第16話 さざなみの玉椿8

薔薇そうびの君! 居ました!!」

 不快な緊張感を断ち切ったのは、客間になだれ込んできた紫苑しおんだった。引き留めようとする家人達を振り切り、頭中将にも見覚えのある人物を引き立ててきたようだ。

「離せ!」

 随身ずいしん達に鍛えられ、少しは逞しくなったと豪語する紫苑に動きを封じられて暴れる壮年は、以前大内裏だいだいり近くで紫苑と揉めていた男――やはり橘家の家礼けらいであったらしい。門前での頭中将からの「必ず屋敷内に居るはずだから、探し出して連れて来い」との指示を、紫苑は見事に果たしてみせたということだ。まったく、どこまでも使える奴め。

 この働きにどのように応じてやるべきかとの誇らしい思案はひとまず置いておいて、頭中将は壮年に向き直る。

「この者に、見覚えがございますね?」

「……存じませんな」

 一同の顔ぶれをサッと見渡し、壮年――実泉翁さねみおう博基ひろもとと呼んだ――は紫苑の顔立ちを確かめようともせぬまま、即座に否定した。この程度は想定の範囲であるだけに、頭中将も焦れることなく、辛抱強く会話を続ける。

「以前、大内裏でこの者と言い争うのに行き合ったことがあるのだが……」

「――ああ、あの時の。人違いですと申し上げましたが」

 まるで用意していたかのような、間髪入れずの回答だ。動揺を抑えようとする男を逃がさぬとばかりに、紫苑が横から「嘘だ」と言い放つ。

「嘘だ! 妹を、べにねたのは頭中将の牛車だから、復讐するのに手を貸してやるって言ったじゃないか!」

 糾弾を受けて、博基の目が落ち着きなく、あちらこちらを彷徨さまよう。

 頭中将は言うに及ばず、実泉翁にも発言を咎めるような言葉がないのを受けて、紫苑は重岡しげおかに視線を移し、「えんの松原に僕を運んだのはこの人です」と言い切った。陰陽師崩れには、もはや体裁を取り繕う意思もなくなったのか、忌々いまいましげな舌打ちが返される。

 憤懣ふんまんやる方ないといった様子でプイと顔を背け、次に恒泉つねみを見止めた瞬間、紫苑の瞳に宿ったのは厭悪えんおの光だった。抵抗をやめた博基を解放し、サッと右のてのひらを横にしてかざしたのは、宴の松原における邂逅の際、常に口元を扇で隠していたという、青年貴族の面影と重ね合わせるためだろうか。その手がぶるぶると震え出したのは、恐怖のせいではあるまい。

 だまされたこと、付け込まれたことに関しては、紫苑自身にも大いに反省すべき点はある。それよりも、何の落ち度もない人物に罪を捏造し、陥れんと企む者が存在するという事実そのものが、彼の未熟で真っ直ぐな正義感を激しく燃え上がらせたようだ。

 紫苑は「それに」と、喘ぐように喉元を抑えた。

「一度だけだけど、月明りが指したんで覚えてる……香りだけじゃない、宴の松原で薔薇の君を演じたのは、この人です!」

 顔を隠すようにしていたといっても、恋仲の女房役を演じさせられた紫苑には、間近でその顔を拝める瞬間は確かにあっただろう。月の明るい晩であれば、尚更だ。

 双方を知ってみれば頭中将と橘恒泉たちばなのつねみ、それほど似通っている訳ではない。だが、恒泉もまたみやびと称されるに足る容貌であるだけに、頭中将の顔を知らぬ女房達が惑わされたのも仕方のないことと言える。

 指摘を受けた恒泉は、頭中将との最大の差異でもある冷酷そうな目元を眇め、紫苑を見返した。蔑むような表情からは、下賤げせんの者の証言などどうとでも覆せると思っていることが、ありありと窺える。

