夜と踊れ

等速直線運動

帳は下り、幕は上がった

 この世には、まるで魔法みたいにとんでもないものがある。


 たとえば魔法みたいに、とんでもなく便利なもの。今、僕が右耳に押し当てている、銀色の冷たいスマホとか。


『いいか、ギエン。これはプライドの問題なんだ。絶対に勝て! 負けるんじゃないぞ』


 耳元、電波に乗り、低くくぐもった父上殿の声が聞こえる。

 僕は欠伸を噛み殺しながら、


「あっはい、はい、父さん。わかってます。それでは」


『おいギエン? 待て、ちゃんと聞いてるのか――』


 ザザ、ザ、と、ざらつく不穏なノイズが父上殿の言葉を横切る。


 十二月初め、あっけらかんと平和な朝。のどかな川沿いの、遊歩道のベンチにひとりで腰掛けていた。空気は清水のように澄みわたって冷たく、川向こうの道路を行き交う通勤や通学の車、人、自転車のベルの音。


 僕は、科学技術のことを考えていた。この世にはまるで魔法みたいなものがある。そして、魔法もある。僕はその両方を知ってるが、間違いなくどんな魔法よりも素晴らしいのはスマホだ。いやマジで。スマホってマジですごい。スマホがあれば大抵のことは何とかなる。そのスマホに、電波が届かない場所に、これから僕は行くことになっている。


『ギっ……――ぃ、聞いて――』


「あ、そろそろ電波がダメですね。切ります、父さん」


『ぉい! ……、えん……――おい、負けるなよ! とにかく負けるなよ!!』


 電波の揺らぎを越えて、突き刺すように父上殿の言葉尻は飛んできた。雑音の海を、執念で押し通ってきたようだった。負けるなよ。そして、通話が切れる。


 ザッ、と一際大きくノイズが流れ、途端に静かになる。


 僕はため息をついた。はあ。

 そっけなく表示される「圏外」の二文字を見下ろしている。はあああ。



 この僕がいったい誰に負けてはならないのかといえば、それは他でもない幽玄ゆうげんきらめき左衛門ざえもんのことなのだが、幽玄・煌めき左衛門(もちろん本名ではない)について語るためにはまず、相川あいかわ地図ちずさんから始めなければならない。


 父上殿との通話を終え、僕は遊歩道のベンチにひとり項垂れていた。そこに相川地図さんは現れた。静かに石畳を踏む足音がして、僕のもとにやって来る。


えんくん」


 そっと、鈴を振るような声に顔を上げると、地図さんが微笑みながら歩いてくるところだ。

 明るいグレーのパンツスーツに、ショートボブに切り揃えた髪。僕こと江藤義円が前回彼女に会ったのは二年くらい前のはずだが、何ひとつ変わっていなかった。僕と地図さん以外、誰もいないカラフルな道をゆっくりした歩調で向かってくる。


「義円くん、お久しぶり~」


「お久しぶりです、地図さん」


「ごめんね~、急に頼んじゃって」


 すこし困ったように肩をすくめながら、彼女は僕の隣に腰掛けた。



 事の発端は地図さんである。


 地図さんというか、地図さんの、足の爪である。


「えっとね」


と、おっとりした笑みで彼女は眉を下げ、ベンチに座ったまま、彼女の爪先に視線を落とす。


 スーツ姿だが、いま彼女はシンプルなサンダルを履いていた。……ミスマッチだけどそれより「寒そう」が気になる。十二月の寒気にさらされている裸足の指には、ぐるぐると包帯が巻かれていた。

 左足の親指。


「親指の爪がね、べり〜ってね」


「詳細な描写はいいです」


「そう? あのね、最初は、ミートパイを食べにいこうとしたんだよ。わたしミートパイが大好きなんだけど、近所にすごくおいしいカフェがあってね? 明日は決戦だから、なんていうか、英気を養いたくて。でもね〜〜〜、臨時休業だったの! カフェが! あんまりだと思わない? 明日はわたし、世界最強の魔女と決闘しなきゃいけないのに、ミートパイすら食べちゃだめっていうの?」


 泣いちゃうでしょ~、と地図さんはおっとり憤慨しながら僕を見つめる。


 しかし僕は(申し訳ないが)ミートパイのことなど聞いてなかった。もっと、別の部分に引っかかっていた。


「あの。ちょっと待ってください……『世界最強の魔女』って言いました?」


「あ、そうだよ。わたしの決闘相手。彼は世界最強なの」


「せっ……つまりそれ、の決闘相手ってことですよね? 地図さんの爪が、アレした今」


「そうなの~。ほんとにごめんね? ミートパイさえ、ミートパイさえ焼かなければ」


「いえミートパイはもういいんですけど」


 昨夜未明、半泣きの地図さんから電話がかかってきたとき、江藤義円はインターネットを眺めながらだらだら歯を磨いていた。

 昨日、世界はめっちゃ平和で、面白い情報はなんにもなくて、新作の劇場アニメは酷評されてて猫はかわいかった。そこに突然、大学時代の先輩から電話がかかってきたので僕は思わず歯ブラシを取り落とし、口の端からまだ泡を零しながら洗面台の鏡に向かって問いかけたのだ。


