赤い果実 ― Happy Christmas Ⅱ ―
夕食を済ませた克哉が書斎に引きこもったのを見た
ポットの紅茶も渋くなってしまったと理由をつけて引き返そうとした矢先に扉が開いた。部屋の主と目があった杏は、しばし固まる。
「どうした、杏。今日はデザートがあるのか?」
驚きもしない克哉は、杏の手にある盆を目で示した。
克哉の顔から菓子に目を移した杏は、準備していた言葉を口に出す。
「いつも、もらって、いるばかりでは、いいけないと思って、作り、ました」
気持ちが焦ると、どもりやすい杏の頬に朱に染まる。何回も考えて何回も反芻してみたのに、散々な有り様だ。すぐ返ってこない克哉の反応が恐くて、盗み見ることもできない。
ほぅ、と落ちてきた言葉は、感心しているようで、少しだけ杏は勇気をもらえた。そろりと開いた視界に、頬をゆるめた顔が入る。
「La cerise sur le gâteau」
菓子を見つめていた瞳が杏に向けられて続ける。
「師匠の口癖でな、そのまんま訳せば『ケークの上のさくらんぼ』って意味だ」
杏は頭の中に浮かんだパウンドケークやロイヤルケークの上にさくらんぼを乗せてみたが、そこまで食欲はそそられなかった。外国の感覚は、時に不思議なことがある。
杏の困惑顔に、かつての自分を重ねたのか克哉も可笑しそうに笑う。
「俺もそんなことあるか、て言ったら殴られてなぁ。最高なものをさらに輝かせるひと手間を惜しむなって散々言われたっけな」
話ながら、視線で中へと促された杏は少しだけ悩んでから足を踏み入れた。
書斎の机には書類がとっちらかり、応接用の平机には本や設計図などが山積みになっている。
「今日も遅くなりそうなのですか」
「いや? 踏ん切りがつきそうだから、
夜遅くにすることではないと杏の顔にはっきりと書かれていたのだろう。
途中で片言になった男は、悪戯がばれた子供のように自分には関係ないとでもいう顔をした。
氷冷蔵庫に置かれていたブリキ缶の持ち主は、やはり克哉だったらしい。
借りようと真顔で言い出した料理長を止めるのが、どれほど大変だったか、克哉は知らないだろう。
杏の小さなため息に、思いの外慌てた克哉が言い募る。
「今日は生地だけ作ろうと思っていたんだ。デコレーションは一緒にすれば楽しいかと思って」
「……『でこれぇしょん』とは?」
気になる単語を聞いた杏は、出鼻をくじかれた。さらには、ぱっと輝いた彼の顔を見て、早々に負けを確信する。つい先程まで布団に押し込もうと息巻いていたというのに、明日の作業を思い描いて心が浮き立つ。何より、一緒にするのが自分だと確信を持てることが嬉しかった。口には出さないが、当然のように向けられる瞳がそう思わせる。
現金な自分に分厚い皮を被せた杏は澄まし顔で彼の言葉を聞く。
「ケークの飾り付けのことだ。あっちでは、聖誕祭を迎えるために火を燃やし続ける風習があってな。薪に使われる木に見立てたケークを作る習わしがあるんだ」
果たして、ケークと生クリームで木はできるものなのか。ケークを細く切り刻んで生クリームを繋ぎにするのだろうかと杏は想像を膨らませたが、はりぼて感が抜けきらなかった。練り切りのように砂糖に色付をして形にした方が出来映えのいいものになるのではないか。
まぁ、それよりも先に、と克哉が言葉を切るので、杏は頭の中でケークを作ることを止めた。
「杏からの贈り物をいただくとするか」
改めて言葉にされた杏はたじろいた。
なかなか動けないでいる姿に笑んだ克哉は、盆を取り上げて多少は開けている場所に置く。
皿を取り上げてまじまじと見られてしまえば、冷静を取り戻しつつあった杏は指先を遊ばせてしまう。
「生クリームが用意できなくて、物足りないかもしれませんが」
「いや、カスタードプティングに添えられた林檎も楽しそうだ」
克哉が誉めたものは、生クリームの礼だと料理長にもらった知恵だ。
生クリームの代わりにならないかもしれないがと前置きした料理長は、つやつやとした紅い林檎を切り分けて芯を取った後に皮に切り込みを入れた。船の形をした皮の真ん中に、屋根を描いて、その皮を薄く剥く。屋根の外の細長い部分も丁寧に削げば、赤い皮は白っぽい果肉から剥がれて浮いた。宮中で流行っている飾り切りらしいと説明された林檎は、まな板の上を飛び回る兎に返信した。