 しかし、口を開いたのは実泉翁の方だった。息子ではなく、平伏する家礼に向かって、「博基」と静かに呼び掛ける。

「頭中将殿の仰ることは事実か」

 当然追及は予測していたのだろう、博基は「いいえ」と即座に頭を振った。

「いいえ、滅相もございません……」

「――博基!」

 突如荒げられた声に、博基の作り笑いが凍り付く。横にいた紫苑までがビクリと肩を震わせたのは少々可哀想でもあったが、頭中将はそこに昔日せきじつ辣腕家らつわんかの顔を垣間見たような気分になって、密かに畏敬いけいの念を深めた。

「お前を召し抱えてやったのは誰だ!」

 叱責を受けて、博基がガタガタと震え始める。跡目を継いだ長男の恒泉に従っただけとはいえ、元々彼が能力を見出され、誠心誠意仕えていたのは、先代の実泉翁だったのだろう。褒美に目が眩んだか、はたまた保身のためかはわからない。だが今、博基もまた、実泉翁の手厳しさを否応なしに思い出さされたのに違いない。

「申し訳ございませんでした……!」

 地に伏せるようにして、博基は力なく項垂うなだれた。

 室内の視線がその丸い背に集中する中、くつくつと陰湿な忍び笑いが起こる。「博基」と壮年の名を呼んだのは恒泉だった。酷薄そうな口元を歪めて、嘲るように言い放つ。

「つまらぬことを申すな」

 それは、暗に黙秘していろとの指示のように聞こえた。博基が絶望的な表情を浮かべるのと、実泉翁が非難の声を発するのは、ほぼ同時だった。この期に及んで、と言いたくなる気持ちも理解できる。

 しかし、宴の松原から続く一連の事件について、すべてを見通せたという自信のある頭中将は、やんわりと実泉翁を制した。構いませんよ、と。

「構いませんよ。大筋では、理解できているつもりです」


 中務なかつかさ少輔しょうゆう・橘恒泉が、なぜこれほどまでの恨みを頭中将に抱いたのかは、定かではない。

 程度の差こそあれ、人間誰しも、そりが合わないとか目の上のこぶのように、存在そのものが疎ましく感じられる相手というのは居るものだ。が、大半の者は何とか感情に折り合いをつけ、我慢しながら付き合っていく道を選ぶだろう。自分がその場から離れるにも、闘って相手を排斥するにも、多くの知恵と労力を必要とするからだ。そして、貴族にあってもそれは同じ。気に入らない人間など掃いて捨てるほどゴロゴロしているが、表向きは当たり障りなく付き合っておいて、相手が何か失態を犯したところを時勢に乗って糾弾する方が、無駄に疲弊することもなく、よほど理に適っている。

 恒泉がその流れから逸脱したのは、おそらくは重岡余人しげおかのよひととの再会が原因だ。父親の下向げこうに従った播磨はりまの地で、幼い恒泉が重岡の評判をどう聞いていたのかはわからないが、長じた彼にとっては、手足のように動かせるコマと映ったのに違いない。重岡もまた、汚れ仕事の代わりに衣食住を与えられ、自分を放逐ほうちくした播磨の陰陽師達を見返してやったつもりで、嬉々として恒泉を主と担ぎ上げたことは、容易に想像できる。

 一年ほど前、恒泉はついに、頭中将を陥れる策略を実行に移した。それが宴の松原の怪事件だ。共犯者つ、万が一事が露見した際にすべての罪を被せる役として一般庶民の紫苑を見出し、連絡役のために家礼の渡辺博基わたなべのひろもとを抱き込む。既に父である実泉翁に仕えた時ほどの若さと勤勉さを失っていた博基を仲間に引き入れるのに、それほど苦労はなかったはずだ。

