stay.

棗颯介

stay.

「ではこれより実験開始です。よろしくお願いします」

「はい」

「はーい」

 白衣を着た折り目正しい女性が一礼して部屋を出ていく。室内に取り残されたのは自分と、数分前に出会ったばかりの妙齢の女性。

「んじゃ、えっと。よろしくね、おにーさん」

「えぇ、よろしく」

 言葉や立ち居振る舞いは些か軽薄に映るが存外礼儀正しい人のようだ。

 自分はこれから、この女性と同じ屋根の下で生活を共にする。


 今年で二十五になるが未だ定職に就いていない自分はその日の食い扶持をアルバイトで稼いで凌いでいる。所謂フリーター。仕事を選ばなければ案外なんとかなるものだ。仕事を選ばない自分が割のいいバイトとして紹介されたのが、とある企業傘下の研究所で行われる実験の被験者。内容を箇条書きでまとめると大まかにこうだ。


・被験者は研究所に用意されたとある部屋で生活する

・衣食住は研究所が保証

・部屋内に私物の持ち込みは一切禁止

・室内にテレビやスマートフォン、時計や窓といった外部情報および現在時刻を知ることのできるものはない

・部屋の出入り口は外部から施錠され、脱出は不可

・部屋の状況はカメラと盗聴器によって常時監視されている

・部屋を出るためには被験者全員が部屋を出ることに同意する必要あり

・実験期間に期限はない

・報酬は部屋で過ごす時間に比例して上昇、上限額はなし


 つまり、部屋から出ようとしなければ一生タダで飲み食いができる。仮に出るとしてもそれまでに十分な期間を部屋で過ごせばその分だけ報酬はハネ上がる。自分のような身分の人間にとってはこれほど都合のいいアルバイトもないわけだ。

 というか、自分は最初からこのバイトに参加が決まった時から、続けられる限りは一生この部屋で過ごそうと決めている。その日暮らしの人生が楽なわけでも楽しいわけでもあるはずがないのだから。

 ただ一つ誤算というか、不確定事項があったとすれば。

「………」

「………」

 視線の先には、ちょうど部屋の反対側の壁に背中を預けてどこか遠くを見つめている女性の姿がある。まさか年頃の女性と同室になるとは思っていなかった。

 まぁ、だからといってどうこうするつもりもない。ましてこの部屋は研究員に二十四時間監視されているのだ。そんな環境で自分が万に一つのことも起こすはずがない。

 俺はなるべく彼女の存在を意識しないよう、自分用の簡易ベッドで横になり目を閉じた。


***


「結構美味しいよね、ここの料理」

「そうですね」

 美味しいと口では言いつつ、会話はひどく味気ない。若い男女が同じテーブルを囲んで食事に勤しんでいるというのに。

 この部屋に入ってからもう何日が経ったのだろうか。窓もなければテレビもないここでは時間の感覚がひどく曖昧だ。唯一頼りになりそうなのが体内時計という名の腹の虫だが、おそらくここで提供される食事の配給時間は固定ではない。眠っている間にいつの間にか配膳棚(ラブホテルによくある、スタッフが部屋に入らず室内に提供できるものだ)に出されているときもあれば直前に摂ったものが胃で消化しきっていないときに出される時もあり、完全に不定期だ。

 まぁ、なんでもいい。出してくれる料理はどれも美味いし、寝たいときに眠れるこの部屋での生活には何の不満もない。同居人もこれといって積極的にこちらに絡んでくることもない。充分だ。

「そういえばさ」

 食事中、不意に目の前に座る女性が声を上げた。

「おにーさん、名前は?」

小暮直幸おぐらなおゆき

「あたしは上葵かみあおい。まだ自己紹介してなかったよね。歳はいくつ?」

「今年で二十五ですね」

「じゃああたしの三個下になるのか。直幸って呼んでいい?」

「ご自由に」

「そーする。直幸もあたしのこと葵って呼んでいいよ。名字で呼ばれるの好きじゃないし」

「ええ」

「直幸さ、なんか面白い話なーい?」

「これといって何も」

「素っ気ないー。この部屋って娯楽品が何もないじゃん?あるのは着替えと食事とトイレとシャワールームだけだし。というか最後の二つについては防音とロックがしっかりしててホントよかったわマジ。あぁ別に直幸のことを疑ってるわけじゃないよ?」

