一敗の男
「義円くん、ほんとにすごかったよ~! もう、ほんとにほんとに興奮した!」
地図さんはぎらぎらしていた。ネオンよりも。瀟洒な灯り溢れる夜の街のオープンカフェに、僕たちは座っている。
イケメンエリートを闘技場の土に押し倒してから、わずか三十分しか経っていない。地図さんはあの熱狂をまだガウンのように帯びていた。僕はげっそり疲れ果てていた。
なにか大それたことを成し遂げたとき、人は謙遜の言葉を放ってみせるものだ。僕もまたアイスティーを半ば無理やり喉に流し込みながら、お決まりの台詞を言っていた。
「いえ、偶然なんです」
ところでこれは謙遜ではなかった。全くの事実だった。
口に出す直前まで僕の頭の中では完全に真実だった言葉が、口から出た途端、ひどく空々しい卑下になって空気を渡るのを聞く。
僕はもう少し、弁明することにした。事実に対しせめて誠実であろうと。
「相性勝ちだったんです。本当にそれだけで……たまたまユーゲンの魔法を破る手段を持ってなかったら、五秒でやられてましたよ」
言葉を重ねれば重ねるだけ、絶望的に嘘臭くそれは響いた。
うおお。頭を抱えてしまいたくなる。僕いま、めっちゃスカし野郎じゃないか? でも、地図さんは有難いことに僕の言葉を否定しなかった。ただにこっとして言った。
「勝ったからいいじゃない」
「…………確かに。そうですね」
ほっと息をつく。
疲弊と、安堵と気まずさが両肩を滑り降りていく。残ったのはプールで泳いだ後のような、心地良い疲労感だ。
まだ真昼と言っていい時間だが、取り巻く夜の雰囲気もあって既に僕は帰りたかった。ぐっすり寝たい。
「何にせよ終わってよかったです。僕の仕事は終わりですね」
「うん。ありがとね~。しかも勝っちゃうなんて最高の仕事だよ!」
「ありがとうございます」
ここは素直に受け取っておく。結果は結果だ。考えてみれば、もう何も気にすることなく後は全力でこのお祭りを楽しめる。しかも予定していたよりも、ずっとマシな気分で堂々と過ごせるんじゃないか。
「義円くん、この借りは絶対、絶対にちゃんと返すから!」
「期待しときます」
「生爪のミートパイも今度焼いてあげるね」
「その呼び方は決定ですか? 今からでもどうにかなりませんか?」
とりあえず、僕は帰った。
街に入った段階で、それぞれ宛がわれていたホテルの一室があった。かわいいお洒落な宿屋が街の至るところに建っていて、一人ずつ滞在できる住まいがある。シャワーを浴び、二時間ほど昼寝して目覚めると窓の外は、真夜中だった。終わらない夜の祭典が続いている。明るい星々に、灯りに、賑やかな声。
なんとなく今日はもう出かける気になれなかった。僕はホテルの部屋で、まさか一日目からこれを引っ張り出す羽目になるとは思わなかったが文庫の小説を読んで過ごした。奇怪で陰惨な殺人事件を追ってページを繰るうち、今日あった出来事も、よりどころなく昂った気持ちもいつしか遠のいていった。色々とヘンなことは起きたが結局のところバラバラ死体が発見されるほどではない。ミステリの良いところは、基本的に魔法が出てこないところだ。魔女の街に持ち込むのには丁度良い。
翌朝、目覚めたときはすっかりいつもの僕になっていた。あー慣れないことやって疲れたな、昨日は。よし街に出るか。カフェでクロワッサンでもかじってから祭りを見て回ろう。
僕はひとりだった。見知らぬ街並み、見知らぬ魔女たちとすれ違い、ワルプルギスの夜を歩いた。二日目の今日は決闘が行われない。のんびりと熱っぽい非日常の空気に包まれていた。