 宮中でも宴の松原を舞台に選んだのは、適度に身を隠せる松林であるのと同時に、普段は人の寄り付かない閑散とした場所であることが大きかろう。また、中務省なかつかさしょう女官にょかんの人事も職掌しょくしょうの一つであるため、恒泉は女性官吏かんりの内情について、比較的詳しかったとも推察される。宣耀殿せんようでん女御にょうごが近々いずこかへ使いを出す予定であることや、薄気味悪い場所とはいえ宴の松原を近道代わりに突っ切る女房も居ること等々。報告や噂話を吟味した上で、場所と日時を選定した。

 そして、事件当夜の重岡の働きは、まさに八面六臂はちめんろっぴと言っていい。紫苑を迎えに来たという、「筋骨隆々きんこつりゅうりゅうたる道服の男」。これが重岡であることは言うまでもないが、徒歩に牛車、事前に入手済みの遺体の手足と女房装束一式、これに紫苑を加えた「荷物」を大内裏へ運び入れた上、化粧や着付け等の支度を整えることまでやってのけた。放浪の日々に身に着けた技術であろうが、生来が器用な性質たちなのだろう。これに並外れた膂力りょりょくが加わるのだから、遺体の手足を切り取ることも苦ではなかったはずだ――良心の呵責かしゃくにさえ目を瞑れば、だが。

 恒泉の思惑通り、宴の松原事件は頭中将に少なからず打撃を与えた。しかし、憎さばかりが先に立って、その能力を過小に評価していたために、頭中将は自身で事件が冤罪えんざいであることを証明してしまった。しかもこれには、「生活に困っていそうな庶民」というだけで目を付けた紫苑が大きく関係している。身分の低い者全般を侮る恒泉の予想に反し、紫苑は非常に賢く、自力で騙されていたことを悟り、渡辺博基の元まで辿り着いた。お陰でこれ以降、博基は邸内のみの閑職かんしょくに回さざるを得なくなったし、紫苑の自供により、頭中将は誰かに陥れられかけた被害者として世の同情を集めることとなり、更にはそれを自ら解決してみせた英雄かのように扱われるようになったのである。

 ――己の手を汚してまで、頭中将をおとしめんと企んだ恒泉が、この結末に満足するはずはない。

 家紋や住居を徹底的に隠した成果か、紫苑の証言があっても捜査の手が身辺に及ばなかったことのみを幸いとして、歯噛みしつつも次の機会を窺うしかなかった恒泉に、新たな計画を持ち掛けたのは重岡だった。

 当初は重岡の個人的恨みを晴らしつつ、主従揃っての栄誉をと練られた計略だったが、人前で自説として披露するはずだった筋書きを、頭中将に横取りされたと感じた恒泉が憎しみを抑えきれなくなったことで破綻をきたし、今に至るのは前述の通りだ。

 第三の事件から、唐突に現場に薔薇の花が残されるようになったことについての見解を求めた頭中将に、それまで意気揚々と自作自演を語っていた恒泉の勢いが削がれたのは、もちろん配慮などではない。怒りに任せての小細工について、理に適った解説が出来ないことに、本人が気付いてしまったからだ――


「――もういい、黙れ!!」

 恒泉が激昂げっこうしたのは、やはり己の過失に言及された時だった。最低限度の礼儀さえもかなぐり捨てた様子で、頭中将をギリギリと睨めつける。

「どこまでも人を馬鹿にしおって……!!」

「こやつめ、何という口の利き方を……」

 息子の暴言を諫めつつ、代わって「申し訳ない」と頭を下げた実泉翁に小さく目礼を返して、頭中将は恒泉に向き直った。

 重岡と同様に、恒泉はこれまで一度も自身の罪を認めていない。とはいえ、彼にとっては河原院かわらいんの筋書きを途中で変えたことが失敗だったと受け入れるのは、余程の苦痛を伴うと見える。これだけの動揺を露わにしながら関与を否定するのはさすがに難しいし、何より、もはや頭中将への溢れんばかりのあく感情を隠す余裕さえない。

