物語られる、S書店の物語たちは。

サトウ・レン

幽霊作家は、書店で堕落と。

『堕落』と男は名乗った。親父が営む本屋から、『堕落』が消えた三日後のことだ。

 親父はいつものように驚きもせず、『堕落』を二階の休憩室兼茶の間まで招いて、今は俺と親父と、男の三人が、古めかしい時代錯誤の円卓を囲んでいる。お茶をひと口含んで、親父が、


「どこへ行ってた」と聞く。


「女が死んだ場所に」と男が笑う。「そして俺が死ねなかった場所だ」その笑みには陰がある。

 最初は慣れなかった光景も、今では日常のような光景だ。一階から、「ありがとうございました」と元気のいい声が聞こえる。親父が離れる時、店番をするのは、俺の友人だ。ちなみに女だ。そして美人だ。一緒に暮らしたこともあるが、それを聞いた第三者に、恋愛感情があったのでは、と想像されるとひどく億劫になる。そんなものはない。


 寂れた商店街に根強く残る、趣味の権化のようなS書店で親父と俺は暮らしている。自宅も兼ねた小さな本屋だ。潰れる時は親父が死ぬか飽きた時のどちらか、というわりに、結構客は入っている。親父の本業は文筆業で、それなりに名が知られている。世間的に、という意味ではなく、その界隈では、と表現したほうが適切だろう。なのでまぁ親父のネームバリューで訪れる客だ。


 だけど本屋と文筆業、どちらが本業か、もう分かったものではない。

 何年も親父は文章を書いていない。


 今は俺が書いている。親父の筆名を使って。

 隠す気もない、公然の秘密だ。文体も何もかもが違うのだから。

 幽霊作家ゴーストライターの俺は。


ゆう、お前、書く気ないか。物語」

 と親父が言ったのは二年前の冬だ。優は、俺の名だ。文章なんて書けない、と言う俺に、なぁにこれから起きることをそのまま書けばいい、と親父は笑ったのだ。そして離れて暮らしていた俺は、親父のいる本屋に呼び寄せられ、そこのバイトには昔からの友人までいたのだから、驚きの連続だった。だけど何よりも驚いたのは、今の『堕落』が目の前にいるようなこの不可思議な状況を、はじめて見た時のことだ。


 一冊の本が、人間の姿に変身する。カフカの不条理世界が眼前にあったわけだ。


「愛するひとには会えたか」と親父が『堕落』に聞く。

「会えるわけがないだろう。そして、さては読んでないな。俺を」と『堕落』がまた笑う。やはりその笑みには陰があり、女たちはその姿に惹きつけられるのだろう。


「読んださ。すくなくとも五回は。俺には、お前が、妻よりも彼女を愛しているように見えた」

「だとしたら、あんたは何も読めていない」


『堕落』は坂口だの太宰だの、がいた時代の作家が書いたもので、一般的な知名度は低い。桂園社けいえんしゃ文庫で絶版もせずに生き残ってはいるが、わざわざ店舗型の書店で棚に差している書店は日本広しといえども、ウチくらいだろう。俺も一応内容は知っている。親父から聞かされる形で。


 妻子持ちの男が雨の日に、死のちらつく少女と出会い、恋愛感情も持たないまま一緒に死のうとして、男だけが生き延びてしまう話だ。


「なら、なぜきみは」親父が言葉を一度切るように、息を吐く。「彼女の死んだ場所に行った」


『堕落』は理由について何も答えなかった。


 ただ一言、

「嗚呼しかし、時代の移り変わり、というのは、酷だな」

 とだけつぶやいた。あとで親父から聞いたのだが、ふたりが飛び込んだ川は暗渠になってしまって、見ることも叶わないらしい。


「どうする。書物に還るか」

「いや、もうすこしこのままでいよう。大丈夫。そのうち戻ってくるさ」


 俺は玄関口まで、『堕落』を見送ることにした。

 その途端、雨が降り出した。


「雨が、降ってきましたね」

「死ぬには、ちょうどいい日だな」

 冗談めかした表情だが、冗談ではないと思える険がある。


「やめてください」

「あんたは死にたい、と思ったことはないのか」

「俺は、……一度もありません」

「一度もない人間の表情じゃないな。どうだ一緒に行くか。どこかの川まで」

「お断りします」

「そうか……まぁ俺もきみみたいな女は好みじゃない。特に男性性を強調する女は」

「大変失礼ですよ」

「これも時代の違い、ということで許してくれ」

 勝手な男だ。こういうところが、好かれて、嫌われるのだろう。


 雨が強まる中、傘も差さないその背中を見ながら、

 もうこの『堕落』が、書物の器に収まることはない、と思った。

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