今日の綿縫九段は全部がもふもふしている

清水らくは

今日の綿縫九段は全部がもふもふしている

 違和感があると思ったら、今日の綿縫わたぬい九段はとってももふもふしていた。

 どちらかというとやせ形で体毛は薄いイメージだったのだが、ふっくらとしてちょっと毛深い。一年間休場していて体質が変わったのかと思ったけど、顔も服ももふもふしているのである。これはただ事ではない。

 対局相手の糸使いとつかい八段も入室時は目を丸くしていたが、しかしきちんと正座をする綿縫さんを見て、頭を下げて下座に着席した。

 綿縫さんは元名人だが、病気で一年間休場することになった。これが復帰戦である。ここからもう一度頂点を目指すという、大事な一戦なのである。

 糸使さんはしばらく黙って座っていたが、綿縫さんが何もしないので思わず「駒を」と言った。綿縫さんは首をかしげていた。

「駒箱を開けてください」

 はっとした綿縫さんは駒箱を手にしたが、上手く開けられない。指先までもふもふしているのだ。何度か試すうちに蓋が空いたのだが、中の駒も飛び出してしまった。慌てて頭を何度も下げる綿縫さんは駒を拾おうとしたが、それもうまくつかめない。

 糸使さんはなぜか涙を流しながら、綿縫さんの分まで駒を並べた。そして震える声で、「さあ、対局しましょう」と言った。

 僕は綿縫さんの歩を五枚とり、振り駒をした。歩が五枚、綿縫さんの先手である。僕は歩を、元の位置に並べた。

 その時、職員の定村さんが部屋に入ってきた。綿縫さんを見て、大きくうなずき、次にこちらを見て手招きした。

「僕?」

 自分の顔を指さすと、大きくうなずく定村さん。僕は一礼して、定村さんのところに行った。

「あれはぬいぐるみだな」

「えっ。だからもふもふしているのか」

「気づいてなかったのか」

「いや、まさかと思って」

「先ほど連絡があって、綿縫九段は間違えて関東の方に着いたらしい」

「え、じゃあ……」

「続いて奥さんから電話があって、『うちのぬいぐるみがそちらに行っているかもしれません』と」

「えっ」

「部屋から忽然とぬいぐるみたちが消えていたそうだ」

 事情を聞いた僕は対局者たちの元まで戻った。言われてみればどう見てもぬいぐるみである。時間は十時、対局開始時刻になってしまった。

「あの、糸使さん、実は……」

「皆まで言うな。あんな姿になっても対局しようというんだ。きっちり向き合うのが礼儀というものだろう」

「え、そうではなく……」

「どこからどう見ても綿縫九段だ。私はこの主張を曲げない」

 仕方なく僕は記録係の席に戻った。糸使さんは、割って入ろうとした定村さんもにらんで制止した。

「彼は……指そうとしているんだ」

 確かに綿縫いさん……にそっくりなぬいぐるみは、一所懸命に初手を指そうとしていた。しかし指がもふもふしていて駒をつかめない。そして、つかもうとしたのとは別の駒、角の方が動いてしまった。手を離したのでこれは指し直しできないぞ……

 初手7八角。まで、一手で糸使八段の勝利。

 糸使さんは涙を流しながら頭を下げた。ぬいぐるみさんも事態を理解したのか、頭を下げた。そちらにも涙が見えたような気がしたが、肌ももふもふなのですぐに吸収されてしまった。

 そして、目の前で綿縫さんっぽかったぬいぐるみは突然動かなくなり、分裂して、いくつものぬいぐるみになった。猫やイルカ、ペンギン、その他いろいろなキャラのぬいぐるみ。その数、二十五人。

 それを見て、糸使さんはぽかんと口を開けている。まあ、僕も驚いてはいるけど、さっきまでと態度が違いすぎないか。

「あの、糸使さん。さっきまでの、なんだと思ってたんでしょうか?」

 思わず聞いてしまった。

「綿縫さん、ぬいぐるみが好きすぎてぬいぐるみになってしまったのかと……」

 いやそんな馬鹿な話があるか、と思ったけれど、ぬいぐるみが対局しに来たこともそんな馬鹿な話だった。



 お昼前、綿縫さんの奥さんが会館にやってきた。手には大きな布団袋を持っている。

「本当にご迷惑をおかけしました」

 糸使八段や職員の人たちに何度も頭を下げていた。

「いえいえ、お気になさらず。綿縫さんがぬいぐるみになったのかと思ってびっくりしましたよ」

 いやあなた、元のぬいぐるみに戻ったときの方がびっくりしてましたよ。

「本当、愛情を注ぐと魔法を使えるようになるものですねえ。ここまでのことができると思わなかったので。家に帰ってみんなに説教しときますね」

 そう言って奥さんは、ぬいぐるみたちを布団袋に入れていった。最後ペンギンのぬいぐるみが、こちらに会釈したように見えたが、すぐに袋に入れられてしまったのではっきりとはしない。

「あの、これどうします?」

 僕は糸使さんなに、棋譜用紙を渡した。相手が本人でなかった以上、この棋譜はもう正式なものではない。

「貰っていいかな。世界で初めてぬいぐるみと対局した記念としてね」

 糸使さんはにこにことしながら、棋譜用紙を受け取った。

 僕は内心、「綿縫さんはすでに自宅で何局もぬいぐるみと指してるかもしれないぞ」と思ったが、口には出さなかった。


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