土間

江古田煩人

土間

 奏上師の朝は早い。

 というのは単なる決まり文句でもなく、実際に彼の一日はまだ日も昇りきらない午前四時過ぎから始まるのだから、狭い寝室の格子窓から覗く錯感さくかん商店街には三件先の軒先で朝の仕込みをしている豆腐屋の主人のほかに動くものは何もなかった。薄い鼠色をした朝もやの中で、窮屈そうに背をこごめたまま金物たらいを洗っている主人の背が不意にすっくと伸び、やや斜視しゃし気味の瞳が格子窓をすかしてこちらを見た。丁寧に磨いたガラス玉のような猫の目だ。べつに深い意味はなかったのだろうが、そんな目で見られるとこちらも他人の生活を覗き見していたようでいささか決まりが悪い。あえて視線に気付かないふりをして、ゆっくりと窓から離れた。長く垂れた髪を頭上で団子にくくりながら、さりげない調子で格子窓にふたたび視線を走らせたが、豆腐屋の主人はいつの間にか店の奥に引っ込んでしまったようで、ぐっしょりと濡れた軒先には誰もいなかった。

 連雀れんじゃくヒエイは、この錯感商店街に店を構える奏上師である。奏上師などというありふれた職業について今更詳しく述べたてる必要もないだろうが、最近は婚礼でも葬式でもやたらと洋式や仏式が流行るせいで、奏上師のおつとめに触れる機会も少ないことだろうから、その仕事内容について簡単に説明しておくことにしよう。

 早い話が、式の当事者に代わり神様の前で祝詞のりとを挙げる仕事である。もとは厳粛な場における宣明をより神様に届きやすくするようにと、巫女や神主が代わって奏上を読み上げたことに由来するらしいが、そのうちに餅は餅屋とばかりにたちまち奏上専門の職ができてしまった。専門とはいえ単に神前で祝詞を上げればよいだけではなく、神前式や葬式の進行手順、またこまごました供物の配置などにも気を配らなくてはならないのだから、なかなかに気を使う仕事なのである。彼も五年前に隣国から丹本へ渡ってきてからというものの、たった一人で奏上師としてこの錯感商店街で働いている。中心街で行われる式と比べて、ここガラ通りでの式の依頼はその大半がごく簡略化されたものであるため、そこまで式の進行に気を使わなくても済むのが利点と言えば利点であった。報酬もその分ぐっと下がるのが難点だったが、それも一日に何件かの依頼をはしごすれば済むのだから、中心街で仕事をするよりかえって効率はよかった。だいたい中心街では先だっての話どおり何の式をするにも洋式や仏式ばかりがもてはやされるようになってしまい、奏上師への依頼自体が少なくなっているのだから、食いっぱぐれもいいところである。いや、奏上師という神職に携わるものが食いぶちだの効率だの損得勘定で物事を考えては姫神様に申し訳が立たない。どんな依頼であれ誠心誠意を持って向き合うのが奏上師の務めなのである。それにしても、この貧民街での依頼の九割弱が葬儀や事件・事故現場のお浄めなのにはいささか閉口したが。

 そんな事を考えながら、塩水で口をゆすぐ。神様の前で声を上げる職業なのだ、生臭い息で祝詞を挙げたりしては姫神様に罰を受ける。今日は特にこれといった依頼もなかったのだが、飛び入りで奏上の依頼が入ることもしばしばなので、いつ声が掛かってもよいように準備だけは怠らないでおくのである。寝押ししておいた長袍チャンパオに袖を通し、簡単な身支度を整える頃にはようやく日も昇りはじめたようで、透かし彫りの格子窓からはセロファン紙のような淡い金色の光が差し込んでいる。普段のごみごみしたガラ通りからは想像もつかないほど心地よい朝だった。一日がこんな具合に平穏無事で過ぎてくれたならそれに勝ることはないのだが、世の中そううまくいくものではない。商店街のあちこちから起き出してきた住人の気配に混じって、およそ猫でも嗅ぎ分けられないようなかすかな腐臭が、朝日に乗って不意にヒエイの鼻をかすめた。この街にはいやというほど巣食っているなにか、およそ人ならざるなにかの臭いだ。こうした仕事に就いている以上、目に見えない存在をおおげさに否定することはしないが、かといって亡霊だの邪鬼だのと人前でいたずらに話題にするのは運気的にも、また社会的にもよろしくない。どんなものに出会ったとしても、それとなく、事務的に対処してやれば何も問題はないのだ。一階に降りる前に再び格子窓へ目をやると、例の豆腐屋のすぐ角にぼんやりとした人影がうずくまっているのが見えた。明らかに人の姿なのにそのくせぼやぼやと輪郭が定まらず、黒い綿くずを人型に丸めたようにも見える。こちらの気配に気づいた人影が顔を上げる前に、ヒエイは足早に階段を降りた。

