さいごは、あなたに。

魚崎 依知子

さいごは、あなたに。

 夜の街は好きだ。特に春は、祝いや別れに浮ついた人達が溢れるのがいい。まるで関係ないこちらまで、許されることが増える気がする。

「このまま、逃げない?」

 指を絡めるように手を繋ぎ直しながら切り出すと、隣を歩く広斗ひろとは困ったような笑みを浮かべた。柔和な顔立ちに似合うなだらかな眉の流れが、ハの字に傾く。

「本気で言ってるんだけど」

「でも、お父さんと約束したんでしょ?」

 諭すように返して、ネクタイを少し緩める。ふう、と吐き出す息は明るいものには聞こえない。

 広斗は大学で研究を続ける、いわゆるポスドクだ。院生の頃から教授の手伝いでゼミに顔を出していたから、仲良くなるまでそれほど時間は掛からなかった。

 見た目は少し野暮ったくて、これまで付き合ったタイプとはまるで違う。でも古文書の解読や卒業研究の相談はもちろん、人間関係の些細な悩みにまで真摯に向き合ってくれる姿に惹かれた。そこから少しずつ距離を詰めて半年くらい経った頃、図書館で書架の陰に紛れて蕩けるようなキスをした。でも。

――ごめん、今の忘れて。俺は誰とも付き合えないんだ。

 甘い余韻を断ち切り顔を歪めた広斗に、耳まで火照った顔を必死で横に振った。そのあと逃げ出そうとした腕を捕まえ学生の掃けた学食へ連れ込み、アイスコーヒーで熱を冷ましながら理由を待った。いつも広斗がそうしてくれるように、心や感情が言葉を得るまで黙って傍にいた。

 広斗が口を開いたのは、氷が溶け切る頃だった。私を好きだからこそ無理なのだと前置きしたあと、訥々と自分の出自を明かした。

 広斗の祖父は某指定暴力団の構成員で、父親も広斗が誕生するまではその一員だった。現在は警備会社で働いているが、薬物と傷害で前科三犯、傷害では五年服役した過去がある。広斗は大学進学と共に地元から逃げ出し、以来一度も帰っていなかった。

――お父さんの罪は、傷つけられた相手とその関係者が恨めばいいことでしょ。会ったこともない私が、ここから石投げる必要ある? あと広斗さんは、別に悪くないよね。

 私は広斗本人さえ真っ当なら構わなかったし、今は真面目に働いている父親を疎む気にもなれなかった。彼が償わなければならない相手は、当たり前だが「その他大勢」の私ではない。

 でも広斗は、そう伝えた途端に泣き出した。俯いて顔を覆い、肩を震わせてひとしきり咽んだ。その時聞いた掠れ声の「ありがとう」は、今も耳に残っている。これまでつらかったのなら、この先は私が幸せにすればいいと思っていた。両親が、結婚に反対するまでは。

 結婚を考えている相手として広斗の話をしたのは二年前、大学を卒業する春だった。

――絶対にダメだ、別れなさい!

 卒業祝いの席で心積もりを伝えた私に父は激怒し、母は青ざめた。

 父は司法書士として働く傍ら社会奉仕を目的とするボランティア団体に所属し、母とともに困窮を抱える人達への支援や啓蒙活動を積極的に行っている。その背を見て育った私が差別を憎み平等を愛すのは当然のことだと思っていたが、そうではなかったらしい。

 『何も知らずに反対しているわけじゃない。知っているからこそ、反対するんだ。逃げても、血だけは追ってくる。』

 傷ついて家を飛び出したあとに届いたメールは、一応手元に置いている。広斗自身も「血縁だけはどうにもならない」と嘆いていたから、言いたいことは分かるのだ。かと言って素直に受け入れられるわけもなく、その日から実家には顔を見せていない。ただ私の就職先は叔父の会社だから、叔父を挟んでの攻防戦は続いていた。でも一月前、父が倒れた。癌だった。

――生きる気力もないのにがんばれないって。治療しないつもりなのよ。

 電話口で悲痛な声を漏らす母に、項垂れた。私の頑固は父譲りだから、父が本気で治療を拒否するのは分かっていた。だから致し方なく、治療と引き換えに母の勧める見合いだけは了承したのだ。でも明日に控えた今、全力で逃げたくなっている。

