幽霊作家は、書店で愛の終わりと

 五十代の中年作家が殺された、というニュースがテレビに流れた時、思わず俺と親父は顔を見合わせた。


 互いの目が、『咲いた花は嫉妬を知らない』の仕業だ、と語っていた。


 バイトの友人にレジは任せて、二階の休憩室で円卓の机をひとつ挟んで座り、俺と親父は今後の話をすることにした。一階から、「いらっしゃいませ」と元気の良い声が聞こえる。同性の友人でもある彼女は、休みの日でも大体うちに入り浸っている。嫌にならないのだろうか、と思うが、本人は、「本に囲まれた空気を身に受けていないと、私、生きていけないから」と笑う。その言葉に甘えて、こうやって彼女に店のすべてを放り投げる俺たちも俺たちだが。S書店は彼女がいないと、どうにもならない。


 この書店に置かれた本は、何故か定期的に人間になる。いわゆるカフカの『変身』の反対の現象が起こる。


 理由は知らない。とにかく起こってしまうのだから、仕方ない。

 ついこの間も、人間になった『堕落』が姿を消して、棚は欠品状態になったままだ。人間になるとその本は消え、彼らが自ら望まない限り、書物に還ることはない。新しく入荷しないのか、と問うと、

「いつか戻ってくるだろ」

 なんて言葉が返ってきた。


『咲いた花は嫉妬を知らない』が消えたのは五日前のことだ。ちいさな本屋とは言え、すぐに失われた本の存在に気付く親父は、本当にすごいと思う。


「まるで物語を真似たような結末だな」

「戻ってくるかな。彼女は」

「お腹でも空いたら、そのうち戻ってくるさ」

 親父の言葉通りだったのかは分からないが、一週間後、『咲いた花は嫉妬を知らない』は俺たちのもとへ帰ってきた。


「ささやかな愛の終わりを見てきた」

 と言って。二階に招く。ちょうど親父不在の時間、俺と彼女はふたりきりだ。あまい香りが鼻腔をくすぐり、俺は思わず緊張する。俺は別に普段から同性に心を動かされる人間ではないが、こんなにも妖艶な雰囲気の女性に見つめられれば、どうしても心は普段通りではなくなる。


「それはあなたの作者のことですか」

 気を取り直して、俺は言った。親父の名を借りた幽霊作家ゴーストライターとはいえ、いまこの状況を文章にして切り取るのは、俺の役目なのだから。


 殺された五十代の作家は、『咲いた花は嫉妬を知らない』の作者であり、ベストセラーを何冊も持つ名の知れた作家だ。『咲いた花は嫉妬を知らない』は彼の代表作であり、日本でもっとも有名な文学賞を受賞した作品だ。


「えぇとても残念ながら」

「残念?」

「私には、書物の中で生きていた頃からの記憶があるの」

 胎児の頃の記憶がある、という言葉を思わせる表現だ。


「どんな記憶なんですか?」

「私を創った神は、どんな姿をしているんだろう、ってずっと考えていた。まるで恋焦がれる少女のように」


『咲いた花は嫉妬を知らない』は好きになった男性の浮気に嫉妬した女性が、男性を刺し殺そうとして未遂に終わり、破滅していく様を描いた作品で、救いのない結末が話題を呼んで、俺の子ども時代に、映画化もしている。


「どうでしたか?」

 彼女の表情にかすかに怒りが帯びる。


「ねぇなんで私、彼を殺した、と思う?」

「奥さんがいたからですか」

「愛憎が動機だったのは、物語だけの話」彼女がちいさく息を吐く。「それだったらどんなに良かったか。私が殺した理由は、憧れ続けた作家が幸せそうな顔をしただけの醜いおっさんだったから。ずっと想い続けてきたイメージが壊れた瞬間、私は気付けば刺してた。彼を。本当に恋愛のもつれなら、どれだけ良かったか」


 哀しみを宿した瞳を、俺は心底、美しい、と思った。殺された彼女の創作者は、美しい比喩と描写で知られた作家だった。その美しさを言葉に込める心が、彼自身を死に追いやったのだろうか。それならば、哀れだと思うと同時に、すこしだけ羨ましい、と思った。


「書物に還りますか」

「えぇ、人間の世界に思い残すことなど、何もないから」


 俺は一階に行くと、棚に『咲いた花は嫉妬を知らない』を差し込んだ。バイトの友人が俺の隣に来て、「終わった?」と聞く。

「あぁ、一応」

 と俺は彼女に結末を話す。そして試しに、「彼女の気持ち、分かる?」と聞いてみた。


「ある程度は。でも、それが殺意にいたる感情になることまでは理解できない」

「そんなもんか」

「私にも似た経験があるから」と笑う。「恋愛感情とは違う愛の形が、崩れる瞬間、っていうのがあってね」

「違う愛?」

「最近の言葉だと、推しへの愛、っていうのかな。恋愛との境界は曖昧だけど、でも時にその愛の崩壊は、恋愛のそれよりも怖かったりするの」

「友に、そんなひとが」


 友、という言葉を俺は、友人、という意味で使ったわけではない。彼女の名前が、ゆう、なのだ。優という名前の俺と、漢字違いで、そして同じ呼び方だ。


「私の場合は別に崩れてないけど、ね。ただ仮にそうだったら、って考えてみただけ。いつか機会があれば教えるよ」

 そう言って、彼女は『咲いた花は嫉妬を知らない』の背表紙を撫でた。愛おしそうに、そしてすこしの共感を込めるように。


 店の入り口のドアを開ける音が聞こえて、俺と友は条件反射的に「いらっしゃいませ」と言ったが、親父が帰ってきただけだった。

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