Hexentanz - 夜と踊れ -

 それから僕たちは、街の中心へと向かった。


 ユーゲンは僕を、お洒落で賑やかな大衆食堂みたいな店に連れていった。大通りからやや外れた場所にある、のんびりした雰囲気の大きな店だった。


 そこは現在、若者の溜まり場になっている。急進派の魔女たちが拠点にしている店だと、向かう道すがら教わっていた。白いドアを押し開け、ユーゲンに続いて入ると、うるさい話し声が壁と天井いっぱいに満ちていた。ソーセージの匂いのする空気と活気に包まれる。


 僕たちが入店した、その途端、話し声が一斉に止んだ。


 店中のテーブルの、魔女たちの目がぎょろっとこっちを向いた。僕にはそう見えた。急進派の魔女たちは現れたユーゲンを、そしてユーゲン以上に僕の姿をじろじろと観察した。ほとんどは真顔で、あるいは露骨に警戒の目つきで。


「そりゃそうだ」


と僕は小声で呟いている。隣のユーゲンは、皆に向かって大きく片手を振り、


「ごめん、こっちは失敗だ! ラウルスのアホは動かない」


 あちこちで、落胆の呻き声。嘆息が上がった。

 ざわざわと遠慮がちな喧騒が、食堂に戻り始める。だが相変わらず視線は、僕とユーゲンに集まっていた。


「なあ、そいつなんでいるんだよ」


 誰かが、奥のほうのテーブルから口火を切って尋ねた。すぐさま同意の声がいくつか上がる。


「彼も仲間に加わった」


と、ユーゲンは穏やかに答えた。僕は声をひそめ、


「僕、挨拶した方がいいよな。新入りだし」


「そんな野蛮な儀式うちには無いよ、魔女の集会じゃないんだから」


 小さく肩をすくめてユーゲン。


「でも、なんでよりによってその人? 信用できるの?」


 あまりにも順当な疑問が、手前側の席から飛んできた。さっきよりも多く、同意の言葉や息遣いがテーブルに溢れ返る。


 ユーゲンは、やや間を置いた。

 首を傾げ、ちょっと考え込んでから、腰に手を当てぽつりと答える。


「タイプだったからつい……」


 次の瞬間。

 なんだか、不思議なことに、食堂中の空気が和らいだ。


 明らかにそれが分かった。魔女たちは口々に呻きとも、ため息ともつかない声を上げて、僕から鋭い視線を外している。それは決して安堵でも、歓迎というほどでもなかったのだが――刺々しい警戒のニュアンスがともかく一斉に消えたのを、僕は目の当たりにした。不条理なくらい。


「え……え? 終わり?」


 僕は目を瞬いて、食堂を見回している。実際、僕たちふたりに対する公然の注目は去り、元通りの賑わいがそれぞれのテーブルに戻りつつあった。


 ユーゲンはすたすた店内に歩み入っていった。魔女のひとりに尋ねる。


「アンゲラいる?」


「あっちにいる」


 ユーゲンの問いに答えて、彼女が奥のほうのテーブルを指さした。それと同時に、そのテーブルから、アンゲラと呼ばれた魔女が立ち上がる。こちらに向かってきた。


「あれがアンゲラ、うちのリーダーだ」


 教えてくれた魔女に片手を上げて感謝しながら、ユーゲンが僕に教えた。

 僕は驚く。


「急進派のリーダーってお前じゃないの?」


「保守派は大抵そう思い込んでるよね。別に、訂正して回るつもりもないけど」


 アンゲラは、背の低い細身の魔女だった。涼しそうな夏服を着ており、鮮やかなオレンジ色の長い髪を背中で縛っている。


「随分早かったね、ユーゲン」


「何しろ失敗に終わったからね」


 肩をすくめてユーゲンは答えた。

 アンゲラは笑顔で僕を見て、


「それから江藤君も、こんばんは」


「初めまして」


 僕は頭を下げる。


「きみのことはユーゲンから聞いてる。ぼくのことも仲間だと思ってほしいね。さて、ラウルスのアホが動かない以上、別の手立てを考えないと。お腹空いてる?」


「それはもう。きみもだろ、義円?」


「お。おう」


 僕は展開の速さに目を回しながら、なんとか頷いた。アンゲラはいたずらっぽい笑みをユーゲンに向けている。


「まあ、細身で筋肉質な黒髪の男を愛するのは、何もきみだけの悪徳ってわけじゃないのだし。悪いけどデートには邪魔させてもらうよ」


「ああ、わかってる」


 アンゲラはさっさと背中を向けて歩き出した。厨房のすぐ隣、空いているテーブルに僕たちを案内した。

 僕は歩きながら、ユーゲンを凝視している。


「お前黒髪が好きなの?」


「好きだ」


とユーゲンは大真面目に答えた。「黒髪でなけりゃ、きみなんか」


 ざわめくテーブルの間をふたりで歩いていった。横を通り過ぎるとき、何人かの魔女はちらりとこっちを見た。


 僕は、たちどころに受け入れられてるわけではない。だけどもう、敵だと思われてるわけでもなかった。

 彼らのこの視線は、強いて言うなら「納得」の視線なのか。僕が信用できるかどうかというより、「いかにもユーゲンの好みの男」すぎたがゆえに、納得感(「ああなるほど……うん……」)が、警戒のそれを上回ったらしい。

 いいのかそれで?


