時間制限が迫る中、それでもすべての展示に目を通して私は博物館のエントランスに戻った。そこには小規模ながらミュージアムショップがあることを私は来館時にすでにチェックしていた。


 博物館のミュージアムショップは、宝の山である。

 私は和牛に関する総説が掲載された小冊子と、企画展の解説書、そして厩猿の図録を手に入れた。


 文書だけでなく他にもグッズがいくつか売られている。


 ぬいぐるみ。


 まさか厩猿のぬいぐるみは無いだろうと、けれど昨今は窯変天目茶碗のぬいぐるみが完売し、一円玉のぬいぐるみが増産され、埴輪も古墳もぬいぐるみになるご時世である。


 もしかして、と恐る恐る、けれど一抹の期待を以って探し見てたが、そんなけったいな土産物は当然、なかった。


 牛のキャラクターマスコットや、牛の置物はある。

 生肉模様の缶バッチもある。霜降り具合が素晴らしい。


 しかし、猿のぬいぐるみはない。


 残念な気持ちがありつつ、一方でミイラのぬいぐるみとはこれいかに? という冷静な判断も脳内に戻ってきた私は、図説のみで買い物を収めて博物館を後にした。


 博物館は高台で、眼下の北上川の流れの向こうに白鳥舘遺跡の林影が見える。先ほどは在来線が走った線路を、今は警笛を鳴らしながら貨物列車が通過していた。


 最寄りバス停まではここから1.5kmである。春の風が吹き渡る胆沢の地の歴史を思いながら、私はバス停への道を再び歩き始めた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

厩の猿 葛西 秋 @gonnozui0123

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

同じコレクションの次の小説