「……もしもし?」


『義円くん~、ごめんねえ~、ワルプルギスの決闘に出てくれない……?』


「わ……何て?」


 昨夜、福井県に住む魔女相川地図さんは自宅のオーブンで何かを焼いていた。翌日どうしても参加しなければならない魔女の決闘があり、気合を入れようと好物の料理を作っていたのだ。彼女がオーブンからその何か(ミートパイだったらしい)を取り出したとき、こんがり焼けたパイを乗せた天板を持ち上げようとしたその瞬間、ミトンをはめていないことに気づいたのだが、一瞬遅かった。幸いにも指が触れたのはコンマ数秒で、持ち上げる前に離したので天板もミートパイも無事だったが、地図さんだけが無事じゃなかった。地図さんは絶叫し、キッチンをのたうち回り、壁だか床だかに体の色んな部分をぶつけ気がつくと足の爪が一枚なくなっていた。


 そして僕はワルプルギスの決闘に出ることになった。


「それがね~……すっごく美味しかったの」


と、地図さんは神妙に総括する。


「足の手当して、義円くんに電話してからね、もう泣きながら一人で食べたんだけど~、もう、びっくりするくらい美味しくて! おうちであんなに美味しいミートパイが焼けるなんて知らなかった! あれが食べられるなら、爪の一枚二枚安いものだよ」


「いや爪は大事にしてくださいよ……」



 事の発端――地図さんと爪の話――はそういうことだ。

 これで、ようやく「世界最強の魔女」こと幽玄・煌めき左衛門の話に移れるわけだが、その前にもう一つだけ押さえておかねばならない。


 言うまでもなくワルプルギスの決闘、そしてワルプルギスの夜について。


 僕と地図さんは立ち上がり、ベンチを後にして遊歩道を歩き始めた。

 暖色のカラフルな石畳がうねうねと、緩やかにくねりながら前方長く伸びている。かすかな風の感触。歩きながらふと、見回して気づくが、いつの間にか僕たちの周囲には誰もいなくなっていた。遊歩道にも川向こうの道路にも、その先にも。人も車も自転車も。

 どこかでカラスが鳴いた。


 見上げると、身を切るような冬の空気。枯葉を巻き上げる風。空は高く、旅行パンフレットみたいな青だ。雲ひとつない青の深さに目を奪われる。


 自動車の走行音ひとつ、足音ひとつしない世界の静寂は、ひどく浮世離れしていた。僕たちはどうやら、現実から放り出され始めていた。

 電波の届かない、この世のどこにもない場所を歩いている。

 ここは汽水域だ。現実と、現実ではないものが混ざり合っている。


「黄昏だねえ」


 のんびりと、地図さんのきれいな声が言った。


 その言葉を聞いた途端。僕も気づく。

 黄昏だ。

 僕たちは、夕闇の下を歩いている。

 

 一面、薔薇色の残照と、青い薄闇の覆う世界に立っていた。


 一瞬前まで目にしていた、朝の穏やかな晴天はもうどこにもない。あの青がどんな色だったかも、思い出せない。現実の岸辺から爪先を離し、深い夢の沖合へと漕ぎ出していた。この足で踏みしめていたはずの大陸はどんどん、どんどんと小さくなり、砂粒になり、その頃にはもうあの場所こそが夢だったのではないか――自分が現実と思っていたものはいったい何だったのか――そんな疑念と、錯覚に満たされている。詐術、あるいは魔法と呼ばれるものが僕の認識を侵し、僕を取り巻く世界を劇的に作り替えるのを、僕はじっと眺めていた。


 黄昏が、清廉な朝を追い払い、そして夜を引き連れてくる。

 堕落と享楽と機智に満ちた、魔女たちの夜を。


 僕と地図さんの携帯に、同時にメッセージが届いた。

 宝石箱をひっくり返したような、明るい星空の下。僕たちは黙ってスマホを見つめる。メッセージは「圏外」から送られてきていた。


〈ようこそ、すべての魔女たちよ。ワルプルギスの夜が始まった〉



 魔女集会ヴァルプルギスナハトとは言っても、四月の終わりにブロッケン山で行われるというあれではなかった。そもそも現在、十二月である。


「義円くんは、ひょっとして初参加なの? ワルプルギスの夜」


「いえ、これまでも何度か……もちろん決闘には出てませんけど」


 僕たちは話しながら、がらりと一変した景色の中を歩いている。

 