「それほどまでに、貴方は私が憎かったのか?」

 一連の事件の根本を、改めて頭中将は問うた。

 どれだけ思い返してみても、恒泉の恨みを買った覚えはない。否、恒泉に限らず、犯罪者、ましてや鬼の濡れ衣を着せられるほどの怨嗟えんさを向けられるなど、相当のことだ。確かに、恵まれた出自や才能に対する羨望はあろう。が、それがそのまま、これほどの罪を捏造されるに足る理由とも思えない。

 そもそも、今回の事件で関わるまで、頭中将と恒泉の間には、これといった接点すらなかったはずなのだ。「馬鹿にする」以前の問題であって、この罵倒は不当と言わざるを得まい。

 ――しかしこの一言が、恒泉の怒りの炎に、更なる油を注いでしまった。

「おのれ……!」

 普段は冷徹な容貌を、それこそ悪鬼の如き形相に歪めて、恒泉は聞くに堪えない雑言ぞうごんを繰り出し始めた。彼の中では頭中将の評価など、藤原家の財力を笠に着ただけのものでしかないらしく、より優れているはずの己が正当に評価されないのは、同じ年齢の頭中将のせいなのだそうだ。ごとは妻の四の君や、紅葉賀もみじのがの舞いなどにも及び、そこで頭中将は初めて、以前源氏の中将に聞いた「四の君に求婚していた者」に恒泉も当て嵌まること、更には恒泉が青海波せいがいは垣代かいしろ役の一人であることを知った。麝香じゃこうの文の相手が恒泉であるなら四の君は相手にしなかったと言っていたし、その後政敵であったはずの左大臣家の嫡男に嫁がれたことで、恥をかかされたような気分になったかもしれない。青海波の垣代とは、楽士がくしの後ろに控え、反鼻へんぴというばちを打ち鳴らす、四十人前後の補佐役のことだ。舞台の中央で源氏の中将と共に舞い踊る頭中将と比べれば、華やかさで見劣りするのは致し方なかろう。

 何をしても劣った評価を下され、自分にこれだけの屈辱を味わわせておきながら、その存在さえ知らずにのうのうと生きていることが許せない――

 怒涛のように吐き出される自身への恨み言に、さすがの頭中将も、思わず目を白黒させた。とはいえ、その殆どが一方的な逆恨み、或いはねたみやそねみとしか表現できない事柄に終始しており、紫苑などは衝撃を受けた様子でその場に固まっている。父親と長年の家礼が悲しげに肩を落とす一方で、重岡一人が不快そうに眉を顰めているのはおそらく、同族嫌悪というものなのだろう。

「お前さえ居なければ――!」

 外面を取り繕うことをやめた恒泉は収まらない。これが、椿つばきが彼を「止めて欲しい」と願った理由に違いない。

 いわれのない非難を受けて、腹立たしい気持ちはもちろんある。しかし、恒泉の言い分を聞かされるうちに、頭中将自身、まったく身に覚えのない感情ばかりではないような気がし始めていた。決して劣っている訳ではないはずなのに、なぜか世間では認めて貰えない。評価がくつがえることは絶対にない――

 しかし、頭中将と恒泉との間には、決定的な違いがある。

「……」

 頭中将は、小さくかぶりを振った。これ以上の醜態を晒させるのは、父である実泉翁にも気の毒だ。

 発言を封じるように掌を押し出すと、恒泉は気圧されたように口を噤んだ。その一瞬の隙を逃さず、言い含める。

「今の貴方に、私の言葉は届くまい。何を言っても弁解としかとらえられぬだろうが、それでも言わねばならぬことはある」

 諭すような口調に、恒泉は再度気色けしきばんだ。何事か言い募ろうとするのを、横から実泉翁が力ずくで制する。

「貴方が野心のために利用してきた人間にも心はあるのだ、身分の貴賤きせんを問わずな。それをないがしろにする権利は貴方にはない……もちろん、私にもだ」

 断じた頭中将に、恒泉はようやく膝を着いた。

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