第17話 終章
ざぶりざぶりと、青い波が寄せては返す。
一説には竜宮由来とも伝わる、めでたくも優美な舞いは、居並ぶ多くの者達の心を打った。
一の院も帝も大層お喜びになり、この直後、源氏の中将は正三位、頭中将は正四位下の位を賜った。
その裏で、複雑に織りなされた人間模様に関しては、頭中将の
磨き上げられた鏡のように澄み切った池の面を、初冬の冷気を孕んだ風が吹き抜けていく。
波紋の行く先を追うともなしに辿れば、数羽の雀が、花の落ちた
――
大役を期待以上の出来栄えで果たし、上機嫌の頭中将は、ゆっくりと杯を傾けた。傍らにはいつものように、
その紫苑はというと、何とはなし物憂げな表情で、溜め息をついた。
「――結局、全部あの人の逆恨みってことですよね」
あの人というのは、
「己の評価に
空の杯を差し出しながら、頭中将は応えるように小さく頷いた。
橘恒泉は、十二分に優秀な人物であり、家柄にも恵まれていた。その境遇に甘んじることなく、更なる高みを目指して研鑽を積む、これもまた立派な心掛けだ。しかし、地道な努力を続けた結果、己の能力の及ばぬ上層で、同じように慢心することなく精進する者――この場合は頭中将――の存在を知り、恒泉は折れた。世間からの評価を不当と断じ、努力を放棄し、憎しみを募らせた挙句、相手を蹴落とすことに
頭中将を、栄誉の道から引きずり下ろしたとて、己が代わりにその地位に収まれるはずもないのに。
実泉
「本当に良かったんですか?」
慣れた手付きで頭中将の杯を満たしながら、紫苑が不服げに唇を尖らせる。不満の原因はおそらく、頭中将が事件の真相を表沙汰にせず、穏便に片付けたことだ。実泉翁の改まっての
一連の事件の最大の被害者である頭中将の温情により、恒泉は隠居ののち、橘家の荘園のある
連絡役等として加担したのみの
橘家の家格の高さと、恒泉の起こした犯罪の異質さもあって、事件の詳細はわずかな人間にしか知らされず、頭中将の名誉のみ回復、といった形で、すべての始末は付けられた。
――しかしそのため、
紫苑は主人のために、これを悔しがっているようなのだ――まったく、
正直な話、宮中に出仕する者であれば、恒泉が何らかの罰を受け、官位を剥奪されたことは、容易に想像がつく。噂好きな貴族達が詮索したがるのを、のらりくらりと
「まあ、私も
若い
事件ののち、頭中将は正妻の四の君に、着物を一揃い贈っている。かつて袖にした男が夫を陥れようと企んでいたことを知らされて、少なからず衝撃を受けていた様子があったからだ。わずかでも心の慰めになればと思ってのことだったが、次に顔を合わせた時には、「貴方様を失脚させて、それでわたくしがどうなるか、考えても下さらなかったような人のために、心を痛めるのはやめました」とすっかり気を取り直していた。冷静で利発な妻は、恒泉の自身への執着が愛情からではなく、右大臣の姫を
「
わずかに逡巡を見せるのは、正妻の話題ののちにその名を挙げることへの後ろめたさか、はたまた頭中将の気持ちを考えた上での配慮だったのか。おそらくはその両方の意味合いで、紫苑は人払いを済ませた釣殿で、なお声を落とした。
うむ、と小さく頷いて、頭中将は美しい舞女の姿を、秋の空に思い描く。
田楽一座は、座長が拉致された女性達を預かることで、恒泉から見返りを得ていたことを認めたため、解散処分となった。
椿は女性達に使った薬の解毒方法を明かし、これを
行く当てのない笛吹きの娘を連れて、亡き母の
「
舞女からの
「……そうか」
微苦笑を浮かべて応じながらも、頭中将の胸の内にはやはり、別な出逢い方をしていれば或いは、といった複雑な想いが渦巻いている。直接教えを乞うた訳ではないが、彼女の舞いとその生き様から学んだことも多い。直接逢って感謝を伝えるべきであったかと思うのは、未練だろうか。
迷いごと飲み下すように、頭中将は杯を
雀達が庭から飛び立っていくのを眺めていると、紫苑が抱きかかえた
「――薔薇の君は、源氏の中将と比較されることを、辛いと思われたことはないのですか」