 もはや、僕と地図さん二人ではなかった。夢のように美しい夜の世界を、大勢の魔女たちが行き交っている。すれ違う空気の匂いは異国の匂いを纏っていた。たぶん僕たちもそうだ。

 ビルや出店の並ぶ、洒落た街並み。ネオンと灯りに満ちていて、夜の繁華街の趣きだ。華やかな喧騒。笑顔と話し声。男、女、老人、子供、人種も格好も種種雑多な人間たちが、この夜の訪れを祝いながら、行き交っている。

 街の中心には一際高くそびえる、古風な時計台が建っているのが見えた。イルミネーションの電飾が蔦のように巻き付き、煌びやかに夜を彩っていた。


 会議、そして祭典。それが、この明けない真夜中の結界の中で行われる「ワルプルギスの夜」である。

 世界魔女機構によって年に一度、魔女界の(わずかばかりの)秩序と方針を決定づけるため、この会議が開催される。会議の期間中は世界中から大勢の魔女たちがこの夜の世界に集まり、国境も立場もなくお祭り騒ぎを楽しむのだ。


 江藤義円はこれまで、このワルプルギスの夜の「祭典」部分にのみ、関わってきたと言える。開催期間中、世界各地から持ち寄られる魔法の技――普段は慎重に隠匿されている、他家の秘奥が、夜通しの宴会や余興の場で華やかに披露されるのは見ているだけで楽しかった。浮かれたお祭りムードの中、各地の魔女たちにナンパされたり――したり――つまりそういう空気を楽しんでもきた。


「会議」すなわち政治の部分には、これまで無関心かつ無関係を貫いてきたのだ。……昨夜地図さんから突然の電話がかかってくるまでは。


 会議。

 やや、穏当に過ぎる言い方である。野蛮さに欠ける、と言うべきか。

 ワルプルギスの決闘こそが、この「会議」だ。


「決闘は毎年、五番勝負なの。わたしの出るはずだった勝負がその一回戦で、初日の今日に行われるのね」


「試合まであと……五時間ですか」


 腕時計を見下ろしながら、僕は眉を顰めて呟く。これから七日間、この結界の中では延々と夜が続く。時間の感覚は自分で管理しないといけない。


「うん。街の中心に闘技場があるでしょう? あそこ」


「闘技場……い。胃が痛くなってきた」


「大丈夫だよ~。義円くんならやれるよ」


 ぎゅっと両拳を固めてにっこり頷く地図さんに、僕は何とも言えない表情を向ける。

 僕たちはとてもゆっくりと、道の端を歩いていた。地図さんは笑顔でいるけれど、やはりちょっと足を引きずっているし、歩みも遅い。こんなに人通りが多いとサンダルを履いてるだけの足を誰かに踏まれないか心配だ。……こんな状態の人を「闘技場」に送り出すなんて、僕にはできない。僕がやるしかないのだ。


「あの。あのですね……地図さん」


「うん?」


「負けますからね。僕。すみませんけど」


「そうだねえ」


 すこし困ったように、けれど微笑んだまま地図さんも頷く。


「それはしょうがないよね。ていうか、そもそもわたしも負けてたと思うし。相手はほら、セカイサイキョーだもんねえ」


「あはは……」


 僕も曖昧に苦笑した。

 大っぴらにそう言い切られてしまうと、ちょっと複雑だが、正直気は楽だ。


「でも、ほんとに大丈夫ですか? 僕あんまり詳しくないんですけど、つまり僕の一敗で今年の魔女界の方針が決まったり……するんですよね」


「ああ、それはね」


 地図さんはゆるゆると首を振って見せる。些細なことだ、というように。


「それはたぶんないから。安心して」


「え。なんでです?」


「義円くん、ワルプルギスの決闘のルールは知ってる?」


「ええと……魔女同士が一対一で、戦うんですよね。魔女界の運営方針について、それぞれ対立する派閥が五人ずつ魔女を出して決闘する。それで……ええと」


「全勝したら意見を通せるの。五戦して五勝したら、その派閥の出した法案が可決され、『ワルプルギスの議決』が下る。最後にワルプルギスの議決が下ったのは、ええと、百五十年前だったかな。つまりそれくらい滅多にないってこと。まず、誰かが法案を提出するってこと自体が近年ほとんどなかったし、それが五勝して通ることは、今年もまずないと見ていい。五タテってかなり厳しいよね~」