 

 寝る前に焚き込めていた白檀びゃくだん香が、祭壇の周りにまだ薄くけぶっている。あの異様な腐臭もここまでは漂ってこず、しずかに朝日が差し込む部屋の中、黄蝋燭と緋の緞子どんすで豪奢に飾られた祭壇は、匂い立つような荘厳な美しさを静かに放散させている。その中央に配された掛け絵に向かって深々と首を垂れると、ヒエイは静かにその場へひざまずいた。両手の甲を床につけ、額を床へ擦り付ける。叩頭の礼。昔から「奏上さんを呼ぶときは額の平たいのを選べ」とはよく言ったもので、近頃はこうした朝晩の祈りも形ばかりで済ます奏上師も多いらしいのだが、やはり目に見えないものを相手取る限りはこちらも目に見えない存在の力を借りる必要があるため、ヒエイは姫神様への朝晩の挨拶を何より大事にしていた。額が固く、平たくなるほど叩頭をせずして、一体どんな神様が力をお貸しくださるというのだろう。神への祈りなど単なる自己催眠だと笑うものもいるが、それなら尚更信じる力が重要なのだ。イワシの頭に神が宿るなら、いわんや神様の掛け絵をや、である。十五回目の叩頭を終えるとヒエイはほつれた横髪を耳に掛けながら、改めて姫神様の掛け絵を見上げた。成人した際に父より譲り受けた猫母娘娘びょうぼにゃんにゃん図である。農村部で広く信仰された、五穀豊穣を司る女仙。大きな猫の背にまたがって稲刈り鎌と水瓶を掲げ持ったこの女仙こそがヒエイの仕える姫神様であり、また彼の妻でもある。妻といえどこの通り写し絵、それ以前に神様なのだから、仲むつまじく話をするというわけにもいかない。姫神様へおとなしく祈りを捧げる朝のこのひとときが、唯一の夫婦の語らいといえばそうかもしれなかった。もう一度祭壇に向かって深く頭を下げると、ヒエイは新たな白檀香に火を点した。細く長く立ちのぼる白煙が空中で不意にほぐれて、辺りの空気を乳白色に染め上げる。祭壇にすっかり乳色の紗が掛かるまでその場に佇むと、ヒエイは部屋を後にした。そろそろ朝飯の支度をしなければならない。履き慣れた布靴を突っかけつつ玄関から覗いた景色は普段の錯感商店街となんら変わりなかったが、豆腐屋の方角から、再びあの、なんともいえない臭いがかすかに鼻をかすめた。

 

「あんた、見てたろう、うちを」

 豆腐屋の猫目の主人はヒエイの姿を見るなり、痰混じりのごろごろいう声でそう唸った。見ていた、といえば間違いはないのだが、それに何かまずいことでもあるのだろうか。あからさまに覗き見をしていたなら怒られるのも致し方ないが、まさか窓越しに数秒店を眺めるのが覗きにあたるとでも言うのだろうか。いくら禁欲の身でも、老年の男性に興味を抱くほど無分別ではない。聞こえなかったふりをしてステンレスの桶桶にゆらゆらと沈む絹豆腐を指差したが、主人は豆腐を取り上げるでもなく、底光りするような暗い目でかっちりとヒエイを見つめたまま、きしむような声でもう一度唸った。

「見てたろう。昨日も、おとついも、その前もだよ。なんだってそう人の家をじろじろ見つめるやつがあるかい………え、なんとか言ったらどうなんだ。あんたみたいな仕事の人間にそう目を走らされちゃ、うちだっていい気はしないんだよ」

