エミリー・フランソワーズの手紙④
※ ※ ※
目の前は
雪の白なのか、夜の黒なのか、それすらも判別できない景色が視界に広がっています。
わたくしは、足から感じる傾斜を頼りに、山頂に爪先を向けひたすら前へと進んでいました。
「はぁ……はぁ……、まだなの……」
正面から押し返してくる風のせいで、ちゃんと前に進めているのかもわかりません。
魂まで凍てつくような風は、容赦なく体温を奪っていきます。
ランタンの心細い光を道しるべに、とにかく止まらないように、少しずつ前へと進みました。
「ふふっ……」
不意に、可笑しくなってきました。
きっと、他の誰かに見られていたら、低体温症だと疑われていたことでしょう。
でも、仕方がないのです。
常識という名の鳥かごに囚われていたわたくしにとって、冬の雪山登山等という蛮行はあまりにも常軌を逸していたのですから。
この土地を訪れるまでのわたくしは、酷く退屈な女でした。
当たり前を当たり前にこなすことだけに人生を捧げてきました。
働かなければ食べていけない。食べていけなければ生きていけない。
そんな当たり前を追いかけるあまり、わたくしは自分の人生を、狭く貧しい物にしてきたのです。
そんな迷いがあったから、違う生き方を見つけたかったから、わたくしは都会を飛び出して、新たな道を求めたのでしょう。
そして、わたくしは見つけたのです。
狭い世界の中で、無限の世界を見るあの方を。
わたくしと同じ景色を見て、わたくしとは違う世界を見ているあの少年を。
彼はそう、まるで満ち欠けをする月のようで、いつも新しい視点をわたくしに与えてくださった。いつも、優しく微笑んでくれた。
かつてのわたくしなら、きっと、こんな行動はしなかったでしょう。
迷信にすがって過酷な雪山に登るだなんて、鼻で笑っていたに違いありません。
でも、いまは違います。
わたくしは、信じたい。
この世界には奇跡が溢れていて、闇雲な努力や苦労が報われることを。
正しさだけが、正しいわけではないということを。
「あっ!」
凍った雪の塊に足をとられ、転んでしまいました。
ランタンは雪に埋まり、火が消えました。
真の暗闇が、わたくしを抱きます。
頬に触れた雪が痛い。
まつ毛が凍っているのか、瞬きのたびに、瞼に重みを感じます。
無様にも四つん這いになって、手さぐりにランタンを探します。
頼りないとはいえ、唯一頼れる光源です。ここで失うわけにはいきません。
けれど、降りしきる雪はさらにつもり、わたくしの膝から下は、あっという間に埋もれてしまいました。
ならば当然、ランタンも、すでに雪の下に埋まってしまったことでしょう。
明かりもなく、助けもなく、わたくしはこのまま、雪の中で死んでいくのでしょうか。
それも悪くない、と思いました。
不思議と死への恐怖はなく、心残りがあるとすれば、ロイ様の最後を看取ることができなかったということでしょうか。
「お星さま……どうか……どうか、あの方だけは……」
わたくしが祈った直後、足元からなにかが登っていきました。
それは、光。
地上からまっすぐ空へと登っていく、流れ星。
それから、これは幻覚でしょうか。
山の上から、幾人もの人影が降りてきて、わたくしを取り囲みました。
「今の光は……っ! そこにだれか……!」
「……おい! ……じょうぶ……しっかり……!」
「まだ息が……我々のベースキャンプへ……」
人影の一つに背負われ、彼らは山の上へとわたくしを運んでいきます。
広く屈強な背中。その背中から伸びる方には、黄色い、星の紀章が輝いていました----。
※ ※ ※
長い冬が終わり、春になりました。
わたくしはいま、ロイ様の部屋の中で、彼のベッドの上で、大の字に寝転がっております。ふかふかです。
あれほど狭いと思っていたベッドも、こうして寝転がってみるとなかなかどうして、とても大きなベッドだったのだなぁと気づかされました。
「寝心地抜群ですねぇ」
じゅるる、と垂れてきた涎を吸い上げて、顔を横に向けると、棚の上に小さな鉢植えが置かれていました。
いつかの、クリスマスローズの鉢植えです。花は萎れ、すでに枯れています。
枯れた花から目をそらし、窓の外に広がる、逆さまの空を見上げました。
燦燦と照らしつける太陽に、目を細めます。
