第17話 終章

 ざぶりざぶりと、青い波が寄せては返す。

 一説には竜宮由来とも伝わる、めでたくも優美な舞いは、居並ぶ多くの者達の心を打った。

 紅葉賀もみじのが試楽しがく共々成功裏せいこうりに終わり、中でも頭中将と源氏の中将による青海波せいがいはことほか見事であったと、後の世までの語り草となったのは、誰しもが知るところだろう。源氏の中将の舞いの素晴らしさは言うに及ばず、迷いの吹っ切れた頭中将もまた、光る源氏の君と唯一肩を並べるに相応しい迫力よ美しさよと、これ以上ない賛辞を受けた。彼が師と仰ぐ壮年貴族も同様にたたえられたが、気迫の舞いには、あの女田楽でんがく舞女まいひめに感銘を受けたことも無関係ではあるまい。本来持っていた実力と自信。これに、余人よじんの評価に惑わされぬ気迫と強さが加わったことで、頭中将の舞いは完成をみたと言える。

 一の院も帝も大層お喜びになり、この直後、源氏の中将は正三位、頭中将は正四位下の位を賜った。

 その裏で、複雑に織りなされた人間模様に関しては、頭中将のあずかり知らぬこととして。



 磨き上げられた鏡のように澄み切った池の面を、初冬の冷気を孕んだ風が吹き抜けていく。

 波紋の行く先を追うともなしに辿れば、数羽の雀が、花の落ちた木槿むくげの木に遊ぶ様子に行き当たった。

 ――桓武かんむみかどが望まれた通り、世は今日も、たいらかであり安らかだ。

 大役を期待以上の出来栄えで果たし、上機嫌の頭中将は、ゆっくりと杯を傾けた。傍らにはいつものように、紫苑しおんが控えている。当初は使用人を釣殿つりどのにまで上げることを快く思っていなかったらしい四の君も、紫苑の行儀の良さや素直さにほだされて来たようで、最近では小言の一つさえなくなった。これは良い傾向だと頭中将は考えている。父親がいずれかの貴族であることを抜きにしても、紫苑の生まれ持った能力は、在野に埋もれさせておくにはあまりに惜しい。貴人にはべるに足る技能を身に着けさせるには、傍に置いておくのが最善の手段だ。妻の理解が得られたのなら、話は早い。

 その紫苑はというと、何とはなし物憂げな表情で、溜め息をついた。

「――結局、全部あの人の逆恨みってことですよね」

 あの人というのは、橘恒泉たちばなのつねみのことだろう。先程まで、父の橘実泉さねみが改めての謝罪に訪れていた。紅葉賀が無事終わるのを待ってのことだったが、頭中将だけでなく、紫苑にまで丁重に詫びていったのは、まさに傑物けつぶつたる所以ゆえんだろう。息子にその心根が伝わらなかったことが惜しまれる。

「己の評価に固執こしつするあまり、道を誤ったのだろうな」

 空の杯を差し出しながら、頭中将は応えるように小さく頷いた。

 橘恒泉は、十二分に優秀な人物であり、家柄にも恵まれていた。その境遇に甘んじることなく、更なる高みを目指して研鑽を積む、これもまた立派な心掛けだ。しかし、地道な努力を続けた結果、己の能力の及ばぬ上層で、同じように慢心することなく精進する者――この場合は頭中将――の存在を知り、恒泉は折れた。世間からの評価を不当と断じ、努力を放棄し、憎しみを募らせた挙句、相手を蹴落とすことに注力ちゅうりょくするようになってしまったという訳だ。

 頭中将を、栄誉の道から引きずり下ろしたとて、己が代わりにその地位に収まれるはずもないのに。

 実泉おうが頭中将の告発をすぐに信用してくれたのも、利発だがひがぐせの強い我が子の気性を、常々案じていたためらしい。

「本当に良かったんですか?」

 慣れた手付きで頭中将の杯を満たしながら、紫苑が不服げに唇を尖らせる。不満の原因はおそらく、頭中将が事件の真相を表沙汰にせず、穏便に片付けたことだ。実泉翁の改まってのおとないは、これに対する謝意を表す意味も大きかったものと思われる。

 一連の事件の最大の被害者である頭中将の温情により、恒泉は隠居ののち、橘家の荘園のある播磨はりま蟄居ちっきょすることとなった。橘家は恒泉の姉の子が実泉翁の養子となって跡を継ぐという。

 連絡役等として加担したのみの渡辺博基わたなべのひろもと減免げんめんされ、身柄は実泉翁の預かりとされた。その一方で、頭中将にやり込められた恒泉に対し、「器の差だね。端からアンタが適う相手じゃなかったってことだ」と言い放ち、最後に一騒動を起こした重岡余人しげおかのよひとに関しては、遺体損壊等の実行犯であり、余罪が多いこともあって、配流はいるとなったらしい。屋敷の厩舎には見事な黒駒くろこまが繋がれており、重岡は大内裏だいだいり付近で紫苑をはねたのも自分であるとあっさり認めた。追跡の手が身近に迫ったことに焦った恒泉に、「命までは取らずとも良いから、脅かしてやれ」との指示を受けたためだという。

