Assassin and Stuffed Panda

大隅 スミヲ

Assassin and Stuffed Panda

 仕事とはいえ、高級なホテルに泊まるというのは気分がよかった。

 シャワーを浴び、髭を綺麗に剃り落した私は、クリーニングから戻ってきたばかりのシャツに袖を通して仕事の準備に取り掛かった。

 本当ならば、部屋の中にあるミニバーでウイスキーの一杯でも飲みたいところだが、これから仕事をしなければならないため、アルコールを体に入れるわけにはいかなかった。


 砂漠の国の第三皇子がお忍びで来日している。

 そんな情報を組織に伝えてきたのは、砂漠の国の人間だった。

 第三皇子はホテルの最上階のワンフロアを貸し切って泊まっている。警備はお供の8人だけ。24時間8人で警備しているわけではないだろうから、おそらく最大で6人の警備だろうということが予想できた。


 組織は私に第三皇子の部屋の一つ下の階に部屋を与えた。最上階ほどではないだろうが、ここから見える夜景も捨てたものではなかった。

 身支度を整えた私は、最後に鏡で自分の姿を一度だけ見た。問題ない。あとは仕事を終えるだけだ。


「また、な」

 私は鏡の中に入る自分に声を掛けた。

 これは儀式のようなものだった。「またな」と言っておけば、もう一度会える。ただそれだけのことだったが、それが私にとっては重要なことだった。


 部屋を出て、非常階段へと向かう。おそらく、階段の出口には警備の人間がいるだろう。だが、問題はない。私は私の仕事を行うだけなのだ。



 けたたましく火災報知機のベルが鳴っていた。

『館内にいる皆様は、速やかに避難してください。エレベーターは停止しています。非常階段をお使いください』

 ホテルの館内放送が繰り返し流されている。


 なんとか部屋に戻って来れた私は、鏡に映った自分の姿を確認していた。

 一張羅のスーツは背中の部分が破けており、シャツには返り血の跡がいくつか残されている。

 本当ならばシャワーを浴びてゆっくりとしたかったが、そうもいっていられなかった。

 スーツとシャツを全部脱ぎ、ボストンバッグの中から新しい服を取り出して、入れ替える。色違いのスーツとカラーシャツ。

 なぜスーツを選ぶかといえば、日本人はスーツ姿の人間を信じやすいからだ。

 高級なスーツでなくても、多少清潔感のあるスーツ姿であれば、不思議なことに誰もが勝手に信用してしまう。

 だから、特殊詐欺の受け子などもスーツ姿で相手から多額の現金を受け取ることができるのだ。

 着替えを終えた私はボストンバッグを片手に持って部屋を出ようとした。


 その時、はじめて気づいたことがあった。

 ベッドの上に忘れ物がある。

 それはパンダのぬいぐるみだった。

 なぜ、パンダのぬいぐるみが置いてあるのだろうかと記憶をたどったが、思い出すことはできなかった。

 バッグの中に入っていた仕事道具はすべてベッドの上に並べた。その時に一緒に並べたのかもしれない。

 道具はすべて組織が用意したものだった。組織が余計な道具を用意するということは考え難い。きっと、これも何かに役立つ道具なのだろう。

 ドアに向かっていた私は踵を返し、ベッドの上に置いてあったパンダのぬいぐるみを手に取った。


 非常階段は避難する人たちで溢れかえっていた。

 私もその人々に紛れ込んで一階のロビーまで階段を降りた。


 ロビーに着いた時、また試練が待っていた。

 警察がすでに建物の周りを包囲するかのようにスタンバイしているのだ。

 もし荷物検査などが行われれば、私は万事休すとなってしまう。

 私はすぐにでもホテルの外に出ようと、早歩きでエントランスに繋がる自動ドアへと向かおうとした。


「ちょっと失礼。警察の者なんだが」

 いきなり正面に現れたスーツ姿の男が身分証を見せて私の前に立ちはだかった。

 身分証には警視庁公安部という文字が書かれている。

 警官は正面の男だけではなかった。左右に一人ずつの計3人に、いつの間にか囲まれていた。


 どうやってこの場を抜け切ろうか。

 最悪、この警官たちを片づける必要があるかもしれない。

 私は笑顔で対応しながらも、頭の中で脱出計画を練っていた。


「あなたの身分証とそのバッグの中身を見せてもらえませんか。捜査協力をお願いします」

 正面の警官がそういって、私のバッグへと手を伸ばそうとした。

 仕方がない。私は正面の警官を片づけるべく、スーツの袖に仕込んであるナイフを取り出そうとした。


「パパぁ~!」

 突然、幼児の声が聞こえた。

 その方向へ目を向けると、4歳ぐらいの髪の長い女の子がこちらに向かって走ってくるところだった。

 その女の子は私の足にしがみつく。

「パパっ、パパっ」

 警官たちは何事だといった顔をしており、私はいま自分の置かれている状況を素早く判断して、その女の子を抱き上げた。

「おお、会いたかったよ」

 親子の再会を演出した。

「ほら、お土産だ」

 そういって、私はパンダのぬいぐるみを女の子に渡す。

 女の子は嬉しそうにキャッキャと笑った。


「あなた。おかえりなさい」

 30代ぐらいの女が遅れてやってきた。

「ああ。ただいま」

 私がそう答えると、女が抱きついてくる。

 そして、女は私にだけ聞こえるぐらいの小声で囁いた。

「エントランスに停めてある黒いセダンに乗れば脱出できる」

 女は組織の人間だった。

 私は無言で頷くと、彼女との抱擁を解いた。


「帰ってもいいかな」

 私は目の前に立っていた警官に告げた。

 警官は小さくため息をつくと、諦めたように無言で頷いた。


「さあ、帰ろう」

 私は女の子の手を取り、三人でホテルのエントランスから外に出た。

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