波音に溶けていく気持ち 別稿

瑞葉

第1話

 区の図書館の林田さんは今日も返却受付のところにいた。

「紗良ちゃん、おめかししてお出かけ?」

 ふくよかな大福みたいなほっぺたの林田さんに優しく聞かれて、つい、言わなくていいことをしゃべってしまう。

「七里ヶ浜まで行くんです。急がないと」

「あらー。遠くまで行くのね」

 林田さんはそれ以上は聞かず、他の人の本の返却作業を始めた。長話する時間はないから、ありがとう。

 自転車に飛び乗り、保土ヶ谷駅まで猛スピードで走っていく。途中、鳩が驚いたように歩道を飛び去っていった。

 駅に着くと、ちょうど来た電車に飛び乗り、ゼェ、ハァと肩で息をした。

 スマホアプリの通知がピロン、と鳴る。

「イズミ」という名前が表示されている、今すぐは読めないよ、とても。

 尊い。

 これから会う人のため、せめて、髪くらい直さなきゃ。お母さんのフランス旅行土産の、パピヨン柄の手鏡を取り出す。化粧っけのないわたしの顔が映る。せめて口紅くらい、今日のために買ってればな、と自己嫌悪。

 このスマホアプリは「交換日記」という。レトロなネーミングながら、今、令和のわたしたち世代で流行ってる。名前も住所も知らない相手とチャットできる。

「あやしくないの?」

 高校の入学式の日の帰り道、そのアプリの話をクラスメイトの美斗から聞いたわたしは首をかしげる。

「ほんとの名前も住所も知らないなんて。プロフィール、嘘つき放題でしょ」

「いいじゃん。会わなければなにも問題ないんだよ」

 美斗は軽く言って、わたしをそのアプリの世界に招き入れた。登録は簡単。わたしは「ナギサ」というプロフィール名をつけて、スタバのラテの写真を顔写真として載せただけ。

 中学校の卒業式のあと、わずかな春休みの間に友達と背伸びして入ったスタバ。「大人の世界の入り口」に思えた。その写真くらいしか、プロフィールに使えそうになかった。

 でも、美斗は知らないんだ。わたしがプロフィールの言葉に何を書いたか、なんてこと。


 兄貴を募集します。


 わたしはそう、プロフィールに書いたのだよね。


1

 江ノ電にぶらりぶらりと揺られながら、わたしは車窓を見た。周りでわぁっと歓声があがる。そう、急に開けて海の景色が広がるんだ。今日はとてもいいお天気で、海も嬉しそうな真っ青な色をしていた。

 七里ヶ浜駅のホームは狭い。無人の改札機のあたりで、キョロキョロと「イズミさん」を探す。まだ来てないのかな?

 トンビがピーヒョロロと鳴きながら頭上を旋回していった。その動きにつかの間、目を奪われてると。

「ねえ。もしかして」

 さざ波みたいに心地いい声が頭上から降ってきた。身長158センチのわたしの頭上。横をあわてて見る。

 約束していた通り、イズミさんは青いカバン。栗色のジャケットを着ていた。中のTシャツはまぶしい白色。わたしも約束通り、えんじ色でリボンとひらひらのついたトップスを着て黒いスカート。手持ちの服でもとびきりおしゃれなのを、と選んだのに。

 大学生って垢抜けてる。雰囲気がもう、ね。背も高くて170センチは超えてる、かな。

「今日はよろしくお願いします。イズミ……さん?」

 緊張してカサカサした声が出てしまう。イズミさんは穏やかに微笑む。ちょっと柴犬に似てるなあ、と思わせる、親しみやすい笑顔。

「これ、名刺。大学の。怪しい人じゃないから」

 少し困ったように笑いながら、イズミさんは一枚の紙を差し出す。名刺かあ。初めてもらったかも。

「青井伊澄、さん?」

 心理学基礎ゼミとも書いてあるけれど、まずは名前を声に出して読み上げた。

「アオイイズミ?」

「ね? 親のネーミングセンス、どうかしてるよね。よく言われる。ペンネームとかじゃないよ。本名」

 クスクスとわたしは笑ってしまう。

「あ、わたし、赤嶺紗良っていいます。文字だと」

 手持ちの付箋を一枚取り出した。走り書きして、変なカクカクした文字になった。

「へぇー。珍しい名字」

「沖縄にはよくある名前なんです。うち、父が沖縄の人で。五歳までわたしも住んでました、沖縄」

 つい、話しすぎてしまった。なんだろう? この感じ。すごく落ち着くっていうのかな。

 名字が青井さんだけれど、ファンタジーゲームとかでいうところの「水属性」の人なんだろうな。種族はエルフとかかな。最近やっているそのスマホゲームに当てはめてちょっと妄想。