「いや、お互い初対面なのに同じ部屋で生活するわけですし、警戒心を持つのは当然かと」

「ありがと。でさ、とにかく暇なのよ」

「ベッドで眠っていればいいじゃないですか。寝ている間は何も難しいことを考えず済みますし」

「あたしも最初のうちはそう思ってたんだけどー、何日もそんなことしてたらさすがに飽きちゃうし」

 執拗に娯楽を求めてくる彼女に自分は内心苛々していた。いや、楽しみたいと思うのは結構なのだがそれを自分に求めないでくれ。

「ねぇねぇ直幸」

「葵さん、人が一年間にまばたきをする回数はおおよそどれくらいか知ってます?」

「え?」

「それについて考えてみてはいかがでしょうか」

 それだけ告げて自分は食事を終え、小さく手を合わせてさっさと自分のベッドに戻り横になった。離れた場所から彼女が何か言う声も聞こえてきたが、食後の心地よい睡魔に身を任せればそれもあっという間に遠くなっていく。

 ちなみに先程の問いの答えはおよそ六百二十万回と言われている。この部屋で一年過ごすとしたらもう少しは減るのかもしれないが。


***


「直幸はさ、ここに来る前はなにしてたの?」

「ただのフリーターでしたが」

 不定期に提供される食事の時間。不定期な上に日付感覚も曖昧なこの部屋で過ごしていれば何時間ごとに来ているのかはもはや考える気にもならないが、自分が葵と会話するのは自然とこの時間になる。会話と言いつつ話しかけてくるのは一方的に彼女の方だったが。

「まぁ、普通に会社員として働くのって性に合わない人もいるよね。あたしもだけど」

「………」

 彼女の経歴に興味はないので特に返す言葉もなかった。しかし彼女としてはやはり「葵さんはここに来る前は何を?」とでも聞いてほしかったのだろう。予想していたであろう返事を貰えないまま彼女は続ける。

「あたしもいろんな店を転々としてたけど、一括りで言うなら風俗業ってことになるのかな。キャバクラとかガールズバーとか」

「そうなんですね」

「いつも通りっちゃいつも通りだけど相変わらずリアクション薄いなぁ直幸は。もうちょっと興味持ってくれてもいいんじゃない?」

「実際興味はないので」

「ひょっとして女性にも興味ない系?」

「今は、そうですね」

「ふーん。まぁ、それはそれでいいんだけどさ。同じ部屋で生活してる今は尚更」

「………」

「まただんまりだし」

「話したいことも特にないので」

「あたしは話したいの。暇だから」

「人が一生に歩く距離は地球何周分と言われているでしょうか」

「ん?またトリビア?」

「ごちそうさまでした」

「って質問に対する返事になってないし」

 彼女はいろいろとごねていたが悉く無視して自分はベッドで横になった。別に彼女がこれまでどういう人生を歩んでいようが自分には関係ないし、これからもない。たまたま同じ屋根の下にいるだけの少々喧しい同居人でしかないのだから。

 ちなみに先程の問いの答えは平均して地球五周分。この部屋で一生を過ごすとしたら下手をすれば一周分にも満たないかもしれないが。


***


「直幸はさ、ここを出た後ってどうする予定なの?」

 もう何度目になるかも分からない食事中、葵がそんなことを尋ねてきた。

「どうするとは?」

「ここにいる間何もできなかった分遊びまくるとかさ、家族や友達に会いに行くとかあるじゃん?」

「これといって何も」

「まさか一生ここで過ごすつもりとか」

「それもいいかとは思ってますけど」

「げぇ、マジで言ってる?」

 彼女は眉間に皺を寄せてあからさまに怪訝な態度を見せた。少なくとも彼女はいつかはここを出る目算だったようだ。彼女がその気でもこちらに出る気がないとなれば部屋を出るには被験者全員の同意が必要という実験終了条件を満たせなくなってしまうのだからその反応は至極当然といえる。