 静かに、だが吐き捨てるように呟く主人の口から一筋よだれが垂れ、地面にぽつりと黒い染みを作った。見開かれた二つの目は細かく血走り、今にも顔から溢れ出しそうである。右手に携えた豆腐包丁を握り直すと、その拍子に朝日を受けた刃が主人の腰元で鈍く光った。いい気はしない。そう、この店には良い気がしない・・・・・・・。それもそうだろう、やたらと刺々しい態度を見せる人は往々にしてよからぬものを隠し持っているのだ。それにこの……確かに、このあうえた臭いは、店の奥から漂ってくるようだ。おとついより、昨日より、はるかに濃く、むせかえるような臭い。暗い目を空に据えたまま、ぶつぶつと何事かを呟きながら水桶に腕を突っ込む主人の脇をすり抜けて、ヒエイは薄暗い豆腐屋の土間に一歩足を踏み入れた。ひやりとした空気が肌を撫でる。

「覗きやがる……どいつもこいつも……俺なんかを見て、一体何が面白いってんだ……畜生め……ちくしょう……」

 勝手口は閉まっているというのに、どこからか生臭い風が吹いてくる。袂から念珠を取り出し、一つずつ静かにつまぐりながら、ヒエイは素早く店のあちこちに目を走らせた。縦長の土間に置かれた豆腐寄せ機……豆の皮がこびりついた大豆の蒸し釜……上がりかまちの奥、居間に貼られた八月のカレンダーが風もないのに揺れている。部屋の隅を、なにか大きな黒い塊が数個、音もなく駆け抜けたが、こんな所で猫でも飼っているのだろうか? いや、あれだけの大きさなら足音くらい立てるだろう。もっとよく見ようと一歩足を踏み出したヒエイの靴裏で、なにか柔らかいものが弾けた。ねとついた感触がする。

「見るなってんだ……見るな……俺はもう、償ってきたじゃあないか……もう……もう、許してくれたっていいだろう……」

 どこから湧いたのか、赤い神経をへその緒のように垂らした眼球が、一瞬のうちに土間を一面埋め尽くしている。立ちすくむヒエイの後ろで、蒸し釜が不意にけたたましい音を立てた。血だ。蓋の隙間からどぼりと赤黒い血が噴き出し、土間をじとじとと濡らしていく。固く握りしめた手の中で、数珠玉が擦れ合ってきしんだ音を立てる。おおよそ予想していたことだった。だからこうして、少し近所に出掛けるのにも念珠の携帯は欠かさない。しかしまさか朝飯前にこんなものを見せられるとは思っていなかったのだが、長いこと恨みを聞き届けられなかった向こう方の必死な思いに、こちらが文句をつける筋合いはない。聞き届け、受け入れ、送り返す、という点では豆腐屋の奏上師も懺悔室の神父も似たようなものである。話を聞く対象がこの世ならざるものという点では相違があるかもしれないが、それだって着ている肉を脱いだだけのことだ。ただ、場合によっては人智を超えた実力行使をされかねない、という点では、懺悔室の神父の方がいくらか安全かもしれなかった。ゆっくりと右足を上げると、つぶれた眼球が地面と靴裏との間にゆるく糸を引いていた。不意にぐさりと、布団針でうなじを刺されたような痛みが走る。咄嗟に視線を上げかかったのをこらえ、長袍の裾をひるがえすとヒエイは土間にひざまずいた。ぬるい血溜まりがぐっしょりと膝をひたす。目の前になにがいるかなど、わざわざ顔を上げないでも分かるだろう。血の気の失せた、木の枝のような両足……痩せて骨張った女の足。頭上から針のように降り注ぐ、痛いほどの視線。ともかく目の前にいるのが誰であれ、はるばる黄泉の橋を渡ってこちらまで来られたのだから、まずはその労をねぎらうのが先である。地面に顔を寄せると、錆びた鉄の臭いがつんと鼻をついた。きちんと揃えた裸足の足が、すぐ目と鼻の先にある。足指の爪はすっかり腐り落ちてしまったようで、代わりに赤黒い血の塊がこごっている。この足で現世まで歩き通すのは、並大抵のことではなかったろうに。生臭い腐臭がことさら強くなった。

「仕方なかったんだ……見て、いられなかった……あんなに痩せて、そうだろう、あいつを病院に連れて行く金なんか、俺には……仕方なかったんだ……ひとつ、楽にしてやるしか、俺には……だから、だから……あいつの首を、俺は……」