カスタードプティングの上にドランチェリーをのせるだけでは物足りないかと、端に添えた赤い果実は彼を喜ばせてくれたらしい。
役目は終えたとばかりに杏は深く礼をとる。
「では、失礼します。早めに寝てください」
「なんだ、もう寝るのか。もう少し居たらいいのに」
「私が居たら、寝るのが遅くなるでしょう?」
「気にするな。杏なら、いつだって大歓迎だ」
また、そうやって誑かすと杏は心の中だけで文句を言ってやった。彼の狙って言っていない所が妬ましくもあり、嬉しさもあった。裏表のない言葉はいつも真っ直ぐで、真っ直ぐすぎて、杏の踊らせ方を知っているのではないかと疑いたくなる。
「もてなしは何もないが、座ったらどうだ?」
克哉の提案に、えぇと本気な嫌そうな声が出た。
顔を曇らせた克哉が、とたんに哀愁をまとったので、逆に杏が申し訳ない気持ちになる。主人と同じ席につくことが嫌なだけで、克哉と座りたくないわけではない。
「……今日の仕事はもう終わったので」
わざとらしい言い訳を口にして、杏は克哉をうかがった。期待に満ちた瞳を向けられてしまえば、無下にすることはできない。
失礼します、と一言断りを入れた杏は、克哉の迎いのソファに浅く座った。布越しに伝わる柔らかい感触に緊張する。
「借りられてきた猫みたいだな」
「誰だって、初めて座るものには緊張します」
杏の反応が予想外だったらしい克哉は一寸の間、真顔になった。妙に納得したような顔に転じれば、手を伸ばされる。
伸びた手は杏の頭に降りてきて、夜になっても崩れていない髪を乱した。
「働き者だよなぁ、杏は」
「克哉様には負けます」
されるがままに受ける杏からは負け惜しみのような声が出た。とくり、とくりと打ち始めた音は自分にしか聞こえないと言い聞かせ、伝わる熱を甘受する。
俺は座って仕事してるからと苦笑した手が離れ、横髪を耳にかけた。色づき始めた頬に目を細め盆から皿を取り上げる。
「では、有り難く」
いただきます、と続いた言葉を追うように快活な口に、カラメルをまとったカスタードプティングが消えた。
今か今かと反応を待つ杏は、和んだ目元に体の力が抜ける。
「カラメルが師匠と同じ味だ」
再び開いた口からこぼれた言葉は懐かしむようにあたたかかった。
そうでしょうか、と不安を見せる杏に対して、克哉は誇らしげに笑う。
「俺の舌はな、これだと思った味は絶対に忘れないんだ」
言われてみれば、鈴美屋の餡の味も忘れていなかった。一緒に育った兄だって忘れてしまったので、かなりの思い入れがあったのだろう。
惜しむことなく次々に口に運んび、林檎だけを残して食べきった克哉は、満足した笑みを浮かべる。
「美味かった。また作ってくれ」
言葉に詰まった杏は、小さく頷いた。真面目な顔か、遠慮したような笑みしか見せない少女がはにかむ姿はこの時ぐらいだ。
笑みを深くした克哉は、話は変わるがと改まった声で口火を切る。
「年明けに案内したい場所があるんだ。予定を空けといてくれないか」
『空けといてくれ』ではなく、『空けといて
眉を寄せた杏はちょっとの変化も見逃すまいと克哉を睨み付ける。
「今度は何を隠しているんです」
「まぁ、お楽しみにってやつだ」
ぎくりと分かりやすく狼狽えた克哉は固い笑顔で応戦した。
さらに目を細めた杏は怪しすぎる彼に追い討ちをかける。
「この前みたいな冗談はやめてください」
「冗談じゃなくて、ただの占いだろ?」
「仕込んだ張本人が言うことではないですよね」
するどい語気で眉を上げる杏に、さすがの克哉も視線を泳がせた。じっと答えを待つ杏に根負けして、手を上げてみせる。
「断じてからかう意味はない。でも、秘密にはしたい」
本当に、自分の欲に正直である。
愁傷な克哉に詰め寄るのも大人げないかと杏は眉を元の位置に戻した。溢れそうな言葉を吐息でおさめて、気を取り直す。
「わかりました。克哉様の都合で構いませんので、また日取りが決まりましたら教えてください」
すぐに調子を取り戻した克哉は杏に迫った。机を無視して、体を前のめりにする。
「行きたいところ、考えとけよ?」
