one-sided
満つる
片耳だけの
背後から呼ぶ声が聞こえた。
「
少し離れているのか、気持ち強めな低い声。
今日はその声の持ち主の顔を見たくない、いや、会いたくないと思っていた。だから聞こえない体を装って足早に逃亡を図る。
「おい、琉。待てって」
土曜午前中の大学構内には紛れ込めるような人影もろくにないし、この程度の小細工でスルーできるようなやつじゃないってことも分かってはいる。
「ん、」
ため息みたいな声が勝手に零れる。立ち止まって渋々と振り返る。とは言えやっぱり悔しくて、右耳に着けたイヤーカフを触った。どうして今日に限ってイヤホンしてなかったんだろう。我ながらタイミング悪いったらない。
「付き合えよ」
相変わらずこっちの都合も気持ちも関係ない話し方。ほんと腹が立つ。
「やだ、って言ったら?」
「……おまえが言うわけないだろ」
ああ、もう。
腹が立つなんてもんじゃない。
勢いに任せて目の前まで駆け寄る。そのまま征の首に両手を回して引き寄せ、喉仏に軽く歯を当てた。ごつごつとしたそれは、やけに無防備に私の唇の間に収まってくる。その無防備さがまた妙に腹立たしくて、つい首に爪を立てた。
「痛えよ、ばか」
征の声が喉仏から
*
「で、何に付き合えばいいのよ?」
征の横を歩きながら、声にわざと不満を
「何、って、」
この男は本当にズルい。普段はろくに笑わないくせに、こういう時に限ってとっておきの笑顔を見せてくる。
「行けば分かる」
そんな顔をされたらそれ以上、何も聞くことができなくなる私も大概だと思う。結局、征の言いなりになってばかりだ。
そうして連れて行かれたのは駅直結のテナントビル。いくつか入っているジュエリーショップの中のひとつへと足を踏み入れようとするから、驚いて腕を掴んだ。振り返った顔がかすかに笑ってる。
「何だよ?」
「何だよ、って。私が聞きたいんだってば。何で?」
「見れば分かるだろ。ここにドーナツ食いに来たとでも?」
意地の悪い目で見返してくるから、「ドーナツの方がまだ分かる」って言い返した。
「ふぅん。だったらそっちに行くか?」
にやにや笑いながらひとの顔、覗き込む。ほんとムカつくったら。
「いいよ。行こう。ドーナツ屋。このお店の後で。ここに用事があるの、征だもんね? で、ドーナツって言い出したのも征だもんね?」
半分睨むみたいにして言ってやった。途端に征はふいっと視線を外すと、ぼそりと一言。
「やっぱドーナツは無しな。食うならチキンがいい」
甘い物はどれも食べたがらない征。私の好きなドーナツは特別苦手な征。それでも私が差し出すと露骨に嫌な顔をしながらも一口だけは齧ってみせる。
「何、食べたい?」って聞くと子供みたいに「チキン」って言う征。コンビニでもファミレスでも居酒屋でもどこへ行ってもチキンを頼む征。征。征。
「もう。よりによって今日もチキン?」
チキンなんてちっとも甘くないのに、私の胸はなんだか訳の分からない甘いものですっかり満たされていて、それだけで息が苦しいみたいだ。
「そう。チキン。で、その前に、」
それこそドーナツを口にしたみたいな顔して征が言った。
「入るぞ?」
*
脇目も振らずに征は店の奥まで足を運び、立ち止まった。後ろから覗き込むと、イヤーカフばかりが集められている棚の前だった。
振り返りもせず征が呟く。
「似合いそうだな、と思って」
……どうしよう。こんなの聞いてない。胸が苦しい。苦しくて苦しくて堪えきれずにその背に顔を押し当てた。
「ばかだな。それじゃあ見えないだろ」
征の声が背中の向こうで小さく笑ってる。
「ちゃんと見てみろって。で、気に入ったのがあれば試してみろよ」
……ズルい。本当にズルい。ひとであれ物であれ縛られることを何より嫌がるこの男には何も期待しちゃいけないと自分に言い聞かせてて、それでもほんのわずかでも期待してしまう自分が情けなくて、だからこそクリスマスイブの今日みたいな日だけは会いたくなかったのに。
広くて固い背中から無理やり顔を引き剥がす。その背の横から棚に並んだイヤーカフを覗く。顔を棚に向けたまま、征が指差した。