 伊澄さんの案内で七里ヶ浜に向かう。せっかく海に来たんだもの。見なきゃね。

 浜辺に降りると、優しい波音につかの間身をゆだねる。気持ちいい風が吹いていて、潮のにおいがぷんとする。浜辺には誰かが捨てた空き缶や、ワカメのような海藻が漂着している。時々、海鳥がエサをつついている。見晴らしのいい、青い景色。遠くには江ノ島も見えた。

「横浜の大学なんですね。青葉区の」

 さっきの名刺を思い出しながら、わたしは言う。

「わたしも保土ヶ谷駅が家の最寄りで、横浜駅近くの高校に通ってるんです。ご近所さんだったんですね」

「そうなんだ。横浜で会えるね。って、赤嶺さん次第だけどさ」

 伊澄さんはどこか恥ずかしそうに笑う。

「こんな俺だけど、柴犬顔でガッカリしたかな? 契約、する?」

 周りにチラホラいるサーファー。その人たちに聞こえないよう配慮したのかな。なにを、のところを言わない。

「しますよ。『お兄ちゃん』になってください」

 わたしはそれだけ言って、浜辺の波に向かってちょっと走ってみる。レースみたいな波は、人を無邪気にさせる。

「伊澄さんも来てください」

「えー。靴が濡れるよ」

 そのまま、浜辺で三十分くらい、波と戯れていた。靴が濡れないギリギリのところまでいく遊び。

               

2

 海辺で遊び疲れたわたしたちは、七里ヶ浜のハワイアンカフェに入った。サーファーたちが話をしている横をすり抜けて狭い店内を進み、木製の椅子に座る。テーブルも木製。メニュー表を見てため息。

「パンケーキ一個で千円? 飲み物、六百円?」

 わたしの月お小遣いは三千円だ。高校一年生にしては多い方だろう。

「俺、出すよ。ここ、おいしいからさ。遠慮なく頼んでほしいな」

 伊澄さんが言ってくれた。それで、チョコバナナパンケーキとアイスティーをオーダーした。伊澄さんはハワイアンコーヒーを頼んでいた。

 焼きたてのパンケーキはホクホクと甘い。チョコとバナナが絶妙。夢中で食べてしまう。半分ほど食べて、「そっか。こういうのはシェアして食べるものなんだ」と気がついた。

「そろそろ、話していい?」

 伊澄さんがそっと聞いてくれた。柔らかそうな眼差しに、この人に嘘はつけないなあ、という気持ちになる。

「そう。アプリで話せなかったことですよね。リアル兄貴とわたしの」

 それを言うために、はるばる、彼の地元、七里ヶ浜まで来たのだ。

「兄貴の名前は赤嶺葉月です。二歳年上で、今年高校三年生。受験はせずに就職するみたいです。小さい時からスポーツ万能で、毎日、校庭とかで泥だらけになって遊んで帰ってくる」

 こんな話して楽しいかな、とちょっと黙る。伊澄さんは、「それで?」と続きをうながしてくれた。

「兄貴とは小さな頃は一緒に遊んだりしたけれど、わたしは陰キャで、地元の図書館に住む『本の虫』。本読んでたおかげで国語力がつき、成績もアップ。兄貴より出来がいいと両親には褒められてばかりいました。兄貴、友達多いしリーダー格だけど、勉強だけはダメだったから。なんとなく、同じ家の中なのに疎遠になりました。それで、中学生の時、『赤まんま事件』がありました」

 思い出すだけで冷や汗が出てきてしまう。それは中学校二年生の時のことだった。わたしの体が初めて「大人」になった時、お母さんがお赤飯を炊いてくれたのだ。

「なんとなくわかるよ。うちも姉貴いるからね。同じように赤飯炊いたよ」

 伊澄さんが察してくれて、あまり詳細なことを聞かないのに心底安心する。

「部活から帰ってきて、兄貴、機嫌悪かったんです。部活でやなことあったのかもしれない。『なんで赤飯なんだよ!』って苛立ってました。それでわたし、ついカッとなって言ってしまったんです」