「それは……そうですね。確かに」


 ていうかね、と人差し指を振って言葉を続ける地図さん。


「あんまり言っちゃ駄目だけど、そもそも捨て試合だから……わたしの決闘ね。最強の魔女相手に勝ち星は望めないから、元々わたし自身が捨て石だったわけ。だから義円くんもあんまり気にしないで? どーんと行って、どーんと当たって砕けてきて?」


「あはは……」


「義円くんには今のうちに説明しておくね。今回、というかここ数年ずっと法案を提出してるのが、義円くんが今日これから戦うサイキョーの魔女率いる、なんていうのかな、急進左派の人たち。それを迎え撃つのが、わたしたち相川や江藤なんだけど……」


 さっきまで父上殿――父さんと、交わしていた言葉を僕は思い出していた。


 地図さんの代打でワルプルギスの決闘に出ることになった、と告げたときの、父さんの喜びようときたら。「異人の手品師どもになんぞ負けるなよ義円! 大和男児の本懐を見せてやれ!」――いくらなんでも「異人」はないだろ、「異人」て。明治かな。その急進左派と戦うという、こちらの派閥の中心にいるのもヨーロッパ系の名門魔女たちなので、「異人の手品師ども」に地図さんも僕も最強対策の捨て石にされてるわけだが……。


「うーん、大体わかりました」


と、歩きながら僕は腕を組んだ。首を捻りながら。


 そんなにわかってるわけでもないが、とにかく先に進まなきゃならなかった。あまり時間もない。とにかく、僕のやることは戦うことだけ。そう考えていいようだ。


「とりあえず教えてください。僕のその……決闘相手について。最強の」


「幽玄・煌めき左衛門」


と、地図さんは言った。


 僕は、立ち止まった。

 まじまじと地図さんを見つめ。

 ……無理もないことと思う。


「……何て?」


「幽玄・煌めき左衛門さんだよ~。いやあすごい有名人だよねぇ」


「えっとあの……ゆ。有名人?」


 そんな名前、一度聞いたら忘れたくても生涯忘れないはずだが。


「すみません。もう一度言ってください」


「ゆうげん、きらめきざえもん」


 やや訝しげに、地図さんが、夕方のアナウンサーのようにはっきり発音してくれても事態は変わりそうになかった。

 この僕は幽玄・煌めき左衛門氏と決闘する。五時間以内に。


「ああ……これ……そうだ。地図さん、入ってます。たぶんこれ」


「ええ?」


と、地図さんが大きな目を更に大きくした。


 いわゆる超翻訳。ワルプルギスの結界内では時々発生する事態だ。

 世界中から魔女たちが集結するこの場所では、コミュニケーションの円滑化のため、すべての人間の発言が自動的に翻訳されている。結界が、勝手に相手の言葉を翻訳してくれるのだ。この永遠の夜の下では、相手がフランス語で喋っていようが中国語だろうが僕の耳にはすべて日本語になって届く。逆もまた然り。

 地図さんの言葉だって例外ではない。日本語で喋り日本語で聞いているにも関わらず、実は結界の魔法を通じて僕たちも話しているのだ。


 おそらく地図さんは今、正確に「彼」の名前を言っている――「ユリウス・カエサル」か「ナポレオン・ボナパルト」か知らないがそのへんの名前を――だが、結界の翻訳も完璧ではないため、時たまこうやって珍妙な誤変換を起こしてしまうのだ。特に、人名などの固有名詞が危ないらしい。そのまま訳せばいいのに、無理やり日本名っぽく魔翻訳したせいで――こんなことに。

 とはいえしかしこんなに酷いものは僕も初めて聞いた。逆に、いったいどんな名前を超翻訳すれば「幽玄・煌めき左衛門」に? 見当もつかない。


「ええと……そんなにヘンなの?」


 おずおずと怪訝そうに、でも面白がるように、地図さんは僕を見上げる。


「やばいですね。ここまでやばいのは聞いたことない」


「あはは! ええ~、ちょっと気になる」


「まあ、それは置いときましょう。決闘には支障ないし」


 煌めき左衛門だろうがヘラクレスだろうが、殴り合うのには。

 最終手段として、紙にでも書いて本当の名前を教えてもらえばいいんだけど、それをやると結界の魔法にかなりの負荷が掛かるらしいので最終手段だ。


「うーん失敗したな~。ごめんね、結界に入る前に教えておけばよかった」


「しょうがないですよ。それより先輩、彼のこともっと教えてください。ええと……煌めき左衛門氏のこと」


「うん」


 地図さんは横髪をかき上げ、真面目な顔になって僕を見つめる。


「彼はね、ええと、『無敗の男』って呼ばれてるんだけど、理由は分かるよね?」


「えっと、無敗だからですか」


「そう」


 彼女は小さく笑った。


「彼がワルプルギスの決闘に挑み始めて、今年で七年。一度も負けたことがないんだよね。シンプルにめっちゃ強くて、誰も決闘で勝てない。五番勝負だから本人の強さだけでは押し通れないっていうのが、こっちの幸運かな」


