七七七の書物と潰れた白鳥
羊蔵
七七七の書物と潰れた白鳥
百貨店から出られなくなった。
行けども行けども、上がっても下がっても出口に辿り着けない。そして誰もいない。
その男には書店フロアで会った。
僕はこの書店のバイトを無断で辞めるつもりでいた所だったから、夢の中とはいえ居心地悪い場所だった。
「どうも。あなたの悪夢にお邪魔しています」
美しい顔をした、しかし慇懃無礼な感じもあるその男は、カウンターに寝そべって、クッキーか何かを囓っていた。
男はこう教えてくれた。
「書店内いる白鳥を探しなさい。それが出口です」
他に当てはない。それに何故か、この男が言うのならそうなのだろう、という不思議な確信があった。
こうして、僕は白鳥を探して書架を巡ることになった。
辞書をめくった。
白鳥の図鑑を取り出した。
バレエ雑誌かもしれない。
飛び出す絵本はどうだ。
タイトルか。
作者の名前か。
もしかして白鳥型の栞でも挟まっているのでは。
昔行った白鳥公園を思い出し地図を開いてみる。
それとも、もしかして、ページをめくれば白鳥のパラパラ漫画になっているのでは。
手当たり次第試してみたが、悪夢から覚める事はなかった。
「ヒントを差し上げましょうか? 料理本のコーナーに行ってみては。何か閃くものがある、かも」
ふと背後にあの男に立ってそういった。
白鳥料理?
それとも白鳥柄の食器特集?
探したが何も見つからない。
「どうします、あきらめて何か別の遊びでも?」
また男がやって来ていった。クッキーの甘ったるい匂いが嫌で、自分は男を手で突いた。
「おや。何か気に障りましたか」
男は笑っている。
僕はある女のことを思い出した。
彼女とは、この書店のバイトで知り合った。手製のクッキーを配るような女だった。
地味なくせに押しが強くて、気づいたら彼女の家に出入りするようになっていた。
ただ、毎回くれる少女趣味にラッピングされたクッキーの包みは開ける気にならず、帰り道で全部捨てていた。
必ずクッキーを口実に誘ってくるのも何だか嫌だった。
先日のことだった。僕は彼女の家へ盗みに入った。
一度見せてもらった、父親の小説コレクションのなかに「虚無への供物」の初版本を発見していたからだ。状態も良く帯までついていた。その筋に売れば、かなりの価格になるはずだった。僕にはちょっとした借金があった。
コレクターというのは妙な拘りがあるようで、彼女の父親はコレクションを七七七冊に厳選していた。
一冊無くなればすぐにバレるだろうが、なに、誰が盗んだかなんて分かるはずもない。欲にかられた僕はそう考えて盗みを実行したのだった。
ところが問題が発生した。
出勤後の時間をみはからったはずなのに、彼女の父親が帰宅してきたのだ。
書架の影に隠れて、棚の隙間から様子を窺った。
体調が悪いのか、女の父親は壁にぶつかりながら書架に入ってきた。牛みたいな朦朧とした声をもらしていて、何だか習慣だけで歩いているような気配だった。
父親の脚が書架の前で止まった。
そこはまさに僕がさわったばかりの所で「虚無への供物」があった場所だけ歯抜けになっているはずだった。
父親は小さく声を上げたようだった。
気づかれたか?
そう思った瞬間、父親がぐにゃっと崩れ落ちた。
彼は書架越しにしゃがみこんだ自分を見ただろうか? 見られはしなかったと思う。
彼は、だらしない顔をして睡っていた、たぶん。
くちゃくちゃと口をならした後、いびきをかき始めたから、寝ていたのだ。そう思いたかった。
厄介事を恐れて、僕はその場から逃げ出した。通報もしなかった。
確かに異様な様子だったが、きっと寝不足かなにかだったのだ。そう自分に言い聞かせた。
すでに息の止まった父親を、帰宅したあの女が見つけた。という話を人づてに聞いたのは、翌々日になってからだった。
自分が置き去りにしたせいで死んだのだろうか、そう考えると恐ろしかった。特に良くないのは、とっさに初版本を盗んできてしまったことだ。もちろん誰にもいわなかったし、警察がうちにくることもなかった。彼女からは葬儀の連絡もない。
まがいなりにも交遊のある自分に対して、女が何もいってこなかったのが不気味だった。
彼女は、歯抜けになった、七七六冊しかない書架に気づいたろうか。
父のコレクションを見せた事を思い出しただろうか。
「クッキーを焼いたので……」
ついに女が陰気な声で電話をかけてきた。
盗みのことを切り出されるに違いないと直感した。
僕はこれからも逃げた。書店のバイトも辞めて関わらないようにするつもりだった。
「どうしました? 何か、心当たりでも?」
男の声で我に返った。
なにも、と答えた。実際、あの事件、いや事故のことは白鳥とはなんら関係がない。
「そうですか――おっと」
わざとらしい声に続いて、男が手の中から何か落とした。
囓りかけの丸っこいクッキーと、何か銀色をしたものが軽い音を立てて転がった。
それはステンレス製の、小さな輪っかのようなものだった。ミニカーのホイールのようでもある。なぜか踏み潰されたみたいによじれていた。
拾い上げると、男はわざわざそれをかざして僕に見せつけた。
「いやあ。彼女から預かっていたものをうっかり落としてしまいました。これは失敗」
それは丸っこい形をしていたが、一部が
その形と、クッキーの匂いが、僕に答えを閃かせた。
店のゴミ箱の所まで走って行く。
ゴミ箱の中には、少女趣味にラッピングされた袋が無数に詰まっている。きっと僕がいままで捨ててきたものの全部だろう。あの輪っかはクッキー用の抜き型だ。
袋はどれも踏みにじられていた。
僕は全部開けて、どうにか形の無事なクッキーを探しあてた。それは白鳥の形をしていた。
「白鳥を見つけたようですね。でも私のミスのせいでもありますからね。これを正解として悪夢から帰してしまっていいものか……。ここは彼女に決めてもらうことにしましょう」
背後で男がいった。
不思議ではないと僕は思った。最初、男は「あなたの夢にお邪魔しています」といったのだ、つまり他の誰かを連れてくることも可能だったわけだ。
ゆっくり振り返ると、白鳥のように真っ黒な目をした彼女が立っている。
七七七の書物と潰れた白鳥 羊蔵 @Yozoberg
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