 

 お兄ちゃんなんか、死んじゃえ。


 そう、わたしは言ったんだ。そして、せっかくのお赤飯もろくに食べず、自分の部屋にこもって布団をかぶって寝ていた。

「夜中、水を飲みに台所のある一階に降りていくと、両親が小声で自分たちの部屋で話していました。紗良にも反抗期が来たんだね、て」

「そうか。ご両親とは円満だけれど、お兄さんと仲悪くなる反抗期?」

 伊澄さんが、わたしの言いたかった言葉を先回りしてくれる。

「そうです。そうなんです」

 涙がこぼれそうになる。

 中学校二年生のあの日以来、確実に兄貴との仲はおかしくなった。そう。「お兄ちゃん」でなく「兄貴」と短く呼ぶようにもなった。やがて、兄貴には彼女ができる。夜遅くまで、彼女さんとスマホの通話。

「妹のやつがさー。テストでいい点とったからって自慢しやがんのー」

 わたしたちは隣同士の部屋。聞こえてくる悪口に耳をふさいだ。


「そっか。つらかったよね」

 伊澄さんが小声で言って、わたしの頭をポンポンとしてくれる。

「でもさ。『交換日記』なんかからはアカウント削除しなよ。もう、『架空の兄貴』がこうやってできたわけだしさ」

 伊澄さんは笑うと子犬のよう。


 わたしたちは、その七里ヶ浜のカフェにて、「架空の兄妹契約」の詳細を決めた。


 それは、清く正しい関係。

 キスとかはもちろんない。

 彼はわたしの兄になる。

 わたしは彼の妹になる。


「ごっこ遊び」と言えばそう。


3

わたしは家族には「彼氏ができた」と無難な嘘を伝えて、彼と撮った写真と、先日もらった名刺を見せた。

「ずいぶん頭のいい彼氏ねえ。認定心理士を目指す大学生だなんて」

 お母さんが心配そうにわたしを見ている。

 どこで知り合ったのかと聞かれて、ネットでと答える。悪いことをしているわけでないのに、心がズキズキした。

「最近、ニュースでもやってるもんなあ。『アプリで始まる交際』なのかなー。まあいいさ。ただ、自分のからだは大切にしなさい」

 意外にもお父さんが言って、交際は両親公認となる。

 兄貴は無言でわたしたちの話を聞いていたけれど、そのうち、テレビのある部屋に行き、スポーツを見始めた。兄貴なりの「イエス」なのかもしれなかった。


4

「あちゃー。『アプリ交際』ってトラブル多いのに、会っちゃったんだね、リアルで」

 昼休みの屋上で、お弁当を広げながら、美斗はため息。同じグループの風花が、「彼氏の写真見せてー」と言ってきた。

「えー。うそうそ。イケメンくん」

 風花はキラキラした声ではしゃぐ。

「最近、髪染めたからかな。本人は柴犬顔って謙遜してる」

『架空の兄妹』契約のことは誰にも話せないので、伊澄さんは、わたしの友達の中では「彼氏」の扱い。

 風花はわたしの顔をじっとのぞき込む。

「紗良、あんた、休みの日に化粧してる? こんなステキな彼氏と会うんだもん。してるよね?」

「え? あー。うん」

「してないんかい!」

 風花は、学校でも先生に目立たないようにグロスを塗ってるんだ。カバンの中から雑誌を取り出して、わたしに口紅やファンデ、チークの写真を見せてくれた。


5

 六月も半ばの蒸し暑い土曜日。わたしと伊澄さんは江ノ島の水族館に来ていた。

「あ、沖縄の海にいました。この魚」

 カラフルなオレンジ色や青色の魚。ディズニーのアニメ映画に出てきたかな。

「向こうの海は綺麗なんだろうなぁ」

 羨ましそうに言う伊澄さん。六月あたまから、黒髪を少し茶髪にしたので、確かに風花の言う通り、イケメン度2割増しかも。

 じっと伊澄さんを見ていると、目が合って。反射的に目をそらしてしまう。

 水族館って、デートっぽい。

 魚が見たいから。なんて理由で来ちゃいけなかったかもしれない。「架空の兄妹」って結構難しい関係だ。彼氏、彼女の関係とどう違うんだろ?