ややあって、躊躇いがちに発された内容に、頭中将は軽く両目を見開いた。
紅葉賀の成功を受けて昇進を果たしたとはいえ、頭中将の正四位下に対して、源氏の中将は正三位と、大きく水を開けられたのは事実だ。口惜しいと思う気持ちがないとは言わぬ。しかし相手はあの、光る源氏の君だ。おそらく誰もがそのように話を
「…………」
小さく息を吐いて、頭中将は杯を
これもやはり、橘恒泉の存在のためだろうか。紫苑が主の官位について言及したのは初めてのことだ。
あの日、己に向けての
そんな主の胸の内を、紫苑はしっかりと見て取ったらしい。あの混乱のさなかに、空恐ろしいほどの鋭さだ。そしてそれを疎ましく感じないのは、この少年が真実頭中将を案じているのが伝わってくるからだろう。頑張って敬語を使っているらしいのが、また好ましい。
ふむ、と頭中将は口元に手を当てた。紫苑が慌てたように背筋をピンと伸ばす。さすがに出過ぎた質問だったかと、
試楽の際、顔を合わせた源氏の中将は、事件の解決を我が事のように喜ぶと同時に、恒泉について思っていたところを、初めて明かしてくれた。四の君を巡る若かりし日のあれこれについて、知っていたにもかかわらず恒泉の名前を挙げなかったのはやはり、噂話を根拠にすることの危険性を
頭中将は恒泉の存在を知らずにいたことで、余計にその憎悪を煽ってしまっていたが、一方で面識のあった源氏の中将は、
頭中将の中に、源氏の中将への羨望は確かに存在する。それは否定しようのない事実だ。――しかし同時に、彼の
「……ままならぬものよな」
形の良い眉をわずかに歪めて、頭中将は忍び笑った。
この世で唯一己を打ち負かし、絶えず頭上を行く者が、一番の友人且つ理解者であろうとは。まったく、「恵まれた出自」が聞いて呆れる――だが。
「
微苦笑を解き、頭中将は毅然と言い放った。
誰かと比べられて嫌な思いをすることは誰しもある。それを跳ね除けられるか、捻じ曲がるかは本人の性質によるところが大きい。
羨望を否定することは、その気持ちに負けることと同義だろう。そんな嘘をついても自分は騙せないし、惨めになるだけだ。
己の弱さ、醜さも受け入れて、立ち向かう強さこそが、何より美しいのではないか。
――そして、この健全な上昇志向こそが、頭中将と橘恒泉との、決定的な差なのだろう。
紫苑がホッとしたように肩の力を抜いた。それを確認してから、頭中将は軽口を叩くように肩を竦めてみせる。
「もちろん、このままで終わるつもりはないぞ。私もこれまで通り、精進するのみだ」
宣言して、再度杯を手に取り、差し出す。心得た様子で酒を満たす紫苑は、嬉しそうに頬を緩めた。
普段から主に対して気安すぎる自覚はあるだけに、立場上これ以上の差し出口は控えるが、紫苑は頭中将のこういった、自信家なだけでない勤勉なところが大好きだった。生まれ持った才能や地位に甘んじず、今よりもっと高い場所を目指して努力を続ける。邪魔になる者を排除するのでなく、正面から挑んでいく勇ましさは、かつて憎んだ貴族の姿からは程遠い。何事に対しても公平な視点を心掛ける、真っ直ぐな気性はとても眩しく、これが我が主であると思えば誇らしい。
「何だ?」
杯を手にしたまま、頭中将は家礼のご機嫌な理由を尋ねた。先程までは心配したり落ち込んだりと、可愛らしい百面相を見せていたというのに、今はニコニコと随分楽しそうだ。
「――いえ。僕は、薔薇の君様に拾っていただけて、幸せだなぁと」
それだけ答えて、紫苑はエヘヘと誤魔化すように笑みを深めた。これには頭中将も、思わず高らかな笑い声を上げる。
「どうした、今日はやけに素直ではないか」
当然とばかりに胸を逸らしながらも、頬が緩むのはどうしようもない。
良い気分で杯を傾けながら、頭中将は最後の迷いを断ち切るように
過ぎ去ってみれば、きっとどれもが、良い思い出になる。
さざなみの 近江の
〈完〉
源氏物語異聞~或いは頭中将の優雅な日常 朱童章絵 @sakuraisyuka
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