旅先の女

だっちゃん

旅先の女

 「これ。」という切っ掛けがあったわけではない。 

 つい最近までSNSに仕事の愚痴や先の見えない不安を吐露しながら、都心の銀行でそれはそれなりに働いていた。

 毎晩のように残業で深夜の帰宅、飲み会もある。これからのことを考えると婚活も勉強もしなければいけない。結局、睡眠時間を削ることになり日々心を擦り減らしていった。

 あるとき職場で小さいミスを立て続けにしてしまい、「もしかして、これから先もこうして失敗ばかりの人生を送り続けることになるのだろうか。」と思った。そのくらいのことで目の前が暗くなったように感じて、遅刻と欠勤を繰り返すようになってしまった。

 ある日、部署の上長から呼び出され、「きみ最近、遅刻と欠勤が多すぎるよ。」と諫められた。同じ日、人事課長から呼び出され、「きみ最近、遅刻と欠勤が多すぎるよ。」と諫められた。「ああ、本当に限界なのかもしれない。」と思った。

 それで仕事に行けなくなった。おかげで人生の見通しが全くつかなくなってしまった。

 以来、嬉しい、楽しい、見たい、やりたいに類する情動が雲散霧消してしまった。

 仕事がないからずっと望んでいた家庭を持つ自信もないし、新しい仕事をする気持ちも続けていく自信もない。TV番組や映画、マンガや小説みたいなモノを積極的に観たいとは思わないし、望んで美味しいモノを食べに行こうとも思わない。

 やりたいことがない人生はまるで誰かが道端に吐き捨てたガムを拾って延々クチャクチャクチャクチャ咬まされ続けているようで、生きていることそのものに生理的な嫌悪感を覚えた。

 しかしある日、ふいに「旅に出てみよう。」と思った。

 それは働いている時分、時間が無くて出来なかった「過去の自分がやりたいと思っていたこと。」であって、「今はもはやどうでもいいこと。」でもあった。

 それでも今正に旅に出るには最適のタイミングで、これを逃したら次はないかもしれないと思ったとき、旅くらい出てみても構わないのではないかと思った。家の中で独り自家中毒のように精神が底へ沈んでゆくのに身を任せるのも悪くはなかったけれど、旅先で考え事をするのも大して変わりはしないだろう。

 そうして本州最南端の鹿児島から出発し、およそ2か月かけて青森に辿り着いた頃には、もう年末になっていた。

JRの線路が埠頭に向かって途切れていて、「最北端にやって来たんだ。」というある感慨があった。駅前にも雪が残っていてよく滑った。登山靴で旅に出て良かったと思った。

 駅前のビジネスホテルに宿をとり、レンタカーを借りて市内を散策することにした。

 少し小道に入れば除雪されてない道路も平気であるし、そういう道でもスタッドレスを履いた車は案外滑らないのだと思った。都心では考えられないけれど、氷点下の町にも生活があり、生活があれば人出もあるのだった。海辺の町は風が強くて、雪の冷たさに肌が痛んだ。市内には温泉が沢山あって、外気の冷たさとの落差で格別の心地よさがあった。

 そんな風に時間を過ごしていると、ちょっと前まで都心の暖かいオフィスでパソコンをカタカタして禄を食んでいたことなんて白昼夢の類いだったのではないかと思えてきた。

 あの日々に戻りたいとは思わない。それでも「きみは何者なのか。」と問われたとき、誰恥じること無い「立派な社会人。」なのだと答える術を失ったことで、なし崩し的に何か自分の中で終っていくのを覚えた。理解ある上司も支えてくれる同期もいた、多分これ以上ないくらい完璧な環境を得て、それでもなおどうすることもできなかった。

 夜半になり、適当な居酒屋で田酒を啜った。

 市内には居酒屋が点在していた。きっと寒いからなのだろうと思った。年末だからなのか客足は少なかったけれど、それが気楽だった。寒い地域特有の味の濃い料理も、地酒と一緒なら丁度いい塩梅に感じた。

一人、本を読みながら物思いに耽っていると、「あら?」と声を掛ける者がいた。

「お兄さん今朝、駅で転んでいたでしょ。」

 見上げると若い女がいた。目鼻立ちがくっきりしていて、小麦色の肌をした美人だった。私が答えかねていると、「何処から来たの?」といって勝手に私の隣のカウンターに座った。