「向こう行こうよ」

 伊澄さんが指差した先に、すごく見慣れすぎた赤いTシャツを発見する。わたしは伊澄さんの薄い麻のシャツを引っ張った。

「あっち側にも見るところありますよ」

「えっ? そっちはもう見たじゃん」

 呑気に返す伊澄さん。そして、最悪のタイミングで、

「あれ? もしかしたら紗良ちゃん? こんにちはー」

 透き通って凛とした声。わたしの嫌いなこの声。

 葉月兄貴の彼女、愛さん。腕力なさそうな細腕のくせに、兄貴まで引っ張って連れてきた。

「よお」

 兄貴はわたしに小さく声をかける。家でふんぞり返ってる時よりずっと気まずそう。ラフな赤いTシャツには「武士!」と白い文字が描かれている。朝ご飯の時に見たばかりの格好。そんな格好で彼女さんと江ノ島の水族館にデートだなんて、こっちは思わないじゃん?

「こんにちは。妹さんからお兄さんのお話はよくうかがってます」

 伊澄さんが兄貴に挨拶する。兄貴と愛さんは高校三年生だから、伊澄さんがこの中では一番年上。兄貴は一瞬、鋭い目で伊澄さんをにらむと、すぐに目をそらす。

「紗良ちゃん、お兄さんと少し話してもいい?」

 伊澄さんが穏やかながらも強く言う。何をわたしの兄貴と話すのだろう?

 妹さんに「架空の兄貴」をやらされてますよ、ってクレームつけるの? まさか、ね。

 時々、年上の伊澄さんの行動が読めない。フリーズしてしまったわたしの手を柔らかな手が引っ張る。

「ほら、こっち、クラゲの水槽」

 愛さんが指差した先にしぶしぶ行く。

 愛さんとわたし。大して仲良くもないふたりでクラゲの水槽を見る。なんか。

「すごくシュールなながめですね」

 正直な感想をもらしたわたしに、

「そうねえ。クラゲって癒されるっていう人もいるけれど、わたしもどちらかというと苦手かな」

 クスクスと笑いながら、愛さんは困ったように言った。

 なら、なぜこっちに連れてきたの? 

 わたしのこころの中の疑問に答えるように、

「彼氏さんって、お兄さんとは正反対の人だね」

 愛さんがのんびりとした口調で言った。

 正反対。そうだな。

 わたしがやってるスマホゲームで言うならば。兄貴の属性は「炎」で、職業は「戦士」。対する伊澄さんはやっぱり「水」属性で、本当はすごく強い「魔導師」とかかなあ。つて。

「紗良ちゃん、見て。ミズクラゲの赤ちゃん」

 愛さんの声に我にかえる。

「大人のクラゲと違う。小さくてかわいいね」

「本当ですね」

 愛さんとは気が合わないけれど、その点は気が合った。しばらく、無言でふたり、クラゲの赤ちゃんの水槽を眺めていた。本当に小さくて、透き通っていて。たくさん群れていて。

「これくらいのなら、飼ってもいいんだけどなー」

 愛さんがひとりごとを言うので、ぎくりとする。

「ダメですよ。すぐに大きくなりますし、クラゲなんて飼い方わかりませんし」

 あわあわと言うわたしに、

「ふたり、話し終わったみたいだよ」

 愛さんが耳打ちして、その髪がわたしの肩にふれた。兄貴の彼女さん。この人はわたしにいつも「九月の始めの透き通った陽射し」を思わせる。

 いつかは義理の姉になるかもしれない人。

 遠くで伊澄さんが手を振っていた。


              

6

 水族館に行った日、お風呂上がりのわたしが濡れた髪をタオルで乾かしていると、伊澄さんから着信があった。ウキウキして、ドライヤーより先にスマホをとる。

「はい。わかりました。じゃあ月曜日に横浜のマックで」

 弾んだ声を出すわたしを横目で見ながら、兄貴がコンコンとドアをノックして、わたしの部屋に入ってきた。

「ちょっと、電話中に入ってこないでよ!」

 スマホ通話を切らないまま言ってしまって気づく。恥ずかしい。伊澄さんに丸聞こえじゃない。

「どうかした?」

 とスマホ越しに聞く伊澄さんに、小声で、兄貴が部屋に入ってきて、と言うと、

「それじゃ、兄貴さん、『男の約束』守ってくれたわけだ。俺はもう切るから」

 伊澄さんはどこかクールに言うと、スマホ通話を切ってしまった。

 男の約束、ってなに?

