幽霊作家は、書店で悪夢と。

「獏が食うのは、その夢ではないですよ」と俺が答えると、島さんは静かに笑った。いつ見ても、本当に紳士な雰囲気を崩さないひとだ。


「もちろん知ってますよ」

 俺は文芸書を中心に出版するT書房に来ていた。中堅の出版社で、俺の書いた作品を出してくれるメインの出版社でもある。というか、T書房以外で本を出したことは、いまのところ一度もない。ここの編集者の島さんとは、親父に紹介されてから、数年来の付き合いになる。元は別の大手出版社で親父とコンビを組んでいたらしい。小説の書き方なんて何も分からない俺に、色々と教えてくれたのも彼だ。俺よりずっと年上なのだが、同じ目線で話してくれるひとだ。


「でも『獏』が食うのは、その夢なんです」

 人間が睡眠時に見る夢を食う獏ではなく、人間の持つ、特に創作志望者の夢や希望を食らう存在がいる。もちろん創作上での話なのだが、いつも通りウチの書店から逃げ出した奴がいるせいで、それは現実のものとなってしまった。


「一部のウェブの創作サイトで、ちょっとした都市伝説になってますよ。お父様は、どのように言ってるんですか」

 島さんが苦笑いを浮かべる。もちろん島さんもS書店で起こる不思議な現象のことは知っている。


「別に害があるわけでもない。放っておけばいい、って。飽きたら、そのうち戻ってくるさ、なんて言ってましたよ」

「あのひとらしいですね」

「島さんは、『獏』を読んだことあるんですか」

「もちろんありますよ。だって私が担当した作品ですから」


 さらりとすごいことを言うので、俺は思わず椅子をすこし引いてしまった。『獏』を描いた作家は、五十年くらい前に最盛期を迎えた作家で、もう十年近く前に鬼籍に入ってしまったが、生きていれば九十歳近い年齢だ。『獏』は比較的、後年の作品だが、それにしても、である。


「島さん、何歳なんですか?」

「男の年齢を聞くのはNGですよ」

 と人差し指を唇に当てる。それは俺がはじめて島さんと会った時、年齢を聞いてきた島さんに対する俺の行動を真似たものだ。『女の年齢を聞くのはNGですよ』と。


「似合わないですよ」

「ちょっと恥ずかしかったです。……と、まぁ冗談はこれくらいにして、『獏』は、私が二十代の頃に担当した作品です。自分の人生最良の短編を書いた、と先生が言って雑誌に掲載した『獏』と数本の短編をまとめて書籍化したものです」

「どんな作品なんですか」

「読んでいないんですね。優さん、あなたもいまは短編が中心の作家なのですから、是非、勉強のためにも一読をお薦めします。あの短編は、SFやファンタジー系統の短編の教科書とも言うべき作品です」


 島さんは、嘘で作品を褒めるひとではない。掛け値なしの評価だ。俺はまだ一度も褒めてもらったことがないので、彼に褒めてもらうことも目標のひとつだ。誰よりも彼の言葉が欲しい。

 父親の幽霊を背負った作家である俺に、奇異な目を向けず、真摯に向き合ってくれたひとだから。


 だけど親父にしても島さんにしても、いつも以上に深刻さを感じないな。


 俺は駅近くの書店に寄って、『獏』を買って、帰ることにした。自宅兼書店のウチにはもう置いてないからだ。

 俺はベッドに寝転がって、表題作を読む。五十ページくらいだ。大した分量ではなく、寝る前に読み終えた。創作志望者のもとに現れ、才能の無さを糾弾する美貌の男の噂を聞いた同じく創作志望者の青年が、その都市伝説のような獏と出会い、プロ作家の夢を食われて一度は挫折してしまうが、再起して、もう一度、夢を追い掛ける、というストーリーだ。再起してからの獏が、主人公の応援者になっているのが興味深い。


 ふたりがあまり深刻じゃなかった理由が分かる気がした。


『咲いた花は嫉妬を知らない』の時のようにひとが死ぬような物語ではないし、場合によっては福の神にもなる存在なわけだから、親父の言うように害はあまり感じられない。


 安心して俺が寝ようとした時、声がした。


「ただいま」

 と人懐っこい笑みを浮かべた男を、俺ははじめて見る。だけどそれがウチの書店から姿を消した『獏』だ、とすぐに分かった。俺が小説を読みながら映像化した獏の姿と瓜二つだったからだ。


「おかえり。夢は美味しかったですか?」

「いや、たいして食えなかった。食い足りない夢ばかり持つ奴が多かったから」

「夢との向き合い方なんてひとそれぞれでしょう」

「まぁそうなんだが、な。せっかくだし、きみも食われてみないか、俺に」

「女性に伝える言葉ではないですね」

「そういう意味じゃない」

「もちろん分かってます。でも俺の夢なら勝手に食ってもらっても構いませんよ。なりたくてなったわけでもないですから」

「いや、やめとこう」


「なんで、ですか」

「俺は悪い夢しか食わないんだ。あんたは自覚がないみたいだが」

 そう言うと、彼は書物に還っていく。俺の部屋に、『獏』はふたつになった。明日の朝、彼を本棚に差し込みに行こう。きょうはもう眠い。


 俺はその日、夢を見た。

 俺と島さんが向かい合わせに座っていて、俺の書いた小説を褒めてくれる夢だ。もちろんただの夢で、実際の島さんはたぶんこんな褒め方しないだろう。でもいつかこんな来たらいいなぁ、と思える夢だ。


 翌朝、俺はまた新たな小説の一行目を紡ぎはじめた。その時、気付いた。すこしずつ創作に対する自分の心境が変化していることに。

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