幽霊作家は、書店で誘拐と。(下)

 俺はいま友が運転する車の後部座席に座っていて、助手席には『キッドナップ(下)』が座っている。女三人、気ままな旅と他者の目には映るかもしれないが、当人たち的に言うなら、のんびり感はゼロだ。


 いや唯一、『キッドナップ(下)』はどこかのんびりした雰囲気だ。

「私なら、弟の場所が分かるかもしれない」


 俺の背後にいきなり現れた『キッドナップ(下)』は、そう言った。島さんから内容について聞いた話だと、『キッドナップ』の作中でも誘拐者の弟と、堕ちた弟に怒りを覚えながらも、彼の身を案じる姉が登場する。主役という概念が曖昧なこの作品において、メインの人物と言っていいだろう。そのふたりが人間として形を成したのが、『キッドナップ(上)(下)』だ。


「大丈夫。あなたのお父さんに危害を加えることはないから。何かが起こらない限りは」

 彼女は自分の言葉に、強い自信を持っているようだった。


 実際のところ、俺と友は、『キッドナップ(上)』のことを何も知らないし、親父がいまどうなっているのかも分からない。マイペースな彼女の様子に軽い怒りを覚えないわけでもないが、彼女に怒っても、どうしようもない。それに、大丈夫、と力強く言ってくれるのであれば信じたい。『何かが起こらない限り』というのは、不穏だが。


「何故、弟さんはこんなことをしたんだと思います」

 彼女にそう聞いたのは、友だ。ふたりの雰囲気はどこか似ている。


「作家の呪縛、というありもないものに縛られているの、弟は」

「呪縛、ですか」

「私たちを描いた作家について、あなたたちはどこまで知っている?」

 と彼女が言ったので、俺は島さんから聞いたことを話す。その間、友の運転する車は海沿いの県道を駆けている。カーナビには、『キッドナップ(下)』が地図上に指で指し示した付近の住所が登録されていて、案内の無機質な声が行くべき方向を伝えている。


「そこまで知っているなら、話は早い。弟は結局ね。縛られているのよ。彼の憎しみ、悲しみ、怒り、は作品までもが一緒に背負うべき、って考えているのよ」

「だから親父を誘拐したのですか」

「たぶん、ね。そろそろ近くなってきた。あっ、そこは右」カーナビの指示は終わり、方向を指し示すのが、『キッドナップ(下)』の言葉に変わった。「次、ふたつの先の信号を左、かな」

 なんで娑婆に出てきたばかりの彼女が、こんなにも場所を熟知しているのだろう。そんな俺の疑問が顔に出ていたのか、彼女が言った。


「作者の記憶があり、憎しみ、怒り、を知っているのは、別に弟だけじゃなくて、私にもあるの。ただ私が縛られていないだけで。だってとても馬鹿げたことだから」

「馬鹿げた、ですか」

 すこし意外だった。いやそういう考えのほうが、もちろん恨みには繋がらないのだから、良いには決まっている。ただその部分を抜きにして考えるなら、作者の心が生み出した作品なのだから、その作者のすべての感情まで背負おうとする『キッドナップ(上)』の気持ちのほうが、どこかしっくりと来るものがあったからだ。


「えぇ、だってたまたま生みの親だったから、って、その操り人形になる必要なんてないでしょ」

「それは、そうですが」

「あ、ここからはずっと真っすぐ。右手に赤茶けた平屋が見えてくるはずだから、そこでストップ。作者と作品は別、って言葉、あるでしょ。あの通り。作品だって、作者から切り離されたい、って思ったりするものよ。すくなくとも私は。そしてたぶん弟も、心の底ではそう思っているはずじゃないかな」


『俺に自由をよこせ』

 彼の脅迫状の言葉がよみがえる。


「自由を……」

「そう作者から切り離された世界で生きたい、と願いながら、縛られた心がそれを拒み続けている。弟は、あなたのお父さんに止めて欲しくて、今回の行為に及んだ、って私は思ってるの」

 友が車を停車する。


 友には車で待っていてもらうことにして、俺と『キッドナップ(下)』のふたりで行くことにした。古びた平屋だ。


「ここは」

「深海新涼の生家で、いまは空き家になっている。取り壊されることもなく、残ってしまった、ただの」


 どうせ出てくることもないだろう、と時代がかった呼び鈴を鳴らしてみる。

 すこし待つと、玄関のドアが開く音をして、『キッドナップ(上)』か、と思わず身構えた。


 だけど出てきたのは、親父だった。

 顔を真っ赤に腫らした。


「よぉ、遅かったな」

 と親父が笑い、俺は呆気に取られてしまった。そして『キッドナップ(下)』と一緒に家に入ると、そこには俺よりすこし年上くらいの、若い青年がいた。このひとが『キッドナップ(上)』だろうか。


 彼も、顔を腫らしていた。


「どういうことだよ、親父」

「いや、お互いに言葉で語り合うより、拳で語り合うほうが早いかな、と思って。殴り合った先でしか分かりえない友情、ってのがあるんだよ。もう仲良しだ」

「何、やってんだ。年齢を考えろ」

「これでも空手やってたの、優は知ってるだろ」

「知ってるけど、やっていたうえに弱いのも知ってるよ」

 言葉ではなく拳で、って本当に作家と元小説のやり取りかよ。


『キッドナップ(上)』が、親父とそんなやり取りをする俺の前に立ち、頭を下げる。

「すみませんでした。ご迷惑をお掛けして」

「いや……親父が良いというなら、俺は別に」

「本当にすみません……」そう言って彼は、次は姉に向き直る。「姉ちゃんも……。ごめん」

「最初から自由だった、って気付けた?」

「うん。これから旅に出よう、と思う。もう作者は関係なく、自分だけの生を辿るために」

「そっか。じゃあ、私も一緒に行こうかな」

 俺の知らないところで話が進んでいく。それはちょっと寂しくもあるが、彼らの物語において、俺は脇役でしかないのだから。誰も悪者にならない結末になってくれるのが、一番だ。


『キッドナップ』のふたりと別れて、俺と親父は車に乗る。いまは親父が運転していて、友は疲れか、俺の横で眠っている。

「なぁ、親父」

「んっ」

「親父、ってむかし、『キッドナップ』を酷評した、って聞いたんだけど、それって深海新涼を恨んでいたから?」

「何を言ってるんだ。そんなわけないだろ」と、親父が笑った。「俺は、どちらかと言えば、深海くんの作品も、『キッドナップ』も好きだ。好きだからこそ、作品を読んで、引っ掛かりを覚えたところが許せなくて、な。確かに彼とは多少人間関係のトラブルはあったが、作品と作者は別だ。それが読者の心構え、ってやつだ」


 親父の言葉に、俺は安心した。

 そして気付けば、眠りに落ちていた。

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物語られる、S書店の物語たちは。 サトウ・レン @ryose

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