「ここの外の方が楽しいことって沢山あるじゃん。仲良い友達も家族もいるし、仕事するのは面倒だけど代わりにどこへだって行ける自由もある。いつかは出た方が良いってやっぱ」

 価値観の相違だ。

「まぁ、そうかもしれませんね」

 しかし表立って反目するのも面倒なので曖昧な言葉だけ返しておいた。

「あたしはさ、この部屋出たら溜まってる借金返して人生やり直したいんだ」

「借金」

「うん。大学時代にホスト通いとかでいろいろ遊んでたら膨れ上がっちゃってさぁ。まぁ全部自業自得なんだけど」

 よくある話ではある。多少の同情もある。しかしやはり興味はない。付き合う義理もない。

「ここでしばらく過ごしてると、普通にテレビ観たりゲームしたり友達と飲みに行ったり遊んだりしてたのがどれだけ幸せなことだったか痛感するんだよねー。失くして初めて分かるってやつ?虫のいい話かもだけどさ、次こそは人生間違えないように正しく生きたいと思うんだよね」

「素晴らしいです」

「毎度そうだけど言葉に気持ちが籠もってないのよ直幸。直幸もさ、いつかここ出たら一緒に飲みに行こうよ。あたし良いお店知ってるよいろいろ」

「………」

「なんとか言ってよ直幸」

「人間が一生のうちに殺人犯とすれ違う回数は平均何回でしょう」

「こわっ!なにその問題」

「ごちそうさまでした」

「だから『ごちそうさま』で返事しつつ話切り上げるのやめて」

「考えておきます」

 考えると口では言いつつも考えることを放棄するかのように自分はベッドで横になる。内心では苛立ちが募っていた。眠ることで一刻も早くそれを振るい落としたかった。

 “次こそ人生を間違えないように”?

 葵はここを出たら神にでもなるつもりか?人なんだから間違えるのは当たり前だろう。間違えて当たり前だから生きるのは辛いんだろうに。どうしてそこまで生きることに前向きになれるのか、自分には理解できなかった。少しこの部屋で安寧に過ごすうちに外で生きる辛苦を忘れてしまう彼女のことがどうしようもなく許せなかった。

 ちなみに先程の問いの答えは平均十六回と言われている。この部屋で一生を過ごすとしたら回数は限りなくゼロだろうが。


***


「ここに入ってどれだけの時間が経ったんだろうね」

「葵さんに分からないものを僕が知るはずありません」

「分かってるよそんなこと」

 そう吐き捨てる彼女の顔には明確な焦燥の色が浮かんでいる。実際自分もこの部屋に入ってどれだけの時間が経ったのかは分からないが、まともな神経の持ち主ならそろそろここを出たいと思い始める時期ではあると思う。

「ねえ前も言ったけどさ、そろそろここ出てみない?」

「今出ても葵さんが納得する額の報酬は貰えないかもしれませんが」

「そうだけどさ」

 このアルバイトの報酬額は知らされていない。もっと言えば時間に比例して増えるという話だったが、その具体的なレートもこちらは把握していない。もしかすると一時間で一円という極端に低い上がり幅かもしれないのだ。そんなリスクは彼女も承知しているだろう。借金を抱えて金に困っているというのなら尚更。

「直幸ってさ、外に彼女とかいるん?」

「いませんが」

「そっか」

 仮にいたとして、いつ終わるかも分からないこのバイトに参加することはないと思うのだが。

「言われてみれば女に興味ないとか前に言ってたもんね」

「そうですね」

「あたしは興味ありまくりだけど」

「ホスト通いしてたのならそうでしょうね」

「別にそういうのじゃないって。単純に良い男と楽しく過ごしたいってだけ。ここを出たらね」

「そうですか」

「結婚とか子供とか、そういうのもできたらいいなって思ってる。少し前まで何が良いのかイマイチ分かってなかったけど、好きな人とずっと一緒に過ごすって幸せだろうなって思うし」

