幽霊作家は、書店でキューピッドと。

「話しかけてみたら」

 と無邪気な表情を浮かべた少女が言った。


 この子は、『愛の射手』だ。作品同様、恋のキューピッドになりたくて仕方ないらしい。この書店に棲む書物たちは、何故か人間に変身する。人間になった物語たちは大抵、こんな寂れた書店に留まるのを嫌って、店の外に出て、飽きると戻ってくる、という場合が多いが、『愛の射手』はS書店に入り浸っている。


「優は奥手だから仕方ないよ。いーちゃん」

 友が、『愛の射手』に言った。

 バイトの友と『愛の射手』はもう仲良しになっていて、友はよく彼女を、いーちゃん、と呼んでいる。


「ふーん、つまんない」

「俺は、きみの願望を満足させるために生きてるんじゃないんだぞ」


『愛の射手』も最初からS書店に入り浸っていたわけではない。書物からひとの姿になってすぐは、街中に出ていて、自分の目的を達成させようとしたがうまくいかず、拗ねてうちに戻ってきたのだ。


『愛の射手』は〈恋のキューピッド〉をテーマにした恋愛小説だ。実は読んだことがない。内容は、友から教えてもらった。学園のアイドルのような男性に憧れる、地味で目立たない女子高生が、〈恋のキューピッド〉を名乗る少女の助力を得て、彼との恋の成就を目指す。そんな導入なのだが、途中で、自分と同じく冴えない雰囲気の男子高生の意外な一面、魅力を知って、そっちの男の子に惹かれていく、という展開に変わっていくらしい。三十年以上前に書かれた青春小説だ。当時は中高生をメイン層にして、結構売れたそうだ。作者もイケメンで何度かコメンテーターとしてテレビ番組に出演しているのを見たことがある。


 そしてこの作品における〈恋のキューピッド〉のキャラクターが、いまの『愛の射手』だ。だから厳密に言えば、彼女を、人間化した、という表現するのは正しくないのかもしれない。ただ友いわく、人間の可能性も作中で示唆されている、ということだから、間違いとも言い切れない。まぁなので、俺は彼女を、人間化した書物と捉えている。


 そしてそんな彼女の、恋を成就させたい人間が、俺なわけだ。困ったことに。望まぬ人間の願いを叶えたいなど、なんと傲慢な神だろうか。いや人間だったか。まぁいいや。


「ねぇ、ほらほら。話しかけなよ」

 と『愛の射手』が俺に耳打ちをする。俺にそう言いながら、視線は彼のほうを向いている。最近よくうちの店に訪れる若い男性客だ。


 なんか見覚えあるな。うちの店を訪れた彼を、最初に見た時の第一印象だ。

 思い出したのは彼が帰った後で、俺がよく行くコンビニで働く店員さんだ。最近はあまり見掛けないので、もう辞めているのかもしれない。


「っていうか、なんで俺が彼を好きって思うんだよ」

「なんとなく分かるよ」

「たいして俺のこと、知りもしないのに」

「でも優のことに詳しい友ちゃんも、優のタイプだと思う、って言ってたよ」


『愛の射手』は同じ呼び名の俺たちを呼び分けるために、友のほうを、ちゃん付けで呼んでいる。

 しかし……友のやつめ。


「俺のことはいいから。外にでも行って、誰か適当なやつを結ばせてきなよ」

「えぇ、やっぱり、つまんない」

 と言いながら、『愛の射手』は外に出て行く。


 そして『愛の射手』が店を出てすぐ、彼が友の立つレジに一冊の本を持っていく。遠目に表紙が見える。国産ハードボイルドの古典だ。レイモンド・チャンドラーの影響の濃い作風で、どうも俺の肌には合わなかったが、親父の好きな作家だ。


 いまでも気になっていることがあるのだが、この店内の本が買われた先で人間化することはあるのだろうか。いまのところその事例は見たことも聞いたこともないけれど、この書店の場自体が変化を促す不思議な力を持っているのだとしたら起こらないはずだ。


「あ、」と本を買って帰ろうとする彼を呼び止めてみようとして、俺はやめた。『愛の射手』が考えているような恋愛感情に起因するものではなく、ただの興味だ。いまの時代、本好きはすくない。同好の士を見つけた喜びから来るものだ。そうに決まってる。


 夜、『愛の射手』が嬉しそうな表情を浮かべて、帰ってきた。

 休憩室の円卓に座って、俺は彼女の話を聞く。


 どうやら近くの公園で恋に思い悩む中学生の背中を押して、その恋が成就したみたいだ。恋のキューピッドができて満足したらしく、

「じゃあ私は還るね。優も頑張れ」

 と自分勝手に書物の姿に還っていった。友が悲しむぞ、と思ったが、友なら本の形のままでも、きっと『愛の射手』を同じように愛するだろう。どちらかと言うと、俺のほうが悲しんでいる。誰にも言わないけど。


 翌日、本棚に差し込みに行くと、彼がちょうどその本棚の前にいた。


「失礼します」

 と普段ならわざわざお客さんをどかしたりするようなことは言わない。下心もあっての言葉だ。


「いえいえ。あっ、その本」

「知ってるんですか?」

「変な話かもしれませんが、きょう夢に出てきたんです。さらに変なことを言うかもしれませんが、あなたと一緒に。……あの、前からこの書店で見掛けるたびに思ってたんですが、僕の働くコンビニによく来てますよね」

 俺は思わず笑ってしまった。


「はい、そうです。よく行ってます。最近見掛けないですけど、やめたんですか」

「いえ、働くのは深夜だけになったんです」

 それから彼とは定期的に、話すようになった。彼は大学院生で、年齢的には俺とほぼ同世代だ。小説が好きで、実はこっそり小説家を目指しているらしい。周りにはほとんど伝えていない、と言っていたけれど、そうか俺には伝えてくれるわけだ。

 ちなみに彼の名前は、西沢圭一にしざわけいいちくんだ。


 きょうは彼と映画を観に行くことになっている。デ、デートじゃないぞ。断じて違う。俺は共通の趣味の仲の良い友人と映画に行くだけだ。


「好きなんでしょ。認めなよ」

 と外出を前に、友が俺に言った。


「ち、違うし」

「じゃあ彼のこと、どう思ってる」

「嫌いじゃない」

「私の付き合いの長さを舐めてるの。優の『嫌いじゃない』は」

「ストップ。もう行くから」


 俺は駆けるように店を出ると、すれ違いに親父が帰ってきて、「おっ頑張ってこいよ。デート」と言った。

 親父には何も言ってなかったのに、友のやつ。

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