 ユーゲンは、僕の隣の席に腰掛けつつ、食堂を見渡していた。


「かなり寂しくなったな」


「残念ながらね」


 アンゲラは僕たちの向かいに座り、頷いている。僕が見る限り、大食堂は賑わっていて空席も数えるほどしかないのだが、かなり人が減った後なのだという。


「保守派の法案が出てからは、かなり急進派も割れてしまった。向こうについた仲間も多くてね……さて、何にする?」


 僕たちはささっと注文を済ませた。アンゲラはココナッツジュースだけを頼んだ。

 すぐ隣の厨房から風に乗って、ランチとジュースが飛んできた。両手を伸ばし、僕は僕の皿を受け取る。


 そのとき、厨房から誰かが出てくるのが見える。


 ひとりの魔女が、歩いて出てきた。両腕いっぱいに何かを抱えて。


「あれ」


と、僕はその男を見、思わず声を上げている。

 はっきりと見覚えのある顔だった。つい数日前。


「ん?」


と相手も足を止めて、僕を見つめ返していた。大きな目が更に大きく見開かれる。


「ロス、そこにいたのか」


 ユーゲンが、親しげにその魔女を呼んだ。湯気を立てる大量のイースター・エッグを両腕に抱えている男(ロス)は、ユーゲン、僕、アンゲラを順に見つめ、それからぼやいて言った。


「うーん。分からんもんだな」


「占いの人ですよね」


と、僕は話しかけている。あのいかがわしい路地裏で、ひっそりと予言を売っていた男がいま、僕の目の前にいた。


「まあね。よおユーゲン、相変わらず常軌を逸してんな」


 にっと歯を見せながらロスは歩いてきて、僕たちの隣のテーブルに、ごろごろごとんどすん! と、数十個のカラフルな卵を投げ出した。落ちた卵はひとつ残らず、割れも転がりもしないで机の上にぴたっと静止した。ほかほかと湯気を立てながら。


「ていうかこれ――この卵! これもあんたのだったのかよ!」


 僕は、呆れて立ち上がっている。美しい意匠を凝らした色とりどりのあの卵みくじが、無造作に机に転がっていた。


「え? なに? ひょっとして兄ちゃんこれも買ったわけか?」


「このクソけったいな――胸糞の悪い――作った奴の顔を見てみたい――文学的卵! なんでこんなん作ったんです、マジで」


 ロスは微妙な顔になって僕を見た。

 苦笑を浮かべつつ、ごく心配そうな口調で、


「おれが、言うのも何だけどな。あんたちょっと気をつけたほうがいいよ。占いってそんな頻繁に買うもんじゃないから」


「買ったときは未来魔術って知らなかったんですよ!」


「ああそう? うーん、それも心配だけどな」


 首を振って彼はテーブルに着き、でっかいソイラテを眠そうに啜った。

 細長い魔法の杖でこつこつと、売り物の卵をつつき、ひとつひとつにあの未来を見せる繊細な魔法をかけていく。そういえばこれ、売店で買ったときほとんど売り切れてたんだった。ワルプルギスの夜の終わりまで正味あと一日しかないのだが、ギリギリまで商魂を見せつけるようだ。


 彼は卵を見つめたまま、言った。


「で。殻は破れたか?」


「目玉焼きにしました」


 僕は答えた。ロスは、手を止めて僕をまじまじと見つめ、それから爆笑した。


 ロス以上に、衝撃を受けて僕を凝視する男がいた。ユーゲンだ。


「なに? 義円きみ……まっまさか、今朝のきみのあれ、だったというのか?」


「そうだよ」


「なぜそんなことをしたんだ!?」


「殻を破るためだ」


 僕はそう答えた。ロスは更に、笑い転げた。



 僕たちはそれから、昼食を取りつつ互いの経緯を報告し合った。


 アンゲラは急進派の動きについて聞かせてくれた。この二日間、保守派の法案を阻むためのあらゆる方策を探ってきたが、どれも今のところ芽はないという。ユーゲンと僕自身、この午前ラウルスを脅迫しにいって失敗したところだ。


 アンゲラたちは主に、方々を当たって保守派のエリート魔女に勝てる人材を探し回っていたのだが、結局それはひとりも見つからなかった。当たり前といえば、当たり前だ。もしそんな魔女が急進派にいるのなら、とっくに出場しているわけだし。


 六日目の現在。局面は手詰まりになっていた。当たれる人材も探せる場所もなくなってしまい、この食堂に集まってユーゲンの帰りを待つばかりだったという。


「なあ、ラウルスが駄目なら、オルキスのほうを揺さぶれないかな」


 僕は、スパゲッティをくるくる巻き取りながら言っていた。元より政治センスに欠ける頭脳をフル回転させる。


「お前の父さんなら話にも乗ってくるんじゃないか? むざむざ家の秘密を暴露されたくないだろ」


「これ以上、不確実な賭けできみをヴァレンシアとの泥沼に巻き込みたくはないのだが」


 うんざりした口調で、ユーゲンが言い返してくる。僕は顔をしかめた。


「お坊ちゃん、今更舐めたこと言ってんじゃねえ。やれること全部やっとくべきだ」


「私は反対だ。父は、ラウルスよりも余程話の通じない男なんだよ。当たるなら他の手段すべてを試してからだ。アンゲラ、実際もう頼める相手は一人もいないの?」


「皆で散々話し合ったんだけれどね」


 アンゲラは首を振る。ココナッツジュースのストローを咥えながら。


「合理的に考える必要がある。つまり、決闘の出場者を我々がスカウトするとして、その魔女はラウルス・ヴァレンシアに勝てるか、少なくとも同等にやり合える人物でなきゃお話にならない。まずはそこから始めて、皆で心当たりを挙げていったんだよ。派閥関係なく、自分の知る魔女のうち誰ならラウルスに勝てそうか、ってね」