 兄貴をにらみつける。あんたが部屋に入ってきたから、伊澄さんと通話できなかったんじゃない。

「おお。こわ」

 兄貴はブルブルと両手を抱えた。こんな蒸し暑いのに、寒い時の真似。

「ノックしたとは言え許可とらず悪かったよ。クーラーなくて部屋のドア開いてるもんな。家族だし。俺、お前の彼氏に昼間、説教されたんだからな」

 眉をしかめながら、兄貴は部屋の中央にドカンと座る。わたしの部屋の少女漫画本を棚からとって読み始めた。

「ちょっと、なに勝手に触ってんの」

「おー。これ懐かしい。25巻まで出てんだ。10巻から15巻まで借りていい?」

 兄貴は妙にフランクに言うと、漫画本を6冊持って、わたしの部屋を立ち去ってしまった。


「いまの、なに?」


 わたしは伊澄さんに、かくかくしかじか、とメッセージを送る。伊澄さんからもう一度、着信があった。兄貴の話をするんだから、兄貴の隣のこの部屋で話すのはまずい。一階に降りてソファにちょこんと座る。

「リアル兄貴と関係改善、だよ。水族館でお兄さんと少し話した。それ以上は言わない。『男の秘密』だから」

 伊澄さんはどこか余裕ある様子で言った。こういう時、彼が年上なのがうんと悔しい。

「でも、嬉しかったですよ。リアル兄貴との距離、少し縮まったから」

 ポツリと本音がこぼれた。その時、お父さんがお風呂から上がってきたので、わたしはあわてて、

「そろそろ切りますね」と言い、通話を切った。

「年上の彼氏なー。いいねえ」

 お父さんは鼻歌を歌っていて、上機嫌。少しホッとする。

「お母さんも呼んで、お菓子食べないか? 父さん、ポテトチップス欲しいのと、さんぴん茶が飲みたくてな」

 はーい、と答えて、お母さんを呼びにいく。思いついて、兄貴の部屋にも、お菓子食べない? と声をかけてみる。

「俺はいい! 数学の宿題、たくさんあるからなー」

 兄貴は大きながさつな声で言うけれど、その声を「乱暴」だとはもう感じなかった。

               


7

 夏休みになったら、たくさん会えると思ってた。

 江ノ島や七里ヶ浜で夏をエンジョイする気満々だった。美斗や風花から化粧の仕方を習う。お年玉貯金を少し崩して、初めて、口紅、チーク、アイシャドウ、ファンデをそろえた。鏡の中の自分が可愛くなったように感じていた。

 でも。

 夏休み前日にスマホのメッセージを送った時、既読がつかなかった。初めは、なにか忙しくて気づかないのかな、と思ってた。二、三日過ぎてさすがに気になった。一週間が経った。メッセージをいくら送っても、既読さえもつかない。

 ある日の午前中、兄貴がまた部屋に入ってきた。この間貸した漫画本を六冊持って。

「お前、最近悩んでる?」

 わたしは目に涙を浮かべていたと思う。兄貴はわたしの頭をそっと撫でると言った。

「中華街でも行くか。気晴らし」


 食欲なんてないと思ってたのに、いざ中華街に来ると、くるみ饅頭のいい匂い、小籠包の焼ける音。何個か食べ歩きをして、結構お腹いっぱいになる。

 店で一休み。タピオカミルクティーをふたりで飲んだ。

 こんな感じ。そう、小さい時、こんなだった。

 目の前の兄貴を不思議な思いでながめる。距離を作ってたのは、わたし?