わたくしは、生き残りました。
なんでも、軍隊の方々が、故郷に近いこの土地に新たな防衛基地を作るための視察にきていたそうです。ところが視察中に吹雪に見舞われ、立往生。
そんな時に、麓から照明弾が放たれ、彼らが様子を見に行くと、その先には雪に半分埋まっていたわたくしがいた、というわけだそうです。
偶然にも部隊に腕利きの軍医がいらっしゃったことがあ幸いでした。それに、さすが国家の安全を守る方々。所持していた薬も充実しており、わたくしの低体温症も後遺症を残すことなく完治しました。
照明弾は、ロイ様がお姉さまに頼んで打ち上げたものだそうでして、結果的にロイ様を助けようとしたわたくしは、その実、ロイ様に助けられたというわけなのでした。
翌朝、吹雪が止んで軍人さんたちと共に下山。
スタンダード家は彼らをもてなすと、隊員たちはこの土地のじゃがいもをいたく気に入り、基地の設立が決定。
スタンダード家の皆さんは、ようやくじゃがいもの買い手が見つかった、と大喜びでした。
わたくしは知らなかったのですが、ここ最近じゃがいもの買い手が見つからず、苦労されていたようです。
皆さん、忙しかったのですね。どうりでロイ様に冷たいと思いました。
まぁその態度が正しいか正しくないかは関係なく、わたくしは許せませんけどね。
それにしても、
「一流侍女としてあるまじき失態ですわぁ……」
うららかな春の陽光が照らす中、溶けてしまいそうなほど顔が熱くなってまいりました。
願掛けにいって死にかけて、しかも助けようとした人に助けられる。
なんなんでしょうねこれ。これではわたくし、ただのおバカさんじゃありませんか。
誰もいないベッドのシーツにくるまって、深く、息を吸いました。
若葉と、お日様と、あの人の匂いがします。
「意味がなかった……わけではないのですよね……?」
あの人は、もうここにはいません。
わたくしは仕事もそっちのけで、まどろんでいました。
すると、廊下から軽やかな足音が聞こえてきました。
足音は部屋の前で止まると、ゆっくりと、扉を開きました。
「いた! こんなところにいた! なんで僕の部屋にいるのさ!」
「うーん、あと五分……」
「五分じゃないよ! もう出発だよ!? 今日は僕に、市場を案内してくれるっていったじゃないか!」
「そうでしたっけ?」
彼は、がりがりと後頭部を掻きむしります。
「まったくもう、ここ最近の君は変だよ。今日だって急にかくれんぼしようだなんていいだしてさ」
「会えない時間が、二人の愛を育むのですよ」
「前と言ってることが違うじゃないか……」
はぁーあ、とため息をついて、彼はわたくしのもとへ歩み寄ってきます。
そして、手を差し出してくるのです。
「さ、いこう。エミリー」
ほらね。
そして、わたくしはその手を握り----
「あっ」
「え……?」
返せませんでした。
握り返そうとしたところで、ひょいっと手を挙げて避けられてしまいました。
「お水を上げるの忘れてた」
彼はそういって、棚の上の鉢植えに、コップのお水を注ぎ始めます。
なんたるデリカシーの無さなのでしょう。わたくしは、大層ご立腹です。
「もう枯れているではありませんか」
「そう思うなら、よく見てごらんよ」
どこか嘲るような物言いにむっとしつつも、わたくしはベッドから降りて鉢植えに近づきました。
やっぱり、何度見ても枯れています。
花は萎れて、葉は茶色くなって、茎はいまにも朽ちて折れてしまいそうです。
ですが、ふと、枯れた花の根元に小さな若葉が生えていることに気が付きました。
重なるように広がった、二枚の瑞々しい葉っぱが折り重なったこのシルエットは、まるで。
「枯れてない。始まったんだよ」
「……そうですね。これは終わりではなく、始まりだったのですね」
どちらからともなく、わたくしたちは手を握りました。
でも、わたくしの方から、わざとらしく彼の指の間へ、自分の指を滑り込ませることにしました。
ほどよく彼の体が強張ったところで、わたくしたちの一日は始まったのでした。
エミリー・フランソワーズの手紙 超新星 小石 @koishi10987784
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