 どうだい? と、アンゲラはうっすら微笑んでユーゲンに尋ねた。


「きみなら誰を挙げる? ユーゲン、実際きみならラウルスの実力にも詳しいと思うけど」


 ユーゲンはじっと考え込んだ。音もなく指で机を叩き、告げる。


「まず、私」


「そうだね。まあラウルスも敵じゃないだろう」


「あと、きみだ」


 彼は、指で僕を示してみせた。


 僕は呆れてフォークを振った。口を挟んでいる。


「どっちももう今年の決闘には出れないじゃないか」


「その通り」


 アンゲラが頷く。


「だけど、挙げるとこから始めないとね」


 ココナッツジュースから口を離して、テーブルの下から一枚の紙を取り出している。僕たちに見せる。

 そこには、まちまちな筆跡で人名が書き連ねられていた。そんなに多くはない。二十人前後といったところ。


「思いつく限り、ぼくたちで挙げた強い魔女の名前だよ。きみは除くとして。きみを入れたとしても、やはり多くはない」


「全員、保守派の名前だな。見事に」


 ユーゲンは思案する顔でその名前を上から、目で辿った。


「そういうことだ。他にきみが思いつく名前は?」


「…………二、三人だ。後はきみたちと同意見。その三人もやはり、保守派だな」


 ユーゲンは目を細めてペンを取り、さらさらとリストの最後尾に三人分の名前を書き入れた。


「ぼくたちもね、悪あがきを試みはした。このリストのうち何人かは説得できないかと考えて、やってみたけど――」


「ん?」


と、僕はそのとき、アンゲラの言葉を遮っている。


 思いもかけなくて。

 ユーゲンの書き入れた名前の中に、見慣れた人物のそれを見つけたのだ。


「……地図さん?」


 アンゲラとユーゲンが、揃って僕を見た。え? っていうように。


 僕は見つめ返す。え?


「……相川、地図さんって、僕の先輩だけど」


「うん、無論その地図だが」


「え。え。地図さんってそんな強いの? ラウルスって、今のヴァレンシアの最強格なんだろ?」


 ユーゲンは、不可解そうに顎を撫でた。僕を見つめながら。


「義円、あの女性が私をほとんど殺しかけた場面にきみもいたはずだが……」


「えっ……だって……地図さん、自分で言ってたんだよ。元々お前と決闘することになってたの、自分が弱いから捨て試合だって」


 ユーゲンは目を見開いた。どうやら、心底意外そうだった。

 彼は不審げに、しばし顎を撫でていた。やがて、ゆっくりと口を開く。


「……うん、思うに彼女は、自分の力を実際以上に隠しているところがある。私も地図とふたりで捜査したとき、初めてその能力の高さに驚かされたんだ。自分を必要以上に低く見積もらせるような、そういう振る舞いが、確かに彼女にはあった。そういうことかもしれない」


「保守派の上層部も、地図さんの実力を知らずに決闘に出してたってこと?」


「そうなのだろうね。私のほうは、ともすれば今年こそは負けることになると危ぶんでいた。地図が決闘相手なら少しの油断も命取りになるだろうから。まさか、代わりにきみが出てくるとは思わなかったが」


「ぼくには、地図の気持ちがちょっと分かるな」


 淋しそうな笑みを浮かべて、アンゲラが言った。


「彼女のような生き方をしてる人って、実際珍しくないんだろうね。ともあれ義円、彼女に連絡をつけることはできるのかい?」


「――できますけど」


と、僕は答えた。地図さんのことを思い浮かべながら、眉間に皺を寄せている。


「地図さんは、難しいと思います。すごく優しくていい人だけど、たぶん、急進派につく人ではないです」


「まあ、誘うだけ誘ってみてくれ。やれることはやっておこう」


「そうですね……確かにそうです」


 僕は頷いた。のろのろとスマホを取り出し、操作している。



 魔女界の超・エリートであるところの魔道執行人に相川地図さんが就いたとき、僕はその報を聞いて飛び上がるくらい、喜んだのだった。


 地図さんという大学の先輩は、僕の誇りだった。僕の中で勝手に、侍ジャパンみたいな存在だった。

 当時僕の同世代、周囲には、血筋を鼻にかけるしか能のない魔女連中がごろごろ転がっていた。そんな奴らを蹴散らして、聡明で真面目で、いちばん優しい地図さんが抜擢されたことが僕には死ぬほど嬉しかった。そういう出来事って本当に本当に、少なかった。


 地図さんは元々、相川のかなり末席にあたる分家の生まれだ。彼女は相川一族から出た、初めての執行人だった。

 地図さんはそのときの一族のについては、あまり語ろうとしない。えへへと曖昧に笑って、誤魔化していたように思う。


 今思えば、相川家は狂気乱舞なんてしなかったのかもしれない。

 ニッポン代表世界の地図さん、百万回褒められて然るべき、地図さんが、あのときほんとはどんな言葉を親から一族からかけられていたのか。僕には分からない。


 地図さんは優しい。いつもにこにこ笑顔で、おっとりしてて、どんなときでも声を荒げたりしなくて。

 そして地図さんは、褒められるのがちょっと苦手だ。

 素晴らしい魔法の腕も、ふと見せる冷徹な洞察力も、他人にそれを認められ、賞賛されると、地図さんは明らかに動揺する。なんだか居心地悪そうに、えへへと苦笑いで照れてしまう。