 聞いていて酷く不快な幸福論だった。できることなら今すぐ両耳を手で塞いでしまいたくなるほどに。

「あーあ。早く外に出て遊びに行きたいな~」

 葵はわざとらしく口元に人差し指を置いてチラリと誘うような視線をこちらに送ってくる。そのわざとらしさが一層こちらの神経を逆撫でしているということに気付きもしない。

「ねぇ、直幸もさ—――」

「ごちそうさまでした」

「えっ、今日はトリビアなし?」

「………人間には目で見えない色というものが存在します。どんな色でしょうか」

「見えない色?」

「………」

 ベッドに戻り頭のてっぺんまで布団にくるまっても、先程の葵との会話が頭から離れなかった。

 “好きな人と一緒に過ごすことが幸せ”だって?

 まるで結婚すれば生涯幸せが保証されるとでも言いたげだなと思った。そんなわけがないだろう。結婚することで、子供を作ることで逆に不幸になる人間だっている。他人の幸せの定義にケチをつけるつもりはないが、少なくとも自分は認めない。受け入れられない。自分はそういう人間だから。それでいいと思っている人間だから。

 ちなみに先程の問いに答えはない。誰の目にも見えない色なのだから当然だ。もしかしたらこの部屋の中にもあるのかもしれないが、何度人生をやり直したところで自分が人である限り認識することは決してないだろう。


***


「ねぇ、いい加減もう出ようよここから!」

「………」

 いつも通り配膳された食事に手を付けようともせずに葵が声を荒げた。ここ最近、で彼女は明らかに実験開始当初とは様子が違ってきている。焦り、不安、不満。そんな感情から来ているであろう余裕のなさが言動にはっきり出るようになっていた。

 彼女の精神がいよいよこの閉鎖空間での生活に耐えられなくなってきている。

 しかし。

「考えておきます」

「考えるって言ってるだけじゃん直幸。本当は出る気なんてないんでしょ!」

「ないですね」

「ねぇ、どうしたら出る気になってくれる?いいよ。あたしなんでもする。なんでもするからさぁ」

 彼女は席を立つと半ば哀願するようにこちらに身を寄せてきた。まるでテレビのドキュメンタリーでよく見る麻薬を欲しがる人種のそれと同じような顔をしている。

 そのサマが滑稽すぎて笑いが込み上げてきた。

「ぷふっ」

「何がおかしいの?ねぇ、何したらいい?なんでもするよあたし」

「いや何も。そうですね、じゃあとりあえず静かにしてください。食事中なので。あと食べづらいので自分の席に戻って」

「うん分かった、分かったからぁ。そうしたらここから一緒に出てくれる?」

「考えておきます」

「ねぇぇぇ!!!」

 とうとう彼女は泣き出してしまった。静かにしてくれと言ったばかりだというのに。

「もうやだぁ………もうやだよこんなところにいるのぉ…………」

 おそらく今のこの会話も外の研究員はカメラ越しにばっちり見ているだろうが、向こうもこの程度のことで実験を中断したりはしないだろう。というか、こういうのを含めて観察するために連中がこの実験をしているというのは想像に難くない。

「ごちそうさまでした」

 女性の泣き声を聴きながら摂る食事は別に普段と味が変わることもない。いつも通り美味しかった。

「葵さん」

「えぇ………?」

「人が眠っているとたまに身体がビクッとして目が覚めることがあるのはどうしてでしょうか」

「知るわけないじゃん、そんなのぉ………」

「そうですか」

 床に蹲る彼女を素通りしていつも通りベッドに戻る。葵のすすり泣く声が聞こえる気もするが知ったことではない。

 目を閉じるとあっという間に睡魔が訪れた。


***


 ———ん………?


