キッチン

帳 華乃

キッチン

 冷蔵庫にはいつも、酒か卵しかなかった。

 母はゆで卵に食塩をかけたものをつまみに酒を飲んでいた。だからこれらは、ほとんど常に家にあった。

 普段は惣菜を買って置いてどこかへ行くのだが、食事を用意されない日が時折あり、私は勝手に卵を調理し、腹を満たしていた。

 目玉焼き。スクランブルエッグ。卵焼き。オムレツ。これらで空腹から逃れた。どれも味付けはしないか食卓塩を数回振りかけただけの、つまらない食べ物だった。ゆで卵は、どうしても作る気になれなかった。

 もっと違う物を作ることができるようになってからも、卵焼きだけは定期的に作っている。これを作っている間だけは、彼女よりまともな人間だと思える。これを食べている間だけは、安心して酒を飲める。

 白だしと少量の塩で味付けして、卵焼き器で成形しながら丁寧に巻く。大根おろしを添え、白い長皿に盛り付ける。最後に醤油を数滴垂らす。あの頃とは全く違う食べ物だ。あの、甘いくせに苦い、茶色い卵焼きとは違う。

 だが。一種類の卵料理しかつまみにできないのは、同じだ。

「味の違いなんてどうせわからないんだから、塩だけあればいいのよ」

 顔を赤くして、すえた臭いを漂わせながら帰った母はそう言った。

 違う。違う、違う。味付けをするときは計量スプーンで量って、卵焼き器を使って、サラダ油ではなくごま油で、焦げ目はなくて、破れないように巻いて、食器にもこだわって、薬味も添えている。ボトルからではなく醤油差しを使うし、酒も必ず注いで飲んでいる。ワイングラスも、ショットグラスも、ロックグラスも、ジョッキも、酒盃も、御猪口も、ちゃんと使い分けている。だから、大丈夫だ。

 男遊びもしない。泥酔もしない。真人間の成りを、今日も。

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