 僕は地図さんが強いということを知らなかった。ユーゲンにマークされてるほどの魔女だなんて、まったく気づきもしなかった。


 地図さんはそういう人だ。有能で優しくて、従順な保守派の、相川家の魔女だった。

 地図さんは絶対に、家や派閥の言いつけに背かない。従順に大人しく、命じられる通りに慎ましく生きてきた。それは僕が、彼女を尊敬してる部分でもあった。父さんの見合い話をのらくら断り続けながら、だけどこの歳にして親に口答えすらできない何もかも中途半端な自分に比べ、地図さんのこの腹の据わりようは、眩しくもあった。昨日、お偉いさんの命令で友人の僕すら力づくで誘拐する彼女に対し、自分でも不合理なほど、怒りが湧いてこなかったのはおそらくこのためだ。


 地図さんはそういう人だ。僕は知っていた。



「条件がある」


 ……地図さんは、中々捕まらなかった。


 電話をかけてもしばらく通じず、やっと電話口に出てからも、忙しそうで、結局僕たちの前に現れたのは午後六時過ぎ。


 宵の口、大衆食堂の席は半分くらいになっていた。急進派の魔女たちはぽつぽつ帰っていた。そこに、突然地図さんは現れた。

 厨房の横、一番奥の僕の席まで――グレーのスーツ姿でつかつかと歩いてきた。地図さんは大きな瞳をすこし潤ませながらひどく紅潮していて、僕が口を開くより前に、はっきりと告げたのだ。


「条件がある。わたしが義円くんに手を貸せない理由は、いくつかある。だから、条件を飲んでくれなければ、決闘には出られない」


「もちろん聞くとも。座って」


 即座に、そう答えてにこやかに椅子を引いたのは、アンゲラだった。

 アンゲラはこうなることが分かってたみたいに、素早く軽やかに招き入れていた。地図さんが口を開いたその瞬間に、何もかもすべて理解したみたいに。


 僕は違った。

 咄嗟に何が起きたのか、理解できず、ぱくぱく金魚顔になって地図さんを、見上げた。


 地図さんが向かい側の席に座り、緊張と興奮の不思議な面持ちで僕たちを、見回したときも。まだぼんやりしていた。

 彼女は口を開いた。


「一つ目。急進派から決闘に出るのが、わたしだと分からないようにして」


「身分を偽るということだね。妥当な線じゃないか、アンゲラ」


「ぼくにも異存はない」


 ユーゲンとアンゲラは、ごく穏やかに視線を見交わして言った。


「つまり地図、きみの見た目も正体も、ラウルスや観衆にバレないよう魔法で細工すればいいんだね」


「ええ。保守派にも相川家にも、それに急進派の人たちにも。できるだけわたしの正体は明かさないで。知ってるのはあなたたちと、最小限の人数に留めて」


「分かった。ではこれから、きみの姿を変身させられる魔女を数人と、あと詐術と偽装の専門家を呼ぼう。決闘には、こちらから適当な偽名でエントリーしておくとする。この程度はまあ朝飯前の範疇だよ。それで?」


「……もし秘密が守られる保証がなくなったら、わたしは降りる」


「さだめし、仕方がないと言えるね。あとは?」


 地図さんはちらりと、テーブルを見つめた。硬い声で告げる。


「最後に。わたしはそもそも、まともに決闘ができる状態じゃない。どれくらいちゃんと戦えるかは分からない。それでもいいなら、あなたたちに協力する」


 僕はそのとき、ようやく言葉を思い出して、息を吸っていた。

 アンゲラとユーゲンに説明する、


「……足です。地図さん、爪が剥がれてるんです」


「ちょっとずつ、よくなってはいるんだけど」


 地図さんは眉を下げて、サンダルを履いた左足を指さした。僕たちは腰を屈めて見下ろした。包帯はきちんと巻かれ、血まみれだった昨日よりまともだが、そもそもこれのせいで地図さんは決闘を欠場していた、のだ。


「痛みは消せるから、短時間なら大丈夫だと思うんだけど~」


「相手はラウルスだ」


 重々しく、ユーゲンが腕を組む。「なんとか治せないか?」


「癒術というのはかなり高度な魔法だからね。人間の爪を一晩で元通りに生やしてみせる魔女なんて、この街中捜しても一人か二人じゃないかな」


 アンゲラは、そこで言葉を切った。


 僕と地図さんとユーゲン、三人の視線が集まるのを待ってから、にやっとして言う。


「――つまり。ぼくは一人知ってる。すぐに電話しよう」



「地図さん!」


 僕は、地図さんを呼び止めていた。


 地図さんは、アンゲラと数人の魔女に連れられ、厨房に消えていくところだった。


 時間は無かった。これからすぐに爪を治し、変身の魔法をかけて、決闘に備えなければならない。今夜は徹夜になる。地図さんに全てがかかっていた。

 たぶんまともに話せるのはこれが最後だ。


「うん」


と、地図さんは振り返り、ゆっくりと微笑んでいる。


 僕は、呼び止めておきながら言葉に詰まった。なんて言えばいいのか分からなかった。予想外のことばかりで、思いもかけない方向に、僕も地図さんも転がっているようで。


「わたしを説得しても無駄だよ」


と、地図さんはふんわり言った。


「確かに、義円くんには色んな借りがあるけど。それでも無理だよ。義円くんがどんなに一生懸命わたしを説得しても、今日ここでわたしの心を、いきなり急進派に変えることはできなかった。説得するのは無理だった」


