第3話
「よく、暗い海に入れますよね」
「浅瀬だもん。それにほら、海に来たのに海を感じないなんて、もったいないじゃない」
ずっと見ていたい。
黒い海に戸惑うことなく、伊織さんは足を踏み入れる。
その顔は幼く見えるほど、生き生きとしていた。
「そういうこと、普段の伊織さんは絶対に言わないですよね」
「幻滅した?」
「むしろ、今の伊織さんの方が僕は好きです」
時間を置いた分、僕の言葉は深く刺さるはずだ。その証拠に、僕の言動にいつもよりわかりやすい反応を示す。今の伊織さんは、辛そうな顔を隠せていない。
その事実にどれほど浮かれ、さらに僕が伊織さんを追い詰めていくのか、彼女は予想もしていないだろう。
「わたしに好きを言えるのは、彼になる人だけだよ?」
作りものから告げられる言葉は、本物の伊織さんを守るためのもの。
でも僕は、彼女の都合には合わせない。
「わかってますよ。伊織さんとの距離は、今のままが一番いいですからね」
作りものとは距離を縮める気はないですから。
一瞬目を見開いた伊織さんに、胸が痛まないはずもなく。
けれどふわりと笑みを浮かべた彼女が走り出し、僕に焦りが生まれた。
「走るのは危ないですって!」
この構図が、僕と伊織さんの現実だと突きつけられる。
僕を追いかけさせたいのに、実際は僕が追いかけているのだ。
「ほら、わたしと離れちゃうよ? 一番いい距離を保たなきゃ!」
「物理的にじゃないでしょ!」
まるで少女のようにはしゃぐ伊織さんから目が離せない。夢のような時間だが、地獄にいるみたいだ。
それを終わらせたくて、彼女の手首を強く掴む。
「この距離は、違うよね?」
「どっか、行っちゃいません?」
冷たい目をした伊織さんに、本音がもれた。
彼女は自由だ。僕なんかに縛られる人じゃない。だからいつも不安なんだ。
「行かないから。泉君といると楽しくなっちゃって、ふざけたくなるの」
なのに、伊織さんは笑う。こんなにそばにいるのに、心はとても遠い。
だから、手を離した。掴んでいたとしても、無意味だから。
伊織さんの中で、僕はまだそこまで特別な存在になれていなかったと落胆する。
だから、いつも通りの返事ができた。
「そういう理由なら、ふざけてもいいです。伊織さんが望むなら、とことん、お付き合いしますよ」
僕はちゃんと笑えている。
なのに伊織さんの目だけが、細まった。
「もう、いいから」
「えっ?」
「もう、会うの、やめよ」
嘘かと思った。
いつもの伊織さんじゃない。でも、待ち望んでいた言葉でもない。
それに、伊織さんの表情は別のことを伝えてくる。
僕だけを見ながら。
もう少しだ。
本物の伊織さんの望みを叶えれば、同時に僕の願いも叶う。その瞬間が近づいてきたのがわかり、笑った。
「伊織さんはそれでいいんですか?」
もう、優しさだけを与えることはしない。本物の彼女を引きずり出すまで、僕はさらに酷い男になる。
それを感じ取ったのか、伊織さんは黙ってしまった。
それがもどかしく、苛立つ。
「残念です。まだだったみたいですね。それなら今日のところは、帰りましょうか」
作りものに用はない。
隙間から恐る恐る外を覗く本物の伊織さんにしか、言葉をかけたくない。
あなたが望む世界は残酷なんだと、教えてあげたい。
だから伊織さんの小さな手を取って、無理やり歩き出す。
「まだって、何?」
逆に聞きたいぐらいだ。
ここまで来てもなお、本物の声を聞かせてくれない伊織さんに、怒りをぶつけたくなる。
「そんなの、伊織さんの方がわかってるはずですよ」
「わからないから、聞いてるの」
「今の伊織さんじゃ、わからないです」
気持ちを抑えて返事をすれば、伊織さんにも苛立ちが移ったようだった。それでも僕は、冷たくあしらう。今までの関係を壊して、次へ進みたいから。
けれど、伊織さんがいきなり手を振り払った。
「いい加減にして!! わたしのこと、なんだと思ってるの!?」
大きな声を出し、サンダルを脱ぎ捨て、必死の形相で投げつけてくる。
こんな伊織さんを初めて見て、胸が騒ぐ。
「酷いな。せっかく伊織さんに贈ったものなのに」
「じゃあわたしがどうしようが、わたしの勝手でしょ!?」
「そうだとしても、今の伊織さんに履いてほしいのに」
混乱して涙を流す伊織さんが綺麗すぎて、僕も本音しか言えない。ずっと願ってきたんだ。本物の伊織さんと向き合える日を。
だから、言葉があふれ続ける。
「さっきも言ったじゃないですか。僕は今の伊織さんが好きなんです」
「そんなこと、言わないでよ……」
「今しか言えないじゃないですか。それに、僕からこういうこと言われるの、本当は喜んでますよね?」
弱々しい伊織さんを、もっと痛めつけたくなる。その傷を、僕が癒すんだ。僕が痛みも喜びも与えたい。
彼女が僕に与え続けたものと、同じように。
その願いが届いたのか、伊織さんの表情が固まった。
「僕は、今の伊織さんが好きなんです。それでも伊織さんが会うのをやめたいのなら、僕は伊織さんの気持ちを優先しますよ」
僕の声を聞いているのは、本物の伊織さんだ。
だから、彼女に問う。
けれど答えがどうであれ、ここまで来たら伊織さんは僕から離れられないだろう。
でも、ここからだ。
伊織さんには、僕のいる所まで沈んできてほしい。
僕を望むなら、綺麗すぎる場所にはいられないと、知ってほしい。
だから、その時までは、僕は伊織さん以上に、伊織さんに
あなたに拘泥する。 ソラノ ヒナ @soranohina
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
カクヨムを、もっと楽しもう
カクヨムにユーザー登録すると、この小説を他の読者へ★やレビューでおすすめできます。気になる小説や作者の更新チェックに便利なフォロー機能もお試しください。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます