エピローグ(異世界編)



 朝靄が立ち込めるなか──


 東宮の正殿『朱鳥殿』前にある南庭では、呪祓いの儀式が厳かに執り行われようとしていた。


 聖域となった南庭は、普段なら広いだけの砂利敷きした空間だが、今は中央に神が宿る火処ひどころとしての祭壇が設えてある。


 東宮だけで執り行う内輪儀式にもかかわらず、帝も皇后も出席するという。帝が動くとなると、諸官も含め多くの随行員を引き連れることになり、おのずと儀式は盛大なものになっていく。


 静寂のなか、太鼓が鳴った。


 音を合図に、背筋がすっと伸びるような緊張感に包まれ、儀式ははじまった。


 四方から神官たちが静かに進み出て、松明の炎を祭壇に焚べ声を合わせ開幕の言葉を天に捧げた。


「かしこみ、かしこみ申す。四神、いずれ参られよ」


 若い神官たちは緊張の面持ちで、大袈裟に両手を天にかかげる。


 しばらく……。

 祭壇では火の粉がぱちぱちと勢いよく爆ぜ大きな炎となっていく。

 頃合いが良いと断じたのか、彼らは四神への祈りを天にも届けと朗々と唱え、儀式の開幕を告げた。


「あずまにセイリュウ、なむスザク、とんでビャッコにゲンブましましッ!」


 よく晴れた日だった。




 儀式直前、太華は魅婉の準備に目を潤ませながらテキパキと働いた。


「魅婉さま、太華はうれしゅうございます。このような公の場にご出席なられるとは……。この数日、ご記憶を失われたあとのお振舞いには、太華、肝がつぶれておりましたが。しかし、再び麗しい魅婉さまにお戻りになられて」

「太華、今のわたくしがいいの?」

「も、も、も、も、もちろんに、ございますとも」


 太華は少し無理をしている。わたくしと同様に、あの不思議な人が去り、寂しさを覚えていると思うとほほ笑ましい。


「寂しいのね。あれは、わたくしではありませんでした。もう一度、頭を打って、あの者を呼びましょうか」

「と、とんでもないことにございます」


 太華の引きつった笑顔を見ながら、本音としてはどうだろうと、魅婉はひとりごちた。


「太華、わたくしも寂しいの。とても、でも、あの方は行ってしまわれたわ。あの方と、そして、……暁明も」

「姫さま」

「そんなに心配そうな顔をしないでも大丈夫、わたくしは約束したのです。もう守ってくださる方はいないから、自分で自分を守って幸せになると。ところで、太華、あの日から、ちょっとだけ困っていることがあるのです」

「なんでございましょうか」

「提督東廠さまが」

「天佑さまでございますね」

「東宮でのことで、わたくしに相談に来られるのですけど」


 太華は吹き出した。


「ほんに、あのお偉く威張った方が、姫さまのご意見を求めるなど」

「だから、仕方なく。『俺はわからん』と突っぱねているのですけど」

「それは……」

「いつか本当のことを話さなければ。彼なら理解できるしょうね。わたくしが理解できないことを」


 獅子王が去ったのちも、彼の存在はそれぞれの心に大きな刻印を残した。


 天佑だけでなく太華や麗孝にも、なにより魅婉にとって天地がひっくり返ったような経験だった。

 強引に暗闇から引きずりだされ、もう一度、生きることを教えてくれた獅子王。彼に会うことがあれば、伝えたいことがある。


(獅子王さま、もうこうお呼びしても、お返事はない。でも、ありがとうございます。あなたのお陰で生きようと思うようになりました。それが、あの人の……、暁明の強い願いでもありますから)


「さあ、行きましょう。儀式がはじまるわ、太華」

「お供いたします。姫さま」



 

