ない本屋

尾八原ジュージ

ない本

 看板には本屋とあるのに、おかしな店だった。

 店構えは至って小さい。手に届く位置に本棚のたぐいはなかった。煙草屋のようなカウンターの向こうに店主らしき人物がいて、背後にみっしりと本の詰まった棚が見える。

 どうやら店主にほしい本を告げて、取ってもらう仕組みらしい。変わった店だ。試しに一度利用してみたくなった。

 客と店主の間には曇り硝子の仕切りがあって、そのためどんなに目を凝らしても、棚にある本のタイトルを判読することができない。試しにどこの本屋にも置いていそうなベストセラー小説のタイトルを告げてみると、

「ありません」

 と、カウンターの向こうから愛想のない声が返ってきた。

 店主の顔もはっきりしない。ゆらゆらとした硝子の向こうで、あらゆる人間の平均みたいなものが座っているような気がする。

「では『新約聖書』は?」

「ありません」

「東京都の地図は?」

「ありません」

「辞書のたぐいは?」

「ありません」

 ありそうなものはとにかくない。それどころか、

「うちは『ない本屋』です」

 つまりない本しかない、という。

 どういうことかよくわからないが、試しになさそうな本を挙げてみることにする。

「主人公が海鼠のハーレムもの」

「ありません」

「牛用のエロ本」

「ありません」

「表紙に恐竜の革が張られている本」

「ありません」

「あるの!?」

「うちにありませんから」

 己の発想の貧しさが嫌になる。

「ていうか、おたく本当に本屋?」

「本屋ですとも。看板にあったでしょう」

 店主は自信満々に言い放つ。

 ここが本屋だという謎の確信だけは、なぜだろう、私にもある。もうこうなったら、なんとしてもこの店で本を買いたいという欲求が込み上げてくる。

「どんな本があるんですか?」

「ない本です」

「ある本じゃ駄目?」

「駄目です」

 迷っていると、隣にふっと人の気配が現れた。

 見上げるほど背が高く、黒いレインコートを着たものが立っていた。それは泡が弾けるような声で「『深海の瞳の呪術』三巻」と告げた。

「あります。三万円」

 店主は本棚から一冊の分厚い本を取り出し、硝子の下を通してこちらに寄こした。背の高い客は本を受け取り、代わりに一万円札を三枚、硝子の向こうに押しやる。

「毎度ありがとうございます」

 背の高い客は立ち去った。仄かに磯の匂いがした。

「あの、今の深海の瞳のなんとかというのは」

「ありません。もうある本になってしまいましたから」

 カウンターの向こうから、男とも女とも若いとも年寄りともつかない、奇妙な声が答える。私は再び迷宮に落ち込みそうになった。が、そのときふと思いついて、

「……じゃあ、鍵山国彦の自伝」

 と言ってみた。

「あります」

 店主はそう言うと、一冊の文庫サイズの薄い本をカウンターに置いた。

 表紙には、お宮参りらしく白いドレスを着せられた赤ん坊の、いかにも古く素人くさい写真があしらわれている。鍵山国彦が赤ん坊のときの写真だ。よく知っている。鍵山国彦は私の名前なのだから。

「四百円です」

 店主が本をこちらに押し出してくる。

 私は逡巡する。「ない本など読むな」と今更のように警鐘が頭の中に鳴り響く。だが私の手は勝手にカバンを漁りだし、小銭入れから百円玉を四つ取り出している。

「まいどあり」

 気がつくと私は、最寄り駅のホームに立っていた。不思議な本屋の前ではない。

 買ったばかりの本を手に持っている。

 この世にないはずの、私の自伝だ。


 家に帰った私は、さっそく己の自伝の最初のページを開いてみた。

『私は鍵山国彦。平成元年六月二十日生。父の名前は高彦、母の名前は照美。

 まさか私がこのような怖ろしい目に遭うとは思いもよらなかった。私はもう手遅れだが、このような災いを回避するためには手がかりが必要だということを知っている。本書は警告の意味を込めて書かれたものである。

 まず』

 私はそこでページを閉じた。誰もいないはずの家の二階から、大勢の人間が走り回るような足音が響いてきたからだった。足音は、ページを閉じるとぴたりと止んだ。

 一週間経つが、まだ続きを読めていない。

 



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