「あの右端の大きいシルバーのとか。その斜め下の細い金色のやつとか。琉に良さそうに見えた」
征ってば分かっているようでいて分かってない。征が私のために選んだものならどれだって私は好きになる。でも、そんなこと口が裂けても言わない。
「ん。いいかも」
感情を込めないように。落ち着いて聞えるように。
「だったら試すか?」
「うん」
早速、征が店員を呼んだ。
「これとそれ。試してみたいんだけど」
「はい。こちらのおふたつですね?」
店員は手慣れた様子で棚からイヤーカフを取り出すと、トレイの上に並べた。離れた所にあった鏡も目の前に移し、見やすいように角度をつけて置いてくれる。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
「つけ方、分かります?」
私の耳元を見た店員がにっこりと微笑んだ。
「ああ、イヤーカフ、お使いになってるんですね。だったら大丈夫ですね」
「あ、はい」
慌てて頷きながら、自分のを外してシルバーの方から試してみる。と、征の指がいきなり伸びてきて、私の耳元の髪をかき分けた。
思わず声をあげそうになるのを無理やり飲み込む。代わりに征が嬉しそうな声をあげた。
「うん。いい。思った通り」
「そうですね、お客様のように髪の長い方は、これくらい大ぶりのものですと隠れずに見えていいかと」
似合ってるのか似合ってないのかなんて正直、もうどうでもよかった。鏡の端にちらっと映る征が、あんまりにも見たことのない顔してるから。
「次、こっちも早く」
征ったらほんとせっかち。もう少しゆっくり見させて欲しかったのに。ううん、イヤーカフのことじゃない。今、着けた時に見せた、鏡の中のあなたの顔。
でも、征の目はとっくにもうひとつの方へと向けられていた。仕方なく着けたばかりのイヤーカフを外し、征の視線の先のものへ着け替える。そちらは華奢で小さい金色。対照的なデザインと色。
「こちらはひとつだけで着けてももちろん上品で人気なのですが、他のイヤーカフやピアスと重ね着けされるお客様も多いデザインです」
「ふーん。そういうのも面白いね」
「それともうひとつ。実はピンキーリングにもなるんですよ」
聞くなり心をわしづかみされた。だって、イヤーカフとしてだけでなく指輪、それも征からのプレゼントとしての指輪にもなるだなんて。
肝心の征は、でも、ピンキーリングが何かが分かってなかったみたいで、「ん?」って顔して店員を見つめている。すぐに察した店員が
「ピンキーリングというのは小指に着けるリングのことです」
そう言って、棚から同じデザインの色違いを手にした。
「こうやって、」
話しながら自分の指に嵌めて見せる。それを見て征が頷いた。
「ああ、なるほど」
言葉と同時に、征の指が今度は
「これ、小さいけど、してて取れたりしない?」
「……そうですね、絶対にないとは」
ためらいがちな店員の声。
「お着替えの時など、気を付けて頂きたい時はもちろんありますので」
気のせいだろうか。急に征の声に小さな棘が含まれたように感じた。耳に触れる指先の温度もほんのわずか下がった気がした。気のせいだと思うけれど、それでも何かが引っかかる。そのせいで顔が上げられない。
「おい。ちゃんと自分でも見てみろって」
唐突にあごを掴まれた。俯いていた顔を上に向けさせられる。
「とりあえずこれ、耳にするもんなんだろ?」
耳からだけでなく、あごを掴む指先からも征の声が私のからだに流れ込む。有無を言わせない声。
分かった。分かってしまった。私には選ぶことなどできない。
「うん、やっぱりさっきの方がいい気がする」
手があごから離れ、再び耳たぶに触れ、そのままキュッとつねるみたいにして引っ張られた。走る刺激に促されるようにして声を絞る。
「……ありがと」
*
さすがにいつものファストフード店ではなく、少し洒落たレストランに入った。座ると同時に、征の視線が私の耳元にまとわりつく。
「せっかくだから着けてみろよ」
気恥ずかしかったが、黙って紙袋を取り出した。