「向こうだって、私みたいな相手と見合いなんていい迷惑だよね」

「それでも良かったのかも。晴子はるこを知ってる人なんでしょ?」

「子供の頃に何度か会っただけの、遠い親戚だよ。謝って終わらせて、すぐに帰って来るから」

 溜め息交じりの予定に、どうかな、と返して広斗は黙る。

「この話、もうやめよう」

 肩で大きく息をしたあと、立ち並ぶホテルのネオンをざっと眺めた。金曜の夜はさすが、満室ランプが灯るのが早い。

「早く入ろ、今日はお願いがあるし」

「何?」

 広斗は半ば諦めた様子で、ホテルのエントランスをくぐる。

「この辺に、印をつけて欲しいの。私があなたのものだって証拠をね」

 胸を撫でながら見上げると、苦笑を浮かべた。

「甘やかすね、相変わらず」

「『私が幸せにする』って決めたからね」

 あの時の気持ちは、今も変わっていない。残り少なくなったパネルから部屋を選んで、エレベーターへ向かった。


 翌日は実家で着付けを済ませ、母と約束の料亭へと向かう。見合いの相手は、昔何度か会った父方本家の三男だ。分家も末端の私に、なぜそんな話が舞い込んできたのか。

「なぜ私なんですか?」

 形式的なやり取りを終え、母親達が席を外すのを待って早速尋ねる。

「実は俺にも事情があってね」

 座卓の向かいでにこりと笑い、和希かずきは正座の膝を崩した。年は私の一つ上、職業はデイトレーダー。彫りの浅い小さな顔に品の良いパーツが並ぶ、知的で涼やかな顔立ちだ。

「うちのじいさんは知ってるよね?」

「はい」

 今は年賀の挨拶で伺うだけだが、九十を過ぎても元気な老獪……矍鑠とした方だ。

「そのじいさんが、俺の仕事を認めてなくてね。相続に名を連ねる条件が『結婚』なんだよ」

「お金、要るんですか?」

 総資産は語られなかったが、お金に余裕があるのは一瞥すれば分かる。程よく身に馴染んで見えるスーツは多分、オーダーだろう。

「要らないよ。ただ、今住んでる家をそのまま相続させて欲しくてね。子供の頃、何度か見舞いに来てくれたことがあっただろ? あの家だよ。売っても土地代しか出ないようなボロ家だけど、俺には思い入れのある大事な場所なんだ」

 ああ、と納得して頷く。決して広くはない木造の、良く言えば趣のある家だった。

 和希は生まれつき心臓が弱く、小学生の頃まで何度か手術をしていた。その退院後にいつも一月ほど、療養のために母親と二人でその家で暮らしていたのだ。実家は兄達とその友達が駆け回る環境だから、療養には向かなかったのだろう。

 私は年が近く本好きなところが和希の祖母に気に入られて、「療養の友」に任命されていた。

「だから、条件クリアに協力してくれる人を探してた。じいさんが死ぬまで妻のふりをしてくれそうな、『俺と結婚したくない人』をね」

 普通に探せば殺到して面倒なのは想像できる。でも「死ぬまで」なんて、あまりに不謹慎かつ不確定すぎるだろう。

「人の死を待つなんて」

「だから、ひとまず三年間で頼みたいんだ。報酬は弾むよ。君のお母さんに貸したお金も請求しない」

 追加された予想外の内容に、背筋が恐ろしいほど伸びる。貸した、お金?

「主婦仲間に唆されて、老後資産を増やそうとFXに手を出したらしいよ。貯蓄用口座にあった三千万を溶かしたって、去年の冬に相談を受けた」

 和希は宥める視線を私に向けながら、茶を口に運ぶ。私も急激に乾いた喉を潤したくて、冷めた苦味を一息に空けた。

「残った二百万から元に戻して欲しいって頼まれたけど、すぐにできるわけがない。戻る前にバレるのが関の山だから、とりあえず貸したんだ」

 母がこの見合いを推し進めた理由は分かったが、父には絶対言えない。父はギャンブルを始めとした山っ気の強いものが大嫌いなのだ。

「君にも話さないで欲しいって言われたけど、それじゃ受け入れてくれないから」

 頭を下げてなかったことにしてもらうつもりだったのを、完全に見透かされていた。

「報酬が足りなければもう一つ、彼氏に任期なしの仕事を紹介するよ。県外のBラン私大だけど、悪くはないと思う」

「私の犠牲を喜ぶような人じゃありません」

「知ればね。彼が自然に受け入れられるよう、根回しはするよ」

 余裕の笑みを浮かべる和希に、諦めの息を吐く。ポスドクにとって任期なしのポストは喉から手が出るほど欲しいものだ。広斗は実績を評価されて再任用されはしたものの、今年で四年目だ。求人をくまなくチェックし応募し続けているが、未だ勝ち取れていない。