「……ええ。僕、正直最初から諦めてたんです」


「そうだよね。ねえ、ユーゲンさんは、義円くんを説得した? ユーゲンさんの言葉で、義円くんの考えは変わった? 世界がまるっと変わっちゃうくらいに?」


 ゆるゆる、と、小さく彼女は首を振る。


「違う。そういうことじゃないよね」


「……ええ。違います」


「わたしも違う。説得は無理だった。わたしも義円くんも、最初から、そうだったの。最初からほんとはこっち側だった。それだけだよね? わたしたち、後はタイミングだったんだよ。義円くんから電話が来て、うわあ、先越されちゃったなーって思ったの。一歩、線を越える勇気がわたしには出せずにいた。義円くんが行ったから、ああ、わたしも行かなきゃーって、やっと思えたんだよ。ただそれだけ」


「ええ」


 僕はそっと頷いた。「あの、地図さん」


「うん?」


「手加減しなくてもいいって、素敵じゃないですか?」


 地図さんは、きょとんと目を丸くした。笑みが消えた。


 地図さんは、きらりと目を輝かせた。


「うん。そうだね……」


「大丈夫です。あなたなら絶対」


「うん! いっちょやってくるね」


 地図さんはにっこりとして、拳を振り上げながら、厨房に入っていった。「よ~し、ぶっころす!」厨房から魔女たちの歓声が聞こえた。



「義円、起きろ。起きるんだ」


 ユーゲンの手が、素早く僕の肩を揺さぶる。耳元で呼びながら。


「わ!」


 僕は驚いて飛び上がった。自分が起きたことに、驚いた。眠ってるつもりなんてなかったんだ。

 食堂のテーブルの端に突っ伏して居眠りしていた。慌てて腕時計を見ると、午前四時過ぎ。周囲はざわめきに包まれていた。いつの間にか、店には座りきれないほどの急進派の魔女たちでごった返していた。一度帰っていたメンバーたちも戻っていた。


「大丈夫? これ飲んで」


 あの茶色のジャケットを羽織りつつ、ユーゲンがコップの水を差し出してくる。僕はまだ寝ぼけながら、目を擦って水を飲む。冷たい。冷たい水が喉を滑り降りる。


「――ん。起きた。なにごと?」


「これから街に出る。皆でね。夜遊びってやつだ」


 タイの結び目を触りながら、ユーゲンはそっと身を寄せてきた。僕の耳元でひそひそと囁く。


「地図は既に移動した。さっき目立たないように、奥の隠し通路から数人だけで逃がした。今どこにいるかは私も知らない」


「うん。――もうちょい離れていいぞ? おい僕らめっちゃ見られてる」


 ユーゲンは無視した。「店の外に見張りが何人か来ている。保守派の魔女だ。我々が何かやろうとしてることに勘づいたらしい。今から全員で、陽動と時間稼ぎに繰り出す。決闘の時刻まで地図の存在を隠し通す」


「おう分かった」


 僕は頷いた。会話が終わるや否や、ユーゲンのヒヤシンスの香りのする胸元から離れた。僕を眺める食堂の皆の目には、もう敵意がほとんど無い気がした。もっとくすぐったいものになってる。


「皆、揃ってる? そろそろ出るよ」


 厨房からすっとアンゲラが出てきて、ひらひら掌を振りながら言った。アンゲラの穏やかな声は、張り上げるでもないのに不思議とよく通った。


 集まる魔女たちはチャラついた歓声で応えている。若い魔女が多いのもあって、この場は興奮と熱気に満ちていた。


「よろしい。皆、集団で行動するようにね。必ず誰かと一緒にいるんだ。中心街からあまり離れないように。それ以外は、基本的に自由に飲んで、歌って騒いでくれたまえ! くれぐれも独りにだけはならないように! 以上」


 いえ~い、と緩い歓声を上げて、魔女たちは大衆食堂の扉から、夜の繁華街へとぞろぞろ繰り出していった。


 かなりの大所帯で出たが、ワルプルギスの街は既に人で賑わっていた。大通りも、飲み屋も、電飾でぴかぴか光る広場も、お祭り騒ぎの魔女たちで埋め尽くされている。

 ワルプルギスの夜、七日目の早朝。終わらない夜の終わりが近づいていた。

 祝祭のフィナーレに向けて、陽気な熱が高まっている。


「我々は別行動だ」


 イルミネーションの鮮やかな色に照らされながら、隣を歩くユーゲンがそっと言った。僕は思わず見上げている。


「え。二人で?」


「うむ。そろそろ離脱するよ」


 わいわい喋りながら練り歩く魔女たちの集団の中。僕たちも一緒に歩いている。


 そのとき、斜め前方にいるアンゲラと目が合った気がした。ぱちりと。アンゲラはちらっと僕たちを見て、楽しそうな笑みの気配を瞳に浮かべ、小さく手を振ったようだった。

 気をつけて。


「行こう」


 微笑んでユーゲンが告げた。


 僕たちはそっと、何食わぬ顔で、急進派の集団を外れていった。ゆっくり喧騒を外れ、熱気を外れ。きらきらした華やぎが背後に遠ざかっていく。


 少しだけ中心街を離れ、人通りの緩やかな表通りに歩いてきた。道の両端、お洒落な街灯が等間隔に立っていて、街灯の下にベンチが並んでいた。それぞれのベンチにはそれぞれのカップルが陣取っていて、まるでそれも街の一部みたいだ。