表通りには、所狭しと出店が並んでいる。世界中から訪れた魔女たちが、それぞれ風変わりな魔法や道具を売っている。魔法と一口に言っても、家ごと魔女ごとにその性質は千差万別。他人の魔法を買うことで自分にはできない様々なことが可能になる。数年前、僕もここで縁切りのまじないを売ってみた。飛ぶように売れてちょっと怖かった。ある意味、縁結びのまじないよりも切実な需要があるようだ。
ちらちらと出店を冷やかし、いくつか面白そうなものを買う。幽霊が見える眼鏡とか、どんなに阿漕なサブスクでもすぐに解約できるアプリとか(魔法でも使わないとそんなこと無理だ)、ただのお菓子とか、ピアノが弾けるようになる手袋とか。
ひとりで見て回りながら、これまで感じたこともないちくちくする視線を、僕は感じていた。通りを行く魔女たち、大勢が僕を見ている。遠巻きにちらちらと、あるいはじろじろと。昨日の決闘の衝撃は、既に街中に広まっているらしかった。終わった以上どうでもいいことではあるが。それから、何人かの知り合いにも会った。イギリスに留学していた頃の友人たちだ。彼らは数年ぶりに会う僕にも気さくに声を掛けてくれた。留学時代の賑やかさを思い出し、心が温かくなる。めちゃくちゃ楽しかったなあの頃。みんな昨日の闘技場にいたそうで、興奮気味にお祝いを言ってくれた。
それから表通りを外れ、やや喧騒を離れ、しんと静かな裏通りに入ってゆく。狭くて薄暗い道、ぽつぽつと家族連れや、カップルとすれ違う。腕を組んで歩いている十五歳くらいの女の子二人組にすれ違いざま「カッコよかったよ!」とユニゾンで叫ばれもう少しで悲鳴を上げるところだった。「ありがとう」と、内心の苦笑いを押し込め頷き返す。
裏通りにもぽつぽつとまばらに露店が出ていた。このへんの店にはちょっと注意しなければならない。いかがわしいものが多いので。麻薬とか、普通に売っている。繰り返すがこの街、魔法あり何でもありの無法地帯だということを忘れてはならない。
それでも、人通りの穏やかなこの一帯には、質の良い掘り出し物の魔法が売っていた。素晴らしい魔法の腕を持っているが、せかせかと安売りするつもりはない――金稼ぎなどくだらない、ひっそり好きにやらせてもらう、そういうスタンスの魔女たちが店を出しているのだ。
僕が足を止めたのもそういう露店のひとつだった。
入り組んだ路地のさらに奥、街灯やネオンの煌めきもほとんど届かない陰のような薄暗がりの中に、いるのかいないのか分からないような佇まいでその店は構えていた。
最初、僕は通り過ぎようとした。かなり怪しかったからだ。
どう怪しいかというと、何を売っているのか全く分からなかった。店主の座っている目の前に長机があり、ライトブルーのおそらくシルクの上等な布がそれを覆っていた。机の上には何もない。商品もなければ価格表すらない。
ゆっくり歩き過ぎながら、僕はしばらく好奇心と格闘した。これはダメだ怪しすぎる。足を止めちゃいけない。頑張れ、僕の自制心。自制心は負けた。
「何を売ってるんですか?」
僕は、すたすた戻っていって尋ねた。店主は静かに、こちらの顔をじっと見上げた。
無言で四秒ほど見つめた後、
「占い」
とぶっきらぼうに答えた。
ああ、と僕は思った。なるほど。
「どうぞ掛けて」
錆びだらけのパイプ椅子を示し、店主が促す。向き合って腰掛けながら、僕は先に料金を尋ねた。返ってきた金額はかなり良心的だった。
「占い、信じてないだろ?」
笑みを含んだ声音で気だるげに店主が言う。薄闇に溶け込む褐色の肌、はっとするほど大きな瞳が真っすぐに僕を見つめる。
「まあ。正直、そんなには」
僕はそう答えた。
魔女界の長年の定説である。未来は、魔法の領分ではない。それは魔法ではない。
「でも、占ってもらうのは結構楽しいんです。ひょっとしたら当たるかもしれないし」
「危ないね」
肘をついたまま彼は言った。
危ない?