――ごめん、いつも甘えてばっかりで。せめて正規で働けてたら良かったんだけど。

 私はお金なんてある方が出せばいいし、相手にないなら自分が稼げばいいだけだと思っている。でもその考えが広斗を傷つけている不安は、常につき纏っていた。これで、広斗の後ろめたさが消えるのなら。

「分かりました、お受けします。ただ、母の件は話してないことにしてください」

「話が早くて助かるよ。また書面にするから、よろしくね」

「後悔しても知りませんよ」

「しないよ。君がわがままで容赦ないのは知ってる」

 一足早く腰を上げた私に続いて、和希も腰を上げる。私より二十センチは高いところから見下ろして、ふふ、と笑った。


 広斗が私の部屋を訪れたのは、夜十時を過ぎた頃だった。

「晴子のことを知ってて申し込むくらいだから、勝算はあるんだろうと予想はしてた」

 全てを聞き終えたあと、座卓にコーヒーカップを置いて顔をさすり上げる。

「ごめんね、でも」

「俺とは、別れた方がいい」

 予想していなかったわけではないが、それは最悪の選択肢だ。途端に視界が揺らぐのが分かる。

「……私のこと、いやになった?」

「そうじゃないけど」

 洟を啜りながら尋ねた私に、広斗は頭を横に振って俯く。だめだ、終わってしまう。

 思い立ってパジャマの前を開き、盛り上がった胸に残る無数の痕を見せた。

「見て。私は全部、あなたのものなの。この胸も髪も、頭のてっぺんから爪先まで、あなたのためにあるの」

「俺は、君に愛されていいような人間じゃない。君はちゃんとした」

「私は、完璧な人なんて望んでない。好きになった人がいいの」

 伝い落ちる涙を拭いもせず、見つめ返す。何も返さず俯く広斗に腰を上げ、傍に座った。尚も動かない体を引き寄せて、胸に抱く。

「戻ってくるから、待ってて」

 伝えながら馴染んだ髪の流れを撫でると、広斗は胸に埋もれて温かい息を吐いた。


 翌朝、目を覚ましたら広斗が消えていた。座卓に、まるで準備していたかのような封書を残して。震える指で取り出した短い手紙には、丁寧な字でここを離れることが綴られていた。私が父の病気について話した時にはもう、決めていたらしい。

 『君を離したくないと思う度に、殺意が湧いてしまう。いつかこの衝動に抗えなくなりそうで、ずっと怖かった。この血から君を守るためには、離れるしかない。』

 手紙は私に一つ嘘をついていたと、父親は傷害罪ではなく殺人罪だったことを告げて、終わっていた。



 心地よい日差しに満ちた縁側で優雅に紅茶を飲みながら、母は庭で遊ぶ和希と有也ゆうやを眺める。

「有也は元気に生まれて良かったわね」

「こっちの血が強かったんじゃないの」

 苦笑して、私も母の横顔から二人へと視線を移す。私と和希は結局、父の手術終了を待って結婚した。

――みんなが腫れ物に触るみたいに俺を扱う中で、唯一みかんの皮を剥かせ続けた君が好きだったんだよね。白い筋まで取り除かないと許されなかった。

 三年だったはずの期限はなくなり、義祖父は今も死ぬ気配すらない。三年前に産んだ息子は心配していた先天性の疾患もなく、よく寝てよく食べよく育っている。

 そういえば、と気づいたように切り出した母に、再び視線を戻す。

「あなたが結婚前に付き合ってた人がいたでしょう。一度、電話をかけてきたことがあったの」

「いつ」

 驚く私を気に留めず、母は空のカップに新たな一杯を注いだ。

「あなたが切迫流産で入院してる時よ。人伝に聞いたみたいでね。無事だって話したら、安心して切れたわ」

「なんで黙ってたの」

「だって、もう終わった人でしょ」

 母はまた優雅にカップをもたげて、ボールを追い掛ける有也に目を細める。終わった人、か。さざなみだつ水面に散る自分を眺めながら、二月ほど前に携帯を揺らした非通知の着信を思い出す。きっと、まだ終わっていない。血から逃げ切れなくなれば、ちゃんと会いに来るはずだ。

 あの頃より柔らかくなった胸を撫で、そうね、と呟いた。

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