「よし。ちょっと休憩しようか」


 まだ十五分も歩いてないのに、ユーゲンはわざとらしく宣言した。


 僕はそそくさと空いてるベンチのひとつに腰掛けた。無言で。僕たちは、互いの太腿が触れそうなくらいの真隣に座ったが、折り目正しく両手は膝に置いたままでいた。ユーゲンは僕の腰に腕を回してくるかなと思ったけど(そしてそうしてない二人組なんて他のベンチにいなかったけど)、なんとなく結局そうはならなかった。そういえば、こんな風に人目につく場所でこいつといちゃついたことはなかった。僕たちはそういうことをふたりきりでやってた。


「我々は、こうやって動き回る。戦闘できるメンバーはなるべく見張りを分散させるんだ」


 ユーゲンは、街灯の先の闇を見つめて説明した。


「了解。でも僕は戦えないからな」


「きみひとりくらい、私が守る」


「頼もしいことだ」


「義円、きみにはピンと来ないだろうけど、私は割と強いんだよ。割と」


「おい。別に皮肉で言ってねえよ、ほんとに頼もしいって言ってるの」


 僕は腕を組み、ユーゲンと同じ暗闇を見つめた。

 僕たちは並んで前方を見ていた。


「…………はあ」


と彼は両手に顎を置いてしみじみ呟いている。「キスしたいな」


「ええと……する、か? それも『任務』に含まれないことも、なさそうだけど。この状況的に」


「馬鹿を言うな。状況を考えろ。そんなことしたら任務のことなんか覚えていられない」


「任務を忘れない程度にやればいいだろ」


「私のキスしたいは、任務を忘れる程度のキスをしたいなんだよ」


「お前はなんでそんなに我儘なんだよ。今は任務を忘れない程度のキスをして、任務を忘れる程度のキスは任務を忘れる程度のキスをしていい状況になってからすればいいだろ」


「私は今すぐ任務を忘れる程度のキスをしたいのに、任務を忘れない程度のキスをしろなんて酷だ、そんなのどのみち任務を忘れる程度のキスになってしまうに決まっている。つまり任務を忘れない程度のキスをするというのは、任務を忘れる程度のキスをするのと同義なんだ」


「任務を忘れない程度のキスをするのが任務を忘れる程度のキスをするのと同義なら、任務を忘れる程度のキスの代わりに任務を忘れない程度のキスをすればいいだろ?」


「はあ、きみはそんなに私と任務を忘れない程度のキスをしたいのか?」


「別に。お前をおちょくるのが楽しいだけ」


 ユーゲンの肩がぶつかってきた。僕は笑みをこぼした。


 僕たちはいかなる程度のキスも交わさず、互いの胴に腕を回すこともせずに、だらだらとどうでもいいことを喋って時間を潰した。これまでユーゲンとは色々重要な事柄を話し合ってきたけど、まだこいつと喋ってない、重要じゃない事柄は山ほどあった。そのことに気づいた。キスなんかより、任務のことも忘れてこのまま話し込みたいくらいだった。


 一時間近くベンチで過ごしただろうか。それからおもむろに立ち上がり、またふらふらとあてもなく移動した。ふたりで古書店を冷やかし、喫茶店に寄り、わざと人のいない裏道の露店を見にいったりした。


 数時間、何事もなく平穏に過ぎた。途中で一度ユーゲンのホテルに帰り、やることもないので荷造りを手伝ったりもした。


 数十分でホテルを出て、また街を歩き出したとき。


 ユーゲンがそっと、僕の肩を抱き寄せて囁いていた。「追っ手だ」


「うお……何人?」


「五人。いささか多いね」


 振り返らないで、と低く静かに命じ、ユーゲンは悠然と歩き続けた。僕たちは何食わぬ顔で道を歩いた。ユーゲンは人の賑わいから外れないよう、注意深く表道を選んで進んだ。僕たちは中心街を再び目指した。

 追っ手は五人。目立たぬよう、僕たちの後をつけてきている。五人を相手にできれば戦いたくはない。繁華街の人混みと賑わいにしばらく身を置いてやり過ごす、そういうユーゲンの判断だったのだが。


 なぜか、進めば進むほど、人通りが減っていった。中心街の灯りも喧騒もすぐ目の前に見えているのに、行けど歩けど、辿り着かない。

 街の中心を目指しているのにどんどん周囲は暗く、ひっそり閑としてきた。まるで、街外れの裏通りみたいに。


 いつの間にか反対方向に来ていた。僕たちは、街外れにいた。


「やられた」


と、ユーゲンが呟く。とうとう辺りは僕たちだけになってしまった。


 僕たちだけが立っている暗い路地に、そのときばらばらと足音が響く。

 奴らが姿を現した。薄暗がりの中に、黒っぽく沈んでいる追跡者たちのシルエット。魔女たちが迫ってくる。彼らは無言で向かってきていた。


 ユーゲンと僕は走り出した。建物の隙間に駆け込み、入り組んだ路地裏を無軌道に駆け抜けた。


 追っ手の魔女は背後から、時には前方、横手の道から、襲い掛かってきた。

 複数の魔力が音もなく飛び交い、激しくぶつかる気配。それ以上のことは僕には何も追えなかった。ただ自分の魔力で自分を鎧い、必死に逃げ続けた。


 僕とともに狭い路地を疾走する長身から、ひっきりなしに銀色の魔力が放たれ、呪詛の鎖が同時に何本も素早く路地を駆けていった。何度か、呪詛を撃ち込まれた敵の魔女の悲鳴が僕の耳に聞こえた。ユーゲン・各個撃破左衛門ヴァレンシアのおかげでそのうち敵はかなり数を減らしたのだが、どうやら、初めの五人だけではなくなっている。増援も含め、いま何人の魔女が僕たちを追っているのか分からなかった。


