第16話 さざなみの玉椿8
「
不快な緊張感を断ち切ったのは、客間になだれ込んできた
「離せ!」
この働きにどのように応じてやるべきかとの誇らしい思案はひとまず置いておいて、頭中将は壮年に向き直る。
「この者に、見覚えがございますね?」
「……存じませんな」
一同の顔ぶれをサッと見渡し、壮年――
「以前、大内裏でこの者と言い争うのに行き合ったことがあるのだが……」
「――ああ、あの時の。人違いですと申し上げましたが」
まるで用意していたかのような、間髪入れずの回答だ。動揺を抑えようとする男を逃がさぬとばかりに、紫苑が横から「嘘だ」と言い放つ。
「嘘だ! 妹を、
糾弾を受けて、博基の目が落ち着きなく、あちらこちらを
頭中将は言うに及ばず、実泉翁にも発言を咎めるような言葉がないのを受けて、紫苑は
紫苑は「それに」と、喘ぐように喉元を抑えた。
「一度だけだけど、月明りが指したんで覚えてる……香りだけじゃない、宴の松原で薔薇の君を演じたのは、この人です!」
顔を隠すようにしていたといっても、恋仲の女房役を演じさせられた紫苑には、間近でその顔を拝める瞬間は確かにあっただろう。月の明るい晩であれば、尚更だ。
双方を知ってみれば頭中将と
指摘を受けた恒泉は、頭中将との最大の差異でもある冷酷そうな目元を眇め、紫苑を見返した。蔑むような表情からは、
しかし、口を開いたのは実泉翁の方だった。息子ではなく、平伏する家礼に向かって、「博基」と静かに呼び掛ける。
「頭中将殿の仰ることは事実か」
当然追及は予測していたのだろう、博基は「いいえ」と即座に頭を振った。
「いいえ、滅相もございません……」
「――博基!」
突如荒げられた声に、博基の作り笑いが凍り付く。横にいた紫苑までがビクリと肩を震わせたのは少々可哀想でもあったが、頭中将はそこに
「お前を召し抱えてやったのは誰だ!」
叱責を受けて、博基がガタガタと震え始める。跡目を継いだ長男の恒泉に従っただけとはいえ、元々彼が能力を見出され、誠心誠意仕えていたのは、先代の実泉翁だったのだろう。褒美に目が眩んだか、はたまた保身のためかはわからない。だが今、博基もまた、実泉翁の手厳しさを否応なしに思い出さされたのに違いない。
「申し訳ございませんでした……!」
地に伏せるようにして、博基は力なく
室内の視線がその丸い背に集中する中、くつくつと陰湿な忍び笑いが起こる。「博基」と壮年の名を呼んだのは恒泉だった。酷薄そうな口元を歪めて、嘲るように言い放つ。
「つまらぬことを申すな」
それは、暗に黙秘していろとの指示のように聞こえた。博基が絶望的な表情を浮かべるのと、実泉翁が非難の声を発するのは、ほぼ同時だった。この期に及んで、と言いたくなる気持ちも理解できる。
しかし、宴の松原から続く一連の事件について、すべてを見通せたという自信のある頭中将は、やんわりと実泉翁を制した。構いませんよ、と。
「構いませんよ。大筋では、理解できているつもりです」
程度の差こそあれ、人間誰しも、そりが合わないとか目の上の
恒泉がその流れから逸脱したのは、おそらくは
一年ほど前、恒泉はついに、頭中将を陥れる策略を実行に移した。それが宴の松原の怪事件だ。共犯者
宮中でも宴の松原を舞台に選んだのは、適度に身を隠せる松林であるのと同時に、普段は人の寄り付かない閑散とした場所であることが大きかろう。また、
そして、事件当夜の重岡の働きは、まさに
恒泉の思惑通り、宴の松原事件は頭中将に少なからず打撃を与えた。しかし、憎さばかりが先に立って、その能力を過小に評価していたために、頭中将は自身で事件が
――己の手を汚してまで、頭中将を
家紋や住居を徹底的に隠した成果か、紫苑の証言があっても捜査の手が身辺に及ばなかったことのみを幸いとして、歯噛みしつつも次の機会を窺うしかなかった恒泉に、新たな計画を持ち掛けたのは重岡だった。
当初は重岡の個人的恨みを晴らしつつ、主従揃っての栄誉をと練られた計略だったが、人前で自説として披露するはずだった筋書きを、頭中将に横取りされたと感じた恒泉が憎しみを抑えきれなくなったことで破綻をきたし、今に至るのは前述の通りだ。
第三の事件から、唐突に現場に薔薇の花が残されるようになったことについての見解を求めた頭中将に、それまで意気揚々と自作自演を語っていた恒泉の勢いが削がれたのは、もちろん配慮などではない。怒りに任せての小細工について、理に適った解説が出来ないことに、本人が気付いてしまったからだ――
「――もういい、黙れ!!」
恒泉が
「どこまでも人を馬鹿にしおって……!!」
「こやつめ、何という口の利き方を……」
息子の暴言を諫めつつ、代わって「申し訳ない」と頭を下げた実泉翁に小さく目礼を返して、頭中将は恒泉に向き直った。
重岡と同様に、恒泉はこれまで一度も自身の罪を認めていない。とはいえ、彼にとっては
「それほどまでに、貴方は私が憎かったのか?」
一連の事件の根本を、改めて頭中将は問うた。
どれだけ思い返してみても、恒泉の恨みを買った覚えはない。否、恒泉に限らず、犯罪者、ましてや鬼の濡れ衣を着せられるほどの
そもそも、今回の事件で関わるまで、頭中将と恒泉の間には、これといった接点すらなかったはずなのだ。「馬鹿にする」以前の問題であって、この罵倒は不当と言わざるを得まい。
――しかしこの一言が、恒泉の怒りの炎に、更なる油を注いでしまった。
「おのれ……!」
普段は冷徹な容貌を、それこそ悪鬼の如き形相に歪めて、恒泉は聞くに堪えない
何をしても劣った評価を下され、自分にこれだけの屈辱を味わわせておきながら、その存在さえ知らずにのうのうと生きていることが許せない――
怒涛のように吐き出される自身への恨み言に、さすがの頭中将も、思わず目を白黒させた。とはいえ、その殆どが一方的な逆恨み、或いは
「お前さえ居なければ――!」
外面を取り繕うことをやめた恒泉は収まらない。これが、
しかし、頭中将と恒泉との間には、決定的な違いがある。
「……」
頭中将は、小さく
発言を封じるように掌を押し出すと、恒泉は気圧されたように口を噤んだ。その一瞬の隙を逃さず、言い含める。
「今の貴方に、私の言葉は届くまい。何を言っても弁解としか
諭すような口調に、恒泉は再度
「貴方が野心のために利用してきた人間にも心はあるのだ、身分の
断じた頭中将に、恒泉はようやく膝を着いた。
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