 橘家の家格の高さと、恒泉の起こした犯罪の異質さもあって、事件の詳細はわずかな人間にしか知らされず、頭中将の名誉のみ回復、といった形で、すべての始末は付けられた。

 ――しかしそのため、えんの松原の女房失踪事件も、河原院かわらいんの怪現象についても、鬼の仕業と語り継がれ、頭中将の活躍もまた、世の人々に知られぬままとなったのである。

 紫苑は主人のために、これを悔しがっているようなのだ――まったく、い奴め。

 正直な話、宮中に出仕する者であれば、恒泉が何らかの罰を受け、官位を剥奪されたことは、容易に想像がつく。噂好きな貴族達が詮索したがるのを、のらりくらりとかわす日々に、頭中将が少々み始めているのも事実だ。素直でありながら、稀に天邪鬼あまのじゃくな一面を見せる紫苑との語らいは、頭中将にとっての息抜きともいえる、心地よい時間だった。

「まあ、私もきたかたに、これ以上の心痛を掛けたくはなかったしな」

 若い家礼けらいを調子づかせる訳にはいかぬと、胸の内に芽生えた感謝を含み笑いに隠して、頭中将は答えた。

 事件ののち、頭中将は正妻の四の君に、着物を一揃い贈っている。かつて袖にした男が夫を陥れようと企んでいたことを知らされて、少なからず衝撃を受けていた様子があったからだ。わずかでも心の慰めになればと思ってのことだったが、次に顔を合わせた時には、「貴方様を失脚させて、それでわたくしがどうなるか、考えても下さらなかったような人のために、心を痛めるのはやめました」とすっかり気を取り直していた。冷静で利発な妻は、恒泉の自身への執着が愛情からではなく、右大臣の姫をめとることのみにあったと、自力で思い至ったらしい。気丈な姿に呆れるやら恐れ入るやらだったが、贈り物の方は純粋に喜んでくれたので、最終的には「可愛い人よ」ということで落ち着いた。

椿つばきさんは、近江国おうみのくにへ下るそうです……お母さんの故郷なんですって」

 わずかに逡巡を見せるのは、正妻の話題ののちにその名を挙げることへの後ろめたさか、はたまた頭中将の気持ちを考えた上での配慮だったのか。おそらくはその両方の意味合いで、紫苑は人払いを済ませた釣殿で、なお声を落とした。

 うむ、と小さく頷いて、頭中将は美しい舞女の姿を、秋の空に思い描く。

 田楽一座は、座長が拉致された女性達を預かることで、恒泉から見返りを得ていたことを認めたため、解散処分となった。

 椿は女性達に使った薬の解毒方法を明かし、これを典薬寮てんやくりょうで精製、皆が無事回復に至ったことで、罪一等つみいっとうを許されたそうだ。紫苑の時と同様、頭中将も減免のために働き掛けはしたが、彼女に関してはそもそも薬を用いての傷害や偽証等、恒泉や重岡に比べて事件への関与が浅く、それも恒泉への想いを悪用された末のことと、温情が下された一面もある。

 行く当てのない笛吹きの娘を連れて、亡き母の生国しょうごくへ下るのを、今朝方紫苑が見送ってきたのだ。

薔薇そうびの君に宜しくって言ってました。ありがとうございます、って」

 あるじに落ち込んだ様子がなさそうなことに、取り敢えずは安堵したのか、紫苑は薄く微笑んだ。

 舞女からの言伝ことづては簡素で、どこにも迷いは感じられない。

「……そうか」

 微苦笑を浮かべて応じながらも、頭中将の胸の内にはやはり、別な出逢い方をしていれば或いは、といった複雑な想いが渦巻いている。直接教えを乞うた訳ではないが、彼女の舞いとその生き様から学んだことも多い。直接逢って感謝を伝えるべきであったかと思うのは、未練だろうか。

 迷いごと飲み下すように、頭中将は杯をあおった。芳醇な味わいが全身に行き渡り、傷心の痛みをほんの少しだけ和らげてくれるような気がする。

 雀達が庭から飛び立っていくのを眺めていると、紫苑が抱きかかえた瓶子へいしをことりと床に置いた。つられるように視線を戻すと、何やら神妙な面持ちで威儀を正している。

「――薔薇の君は、源氏の中将と比較されることを、辛いと思われたことはないのですか」

 ややあって、躊躇いがちに発された内容に、頭中将は軽く両目を見開いた。

 紅葉賀の成功を受けて昇進を果たしたとはいえ、頭中将の正四位下に対して、源氏の中将は正三位と、大きく水を開けられたのは事実だ。口惜しいと思う気持ちがないとは言わぬ。しかし相手はあの、光る源氏の君だ。おそらく誰もがそのように話をくくる。そういった家人達の噂話が、紫苑の耳にも入ったのだろう。