 正殿である『朱鳥殿』には列席者用の席が設けられ、正面には天皇、皇后。その隣に麗孝と皇太子妃。背後には側室たちの席が設けられていた。


 魅婉の席は麗孝のちょうど真後ろだった。

 少し遅れたのか、皇太子妃や側室は席についていた。


 魅婉が入ってまもなく、麗孝が入場した。


 その態度は堂々としたものであり、つねの王者然とした風格は見るものを圧倒する。

 少し痩せて頬がこけたゆえか、さらに男の色気が増している。周囲の女たちから期せずして一斉に「ほぅー」というため息がもれたのも致し方ないことだ。


 あの日。したたかに酔っ払い、赤ちゃん還りした麗孝の姿を思いだすと、その姿が幻だったようにも思える。


『みぃ、魅婉よ。余の女。そぅなたはぁ、余のものぉだぉ』と、駄々をこね。

『魅婉よぉ……、◇*X@△&#……、は、は、なぁれすまぁ……』と、あどけない顔で酔い潰れていた。


 彼は、こちらへ視線を向け、目があっても表情を変えずに席につく。どの仕草も鷹揚として優雅だ。

 あの時の麗孝と、この人が同じ人物だとは少し信じられない思いもする。


 数日前、呪祓いの儀式を執り行うと内侍が伝達したとき、麗孝から内々の申し伝えがあった。


「暁明殿につきましてですが。奴婢であり、呪いを受けたとはいえ罪悪人である彼のために葬儀をあげることはできませんが、『呪祓いの儀式』を借りて、ともに彼を弔いたいとのご趣旨にございます。魅婉さまには、ぜひ、ご出席くださいと申されております」


 暁明が死に獅子王は消えてしまった。


 あの短い日々のなかで、いったい何がおきたのか、実際にはよく理解できない。

 こうしていても、背後をうかがえば、暁明が見守っている気がして、思わず周囲をうかがってしまう。



 太鼓がドンドンドンと大きく鳴った。


 儀式がはじまったのだ。

 従者に導かれた主神官が登場して、所定の位置に立つ。彼は祭壇の周囲を舞うように、ゆづり葉を揺らして、不浄をはらう。


「おお、おお、おお」と、リズムを刻み、主神官が舞う。


 儀式の中ほどで、麗孝が祭壇に向かった。

 神衣に身を包んだ彼は、どこまでも凛々しい。空気の澄んだ冬空のもと、誰もがその姿に目を奪われていく。


「まあ、なんと神々しいのでしょうか。我が君さまは」と、隣にすわる花楓ホアフウからため息が漏れた。



 太陽が中天に高くのぼる頃、儀式は滞りなく終わった。


 人びとは儀式の余韻を感じながら正殿を去っていく。


 しかし……、人びとが去っても、わたくしは立ちあがることができなかった。

 そこに、まだ暁明がいるようで、最後までその場にすわり、祭壇に燃える焚き火が熾火となり、完全に消えるまで、静かに見守り続けた。


 火が燃え尽きたのち、祭壇から一筋の白い煙が天に昇っていく。

 両手を差し伸べた。

 からっぽになった祭壇にむかって弔いの言葉をのべる。


 ──さようなら、暁明さま。



「魅婉」


 背後から声が聞こえた。

 いつの間にか、平伏に着替えた麗孝が戻っている。

 

「彼に、別れを告げたのか」

「はい」

「そうか」


 麗孝は隣に腰をおろし、しばし沈黙したのち、静かに語りだした。それは、ボツボツと途切れ、けっして流暢ではなかったが、魅婉の心をうった。


「余は……、そなたが、どれほど暁明を思っていたのか知っているつもりだ。……暁明を忘れよとは言わん。だが、余とともに彼を思い出として語り、そうして生きていくことはできないだろうか……。そなたは生きている、魅婉。……余は、これから国のために精一杯の仕事をしていくつもりだ。そんな余を支えて欲しい」


 後半の言葉は囁くように小さかった。

 彼の手が近くにあった。

 小指が触れるほど近くにあって、そっと、まるで偶然のように指が重なった。


 わたくしは逃げなかった。



 ──大丈夫よ、暁明。この本当は甘えん坊の孤独な人を支えて、わたくしは幸せになるつもりだから。心配しないで、天に昇っていきなさい……。いつか、また、再びあなたに出会うことを、わたくしは信じているの。あなたなしで生きてはいけないけれど、それでも生きていくわ。幼い頃から、わたくしだけを見つめている愚かな人とともに。

 そして……

 いつか、また、出会いましょう。

 その時は、平和な世界で、平凡に結ばれ、子を育て、ふたりで一緒に年を取るの。その時は、少しだけあなたが後に逝くのよ──


 祭壇から、ふいに一筋の煙が昇り消えた。

 麗孝の手がおずおずと伸びてきて、わたくしの肩を優しく抱く。その顔を見上げ、ほほ笑みかけた。


 彼の唇がわたくしに触れる。


 静かに、優しく、泣きたいほど、そっと、そして、ひそやかに……。

 



−  了 −

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