 奇妙な違和感を覚えて目が覚めた。

 暗い。ベッドで横になった時には電気はつけっぱなしだったはずだが、その後葵が消灯したのだろうか。それについては別におかしくもなんともない。

 なんだか、いつもより身体が重い気がする。特に下半身が。

 暗がりの中で徐に手で布団の中をまさぐると、明らかに自分の身体ではない何かが触れた。ざらざらとした、そう、まるで人の毛髪のような。

 “それ”が何かを察した瞬間、かけていた布団を勢いよく払いのけた。依然部屋は暗いままだがそろそろ目が慣れてきた頃合いだったらしい。そこにいるのが誰なのかすぐ分かった。というか、この部屋においては一人しかいない。

「何してるんですか、葵さん」

 暗闇の先にはこちらのズボンに手をかけて妖しく笑う葵の姿があった。よくは見えないがどこか心ここにあらずというか、理性のタガが外れたとでも形容すべき様子に見える。

「えぇ………?直幸が聞いたんじゃん、寝ているときに身体がビクッとして目が覚めるのはどうしてかってぇ………。こういうことでしょ……?こうしてほしかったんでしょ………?」

 別にそういう意図で言ったわけではなかったのだが、よくよく考えれば今の状況と彼女の心理状態を鑑みればそう邪推してしまうのもあながち無理はないように思える。

「あたしもぉ、もうずっとご無沙汰だったから溜まってるしぃ……。シャワールームで一人で済ませるのももう限界だったんだよぉ」

「………」

「ねぇ。あたしと一緒にここから出たら、もっとイイことしてあげるよ?ぶっちゃけ直幸のこと顔は悪くないなって思ってたんだよねぇ~。こっちの相性が良いなら結婚しちゃってもいいな~って思ったりぃ……」

「………」

「いいよ、直幸とならぁ。結婚してぇ、たくさんヤッてぇ、子供作ってぇ、幸せになろ?」

「………………はぁ」

 目の前の女を心底軽蔑した。

 暗闇の中、部屋のある一点を向いて自分は声を上げた。

「もういいですよ。彼女を出してあげてください」

『承知しました。担当の者が向かいますので少々お待ちください』

「えっ………?」

 どこに備え付けられているのか分からないスピーカーからいつぶりに聞くかも分からない他人の声が室内に響き、目の前で夜這いをかけようとしていた葵もさすがに困惑しているようだった。

「もういいですよ葵さん。ここを出ても」

「ほんと………?」

 突然のことに頭の整理ができていないのか、そんな呆けた声が返ってくる。しかし直後部屋が明るくなり、固く閉ざされていた扉が開いたところでようやく何が起きたのかを悟ったようだった。

「出られる、出られるの?終わったの……?」

「そうです。終わりです。もう外に出ていいんですよ」

「あ、あぁぁぁ………。ありがとう、直幸ぃ………」

 眩しい室内灯の下、ベッドの上で神に罪を許された罪人のようにこちらに頭を下げる彼女の姿は、見ていてどうしようもなく不快だった。

「お二人とも、長い間お疲れ様でした」

 声につられて振り向くといつの間に入ってきたのか、実験開始時に説明を受けた研究員がそこにいた。

「お二人がこの部屋にいた時間は五十六日と十四時間三十一分二十九秒でした。この度は貴重なデータサンプルを提供いただき誠にありがとうございました。報酬は外でお渡しいたしますので、先にかみ様から来ていただけますでしょうか」