「魔法を破らなくては」


 走りながら、ユーゲンが苛立たしげに言った。僕はぜいぜい息を切らしながら、


「魔法?」


「迷宮の魔法だ。さっきから同じ道をぐるぐる巡らされてる。我々はこの路地から出られなくなってる」


 ユーゲンは素早く指を路地の先に向け、呪詛を飛ばす。誰かが呻いてばたりと倒れる。


「――おそらく、出口は魔法で隠されている。こうして走り回っても見つからないだろう」


「足では辿り着けないってわけ?」


「そうだ」


 僕は、肺を押さえながら夜空を見上げている。黒いビルの隙間、星が見えていた。


 暗い、煤けた、ひと気のない路地裏にいる。

 だけど、中心街がどの方向にあるのかは分かっていた。夜空の闇をぼんやりと照らし出す、都会の電飾の明るさがここからも見えるからだ。


 あの場所に行きたい。でも、足では辿り着けない。


「ユーゲン」


 僕は大声で呼んだ。「掴まれ!」


 ユーゲンは何も言わなかった。振り返り、さっと僕に腕を伸ばした。僕は走る勢いのままその胸に飛び込み、胴体ごとしっかり抱き寄せている。


 両足の裏に魔力を集めた。

 強く地面を蹴る。重力の鎖から肉体を、切り離した。


 跳躍。スピード。

 風が耳元で唸りを上げる。


「出た」


 ユーゲンを強く抱きしめながら叫んでいる、


「脱出したぞ、ユーゲン、街だ!」


 黒々と冷たい、空の上にいる。

 足元、ワルプルギスの街並み。きらきら色とりどりの光の洪水のような、中心街の輝きを見下ろしていた。前方に。


「義円、魔力を切れ」


 耳元でユーゲンが言った。僕は咄嗟に残らず魔力を引っ込めた。


 入れ違いに、ヴァレンシアの銀色の魔力がユーゲンの掌から放たれ、真っすぐに前方、中心街へと伸びる。

 中心街の背の高いビルのひとつに、ユーゲンは魔力で杭を打ち込んだ。空を飛ぶ僕たちは魔力でビルと繋がった、その紐をユーゲンが強く手繰り寄せると、凄まじい勢いで僕たちは夜空を駆け、中心街へと流星のように墜落していった。


 僕がユーゲンを抱いていたはずが、いつの間にか抱えられている。

 ビルの真隣の、地面に着地していた。地上に戻った。優しく地面に下ろされると、ふわふわ平衡感覚を失くしてよろめいていた。


 僕たちは、嵐みたいな喧騒と笑い声、歌声に揉まれている。数秒前、ふたりぼっちの空の上にいたのに、街のど真ん中、お祭り騒ぎの中心に放り込まれていた。ものすごい人出だ。この一週間で初めて見たくらい。


 いまこの街にいる魔女全員が、最後の浮かれ騒ぎに参加しているみたいだった。


「歩こう」


とユーゲンは僕の手を引いて人波をぐいぐい進んでいる。


「う。うん……あいつらは? 撒いたのか?」


「どうだろうな。いずれにせよ、もうこの一帯を離れるべきではない」


 広い道を埋め尽くすような、行き交う魔女の群れの中を歩いた。

 右を見ても左を見ても、興奮に煌めく魔女の瞳。明かりと音と刹那的な享楽の閃きを、全身に浴びて進む。道の先まで進むと大きな広場に出ている。


 ライトと爆音の音楽と、それに負けない魔女たちの騒ぎ声。地面の色も見えないくらいに、大勢の魔女たちが広場で踊っていた。


「紛れて」


 手を引きながらユーゲン。「人の波に入って。一部になるんだ。自然に。ほら、踊ろう」


 逞しい腕が、僕を抱き寄せた。


 僕はユーゲンと向き合い、賑やかなダンスの群れにあっという間に飲み込まれている。


 四方八方、うるさすぎて、何も聞こえないほどだった。熱気と煌めき。汗と香水の匂いがした。騒がしさの中、ユーゲンの空色の瞳が僕を見つめている。音楽のゆっくりしたテンポと人の流れに、上手く乗ろうと僕は努力した。そっと広場の周辺に目をやるが、追っ手がこちらを見てるのかなんてもちろん分からない。


「やる気あるの?」


 ユーゲンが眉を上げる。からかう口ぶりで。


「あ?」


「私を見ろ、義円。よそ見をするな。いまこの世界に、まるでふたりきりしかいないみたいに振舞うんだ。周りを見てみろよ、そんなのしかいない」


「僕ダンス苦手なんだよ。踊るだけで手一杯っていうか……」


「ダンスにおいて一番どうでもいいんだよ、ダンスなんて。私に合わせて、適当に揺れておけばいい。さあもっとくっついて。任務をこなしてみせろ。きみは、誰にも追われてない、ただ偶然ここにいるだけの魔女だ。ロマンティックな音楽も鳴ってる。もちろん背後や広場の入り口なんか気にもかけてないし、きみは目の前のハンサムな男に夢中だ」


 ここで僕はちょっと笑った。ユーゲンはにやっとして続ける、


「きみの瞳にはもう彼しか映ってない。彼以外のすべては存在してないも同然だ。彼は今、きみのことをどう思ってるかな。きみはそれを考えてる。それがきみの一番の懸念事項なんだ、わかる?」


