ぬいぐるみ
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ぬいぐるみ
下の子の進級も近づいてきた春休み。
私はママ友たちと喫茶店にいた。全員が同じ小学校の子供つながりで、なかでも少し変わったグループだった。
「ほんと、うちの上の子はあれなんだよね。男の子だからだろうけどさ、前の旦那にどんどん似てきて、たまに気持ち悪くなることあるんだよね」
ママ友のひとりが気だるげに言った。
わかる、ともう一人も続く。
「なんだろうね。可愛いのは可愛いんだけど、下の子とは違うっていうか」
参加しているメンバーは全員が再婚組で、それぞれ連れ子を持っていた。
当然、私もその一人で、他のママ友には話せない、連れ子持ちゆえの悩みをあけすけに披露しあってストレスを発散していた。
「それにさ」
先のママ友が言った。
「もう四年生なのに、ぬいぐるみがないと寝られないって騒ぐの。幼稚園の頃からだからもう洗っても洗っても汚くってさ。ほんと誰に似たんだか――って、まぁ私じゃないのは明らかなんだけど」
あまり褒められた会ではない。参加している全員が分かっていた。けれど、溜め込んで家で爆発するよりはいいはずだ。それが私たちの共通認識だった。それに、
「――ねぇ、
こうしてたまには普通の会話もあるのだ。自覚さえしていれば問題はない。
ママ友に問われた私は、あー、と時間を稼ぎながら、娘のことを思い返した。前の夫とのあいだの子で、思い出そうとするといつも記憶に薄いもやがかかり、時間がかかってしまうのだった。
「どうだったかな? 持ってたような、持ってないような」
しかも答えが曖昧になる。なにそれ、と連れ子会の面々が笑った。もっと見てあげないとダメだって。私もだけど。いけないこととわかった上で笑ってしまう。家に帰ったら、ちゃんと見てあげないと。そうやって、みんなで確認しあっていると、
「――でも、うちの子もそうだよ? ほら、これなんだけど」
珍しく
相沢さんは四人の中では上品なところがあり、あまり語られなかった相沢家の事情を見ようと、私たちは我先にと画面を覗き、固まった。
「かわいいぬいぐるみでしょ? うちの子、これがないと寝れないっていうの」
そう言って、相沢さんは上品に笑った。
しかし、私たちは互いを見合うしかなかった。
写真には、ソファーでじゃれあう子供だけが映っていたのだ。
より正確に言えば、十歳くらいの男の子が、同い年くらいの女の子に抱きついている。男の子は楽しそうに笑っているが、女の子は生気の抜けた目をあらぬ方向に投げていた。
ぬいぐるみは、写真のどこにも見当たらないのだ。
冗談なのか、本気なのか。私達の会話は急速に萎び、ほどなくして今日はそろそろ解散しようとかという話になった。
店を出る前に、化粧室に寄るとママ友の一人が入ってきて、言った。
「相沢さん、やーばいよね」
「……ですね」
同意しか無い。あまり他人の家庭の事情に首を突っ込む気はないが。しかし、私たちは後ろめたい会を催しているのもあって、気が気でないのも事実だった。
「……
児童相談所のことだ。
「いや、それは早くないですか? 冗談かも」
「私、相沢さんが冗談いってるように見えなかった」
「……私もです」
だからこんなところで、こんな話をしている。
ママ友は言った。
「どーしよ。やばい。すっごい気になるけど、ほっとくべき?」
「……あ、じゃあ、私が見てきましょうか?」
「え? 本当に? 大変くない?」
「でも、気になるし……もちろん相沢さんが良いって言ったらですけど」
「……林藤さん。なんかあったら、相談してね。私も協力するから」
私はママ友に礼を言い、さっそく、別れ際に相沢さんに話しかけた。もしよかったら、と前置いてみると、時間があるなら今日でもいいよと返された。
これはやはり冗談なのではないか、と私は思った。
しかし、浅はかだった。
ぬいぐるみはあった。