 ずるりと濡れた音を立て、目の前に腐りかけた生皮が落ちてきた。血に濡れて絡まり合った髪の毛が、瀕死のなめくじのようにじくじくと痙攣している。頬に跳ねかかった血しぶきを拭うこともせず、ヒエイはただ頭を垂れたまま微動だにしなかった。土間一面に転がる眼球は一つ残らず、ヒエイをじっと凝視している。見ている……見られている。なぜこの人はこんなにも、視線に執着するのだろう? ふと思い返す、風にめくられかけた居間のカレンダー……その奥からかすかに香る、安い線香の匂い……執拗に書き込まれた赤い丸は、もしかすると、誰かの命日ではなかったろうか? 途端に、ずん、と背中を象に踏まれたような重みが襲いかかってきた。否応なしに土間へ顔を押し付けられ、生臭い錆の味が口に広がる。波のように押し寄せる吐き気をこらえ、食いしばった歯の隙間からかすかに息を漏らす。

 ——ああ、やはりそうなんだな。あんた、旦那のことが気がかりで、わざわざ命日に帰ってきたのか。だってそうだろう、言いたいことがあるから、そんな足で無理を押して……あんた、顎はまだ腐り落ちていないか、言いたいことがあるなら、どうかこの俺に教えてくれないか——

 釜の沸く音が、どこか遠くからするようだった。すすり泣く豆腐屋の主人の地を這うような声も、同じくらい遠くから聞こえてくる。

「あいつの首は、細かったんだ、でも俺だって、病がちで、力もないもんだから、あいつはかえって苦しがって……気がつくと、目を、かっと見開いたまま、それっきり……俺がいくら目を閉じようとしても、あいつは、あいつは、目をまんまるに見開いて……ものすごい形相で……まるで、まるで化け物みたいに……忘れたいのに、頭から離れちゃくれなくて……」

 豆腐屋の主人が、どこか服役所から出てきた人間だということは、わざわざ口にしないまでも周囲の誰もが知っていた。独りきりで豆腐屋を切り盛りして、もう三年になるだろうか。別に誰も、豆腐屋の主人に胡乱な目など向けちゃいない。どこかに後ろ暗いことがあるのはお互い様だろう、ここで暮らす以上は他人の人生に口を出さないのが暗黙の了解なのだから。ただ、ご主人、あんただけは自分のしでかした事を見て見ぬふりで済ませちゃいけなかったんだ。見るな見るなって、誰もあんたの事なんて見ちゃいないさ。悲しい話だね、好き合って一緒になったってのに、死にざまひとつで化け物扱いとはな。弔うって言ったって、単に命日に奥さんの写真へ水と線香を供えりゃいいって話じゃあない……自分のしたことに向き合っているように見えて、その実、誰よりも目を背けていたのは、あんただったんだよ。分かるかい。奥さんはね、それがいよいよ許せなくなったんだとよ。

 背中の重みが、ふっと軽くなった。

 ——心配しないでも、あんたの旦那には俺がよく言い聞かせておくよ。怯えた目でわたしの遺影を見るのはやめてくれ、あんたの中でわたしが化け物になるのがつらいんだ、とね。あんた、旦那さんにきちんと自分のことを見てもらいたかったんだろう?俺の方からきっちり伝えておくから、あんたも身を削ってまでこんな事をするのは止そうじゃないか——

 釜の吹きこぼれる音が不意に鳴り止み、薄暗い土間は不思議な静寂に満ちた。ただ、豆腐屋の主人がむせび泣く声だけが、かすかに聞こえてくる。手にした念珠を擦り合わせ、ヒエイはぐっと頭をもたげた。

 ——あんた、行きは歩いてきたんだろう。帰りはどうする? まっすぐ帰るつもりなら迎えをよこそうか。姫神様が、大猫を一匹お遣わしくださる。猫の背なんて乗ったことないだろう、それは暖かで心地いいぞ。そいつに乗って帰って、来年の盆になったらまた来るといい。その時には、死んだままの姿じゃなしに、きちんと身支度も整えられるだろう……さあ、帰る時間だ。なんなら、帰りがけに旦那の背中を踏んづけてやったらいい、さっき俺にしたようにな。あれは効いたぞ、旦那もそれで心を入れ替えるだろうから……ひとつ、あんたの黄泉への旅路が、滞りなく、平穏なものであるように——