光沢の美しい純白の紙袋。中に収まった小箱は真紅の包装紙と金色のリボンで丁寧に包まれている。クリスマス限定のそのラッピングがテーブルの上で場違いなほど眩しく光って見える。開けるのを手が
「のんびりしてると飯が来るぞ?」
征の言葉に押されて包装を解いた。開いた箱の中で、大ぶりの銀色が鋭く光る。
首をわずかに傾け、耳元に手をやった。征の目を見ながら耳から外し、そして、征の目を見ながら耳に着ける。
着けると、征の口元がふ、と緩んだ。
「似合ってる」
低い声。
「片耳だけ、ってのがいい」
細めた目が耳元から離れる。
「片方、それも耳だから、かな」
征が私を見据えた。
笑っていない目。真顔だった。女にアクセサリーを贈った男のそれではなかった。イヤーカフを着けた耳元が突然、氷で突き刺されたように冷たく痛んだ。思わずからだが震える。
そこにちょうど店員が皿を持って現われた。慌ててテーブルの上を片付ける。ランチプレートが賑やかにテーブルに並べられていく。チキンも入ったフライ盛り合わせが征。私はパスタ。彩り豊かで湯気が立ち上り、スパイスの香りも香ばしい。
「お、美味そうだな」
征の顔がほころんでいる。
助かった、と思った。選べなかったけれど、それでもばかみたいに舞い上がっていた気持ちと、そして食欲は、いつの間にかすっかり消え失せていた。
*
食べ終わって、そのままどこか一緒に出かけるのかと思っていたら、「悪いけど、」とあっさり否定された。
その目が「何も聞くなよ」とも「分かってるだろ」とも言っているように見えて、それ以上何も言えなかった。
「じゃあ、またな」
レストランを出て、手を上げて去って行く後ろ姿を見送る。その後どうすればいいのか全く分からなかった。気持ちがざわざわと泡立ち、足元は水に浸かっているかのように不確かで、まっすぐ家に帰れそうになかった。仕方なく、着飾ったカップルで賑わう街をひとり歩いた。何もかもが現実離れして見えた。
気付くとさっきのジュエリーショップの前だった。
華やかな照明で店内はひときわ明るく、中で肩寄せ合っているカップルは皆、幸せそうで、ガラス棚に収められたアクセサリーは光り輝いている。ほんの数時間前、自分が征と共にその中に立っていたことが信じられなかった。
急いできびすを返した。どこでもいい、どこかに逃げ込みたかった。ふらふらと彷徨った末に辿り着いたのがいつものドーナツ屋だった。
ドーナツをひとつとホットコーヒーを買う。イートインコーナーのカウンター席に空席を見つけて座った。
シュガーパウダーが粉雪みたいなドーナツ。指でつまむとほんのり温かい。つまんだ右手の小指に、選んでもらえなかったピンキーリングを着けている所を想像してみる。うまくいかなかった。
イヤーカフがクリスマスプレゼントではないと、さっきの目で身に沁みて感じていた。
心に粉雪が舞っている。
征の部屋に指輪を置き忘れてきたことがあった。一度。一度だけ。
征が誰にも縛られたくないひとだということは理解しているつもりだった。そういう征に合わせて振る舞ってもいた。それでも。
指輪を忘れたのはわざとじゃない。でも、わざとだったのかもしれない。だって。分からない。あの時、征は何も言わなかった。だから何も知らない。知らないふりをし続けた。
ドーナツを口に運ぶ。甘くて甘くて涙が零れてきそうなくらい甘い。こんなに甘かっただろうかと首を傾げながら、唇に付いたシュガーパウダーを小指で拭う。拭った指で耳元を探った。金属特有の冷たさが指に伝わってきて心を縛る。こんな風には縛られたくなかった。縛るならもっと優しく縛って欲しかった。
この先、征に会う時は、笑ってこのイヤーカフを着ける。そして一緒にいる間は外さない。彼の側にいたければそうするより他ないのだろう。
残りのドーナツを口に押し込む。味なんてもう分からなかった。目元に滲む涙と共にドーナツを飲み下した。
one-sided 満つる @ara_ara50
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