写真で見た少女が、虚ろな目をしてソファーに座っていた。
私は口の中が急速に乾いてくるのを感じ、思わず喉を鳴らしていた。
「ね? 可愛いぬいぐるみでしょ? うちの大事な家族なの」
言って、相沢さんは少女の横に腰掛けると、大事そうに頭を撫でた。少女は身じろぎ一つしない。瞬きすらしないのだ。
私が反応に困っていると、相沢さんはこっちに来てとばかりに手招きした。
「せっかくだから、抱っこしてみて? すっごい抱き心地がよくって、うちだといつも取り合いになるんだから」
「え、っと……う、うん……」
私はバクバクと激しく打つ心臓を内心で押さえ、相沢さんの代わりに少女の隣に腰を下ろし、意を決して抱きついた。悲鳴を上げそうになった。紛れもない人間だ。少女だ。背中に回した腕に鼓動を感じる。呼吸音が微かに聞こえる。
私は怯えを悟られないよう慎重に躰を離し、少女の目の前で手を振った。
瞬きした。とき。私は息が止まるかと思った。
「生きてるみたいでしょ」
背後から聞こえた相沢さんの声がひどく冷たく思え、私は必死に頷いた。
えっと、と相沢さんが席を立った。
「紅茶でいい? ――って、さっきも飲んだか」
苦笑し、相沢さんは何にしようかしらとキッチンへ向かう。
私はその背に「お構いなく」と投げておき、慌てて少女の耳元に口を寄せた。
「あなた、なにしてるの……!? 平気……!?」
少女は一瞬、ビクっと震えた。私も叫びそうになった。
しかし、少女はなにも答えようとしない。
私は声を低めて言った。
「大丈夫。私は味方だから。あの、なんとか、私が守ってあげるから――」
一緒に出よう、といい切る前に、少女が震えた。
目を凝らしてやっと分かる程度に、小さく、小さく、首を横に振ったのだ。
私は困惑した。
「なにしてるの?」
急に聞こえた声に、私は思わず少女を抱きしめた。少女は身動ぎひとつしない。
私は肩越しに振り向き愛想笑いを浮かべた。
「お、お話しようと、思って……」
心の疲れた人が妄想を訴えてきたとき、否定も肯定もしてはならない。そうどこかで見たことがあった。とにかく話を合わせておくほうが安全に思えたのだ。
相沢さんは口元を隠し、クスクスと笑った。私が唖然としていると、
「ごめんなさい。でも、おかしくって。さっきまで子供がぬいぐるみを手放せないって話していたのに、ぬいぐるみとお喋りなんて言うから」
「そんな、だって――」
この子は人間じゃないですか!
そう叫びたかった。
しかし、少女をぬいぐるみとして扱い続ける相沢さんの姿が恐ろしく、もし刺激したら何をされるのかと思うと、私の喉は窄まってしまった。
相沢さんは安心したように息をつき、まさしく我が子を愛でるような慈しみの目をもって、ぬいぐるみの頭を撫でた。
「でも、分かるかな。この子とっても可愛いし、本当に生きてるみたいだし。――実はね、このぬいぐるみ、家族が寝ているときに動いてるみたいなの。冷蔵庫のものをつまみ食いしたり、トイレに行ったり、このあいだなんて、息子の教科書で勉強してたりしてたの。最初は少し怖かったけど、今は平気。大事な家族なんだから」
そう言って、相沢さんは満足そうに少女に頬ずりをした。
少女は指一つ動かさない。目は何を映すでもなく、呼吸を見て取るのも難しい。まるで、ぬいぐるみであることを受け入れているようだった。
私はその悍ましさに耐えきれなくなり、また虚脱感に支配され、とにかく早くこの場から逃げようと席を立った。
「あら? もうおかえり? 来たばっかりなのに」
「ええと、あの、私、用事を思い出しちゃって」
逃げたい一心でまともな言い訳一つ思い浮かばなかった。
私を。
追うように相沢さんが立ち上がった。
「なら、そこまで送るね」
断るだけの勇気が私にはなかった。ともかくこの場をやり過ごし、家を離れてから児童相談所に連絡を入れる。そう心のうちに決めて、無理くり笑顔をつくった。
そこまでとはどこまでなのだろう?