「もう聞きたくなくなってきた」


「ごめんね~」


「……なんか弱点とかないんですか?」


 バカみたいな質問だな、我ながら。聞いておかないわけにはいかない。


「う~ん、今ここで義円くんにパッと教えられるようなものはないかな~。ええとね、まず力が強い。そしてすっごく動きが速い。そんな感じ」


「弱点って言いましたよね僕? なんで長所言うんです?」


「あはは~」


 ね、対策の立てようがないでしょ? と地図さんはお手上げのポーズをしてみせる。


「煌めき左衛門家の魔法は謎めいてて、誰も詳細を知らないの。一族はみんな武術に長けてる、ってことくらいしか、わたしたちにも分からない」


 なるほど。僕には今「煌めき左衛門」がどうやらファミリーネームの部分だったらしいことが分かりましたが、いっそ知らない方がマシかもしれない。


「あとね、なんか色んなあだ名があるよ~。二つ名っていうのかな? 『無敗の男』もそうだし、『最強の魔女』『革命家』『聖騎士』『反逆王子』……とか」


「お。王子……いったいいくつなんですか、その人」


「ああ。わたしの一期下だったと思うから、二十九とかかな?」


 僕の一つ上か、同い年といったところか。実は昨夜地図さんの頼みを引き受けてからというもの「はあ、決闘! 二十八にもなって決闘、きっつ!」の気持ちがどうしても消えないのだが、同い年の王子が出てくるというのならもう、何でもアリな気がする。


「それと、彼はわたしと同じ魔道執行人だからね。これは決闘の出場者ほぼ全員がそうだけど」


 魔道執行人――つまりは魔女界の警察である。

 ほとんど無法地帯と言っても差し支えない、我々の業界だが、あまりに派手なことをやり過ぎて世界に我々の存在がバレそうになると、世界魔女機構による取り締まり対象となり「執行」の憂き目に遭うことになる。地図さんも、煌めき左衛門氏も治安維持部隊として日夜、夢と現実の境界線を駆け回っているのだ。


「……分かりました」


「うん、戦いについてはそんなところかな? あとはどーんとやってきて、義円くん! もしかしたら勝っちゃうかもしれないよ?」



 僕は勝つつもりはなかった。

 父上殿の、偏執的な大和男児信仰にも拘わらず。さくっと負けてさっさと帰る。せめて残りの祭りを目一杯楽しんでから――そういうつもりでいた。


 そう、僕の意識は既に、明日以降のワルプルギスの祝祭に飛んでいた。

 古めかしい円形闘技場の門をくぐり、なんだか悪ふざけじみた観衆の熱狂を全身で浴びていたときも、僕の頭にあったのはコーヒーショップのことだった。理由はよく分からないのだがこの街、愛知県並みに喫茶店が多い。しかもめっちゃくちゃ美味しいコーヒーが格安で飲めるのだ。いま僕はなぜか、だだっ広いフィールドに一人で立っていて、ぎらぎらしたスポットライトを浴びながら何千人もの魔女に見下ろされているが、この意味不明な、異常な瞬間が過ぎ去ればたぶん心拍数も元に戻り、汗も引っ込み、正常な食欲がわいてくるだろう。

 そして祭りを謳歌する。


 割れるような歓声が上がって――僕の向かい側の入り口から、最強の魔女がすたすたと歩いてきた瞬間も、僕は全然負けるつもりでいた。

 全然構わない。僕、そういうつもりで来てるので。


 ……いやでも。でも、この観衆。いきなりこんな人数がいるとはさすがに思ってなかった。すごい熱気。うるさすぎてなんも聞こえん。この人数の前で、今から僕は王子に負けるのか。王子、殴る。うわー参った。負けました。江藤義円の負け。というのを、この人数に見られることになる。ちょっと、いやかなりそれは不本意だな。


 でもいい。

 別にいい。それはしょうがない。

 勝つつもりはないんだから。


 幽玄・煌めき左衛門が僕を見る。

 僕も彼を見ていた。目が合う。



 ところで、僕には嫌いなものがある。


 誰にでもそりゃあるとは思うけど。

 僕にもある。


 雨の日、水溜まりでびしょ濡れになったスニーカーとか。

 コンセントのタコ足配線とか。


 夏の暑さ、咳払いの声、セロハンテープの匂い。


 全然要らないのに捨てるのも躊躇われるお土産のキーホルダー、毎回書けない「皮膚」の「膚」の字、小さくなった消しゴム、愛想笑いにしか使わない筋肉、言いたくない嘘を言う瞬間、見つからない画鋲、涼やかな目元のイケメンエリート、などである。