「わかったわかった。たぶん彼は僕の髪と筋肉を見てんじゃないかな。お前はどうなんだよ、僕の心配してていいわけ?」


「私にはそんな演技必要ない」


 僕の腰を抱き寄せながらユーゲンが言った。そのとき、わっと広場の反対側で、どよめきが上がる。


 甲高い歓声に、笑い声。どこからか、一斉に黄金の妖精の群れが放たれ、押し寄せて広場を覆い尽くした。それはもう、イナゴの大群みたいだった。耳元でぶんぶんとうるさく羽音が響き、踊る僕たちは眩しい金色の洪水に四方八方照らされていた。魔法で作られた幻は楽しげに夜を彩っていた――街中の至るところで、理由も脈絡もよく分からない誰かの魔法が絶えず披露されていた。最終日の今日。


 やかましさと眩しさと、可笑しさと。黄金にぴかぴか照らし出される、ユーゲンの顔を見つめていた。ユーゲンも僕を見つめている。全てが黄金に輝き、現実じゃないみたいで、胸が苦しかった。心は浮き立ち、雲を踏むようで、不安で。


「夜が終わる」


と僕は呟いていた。囁くような小声だった。こんなにうるさいのに、ユーゲンは聞いていた。


「もっと続けばいいのにね」


 彼はそう答えた。


「こんなめちゃくちゃな夜、もう充分だよ」


「そう? まあ、それもそうか」


 ユーゲンは低く微笑んだ。僕は彼の笑い声が好きだった。もっと聞いていたかった。


 ユーゲンは囁いた。「踊ろう、義円。もう少しだけ」



 頭の中に靄がかかっているようだ。動かす両脚はぎこちなく、全身が鉛のようだった。


 眠気と疲弊に、朦朧としながら歩いている。何時間経っただろう。僕は硬いアスファルトの地面を見つめながら、ふらふら歩いていた。


「決闘はもう始まってるはずだ、無事だといいのだが」


 ユーゲンの急いた声がしている。すぐ真横から降ってくる。

 僕の身体をそっと支えながら、歩いていた。僕たちは疲れ切った身体を引きずり、どこかを目指していた。


「着いた」


 ユーゲンが言った。その声は、なぜかすごく緊張している。


 やたらとうるさかった。怒号と歓声が聞こえた。割れるような魔女たちの叫び声。僕は歩いていた。ユーゲンに連れられ、闘技場に足を踏み入れていた。


 僕は顔を上げる。


 絨毯みたいな、満員の観客席。絶叫。みんな叫んでいた。

 立ち上がり、目を見開き、口々に何かを喚いている。


 彼らの視線の先。闘技場のフィールド。


 土の上に誰かが立っているのが見えた。僕の知らない、小柄な女性がとてつもない歓声を浴びていた。


 両手を高く掲げ、輝くような笑顔だった。

 賞賛とスポットライトを一身に浴びている。


 僕は、彼女を見つめた。そんなはずはないんだけど、一瞬彼女が僕を見た。ぱちりと目が合った気がした。彼女は笑顔だった。僕に笑いかけていた。


「ユーゲン」


 僕は、隣の男を呼んだ。腕を掴んだ。その肩を抱き寄せた。


「う。うん……」ユーゲンは、呆然としていた。まだわかってないみたいに。怒号と歓声の中で、熱狂の中で、彼だけが取り残されていた。ぼんやりと遠いフィールドを見下ろしていた。僕はユーゲンを抱き寄せた。僕が、彼を支えた。


 彼は震えていた。


「終わりだ」


 僕は男の肩を叩いた。そっと。「お前は頑張ったよ、ユーゲン」


「ああ」


 ユーゲンは、ゆっくりと頷いた。僕に回す腕に力がこもる。

 震えながらなんとか立っていた。


「義円……義円。ありがとう」


 ユーゲンの声は震えていなかった。その言葉はとても穏やかで、しっかりしていた。

 僕は無言で抱きしめ返す。


 そのとき。夜空に一条の光が駆けた。


 ひゅうと音を引き連れ、闘技場の頭上に飛び出し、巨大な光が、花開く。轟音が響き渡り、歓声が再び上がった。


 ふたつ、みっつと花火は続いた。

 色とりどりの光に魔女たちは照らし出された。


 祝祭の終わりを告げる、結界の号砲だった。すべての決闘が終わり、ワルプルギスの会議は閉会し、夜が終わりを告げようとしている。

 途切れることなく上がり続ける花火が、紺色の夜空を裂いて辺り一面に、散っていた。爆発するたびに明るく照らし出される上空が、徐々に、明るくなっていくのが分かった。魔女たちは見上げ、空を指さす。口々に言っている。


「夜明けだ」


と、僕の耳元でユーゲンは呟いた。


 互いに肩を組みながら見上げている。夜空の端がわずかに白み始めている。みるみるその光は広がり、幻想的な、暁の色合いに全天を染めつつあった。


 闇が追い立てられてゆく。西へ、西へと。この夜が去ってゆく。

 幻が終わる。


「義円」


と、ユーゲンが呼んだ瞬間、さっとダイヤモンドのような曙光が射し込んだ。


 東から、強い輝きが闘技場に射し込んだ。僕を呼んだユーゲンの顔は、白く照らし出されていた。僕は彼を見た。

 輝く男は僕を見つめ、


「義円、あの、」



 白い、光が弾けて散った。夜が明けた。


 僕は目を閉じた。思わず瞑っていた。


 目を開くと、そこは既に、朝だった。光溢れる青空の下に僕は立っていた。


 僕はひとりだった。

 朝の光の下。誰もいない。


 ワルプルギスの夜が明けた。

 すべては、夜と共に去った。

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