エミリー・フランソワーズの手紙③

※  ※  ※


「はっ!」


 目を覚ますと、すでに夜でした。

 膝の上には、ロイ様の手紙。隣には、クリスマスローズの鉢植え。

 どうやら、手紙を読みながら眠ってしまったようです。なんだか懐かしい夢を見ていた気がします。


 口の端からこぼれた涎をハンカチで拭い、手紙をポケットにしまって、それから鉢植えをもって立ち上がりました。

 ロイ様はこのお花に興味を示していた。お気に召したかどうかはさておき、とりあえずプレゼントしちゃうつもりです。


 きっとロイ様なら、押し付けるに等しいプレゼントでも、なにかしらの意味を見出して楽しんでくれることでしょう。

 意気揚々と彼の自室へと足を運び、扉を開けました。


「ロイ様ー! すいません、うっかり寝坊しました! お夕飯の前にプレゼントを----ロイ様?」


 返事がない。

 いつもなら、ノックしてよ、とか、騒々しいね君は、なんて言葉が出迎えてくれるのに。


 部屋は真っ暗。

 足元から這い上がってくるような冷気で、息が白くなります。

 ロイ様は病弱です。ですが、全く動けないわけではありません。部屋の明かりを点けたり、お手洗いに行くことくらいなら自分でします。

 ではなぜ、いまは真っ暗なのでしょうか。

 嫌な予感がしました。


「ロイ様……? あの、申し訳ありませんが、明かりを点けさせていただきますね……?」


 断りを入れ、扉の横にある室内ガス灯のコックをひねった。

 部屋の天井に明かりが灯ると、ベッドの上で横たわるロイ様の姿が見えて、安堵した。


「よかった、どこかにいってしまわれたのかと……っっ!」


 歩み寄ると、すぐに違和感を覚えた。

 雪のような白いシーツに付着した、鮮烈なまでの赤色。


「ロイ様!」


 すぐさま駆け寄り、体を揺するが反応はない。

 ただでさえ青白かった顔は、もはや蒼白と形容するに値するほど血の気が引いている。


「ロイ様! ロイ様! くっ!」


 部屋に常設されていた伝声管にかけより、蓋を開く。


「誰か! 誰か来てください! ロイ様が!」


 必死に叫ぶと、伝声管の向こうから慌ただしい足音が聞こえてきた。

 この真鍮製の管の先は本館につながっているのです。

 わたくしは、目いっぱい声を張り上げて叫びました。


「だれか……だれか助けてぇ!」


 それから----なにがどうなったのかは、よく覚えていません。

 大勢の方が部屋を訪れ、そして出ていきました。

 お医者様は、首を左右に振っていたように思います。

 辺境ですので、薬がなかったのかもしれません。よくわかりませんが。


「ありがとうね、弟を見てくれて」


 最後まで残っていた方。ロイ様のお姉さまが、たった一人部屋に残ったわたくしに、優しく語りかけてくれました。


「見ることしか、わたくしにはできません……」


 侍女として毅然とふるまうつもりが、わたくしの声は涙で掠れていました。


「それで十分よ。だって、だれもかれもがこの子から目をそらすんだもの。この子も、そんな生き方にすっかり慣れてしまっていたから、あなたがいてくれてよかった」


 ロイ様とは対照的な、黒く艶やかな前髪をかき揚げ、お姉さまはロイ様に視線を送りました。

 まっすぐな足取りでベッドに歩み寄り、ロイ様の枕元におかれていた本を手に取りました。


「星に願いを、か」

「なんですか? それ」

「そっか、あなたは他の土地から来た人だものね。この土地にはね、山の頂でお祈りをすると願いが叶うっていう言い伝えがあるの。これは、そんな言い伝えに関する本みたい」


 お姉さまは「わたしはこういうの興味ないけどね」といって乾いた笑みを浮かべました。

 その笑顔に、どこか諦めの色が滲んでいることを、わたくしはなんともいいがたい気持ちで見つめたのでした。


「わたしはもういくわ。あなたは----」

「わたくしは、ロイ様のお傍にいます。それが務めですので」

「そっ。なら、あとのことは任せるわ。……本当に、ありがとうね」


 そういって、彼女はわたくしに本を渡し、部屋を出ていきました。

 廊下から微かに、すすり泣く声が聞こえてきました。

 やがて遠ざかる足音とともに泣き声も聞こえなくなった頃、わたくしは本を開きました。


 その本は、なんども読み返したのか、ページの端が擦り切れていました。

 黄色く変色した紙をぱらぱらとめくり、お姉さまがいっていた言い伝えに関する章で手を止めました。


 はるか昔のこの土地には、悪い竜が住みついていたそうです。竜の吐き出す毒によって、木の一本、花の一輪も咲くことのない痩せた土地でした。

 村人たちは迫りくる毒から逃げて山の頂へと登りました。

 もはや逃げ場などないその場所で、彼らは天を仰ぎ見て祈ったのです。

 するとその時、彼らの頭上を一筋の流れ星が通り過ぎました。

 星の煌めきに魅了された竜は、通り過ぎた星を追いかけ、高く高く空へと舞い上がると、そのまま夜空の向こうへと飛んで行ったのでした。