「なんか、彼氏がらみで悩んでるならさ、言えよ」

 兄貴はくすぐったそうに笑ってわたしを見てた。

「言わない。大人ですから」

 わたしも笑って、冗談で舌を出す。

 中華街から帰る時、わたしひとりで図書館に寄り道した。

「暗くなる前に帰れよ!」と兄貴は元気よく言い、手を振って通りを曲がっていった。


 図書館を訪れたのは久しぶりだった。こんなに小さかったかな? 館内に入ると、いつも行っていた小説の棚ではなく、ある棚に向かう。

「恋愛エッセイ」「ライトエッセイ」の棚。二十代向けかもしれない本を、パラパラと立ち読みした。

「連絡が来ない時は追いかけない」という一文に目を留めて、ずっとながめていた。

「あら、紗良ちゃん。もう閉館よ」

 図書館の林田さんが声をかけてくれた。お母さんと同じくらいの年齢のこの人にも久しぶりに会った。

「わかりました。この本だけ借りていいですか?」

 恋愛エッセイなんか借りるの恥ずかしいけれど。

 林田さんはフフフと笑って、本の貸し出し手続きをしてくれた。


8

夏休みが始まってから二週間が経った。宿題は全て終わった。自由研究までも。

 暇を持て余していると、お母さんから「夕飯でも手伝う?」と言われた。夕方六時ごろ、一緒にソーメンチャンプルーを作っている時、ジーンズのポケットに入っていたスマホがわずかに振動した。スマホをあわてて見た。顔色を変えるわたしを真剣な目をして見て、お母さんは言った。「あんた、早く電話しなさい」

 お母さんから少し離れて、彼と通話する。

「うん、明日ね。江ノ島の水族館前で」

 

 江ノ島駅から、人混みをうまくかわして水族館の前に行った。前に訪れたのは六月。今日は八月五日だ。伊澄さんは水色の服を着て、こざっぱりした表情で立っている。少し長かった髪も短くしていた。

「ほんと、悪かった」

 会って一番、彼はそう言って頭をこれ以上できないくらいに下げた。

「連絡ができなかったんだ。家の中が荒れてたから。スマホも親に取り上げられてて」

「どうしたんですか?」

 喉がカラカラに渇くのは暑さのせいなんかじゃない。

「聞きます。なんでも。聞きたいです」

「少し歩こうよ。江ノ島の橋、渡りながら話す」

 伊澄さんはわたしの手を自然にとる。わたしも指先を彼の指先と優しくからめた。初めて触れた指先なのに、いつか夢の中でつないだような気がする。現実感がまるでなかった。

 江ノ島の橋を歩くと意外と長い。水族館にはこの間来たけれど、島自体に行くのは初めてだった。

「江ノ島って、龍の伝説なんかもあるんだけど、それは今度ゆっくり。家の話。まず」

 伊澄さんは落ち着いた声でぽつり、ぽつりと話し始めた。

「うちも姉ちゃんがいるんだけれど、若干、こころの病気持ってる。時々、それで家の中に嵐が吹き荒れる時ある」

「そうなんですか」

 耳にした言葉をまだ頭が受け止めきれない。うまく返事ができない。想いを言葉にできない。

「具合悪いと、家族がスマホでメッセージ送ったり、誰かと通話するのも気にさわるみたいなんだ。自分のこと話してるんじゃないかと思うみたいで。それで、夏休み前日、親にスマホを取り上げられた。夏休みは、家で姉ちゃんと、バラエティの録画ばかり見てた。ふたりともバラエティ好きだからさ」

 わたしには想像もつかない世界。彼にとってどれだけ長い二週間だったろう。

「でも、姉ちゃんはちゃんと一般企業に就職して働いてるし。普段は元気なんだよ。落ちる時にずーんとするだけ。会社、十日間休んでたのも今は復帰した。今はもう、ほぼほぼ元気だから」

 伊澄さんは少し強めに言った。そして、ウククッとおさえたように笑ってる。

「俺もシスコンなのかな。もしかしたら。『兄貴を募集します』って紗良の投稿に反応したの、なんでかわかった気がする。似てるよ、俺たち」

 紗良、と呼び捨てされたのは初めて。指先を絡めているのが今更恥ずかしい。さすがに手を離そうとすると、彼はギュッと強く繋いできた。

「ようやく会えた。夢にまで見たんだし、離さないよ。もう、妹なんかじゃない。こっちも大事な秘密話したんだ。ずっと『彼女』だからね」

 さざ波のように穏やかな彼らしくもない、灼熱のような言葉。その強さとせつなさにじんわりと目頭が熱くなる。


 初めて上陸した江ノ島。売店で買ったいちご味のかき氷を、島の入口に設置された屋外テーブルで食べた。舌先がキーンとして冷えていく。

「俺にもいちご、くれる? シェアしよ」

 伊澄さんが自然に言って、自分のメロンかき氷をこっちにくれた。

「初めてパンケーキ食べた時、シェアできませんでしたもんね」

「そうー。よく食べる子だな、って半ば呆れて見てた」

 彼はようやく穏やかな目に戻って、すぐそこに広がる海の波を笑いながら眺めていた。






 









 






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波音に溶けていく気持ち 別稿 瑞葉 @mizuha1208mizu_iro

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