「はい。はい。あぁ、やっと終わった、帰れるぅ………」

 そんなことをうわ言のように呟きながら葵は研究員と共に部屋を出ていった。

 残された自分はしばらくベッドに背を預けたままそこでじっとしていたが、やがて先程の研究員が再び部屋に戻ってきた。

「小暮様。お疲れ様でした」

「はい、どうも」

「小暮様にも報酬をお渡ししたいのですが、お気持ちは当初と変わらずでしょうか」

「えぇ、構いません」

「私どもとしては確かに助かりますが、無理にとは」

「いいんです、俺はそれで」

 短くそう告げると、研究員もそれ以上は何も言えなかったのか小さく頭を下げた。

「承知しました。次の実験開始日は三日後を予定しております。引き続きよろしくお願いいたします」

「えぇ、よろしくお願いします」

 そして研究員は出ていき、部屋には束の間の平穏と静寂が訪れる。願わくばこれが永遠に続いてほしいところだが、あくまで自分は彼女たち雇われている立場だ。そこまで無理を言うこともできない。


 最初に話したこの実験の概要は、間違いではないが適当でもない。

 早い話が、自分は被験者ではなく協力者として参加していた。

 当初担当者にこの実験の概要を説明されたときに、こちらから提案したのだ。

 “報酬はいらない。その代わり今後もこの実験が続く限りは継続的に参加させてほしい”と。

 提案を呑んでもらった後に聞いた話だが、そもそもこの実験の目的というのは、無駄なもの(例えば娯楽品、外界の情報、他者との十分なコミュニケーション)の一切が削ぎ落とされた環境で長時間過ごした人間が社会に戻った時にどういった反応を見せるのかを観測することにあるらしい。

 つまり、この部屋の中で過ごした内容ではなく、ここを出た後の生活をここの研究者たちは知りたいということ。葵の言葉を借りるなら、“次こそ人生を間違えないように生きていこうとするのか”といったところだろうか。この後葵にはここの研究員が密かにつく形で経過観察が行われるそうだ。

 無理を承知での提案だったが、研究所にとっても自分のような協力者の存在はありがたい側面もあるらしい。被験者全員の同意がなければ部屋から出られないということは、裏を返せば同意さえあれば早々に実験を終わらせることも可能という意味だ。研究する側からすれば充分な結果を得るためにはギリギリまで精神を消耗した状態であることが望ましい。そのためそもそも部屋を出るつもりのない、極限状態になるまで絶対に他の被験者を外に出させない人間が必要だった。その条件を満たしていたのが自分だ。


 ———ここの外の方が楽しいことって沢山あるじゃん。

 ———好きな人とずっと一緒に過ごすって幸せだろうなって思うし。

 ———結婚してぇ、たくさんヤッてぇ、子供作ってぇ、幸せになろ?

 

 本当に呆れる。

 そうしても俺は幸せになれなかったというのに。

 俺が結婚したのは高校卒業後。学生時代に付き合っていた女性とだった。彼女と過ごす日々は幸せだった。彼女さえいれば他に何もいらないと本気で思っていたほどに。

 でも、いつまでも続かなかった。

 俺には次の世代に命を繋ぐ機能がなかった。葵の言う、家族を持つ幸せとやらを俺は生まれながらに天に奪われていたのだ。オスの機能不全一つだけで彼女との関係には徐々にヒビが入っていき、それを修復する間もなく彼女は事故で死んでしまった。

 彼女が死んだとき、自分の中の何かも一緒に死んだのだと思う。


 誰もいなくなった部屋で一人、天井の電灯の光をぼんやりと見つめながら思う。葵は果たして本当に外で人生をやり直し、幸福になることができるのだろうか。

 予想だが、最初のうちはそれなりに真っ当に人生を歩むだろうがやがて同じような間違いや過ちを犯すのだろう。興味はなかったが一緒に過ごした時間はそれなりに長かった。なんとなく分かる。当たり前すぎて気付かなかった幸せを一度取り戻しても、それもいつかはまた当たり前すぎて見えなくなるものだ。

 まぁ、どうでもいい。彼女が幸せの絶頂に登りつめようが、不幸のどん底に落ちようが自分には関係ない。

 

 ―――せいぜい幸せにでも不幸にでもなればいい。

 ―――俺は見送る側で結構だ。

 ―――この狭い部屋の中から。

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