 こうして、この土地では、星に願うことで悪しきものが遠ざかるという言い伝えが産まれたのです。


「ただの……おとぎ話です……」


 わたくしは本を閉じました。

 そう、これはおとぎ話。

 現実に竜なんてものがいるはずもなく、毒を解くには流れ星ではなく、医者と薬に頼るべきなのです。

 でも----。


「ただ指を咥えてみているだけだなんて、そんな怠慢は……ノンです!」


 椅子が倒れるほどの勢いで立ち上がり、わたくしは部屋を飛び出しました。

 外套を羽織り、ランタンを手にぶら下げて屋敷の玄関を開くと、外は昼間とは思えないほど薄暗い。

 空に広がっているのっぺりとした雪雲は、遠く見える山の頂の先端で渦を巻くようにまとわりついています。


 冬の雪山。


 都会育ちのわたくしでも、その危険性は重々承知しています。

 でも、行くしかないのです。

 合理的ではありません。

 科学的でもありません。

 魔術的、とも少し違います。

 ただ待っているだけだなんて耐えられないから。


 刻一刻と失われていく命を炎を見つめていると、胸が、体が、引き裂かれてしまいそうだから。

 故郷を飛び出したあの日のように、わたくしは、わたくしの意思で前へと進むのです。

 それしか、自分を保つ術を持たないのです。


「さあ、行きますよ!」


 待ち受ける困難を見据えながら、わたくしは雪の大地へと踏み出しました。


※  ※  ※



 暑い。いや、熱い。それとも、苦熱あついか。

 この土地に住んでいると、一年の間に数度は温盛ぬくもりが恋しくなる。

 けれど、僕の人生の中で度々遭遇するこの苦熱だけは、好きになれない。

 喉を通る呼気は熱く、肺が燃えているかのようだ。

 狭い狭いと思っていたベッドが異様に広く感じる。

 全身を押しつぶされるような感覚と、ふわふわと体が浮き上がるような感覚が同時に襲ってくる。

 心と体が、バラバラになってしまいそうだ。


「お前は、出来損ないだ」


 そんな僕の耳に入ってきたのは、父上の声。

 幻聴だ。

 父上が僕の見舞いになどくるはずがない。これは、自分で作り上げた父上の声だ。


「どうしてあなたは、姉のようになれなかったの?」


 お母さまの声が聞こえる。

 ああ、そうだとも。僕は姉さんのようにはなれなかった。

 興味がないふりをして、目をそらしていた。


「やればできる。でも、あなたはやることすらままならないんだね」


 姉さんの声が聞こえる。

 そう、僕はなにをするにもままならない。

 大切な人の傍にいることはおろか、走ることも、話すこともままならない。

 スタンダード家の男子として産まれながらこの体たらく。

 僕には、生きる価値があるのだろうか。

 わざわざ離れまで用意されて、専属の侍女まであてがわれて、周囲に迷惑をかけてまで生きる意味があるのだろうか。

 ああ、そうか、この声は、僕の作った声じゃないんだ。

 死神の誘いなのだ。

 いっそのこと、僕はこのまま----。


「----ノン、でございます」


 耳元で、囁くような声が聞こえた。


「はぁはぁ……エミリー……? どこに……」


 ぼんやりと視界に映る部屋の中に、彼女の姿はない。


「----星に願いを、でございますよ」


 その声を最後に、彼女の気配は消えた。


「駄目だ……駄目だエミリー……。冬山に登るなんて、そんなの……」


 彼女は、僕の太陽だ。

 風の心地よさを、花の香りを、外の自由を、僕に伝えてくれる太陽なんだ。

 失ってはいけない、大事な人なんだ。

 脱力していた体に力を込める。

 ベッドの淵をつかんで立ち上がろうとしたが、転がり落ちた。

 なんとか壁に寄りかかって立ち上がり、伝声管を握りしめる。


「誰か……エミリーが、エミリーが危ないんだ!」


 返事はない。

 いま、何時だ。

 ランプがついているってことは、夜だと思う。

 頭がくらくらする。また、血を吐いたのかもしれない。


「誰か返事をしてくれ……誰か……」


 喉を振るわせる度に、喉の奥から灼けるような息が漏れてくる。


「誰か!」


 力をふり絞って声を張り上げると、伝声管の返答口から「ロイ?」と問いかける声が聞こえた。


「その声、姉さん……?」

「ロイなのね!? どうしたのよこんな夜更けに! お化けかと思ったじゃない!」

「姉さん、お願いだ……エミリーが……山に……」

「エミリー? ねえ、ちょっと! なにがあったの?! 返事をしてロイ! ロイ!」


 僕の名前を呼ぶ姉さんの声が、徐々に遠ざかっていく。

 駄目だ、力が抜ける。

 膝が曲がり、ずるずると体が崩れ落ちる。

 冷たい床の上に倒れ、僕は目を閉じた。


「頼んだよ……姉さん……」

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