「東京だよ。旅人っぽかった?」

「わかるよ、お兄さん歩き方が危なっかしかったから。」

「見られてたんだ。恥ずかしいな、それは。」

 東京では聞かないイントネーションで話す彼女の言葉は耳ざわりが良く、ずっと聞いていたい気持ちになった。彼女は26歳で、ナギサと名乗った。ナギサはよく笑った。

「出張で青森きてるの?」

「ああ、オレがスーツ着てるからでしょ?違うよ。スーツしか服が無いから、スーツで旅してんの。」

「何それ、アハハハハ!スーツしか持ってないの?お兄さん、結構変な人でしょ!アハハハハ!」

 決して後でお互いを特定することができないよう心の内を全て明かさない。それでも雰囲気を壊さない程度に崩すくらいの表面的な会話。仕事をしながら婚活しているときは苦痛だったそういう会話も、仕事もしないで話し相手に飢えている今となっては適度な心地よさがあった。

「ねぇ、どこ泊まってるの、ついてっていい?」

 と言うナギサに対して、美人局という言葉が浮かばないこともなかったけれど、そういう面倒ごとが起こっても構わないという気持ちがあった。

 居酒屋の外に出ると、猛吹雪になっていた。

横に並ぶと、思っていたよりナギサは身長が高かった。意表をつかれたように思うのは、きっと顔が小さいのだと思った。

「ナギサちゃん傘持ってないの。仕方ない、入りなさい。」

 私が折りたたみ傘を広げると、ボロボロに骨が折れていて崩壊寸前だった。海辺の町は風が強くて、安物の傘なんかじゃ簡単に壊れてしまうのだった。

「何これ、ボロボロ!アハハハハ!こんなのさしても意味ないよ!」

 ナギサは文句を言っていたけれど、ホテルに向かって駆けて行くと「キャー!寒いー!」と楽しそうに傘に入ろうとするのだった。

 徒歩数分のところにあるホテルに着くころには、私たちの身体にはびっしり雪がまとわりついていて、暖房で水滴に変わろうとしていた。ナギサの言うとおり、あんな傘じゃさす意味なんてほとんどなかった。

 部屋に入るなりナギサが私の袖を掴んだので、私たちはそのままキスをして交わった。

「どう、青森って。」

「良い所だと思うよ。出会った人は皆んな良い人だと思うし、温泉もたくさんあるし。」

「旅行してる人にとってはね。この町に良い人なんていないよ。私もボロボロだもん、DVとか。見て。」

 ナギサの膝とアゴには大きな痣と切り傷のような痕が残っていた。旦那は彼女への暴力で警察に捕まり、最近離婚が成立したということだった。それで多分、彼女自身の枷も外れてしまったのだと思った。

 小さい顔に大きな目、高い鼻、細い顎。こんな繊細な造型を男の力で殴りつけたら、それは簡単に壊れてしまうだろうと思った。

「旦那は最悪だった。弱い立場だと思ったら後輩も殴ってたよ。ほら、外寒いから逃げ場もないし。何度も骨折られた。私、働いてるのに。」

「女にこんな傷が残るくらいの力で殴るなんて、ネジ飛んでるね。オレはキミみたいに美人な女の子と結婚したいと思って婚活を頑張ってたんだけど、今では諦めて放浪してる。人生って上手くいかないね。」

「美人なんてあんまり言われないから嬉しいよ。私、肌黒いからずっといじめられてたし。」

 彼女がよく笑うのはきっと、そういう処世術が身についてしまったからなのだと思った。

「私も、あなたみたいな優しい人と結婚したかったな。東京にはあなたみたいな人が沢山いるのかな?」

「東京に来たらいいじゃない。きっと君と一緒になりたい男なんて沢山いるよ。」

「アハハ、それはどうかな。」

 小さく丸まって胸に顔を埋めるナギサの背中に手を回し、強く抱きしめた。

「グウウウ、男の人の腕力ってこういうために使うんだよね。もっとシテよ、アハハハハ。」

 ホテルの外に出ると吹雪は止んでいた。年が明けようとしていた。

「これからどこ行くの?」

「家に帰るよ。車、近くに停めてるんだ。」

「飲酒運転じゃん。」

「もう抜けたよ。あと、東京はきっといつか行くからね。」

「うん、遊びにおいで。待ってるから。」

 しばらく抱擁してから私たちは別れた。ああでもきっと、私たちはもう二度と会うことはないんだろうなと思った。心の底に、誰か他人を好きになる萌芽のようなものを感じて、登山靴でその芽を踏みつけ擦り潰すイメージを思い描いた。

 それから何度かLINEでやりとりを続けたけれど、やがてどちらからともなく連絡はしなくなった。

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