幽霊作家は、書店で誘拐と。(上)
『キッドナップ(上)』が店頭から消えたことに気付いたのは、親父が誘拐された後のことだった。
親父はすでに知っていたはずだ。何故、言わなかったのだろう。大抵のことは鷹揚に構えているバイトの友も、いまは緊張した表情を浮かべている。
俺たちが失われた『キッドナップ』の片割れの存在に気付いたきっかけは、一通の封書だった。郵便配達のひとが持ってきたくれたそれは、差出人不明で、首を傾げつつ、カッターで封筒の口を切り、紙を取り出すと、
『お前の父親は、預かった。返して欲しくば、俺に自由をよこせ』
と記されていた。記されていた、という表現はあまり適切ではない気もする。古いドラマでしか見たことのない手法が使われていたからだ。新聞記事の文字を切り貼りしてつくられた歪な脅迫状だ。
「なぁ、こんな脅迫状を書きそうな『本』、うちにあるか?」
と俺は友に聞く。
その時点では、必ずしも誘拐犯が、内部犯行……つまり、うちの書店で起こる不思議な現象、人間化された物語たちの仕業だ、と考えていたわけではなかった。可能性は大きい、と思っていたが、親父はそこそこ名の知れた作家でもあった。いまでは俺が親父の筆名を引き継いで
とはいえ、いまの時代、文明の利器も使わず、新聞記事を切り抜いた脅迫状なんて、現代人の仕業とは思いにくい。
友も思い付くタイトルはなかったようで、一日中、書店内を歩き回ってくれたが、結局分からなかった。同時並行で、俺は島さんにも連絡を取っていて、島さんに連絡した二日後、島さんが心当たりのある一冊を挙げてくれた。
それが『キッドナップ』だった。
俺と友が本棚を確認すると、確かに『キッドナップ(上)』が棚から消えていて、下巻のみになっていた。
「分冊された本の片割れがない、ってなんだか気持ち悪いな」
俺のそんな言葉を無視して、友が『キッドナップ(下)』を本棚から抜き出す。
「ねぇどんな話か知ってる?」
俺自身は読んだことはなかったのだが、島さんが作品について知っていた。九十年代前半にデビューしたミステリ作家の三作目にあたるらしい。誘拐した者と誘拐された者の奇妙な友情を描いた作品でもあり、もうすでに鬼籍に入ったこの作者の代表作のひとつでもある。
「なんで島さんは、この作品を優のお父さんと関連付けたの」
と友に聞かれて、俺は頷く。俺も同じ疑問を抱いて、電話で連絡を取り合った時、島さんに聞いたのだ。なんで『キッドナップ』が親父と関わりがある、と思ったのですか、と。すると島さんは明らかに言いよどんだ。電話越しにも分かるほどに。俺が言葉を待っていると、島さんは覚悟を決めたように教えてくれた。『キッドナップ』の作者のことを。
『妬みと嫉みで生きていた作家のようですよ。私と彼の関係で言うのは、どうかな、という気もしますが』
担当した編集者は、深海から同時期にデビューした作家、あるいは嫌いな先輩作家、そして才能のある作家に対する愚痴を延々と聞かされるらしい。
『大抵の編集者なら、作者と作品は別だ、と本能的に、そして体験として知っているものですが、それでもヒューマニズムに寄りかかった作風に反した人間性に、驚く人間は多かったそうです』
と島さんは言っていた。
「優のお父さんは、深海さんの嫉妬の対象だった、ってこと」
「嫉妬もあったし、それだけでもなかった、と思う」
「どういうこと?」
「親父は深海さんの作品、特に『キッドナップ』を強く批判したことがあるそうだ。原文を見ていないから分からないけど、島さんの言葉を聞く限り、相当なものだったらしい」
「ふーん、ちょっと意外」
「親父はああ見えて感情的になりやすい性格だから、もしかしたら深海さんの評判を聞いて、親父自身も感情的に……まぁこれは親父に聞かないと分からないことだけど」
「そうだね」
「で、深海さんはもう死んでいるわけだけど、自殺だそうだ。『世間の無理解に苦しむ。俺は死ぬ』なんて書き残していた、って聞いてる」
「もしかして原因が」
「……いや親父の件から日も経っていたし、ただひとりを憎んでの自殺ではないんじゃないか、というのが、島さんの推測だ」
そうであって欲しい、という願いも言葉に含まれているようには感じたが。
俺は手に持っていた、脅迫状に目を落とす。
『お前の父親は、預かった。返して欲しくば、俺に自由をよこせ』
呪縛という言葉が浮かぶ。『キッドナップ(上)』にとって、自由とは何を意味するのだろうか。作家の恨みが、『キッドナップ(上)』に憑き、そして親父に何かをしようと企んでいるのだろうか。
預かった、と表現されているからには返すつもりはあるのだろう。
だけど返すためにどうすればいいのかは、まったく分からない。自由になりたいのなら、勝手に自由にでもなればいい、と思う。俺も、たぶん親父も、別に阻んだりはしない。
二階の休憩室に戻った俺は、スマホから『キッドナップ(上)』を購入して、読もう、と思った。何かヒントがあるかもしれない、と。いつも思うが、できれば紙の書籍で読みたい。これは好きか嫌いかの話ではなく、慣れ、の話だ。慣れればたぶん紙でなくても問題ないと考えている自分もいるのだが、慣れるまでが億劫だから、自然と紙のほうを選ぶことになる。
最初の十ページほどを読んで、柔らかく穏やかな筆致だな、という印象だった。
「文は人なり、なんて言うのになぁ」
と俺が返ってくるとも思わずつぶやいた独り言に、
「そういう言葉はあまり信じないほうがいいですよ」
と知らない女の声が返ってきた。
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