 ……ふう。すっきりした。

 さて幽玄・煌めき左衛門に話を戻すとしよう。



 幽玄・煌めき左衛門はじっと、無表情で僕を見つめていた。


 凛々しい長身、惚れ惚れする肉体美。もう少し距離が近ければ見下ろされているだろう。怜悧かつ優美な面差しを縁取る、暗い灰色の髪は繊細なウェーブを描きながら耳の横に流れている。空色の瞳は思わず息を飲むほど剣呑な光を湛えていた。美しさにそぐわないまでの、射るような殺気。

 そしてこれまで僕の胸にあった、ある頑迷な偏見がクッキーみたいにぼろぼろと崩れていった――ブラウンスーツを着るなんて、積極的に自分をオジサンの枠に嵌めにいく人間だと思っていた。僕は、間違っていた。


「すこしいいかな」


と、幽玄・煌めき左衛門はすっと片手を上げ、言葉を発した。

 落ち着いた、感じのいい低音だ。


 僕にというより、ここにいる全員に向けての問いかけだった。


「私の決闘相手は相川地図だったはずだ。この男は、相川地図には見えないが」


 え。


 僕は固まってしまう。


 ……地図先輩、僕の出場の手続きをしてないのか? ひょっとして。


 するとすぐさま、今度はピンク色のスーツを着た男が走ってきてひそひそと耳打ちする。幽玄・煌めき左衛門は――だめだこれほんと話が入ってこねえな。ユーゲンでいいか。ユーゲン氏は、美しい眉をひそめて僕をちらと見る。「今朝代わった? それで、地図は無事なのか?」……手続きはちゃんと済んでいたようだ。運営側の手違いで、ユーゲンの耳に入っていなかったらしい。


 もう一度、ちらりとユーゲンがこちらを見る。運営の男と話している。


「しかし、急遽決闘に出るなどあまりに酷では……」


 おやおや。見た目がハリウッドしてるだけでなく、敵方への気遣いもできる。なんだこの王子は。


 いやいや。理不尽なイラつきを覚えてる場合じゃないだろ。

 こいつがどんな奴だろうが関係ない。僕は負けるんだから。

 僕は負けるんだから。


 こっちは捨て石。真剣に戦ったりはしない。


 ユーゲンは顔をしかめ、はっきりと告げた。


「だが、彼は素人だ。素人と戦うことはできない」


 僕は彼を見た。

 真っすぐに。


 ……それから、彼の隣に立ってるピンクスーツの男も。それから八方ぐるりと僕たちを取り囲む絨毯のような観衆の色合いも眺めた。あの中に地図さんがいる。それから、もう一度戻って、ユーゲンの不機嫌な顔を見つめた。


 僕は、口を開いた。確かに。あなたの言う通りなんですよね。この決闘に出場するのはあなたと同じ魔道執行人ばかりと聞いている。地図さんは戦闘職だけど、僕は違います。ただ彼女の大学の後輩だっただけの、たまたま一晩で捕まった、そのへんの石ころみたいな魔女に過ぎない。そりゃ家門の魔法があるので多少の心得はありますがあなたのようなプロではない、明らかに。あなたの言う通りだと思います。決闘なんて危ない真似は最初からやめとくべきだったんだ。今こうやってその機会を与えてくれた、あなたの優しさに感謝します。本当にありがとう。僕は言った。


「舐めんなクソ優男が。さっさとヤんぞ」


 その瞬間、雷鳴のような怒号が――僕を取り巻く空気を、鼓膜を震わせる。

 これも結界の効果だろうか、僕の発した言葉は魔女たち全員に聞き届けられ、たちまち狂喜する熱気の渦に闘技場を放り込んだ。


 いいぞアジア人。やってやれ。お高くとまった騎士をぶちのめせ! 不敗神話を破ってやれ!