 

 気が付いてみると、錆の臭いはいつの間にやら散ってしまい、代わりに大豆を蒸した残り香が作業所の床を静かにたゆたっていた。床には血溜まりどころか、一滴の染みさえない。壁に手をついて立ち上がると、さすがに体が重かった。土間は座るためにできちゃいない、痛む膝をさすりながらついでに裾のほこりを払い落とし、最後にぐうっと伸びをする。一応、仕事の方はこれでしまいである。仕事と言ってもきちんとした依頼ではない、言ってみれば頼まれもしないのにこちらから手を出したようなものなのだが、それで夫婦の不和が解消されるならめでたいことだ。駄賃欲しさに火消しを手伝うやつもいないだろうが、せめて豆腐一丁でもおまけしてもらえたら、なんて思うのは奏上師の道理に反するだろうか。ヒエイが振り返ると、泣き腫らした目の主人がすぐ目の前に立っていた。

「……家内には……カヨには、ほんとに悪いことしたよ。あんた、最初から知ってたんだね……死んだ家内のこと、どんなに恐ろしく思ってたか……だから、ずっとうちの方を見て……」

 かすかにでも腐臭が近所から漂ってくれば、ましてやそれが三件隣の馴染みの豆腐屋ともなれば、自然と目線もそちらを向く。最初から知ってたも何も、今しがた初めて聞いたことの方が多かったのだが、どうやらありふれた怪奇映画に出てくる霊能力者のイメージで俺のことを見ているのだろうか。そうだとしても、今そこであんたの奥さんから全部聞いたよ、なんて訂正してやる気もないが。

 黙って居間の方を指差してやると、豆腐屋の主人はびくりと肩を震わせた。ああ、それだよ。奥さんが怒るのは、あんたのそういう所だよ。ヒエイがそう思った途端、豆腐屋の旦那が踏まれた蛙のような悲鳴を上げて土間に突っ伏した。背中にくっきり、裸足の足跡。生前もよくやられていたのだろうか。こちらもしゃがんで視線を合わせてやると、それで主人は気が付いたのだろう、ほとほとと涙をこぼしながら皺だらけの手を合わせた。

「ごめんなあ……死んだって、化けて出たって、お前はお前だって、分かってやれなくって……ごめんな、ごめんなあ……盆には、盆にはきっと、迎え火焚いてやるからなあ……」

 結局、生者と死者の違いなんてのは、この世で肉を着ているかいないかの違いでしかない。なに、生きてても死んでてもこの世で一番怖いのは人の心さ。

 それはそうとして、俺の豆腐はいつ買えるのだろう。

 

 ビニール袋の中にはやわやわの絹豆腐が二丁。もう一つには厚揚げに油揚げにがんもどき、ついでに今朝絞った豆乳まで。そこまでしろ、とヒエイが言ったわけでもないのだが、これだけの品物をヒエイに押し付けると主人はついに金を受け取らなかった。それならそれでもいいのだが、あまり過剰なサービスを受けるとなにかの折に豆腐一丁で鬼退治を命じられかねない。この世で肉を着て生きている以上、できれば豆腐より金の方がありがたいのだ。とはいえ、あまり贅沢を言っては姫神様に叱られる。元来た道を戻りかけた瞬間、なにか柔らかいものが右足首にまとわりつく気配がして、ヒエイは足元に目を落とした。左手だった。切られたのか腐り落ちたのか、小指だけが根本からない。しなびたいちじくのようなそれは、ねばつくような執念深さで足首にしがみついたまま、木彫り細工のように固まっていた。不本意なお節介の弊害はこういうところにもあり、何を勘違いしたのか、こいつにしがみつけばただで黄泉へ渡してもらえるぞ、との安易な考えで生者を頼る輩も出てくるのだ。無賃乗車もいいところである。しかし両手が塞がっていては祓うものも祓えない、無視を決め込んで歩き出すとさすがに向こうも焦ったのか、長袍の裾を気ぜわしく引っ張る感触がする。慈善で成り立つなら奏上師なんて職はこの世にないよ、なんて、耳も目もない相手にどう教えてやったものか。手首の切り口からぽつぽつと垂れた血のしみが、ヒエイの歩いた後に延々と続いていた。

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土間 江古田煩人 @EgotaBonjin

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