家を離れてしばらく歩いても、相沢さんはついてきた。まるで見張られているような気がし、私は角を曲がったところで意を決して口を開いた。
「あの」「あの」
私と相沢さんの声がぶつかった。どちらともなく口をつぐみ、ただ向き合う。
けれど、恐ろしさや気恥ずかしさよりも、違和感が先にたった。
相沢さんが、酷く心許なげな、今にも泣きそうな顔をしていたのだ。
不思議と私の恐怖は溶けていき、なにか力になってやれないものかと思うようになっていて、つい、「どうぞ」と、先を促すように手を差し伸べていた。
「あ、あの――」
家の中とは異なり、相沢さんは怯えた様子で言った。
「児童相談所とかには、言わないで、もらえ……ますか?」
「え?」
私は愕然とした。私はずっと、相沢さんのことを、少女をぬいぐるみのように扱う異常な母親なのだと思っていたからだ。
しかし、相沢さんはその異様さを自覚していたのである。
――では、なぜ?
私の頭は疑問に満たされていた。
「あの、じゃあ……あの子は……」
相沢さんは両肘を抱きしめ、足元を見つめながら、訥々と話し始めた。
「あの子は……私の、連れ子なんです」
再婚したときはまだ二歳だった。愚かだったのだろう。新しい夫とのあいだに子供はなく、とにかく絆をと求めた結果、すぐに下の子ができた。すると、自分でも理解し難いことではあるが、すでにいた子のことを、どうしても愛せなくなったのだという。
「私にも分からなかったの。ずっと、ずっと可愛い子供だと思っていたのに、大きくなってくると前の旦那の面影がでてきたような気がして、吐き気までしてきて」
気づけば、相沢さんは涙を零していた。
どうしても娘に優しくなれず、また新しい夫も目に見えない薄いカーテンを挟んだようにしか接することができない。下の子は夫婦の気配を敏感に察して姉を軽んじるようになってしまった。
このままではいけない。
それは相沢さんも分かっていた。
「だから、その、おかしいことだと分かっていたけど、娘にお願いしたの」
ぬいぐるみでいてくれ、って――。
「難しいことだと思うし、辛いと思うけど、私にはもう、そうでもしないと愛せないからって。酷いと思う。可愛がってあげたい。でもできないから、一人で生活できるようになるまで頑張ってくれないかって」
異様なのは分かっていた。しかし、そうすることで、ようやく娘を愛せるようになったのだと相沢さんは言った。
ぬいぐるみの服だと思えば買えるようになり、ぬいぐるみも家族なのだからと旅行にも持ち出せるようになったという。
「高校生になったら家を出ていいからって言ってあるの。そのためのお金はちゃんと出すからって。用意もしてあるからって。娘は納得してくれてるみたいなの。――だから、だからお願いします」
相沢さんは鼻をすすりながら言った。
「どうか、誰にも言わないで――」
「で、でも」
私は尋ねた。
「だったらどうして、写真を見せたりしたんですか? どうして私を家に入れたりしたんです? 分かってらしたんですよね?」
「……誰かに聞いてほしかったんだと思います。でも止めてほしいわけじゃないんです。変なのは分かっているけど、みんなにも知ってもらいたかったんです」
相沢さんは上目遣いに私を見て、続けた。
「こうすると楽になるよ、って」
「え」
「みなさん、仰ってたじゃないですか。自分の子供なのに憎くて仕方がない時があるって。でも私、違うよって。子供として見るから辛いんだよって、教えてあげなくちゃって思ったんです」
「そんな。でも、さっき――」
私の動揺を見越したように、相沢さんは言った。
「林藤さんなら、分かってくれるかもしれないと思って」
だから、林藤さんの目で見てもらおうと思ったんです。
家に帰る道すがら、私の頭の中には相沢さんの言葉と目つきがずっと残っていた。
私なら分かる――どういう意味なのだろう。
そうやって、私は私自身もすでに気づいていることを、何度も繰り返し私自身に問いながら、家の鍵を開けた。
「おかえりなさーい」
と、リビングから愛すべき耳障りな声がした。
私は自分でもおかしなことをしようとしていると自覚していた。呼吸が浅くなるのを感じた。脱いだ靴を揃えようとする手が、震えて止まらなかった。
けれど、もしかしたらと思う自分がそこにいた。
もしかしたら、いまからでも、もう少しだけ、愛せるようになるのではないか。
「――ねぇ、ちょっと話があるんだけど……」
私はソファーに座るぬいぐるみに言った。
ぬいぐるみ λμ @ramdomyu
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