 ほかにも色々と言われた気がしたけど、僕は聞いてなかった。目の前、ユーゲンが僕を見つめ返している。騎士然とした気品もあの刺すような眼光も、一瞬すべてが消え去った、無表情で。僕はもうこいつのことしか見てなかった。もはや一秒たりとも目を離すつもりはない。ピンクスーツがやれやれと首を振り、肩をすくめるとユーゲンの背後に早足で消えてゆく。

 ユーゲンも小さく首を振り、ひとつ息をついて、向き直った。憮然たる諦めのような戦意を乗せて、僕に。



 不思議と静かになる。僕にはもう、観衆の声は聞こえなかった。 


 ただうるさいほどに自分の呼吸が聞こえた。上がったり喘いだりはしていない。むしろ不合理なまでに落ち着いていて、ゆっくりと、ただ呼吸の音が流れていた。僕は冷静だった。つまり、頭に血が上りまくってるときほど全然そんな感じがしないものだ。興奮し過ぎて逆に冴えていた。妙な冷静さがあった。


 ユーゲンの初撃を受けたとき、僕の体に走ったのは電撃のような、予感だ。


 まともに食らえば一撃で沈むと分かる、野蛮なまでに洗練された右の拳をいなしてほとんど無意識に、間合いを取っている。逃れるので精一杯だった。速い。なんだこれ。瞬きひとつで十数メートルの距離を詰められ、気づいたときこいつは目の前にいた。今、僕はほとんど反射で攻撃を受け流し、運よく生き延びていた。次は無い。今のはまぐれだ、もう一度はやれない。なんだ今の? 速く移動する魔法というのはある、が、スピードを上げようとすれば体重が軽くなるはずだ。ユーゲンの拳は地図さんの言葉通り、経験したこともないほど重かった。鉄球みたいに。まだ腕が痺れている。ただひたすらに強烈なのは予感だ。一撃で分かった。予感というかもう確信だが、僕はこの男に絶対に絶対に、勝てない。


 ほら、僕は冷静だ。ちゃんと分かっている。

 腹から声を上げて飛び込む。懐に。


 驚いたことにユーゲンは退いた。


 僕の動きを警戒するように。

 僕が詰めただけ、間合いを取って後退する。


 その瞳は、小さく見開かれ、真っすぐ真剣に僕だけを見つめていた。じっと探るように。


 は? 何だ? 何を警戒してる?

 僕が今、こいつと拳を交わした一瞬の間に。やる前から分かってた格の違いを分からされた以外に、何が起きた?


 僕たちは獣のように目を合わせたまま、睨み合っていた。格闘の構え、力を抜き、肩を上下させて。僕の目に奴が映っていて、奴の目に僕が映っている。そして僕は気づく。


 僕たち二人を取り巻く異様な状況に、気づいた。


 ユーゲンの全身、佇まいから、淡い陽炎のような銀色の炎が立ち上っている。全身を取り囲み、空気が揺らいでいる。ユーゲンの纏う魔力の気配が見えるのだ。


 おかしい。そんなはずはなかった。魔法というのは、無形の力だ。目に見えない。だから他人の使う魔法の正体を知るのは困難なわけで。しかし、いま僕にはその力が見える。定かではないながらも揺らめく気配が。そして、控えめな狼狽を浮かべながら僕を睨んでいるユーゲンの瞳、この男にも、僕の魔力が見えているようだった。そう考えなければならない。


 なぜ。なぜこんなことが起きてる?


 理由は、咄嗟にひとつしか思い浮かばなかった。

 僕たちの魔法には、関連がある。僕の使う魔法とユーゲンの使う魔法には、なにか強い関係性がある。たとえば二人の魔力はまったく同じ性質のものである、あるいはその逆――


 そこまで考えて息を飲んだ。

 そうか。そういうことか。

 明らかに、ユーゲンは僕よりも早くその結論にたどり着いていた。先程から僕を見つめている瞳に浮かぶ、警戒、狼狽、そして――恐れ。


 いま、僕とユーゲンは繋がっている。はっきりとそれを感じていた。触れ合った一瞬で、互いの魂に橋が架かってしまったのだ。ユーゲンを取り巻く銀の炎はそのまま、真っすぐに僕の胸へと伸びていた。二人の魔力は手を取り、腕を絡ませ合うようにして深く深く繋がっていた。

 僕の予想が正しければ、これはユーゲンの魔法だ。誰も秘密を知らないという、最強の魔女の魔法。その正体、彼の生まれ持った魔力が帯びている性質は、おそらく【繋げる】というものだ――他人に対し、魔力の楔を打ち込み、紐で繋ぐ。見えない魔法の絆を作り、鎖で縛り、遠くにいながら影響を与える。支配する。

 なぜそう思うのか? なぜ【繋げる】なのか。

 僕の魔法から逆算するほかない。江藤家の魔力――【切り離す】というその性質から。


 僕は両手を背後に回し、相手を見据えたまま息を吸った。ユーゲンから見えないように素早く背中で印を切る。両手の人差し指を交差させ、短く息を吐き出す。


「は!」


 気合の声とともに、全身から魔力を放った。爆発的に。僕の魔力は、燃え移った炎がロープを焼き切りみるみる伝っていくように、繋がった絆を渡ってユーゲンのもとにまで届いた、わずか一瞬で。