「…………」

 小さく息を吐いて、頭中将は杯を高坏たかつきに戻した。

 これもやはり、橘恒泉の存在のためだろうか。紫苑が主の官位について言及したのは初めてのことだ。

 あの日、己に向けての怨嗟えんさと呪詛を吐き出す恒泉を見て、頭中将は確かに、自身と源氏の中将との関係性を考えずにはいられなかった。己には天が与えた能力がある、研鑽も怠らない、負けているはずがないのに、周囲の評価はくつがえらない――実際の水準がどうあれ、恒泉にとっての頭中将は、頭中将にとっての源氏の中将のようなものだったに違いない。

 そんな主の胸の内を、紫苑はしっかりと見て取ったらしい。あの混乱のさなかに、空恐ろしいほどの鋭さだ。そしてそれを疎ましく感じないのは、この少年が真実頭中将を案じているのが伝わってくるからだろう。頑張って敬語を使っているらしいのが、また好ましい。

 ふむ、と頭中将は口元に手を当てた。紫苑が慌てたように背筋をピンと伸ばす。さすがに出過ぎた質問だったかと、しおれていたらしい。

 試楽の際、顔を合わせた源氏の中将は、事件の解決を我が事のように喜ぶと同時に、恒泉について思っていたところを、初めて明かしてくれた。四の君を巡る若かりし日のあれこれについて、知っていたにもかかわらず恒泉の名前を挙げなかったのはやはり、噂話を根拠にすることの危険性をおもんぱかってのことだったそうだ。しかし、中将自身、ずっと恒泉に対して、どこか距離を置く様子だったのは、自分を始めとした他の、年齢が近くつ上位にある者達へ時折見せる嫌悪のようなものを、感じずにはいられなかったからなのだという。

 頭中将は恒泉の存在を知らずにいたことで、余計にその憎悪を煽ってしまっていたが、一方で面識のあった源氏の中将は、いわれのない悪意を向けられる不快感を、ただひたすらにやり過ごしてきたのだ。

 頭中将の中に、源氏の中将への羨望は確かに存在する。それは否定しようのない事実だ。――しかし同時に、彼の諦観ていかんや焦燥を理解し、共有できるのも、また己一人。

「……ままならぬものよな」

 形の良い眉をわずかに歪めて、頭中将は忍び笑った。

 この世で唯一己を打ち負かし、絶えず頭上を行く者が、一番の友人且つ理解者であろうとは。まったく、「恵まれた出自」が聞いて呆れる――だが。

一世いっせいの源氏、帝の親王みこであることを差し引いても、私はの人の能力を認めているつもりだ――口惜しいと思うことはあっても、つらいと感じたことはない」

 微苦笑を解き、頭中将は毅然と言い放った。

 誰かと比べられて嫌な思いをすることは誰しもある。それを跳ね除けられるか、捻じ曲がるかは本人の性質によるところが大きい。

 羨望を否定することは、その気持ちに負けることと同義だろう。そんな嘘をついても自分は騙せないし、惨めになるだけだ。

 己の弱さ、醜さも受け入れて、立ち向かう強さこそが、何より美しいのではないか。

 ――そして、この健全な上昇志向こそが、頭中将と橘恒泉との、決定的な差なのだろう。

 紫苑がホッとしたように肩の力を抜いた。それを確認してから、頭中将は軽口を叩くように肩を竦めてみせる。

「もちろん、このままで終わるつもりはないぞ。私もこれまで通り、精進するのみだ」

 宣言して、再度杯を手に取り、差し出す。心得た様子で酒を満たす紫苑は、嬉しそうに頬を緩めた。

 普段から主に対して気安すぎる自覚はあるだけに、立場上これ以上の差し出口は控えるが、紫苑は頭中将のこういった、自信家なだけでない勤勉なところが大好きだった。生まれ持った才能や地位に甘んじず、今よりもっと高い場所を目指して努力を続ける。邪魔になる者を排除するのでなく、正面から挑んでいく勇ましさは、かつて憎んだ貴族の姿からは程遠い。何事に対しても公平な視点を心掛ける、真っ直ぐな気性はとても眩しく、これが我が主であると思えば誇らしい。

「何だ?」

 杯を手にしたまま、頭中将は家礼のご機嫌な理由を尋ねた。先程までは心配したり落ち込んだりと、可愛らしい百面相を見せていたというのに、今はニコニコと随分楽しそうだ。

「――いえ。僕は、薔薇の君様に拾っていただけて、幸せだなぁと」

 それだけ答えて、紫苑はエヘヘと誤魔化すように笑みを深めた。これには頭中将も、思わず高らかな笑い声を上げる。

「どうした、今日はやけに素直ではないか」

 当然とばかりに胸を逸らしながらも、頬が緩むのはどうしようもない。

 良い気分で杯を傾けながら、頭中将は最後の迷いを断ち切るように昂然こうぜんんだ。

 過ぎ去ってみれば、きっとどれもが、良い思い出になる。


 さざなみの 近江のさとの 玉椿たまつばき に隔てなく 凛として咲け




                 〈完〉

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源氏物語異聞~或いは頭中将の優雅な日常 朱童章絵 @sakuraisyuka

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