第2話

 自分の車が、伊織さんの香りで満たされる。同時に僕の欲を刺激してくる。

 久々の会話を楽しみながらも、決して彼女を見ない。目が合えば、すぐにでも車をどこかの暗がりに突っ込んで、全てを蹂躙したくなりそうだった。

 

 でも、今の伊織さんは作りものだ。

 僕が反応するのは、繕わない本物の伊織さんだけ。

 だって、作りものの伊織さんを、本物の伊織さんが認めていないから。

 それなら僕も、そんな彼女は認めない。


「泉君だけを構ってあげられるほど、わたしは暇じゃないんだよ?」


 赤信号に捕まれば、顔を見ろと言わんばかりの視線が向けられた。だから、作りものの伊織さんへ向けて、言葉だけを贈る。


「さすが伊織さん。嫌味に聞こえない」


 しばらく無言になった伊織さんが、車の発進に合わせてぽそりと呟く。


「泉君は完全に嫌味だよね」


 ご明察。


 本物の伊織さんの言葉は聞き逃さないと決めていた。だからちゃんと声を拾えたことに、自然と口角が上がった。


 ***


 伊織さんが行きたいと告げてきたのは、海。これは予想通り。

 けれど、夜の海浜公園は静かすぎて不気味だ。秋だからか、他の人の気配もない。

 それなのに、伊織さんは僕の存在を忘れたように、ふらりと歩き出す。


「伊織さん、待って!」


 トランクを開けながら声をかければ、すぐにこちらを振り向いた。でも伊織さんは海が好きだから、心はもう僕を向いていない。

 

 でも、それでいい。そんな伊織さんを選んだのは僕だから。

 そう思いながら、海と戯れる最愛の人へのプレゼントを手に取る。


「これに履き替えて」


 伊織さんのことだけを考えて選んだ、ウェッジソールのサンダル。白と青の石で作られた花があしらわれている。

 白は伊織さん。そんな彼女を囲むのは、泉という名前から青を連想させる僕だけ。幼稚だがそんな風に見立て、願いを込めた。


「どうして?」

「前みたく、そのまま海に入ったら綺麗な靴が台無しになるでしょ?」

「そう? 汚れがすぐに落とせる素材の靴を履いてきたから、気にしなくていいのに」

「僕が気になります」


 心から不思議そうな顔をした伊織さんが、たまらなく愛おしい。彼女はきっと、こうして本物をこぼしていることに気づいていない。

 だからもっと見たくて、甘やかす。


「可愛い服が隠れて残念だけど、寒いからこれ着て下さい」


 肌寒いのに、隙だらけの服を選んだのはいつもの伊織さんだろう。けれど、寒さを我慢させるつもりはない。

 それに、目の毒だ。だからこそ、自分のジャケットを着させる。


「服だけ?」

「間違えました。可愛い伊織さんを隠したいんです」


 言葉はいつも伊織さんだけど、綻んだ表情は本当の伊織さんのもので、僕の心臓がどくんと反応した。


 けれどそんな僕は隠し、いつも通り伊織さんを姫のように扱い、しゃがんでサンダルを履かせる。

 差し出した手に、彼女の冷たい手が触れる。

 それだけのことで、僕の全身は熱くなる。


「伊織さん、いつもおしゃれだからもの足りないかもしれないけど、僕と海に来た時は、これ、履いて下さい」


 気づけば、余計な言葉まで告げていた。

 伊織さんは付属品を映えさせる方法を熟知している。だから僕の贈ったサンダルが、彼女の美しさを邪魔するように思えた。

 けれど、独占欲は隠せない。伊織さんが海を思い出す時、僕も思い浮かべてもらえるように、選んだものだから。


「嬉しい。わたしのことを考えながら選んでくれたんだね。ぴったりで履きやすい。お礼は、何がいい?」


 けれど、返事をくれたのは作りものの伊織さん。その事実に寂しくなりながらも、立ち上がり、彼女が喜ぶであろう言葉を選ぶ。


「この時間が、僕にとって最高のお礼です」


 伊織さんは自分が満たされないから、満たしてあげることに貪欲だ。

 その証拠に、彼女は満足そうな笑みを浮かべた。

 しかし伊織さんはすぐに背を向け、軽やかに歩き出し、僕を置いていく。きっと海が待ちきれないのだろう。


 今日、僕達の関係を変える。


 そう考えれば、僕の足も軽くなる気がした。

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