 いわばジャンケンみたいなものだった。相性が最悪だった。ユーゲンの纏う魔力は僕の魔力に焼き切られ、ざあっと一斉に立ち消えた。跡形もなく吹き飛ばされ、見えなくなる。残されたのは身一つの美丈夫、焦りを浮かべこちらを見つめながら――


「ぐっ、ぅ……!」


 右手で胸を押さえ、苦痛の声を漏らして僕を睨んでいた。長身が大きくよろめく。僕は駆け出し、彼に襲いかかっている。地面を蹴る両足に魔法をかける。ほんの数秒、僕の足は重力から切断され、一足飛びにユーゲンの目の前に迫っていた。こいつの最初の芸当と違って、僕の体は軽くて自由が利かなくなっている、だから魔法を使う。懐に飛び込みながら右手で指さし、至近距離で男の眉間に、切り離しの呪詛をかける。切れろ、意識の糸よ、倒れろ。


 ユーゲンは躱した。意味不明なことに。は?

 もはや隠しようのない消耗と焦りを見せながらも、間一髪、身をよじって僕の呪いを避ける。体勢が大きく崩れ、僕もつんのめり揉み合いになった。まだ重力切断の魔法が効いている、僕の方が動きが速い。咄嗟に極め技を掛けにいくが、その手を寸前で払い落とされる。明らかに必死の反応で。なんだその反射神経人間やめてるだろ! 立っていられず後ろに倒れ込みながら、ユーゲンの放つカウンターの蹴りが僕の胴に入った。苦し紛れなのに狙いは正確でまともに食らった。息が詰まり、僕はげほげほ咳き込みながら、激痛に背を丸めて相手を睨みつける。あっちも素早く立ち上がりながら、脂汗を浮かべて見返してくる。


 重力の魔法は切れていた。だけどまだやれる。ユーゲンを取り巻いていたあの銀色の炎は一片も残らず消えていた、僕にはそれが見えていた。今度は向こうから飛びかかってくる。


 組み合う。格闘。臆面もなく江藤義円は魔法を駆使した。痛みを切り離す。重力を切り離す。常識を切り離す。人間にはあり得ない膂力、スピード、強度へと、自分自身を押し上げていく。防戦一方のユーゲンは、凄まじい反応速度と読みと直感のみで、一瞬一瞬を振り絞るように僕の攻めに食らいついてきた。

 攻め立てながら、僕も悪夢じみて冷や汗に溺れている。くそ。一瞬でも隙を見せたらこっちがやられる、一瞬で。なんだこれ。なんだこれなんだこれなんだこれ。さすがに。ダメだろこれは。いくら最強だろうが無敗だろうがイケメンだろうが、魔力の切れてる生身の人間にやられるってのは魔女として!

 打ち込むごとに、組み合うごとに、電撃が走る。予感。確信。

 勝てない。

 勝てない勝てる気がしない、絶対に――


 一瞬を、永遠と錯覚するような重苦しい緊張の中、途方もなさの中で、超人的に完璧な防戦を見せ続けていたユーゲンの動きが、そのとき突然崩れた。


「――っう」


と、僕の拳を受け止めきれず、足を取られる。思わず漏れた彼の短い喘ぎに、眼差しの揺れた光に、初めて人間らしい疲弊の色がどっと溢れた。

 僕はもう何かを考えられる精神状態じゃなかった。ただ真っ白で、自分じゃない誰かに操られるみたいにして彼の立て直す動きを正確に殺し、押し倒し馬乗りになって、地面に男を押し付けていた。


 仰向けに見上げる、眉間に人差し指を突きつける。ぴたりと。いつでも呪詛をかけられる状態になって、ようやく、動きを止める。


 動きを止めた。


「……………………くっ……そ……」


 ぜいぜいと、激しく肩で喘ぎながら毒づいたのは、僕だ。僕の方だった。


 僕たちは動かず、固まった体勢のまま長い間そうしていた。上がった息を整えることもできずに。

 黙って見つめ合っていた。


「…………は、」


 は……と大きく、大きく息を吐き捨て、決闘相手が瞳を閉じる。

 その全身から力が抜けた。汗で額に貼りついている髪。呼吸に合わせて動いている喉。


「降参する」


 静かに彼はそう告げた。


 途端、喧騒の竜巻に包まれる。


 物凄い歓声だった。何千人もの絶叫だった。僕とこいつしかいなかった世界に、突然音が戻ってきた。全方位からの激しい音の嵐に投げ出され、揉まれ、気が遠くなる。呪詛の構えを解いて倒れ込むように、こいつの脇に両手をついている。こいつには分かってしまっただろうが、辛うじて気を失わないようにだった。ワルプルギスの決闘の一夜目が終わった。

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