「案内したい場所があるのでしょう?」
背筋を伸ばすように身を引いた杏は、勢いに負けまいと冷静に返した。気付いてないのかと言われれば、何がですかと返すぐらいには彼の熱は伝わっていない。
「俺は
ぽんと投げられた言葉に、付き人として行こうと考えていた杏は固まった。瞬きをひとつふたつと重ねて、頭の中で克哉の言葉を噛み砕く。『でぇと』が巷で流行る言い方で、自分とは縁がないものだと聞き捨てていた言葉だと行き着いて、沸騰した。のろのろと巡っていた思考が目まぐるしく回る。
「い、行けませんよ!」
やっと出た当然の答えに、何でだと克哉はわかりやすく機嫌を損ねた。腕を組んでむくれる。
慌てた杏はいつもの澄まし顔を放り出して、主人を説得する羽目になった。
「雇い主と使用人なんですよ? その、デ……出掛けられるわけないです」
「雇い主と使用人である前に、俺と杏だろう。並んで歩くだけじゃないか」
「男女で歩くなんて、はしたないって言われます」
「そういうのは言いたいやつに言わせとけばいい」
彼が聞かん坊であることを重々知っていたはずの杏ではあったが、今回ばかりは頭が可笑しいのではないかと思わざる得なかった。
杏だって、二人で歩く姿を思い描いてみたことがある。洋装で洒落こむ彼と、はした金で買った着物の自分が並んでも主と使用人にしか見えない。一番上等な服は、今、着ているお仕え着なのだから。
スカートを握りしめた手を見止めた克哉が急に立ち上がった。
誘うことばかり考えてて忘れるところだったと差し出したのは、ひとつの包みだ。花をあしらわれた包み紙をひと目で上等な品だとわかった杏は訝しげに送り主を見た。
瞳を揺らす彼女を目で捕らえて、克哉は得意な笑みを浮かべる。
「
いつかの聖夜のように本場仕込みの言葉で机に送り出された包みに、杏は口を引き結んだ。すぐには断れない自分を戒めて、冷静な声を心がける。
「私だけもらうのは気が引けます」
「これは主人としてではなくて、俺個人からだぞ?」
「なおさら貰えません。返せるものはありませんから」
「受け取るだけで十二分にうれしいが」
「克哉様はうれしくても、私は困ります」
きっぱりと言い捨てたのに、そういうと思ったと克哉はくしゃりと笑った。曲者のように目を光らせて、口角を上げる。
「見た瞬間、絶対、杏が気に入ると思ったんだ」
「おあいにく様、です。違う方にお譲りしてください」
「あいにく、これがぴったりな知り合いは杏しか知らなくてな」
「ツネさんのお孫さんなんていかがです」
「俺は杏のために選んだんだが」
真っ直ぐに言われて、揺らがないはずがない。
伸ばしそうになる手を握りしめた杏は、入りませんと再度、断った。
「折れないなぁ、杏は」
「絶対に折れませんと言ったでしょう」
絶対だったか?と克哉は眉尻を下げた。ひと目見るだけでも見てくれと諦めの悪い克哉が包みを開ける。
手元から無くなった大切な色が、そこにはあった。
父が似合うと誉めてくれて、母が大きくなったのねぇと瞳を潤ませて、兄が珍しくからかわずにかわいいなと言ってくれた着物と同じ色。
大きな白い襟が薄暗い部屋でもまぶしく感じたのは杏だけだろうか。折り返しのついた合わせには胡桃色のボタンが並び、見慣れたベストが脳裏を掠めた。
瞠る杏の目の前で、ひらりと名前と同じ色が舞った。机に広げられたワンピースは、正に想い出の
目頭に力を込めた杏は睨みつけるように意地の悪い人を見つめた。
ちっとも堪えていない彼は、わかっていたと言わんばかりの顔で最後のひと押しを忘れない。
「この服を見た瞬間、隣で歩く杏が思い浮かんだんだよ。そしたら、我慢するわけがない」
楽しみだなと杞憂を微塵も感じさせない彼は、勝利を確信して林檎を噛る。
汚されては堪らないと杏は慌ててアンズ色を抱えた。してやったりと笑った彼を憎むに憎めなかったのは、瞳の奥に優しさを見つけたからだ。憎まれ口を叩こうとした唇を噛み締め、くぐもった声で礼を言う。
ふ、とゆるんだ顔が、ことさらにうれしそうで、杏は喉の奥で唸った。
甘味伯爵 ―恋菓子の料理帖― かこ @kac0
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