第9話 剣を取れ

 熊の魔獣は崩れかけた脚で近づくと、焼かれた目をこちらに向けて咆哮を上げた。

 空気を震わせ、耳をつんざく叫び声はやがて熱を帯び始める。


 熊の口元から炎が漏れ出した。火を吐くという話を聞いてはいたが、初めて見た。

 これも魔法か何かなんだろうか。この距離からでも熱を感じる。


「隠れてっ!」


 ウルスラに言われ、俺は大樹に向かってオルガを小脇に抱えながら走った。

 木の後ろに隠れた瞬間、頬に熱気を感じた。生木を燃やした時と同じ臭いがする。


 横を見ると、先程まで俺が立っていた地面や今隠れている木の表面が焼けていた。

 今は秋だ。この調子であたり一面に火をつけられたら山火事で死んじまう。


 ウルスラは少し離れた場所に隠れ、木の影から熊の様子を窺っている。

 どうやら、アイツも無事だったみたいだ。

 だが、どうするか。

 奴にはアイツの魔法もほとんど通じなかった。俺の矢だって効くとは思えない。


「おいっ。どうする、逃げるか」

「駄目。今は出ないで」


 足元の木の葉には火が燃え移っている。こののままじゃ炎に囲まれちまう。

 火の手が弱いうちにどうにかしないと、どん詰まりだ。


「ウルスラッ!奴の気が逸れたら、走れ」

「どうやって」

「いいから」


 あの熊は今、目が見えていない。つまりは、臭いや音に頼っているってことだ。

 だったら、そこを突いてやればいい。


 俺は着ていた上着を脱ぎ、丸めて向こう側に投げてやる。食い付け、熊野郎。

 よし、あたりだ。あの間抜けめ、追っているのは俺の服だぜ。


 奴が身代わりを燃やし尽くしている間に、弓を構える。

 身体じゃ駄目だ。この弓じゃ碌に通らない。狙うんだったら、目か口。

 悩んでいる暇なんかない。番えて、放つ。


 鉄の矢じりは思ったところに飛んで入ったが、角度が急すぎた。

 頭蓋骨に阻まれ、急所にまでは届かない。やっぱり、この弓じゃ熊退治は無理か。

 だが、これで時間が稼げただろ。


「ラド。こっちに剣を投げて」


 アイツ、逃げてなかったのか。何でだ。くそっ。

 剣。そんなものでどうするつもりなんだ。


「時間がない、早く。二人とも助かるにはそれしかない」

「俺はいいから、逃げろよ」

「言ったでしょ。魔獣はわたしが殺すって」


 ああ、もう。なるようになれってんだ。


 俺はウルスラめがけて剣を放り投げた。その間にも熊はゆっくり近づいてくる。

 アイツは剣を受け取ると目をつぶって、何事かを唱えている。

 すると、熊は俺じゃなくアイツの方を急に気にし出した。


「一瞬でいい。少しだけ、そいつの気を散らして」


 アイツはその一瞬を使って殺すんだろう。

 どうするつもりかは知らないが、もうそれに賭ける他はない。やるしかないんだ。


 ここからじゃ、もう顔は狙えない。


 他の場所じゃ毛皮に阻まれて注意をこっちに向けさせることも出来ない。

 いや、脚が狙える。前に、ウルスラに燃やされた後ろ足なら肉がむき出しだ。

 

 上手くやれよ、ウルスラ。


 隙は一瞬だけだった。熊は脚を矢で射抜かれ、声を上げて少しだけ動きを止めた。

 ウルスラはその刹那を使って、距離を詰める。一足飛びに熊の懐に踊り込んだ。


 奴が気が付いた時にはもう胸を貫かれていただろう。

 剣先がその胸を貫いたとき、炎が傷口から漏れ出ていた。

 今まで、何をしても止まらなかったあの熊はついに動かなくなる。


 地面に倒れこんだ熊に押し潰されないように、ウルスラは距離を取った。

 引き抜いた剣の刃は燃えているように赤くなっている。


「やったのか、そいつは死んだのか」

「……ええ、多分」


 アイツは動かなくなった熊に慎重に近付いた。熊はまるで動く様子を見せない。

 そのまま、その頸椎をへし折るように剣で押し切った。


 やったんだ。殺せたんだ。


 俺もアイツも無事で、今ここに居る。

 今日は、どこかの間抜けは誰も死なせなかったんだ。


 ウルスラは剣を杖のように支えに使って立っていたが、尻もちをついて倒れた。

 何だ。もしかして、アイツも怪我をしたのか。


「ウルスラッ!」


 俺は急いでウルスラのもとに駆け寄って、倒れたアイツを抱き起こす。

 見たところ怪我は見当たらないが、息が荒くなっている。


「おい、大丈夫か。どうした」

「ああ、ラド……ごめん。少し、動けないだけだから」


 森に倒れたままにはしておけない。このまま魔獣に襲われては今度こそ終わりだ。

 俺はウルスラを背負って再び森の出口に向かって歩き始める。

 

「前に聞きたいことがあるって言ったの、覚えてるか」

「うん」

「本当はな。色々あったんだ、お前に聞きたいことが。俺もよく分からないんだが。初めてお前を見た時から、ずっと。なぜだかお前のことが気になっていた」

「……」


 俺は背に負ったウルスラの様子を気にしながら話しかけた。


「色々あった筈なんだが、俺も疲れた。難しいことを考えるのはやめだ」


 アイツは俺より頭一つは背が低い。丈が小さければ荷も軽いものだ。

 それがあの魔獣を殺して見せたのだから大したものだ。


「なあ、ウルスラ。お前の好きなものはなんだ。食べものとか、趣味でもいいんだ。ウルスラのことを教えてくれ」


 ウルスラの腕の力みが抜けた。


「わたしは母上が作ってくれたスープが好きだった。父上も居て、私も居て、みんなで食べてた。あれには山羊の肉とか、乳とかが入っていた」

「そうか、そいつは美味そうだ」

「でも、最近はあの鍋も嫌いじゃない。干し肉の塩味が効いた山菜のスープも……」

「そうか、あれも良いもんだろ。あの鍋は父さん直伝の料理でな。香草とかは中々の高級品で、町で買おうとすればけっこう値が張るんだぜ」


 俺も好きな味だ。


「すぐ悪くなるから保存が難しいが、森で採って森で食うんなら問題はない……ん。おい、ウルスラ。ふふ、寝ちゃったか。まったく、お疲れ様だ」


 気が付けば、もう夜明けだ。

 辺りが少しずつ、明るくなっていく。


 小鳥が囀り、兎や森鼠がその姿を見せ始める。もう、ここは魔獣の森じゃない。

 魔獣どもは暗き影とともに身を潜めて、夜を待つ。今は俺たちの森だ。


 尻尾を大きく振りながら俺の前を歩いていたオルガが急に立ち止まった。

 後ろに向き直って唸り声をあげる。


 俺も後ろを振り返ると、遠い丘の上に狼の獣が立っていた。

 狼は朝露にその美しい毛並みを濡らしながら、俺たちを見下ろしている。

 朝日を受けて白銀に見えるその体は、動かずじっとこちらを見る。


 あの狼がいつからこの森に居るのかは知らない。

 だが、お前がこの森の主であったとしたら。俺は感謝を捧げよう。

 こうしていられるのはある意味お前のお陰かもしれない。


 だから、これはそのついで。

 お前にアイツとの旅の安全を祈らせてもらうよ。

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逃げた猟師と赤毛の魔女 午前零時 @am00-00

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