「それは、インチキだから? いま僕カモにされてる?」
「逆。逆だ。軽い気持ちで占ってもらうのはよしといたほうがいい。つまり、この街ではね。何人かの魔女は、正真正銘本物の未来を観るんだ。お前は一年後スポーツカーに轢かれる、これは絶対に変えられない、とか知りたいか? ま、幸いおれはインチキだけどな」
「インチキなんですか」
何と言っていいか分からず僕は苦笑した。
占い師の男はにやりと犬歯を見せ、
「インチキだがそれなりに当たるよ。未来ってのは結局、現在の一歩先に過ぎない。注意深く現在の姿を、ありのままに観察すれば自ずと未来の姿が見えてくる……まあちょっとくらいは。おれに分かるのは、せいぜい数日後までかな」
「はあ」
「七日間」
がっしりした指で、七という数字を示してみせ、
「ワルプルギスの祭典の七日間。いや、一日終わったから、あと六日か。今後六日間のあんたの未来を占ってやろう。どうだ?」
「面白そうですね。お願いします」
「よし来た」
店主はにやにや笑いを引っ込めたと思うと、手に顎を置いてじっと僕を見つめた。
目には見えない、かすかな魔力が満ちる気配。夜風と沈黙が流れた。僕は黒い瞳を見つめ返している。それからぶつぶつと何か呟き、男は、繰り返し何かを呟きながら僕を見つめた。そのときさっと頭上から月光が差し込んだ。濡れたように照らされる路地、蒼白くシルクが閃く。
「――うん。それじゃ、どっから聞きたい?」
「もう見えたんですか?」
「おれには大したことは見えんよ。だからそう時間はかからないんだ。そうだな、そう、五つに分けて話そうか。分野ごとに」
「お任せします」
「おう。まず、全体的に……いわゆる総合運ってやつだが。あんまりよくないな。よくない」
「え。いきなり」
「まあ、誰にでも良いときと悪いときってのがあるんだよ。少なくとも兄ちゃんは、今後数日注意だな。あんまりよくないことが立て続けに起こるかもしれん」
「はあ……」
「気を落とすなよ。ただの可能性だ。次。恋愛運。……恋愛運とか興味ある?」
僕は机に片肘をついた。
「めっちゃありますね」
「あはは! そりゃいい」
しばらく相手がいなくて、このところ僕は鬱々としていた。自分が不愉快なつまらない人間になったような気がしていた。いや、実際不愉快なつまらない人間なのだが。近頃は籠って研究ばかりしてるから、出会いもないし、家じゃ父さんが早く身を固めろとうるさいし。
この祭りでなんとか新しい相手が見つからないかと思っていた。もう別に運命の相手とかじゃなくていい。互いに気軽な遊び相手とかでも。
「それじゃ、恋愛運」
「お願いします」
「まったく思い通りにならない」
「クソが!」
「まあ、必ずしもそれが悪いってわけじゃないだろ」
肩をすくめる男。
どうでもいいけどさっきから、やたらとおみくじ調なのが気になるんだが。翻訳のせいかな。
「さてお次は……勝負事、だが」
そこで、ふと占い師は黙り込んだ。
小さく眉を寄せ、腕を組む。数秒。
「……どうしたんですか?」
「あー、いや。やっぱりおれインチキかもな」
「え」
「……あんたの勝負運、こう出てる」
「なんですか」
「負ける」
肩をすくめ、彼は首を振った。
「これはちょっとおかしいよな。あんたの決闘はもう終わってて、しかも大金星あげてんだもんな」
「はあ……ていうかお兄さんも観てたんですか。昨日の試合」
「観てたよ。おれはユーゲンを応援してたけどな」
にやっとしてひらひら片手を振り、
「でも考えてみればこれは未来の運勢だもんな。兄ちゃんが明日あたり、チンピラに喧嘩売られてボコられるって意味かもな」
「嫌なんですけど」
「せいぜい頑張れよ。で、次。仕事。まったくはかどらないでしょう」
「ワルプルギスの祭りにまで持ち込むほどワーカホリックじゃないですよ、せっかくの休みに……ていうかさっきからろくな運勢がねえな? 僕の未来、最悪じゃないですか?」
「だから言ってるだろ。せいぜい頑張れ。で、最後。人生!」
ずいと机に乗り出し、占い師はぴしと指を突きつけた。
「良い方に転がる」
◇
午後、街には雪が降り注いだ。
それはとても都合の良い雪で、目には見えるけど触れられない。冷たくもない。地面に落ちても降り積もらず、すうっと幻のように消えていった。
白い魔法は、街の明かりを反射して色とりどりに閃いていた。魔女たちは歓声を上げ空を見上げていた。
僕は結局、ひとりで街を散策して過ごした。
実を言えば、何人かに声を掛けられた(あの不吉な占い師の予言にも関わらず)。誘われるのは気分が良かったし、話しかけてくれた魔女の中には結構好みのタイプもいた、のだが、みんな昨日の決闘のことで褒めてくれるのでなんだか居心地が悪くなってしまった。
もったいないことをしただろうか。間違いなくしていた。やっぱり、デートくらいすればよかったか。しとけよ。何をもったいぶってんだ、阿呆。
夕方になり、雪は止んだ。まるで初めから降っていなかったかのように。
僕はひとりで夕食を取ることにして、とぼとぼと僕のホテルの方向に向かい始めた。
早くも、あの占いを買ったことを後悔し始めている。唐突に理不尽な憤りが湧いてきた。
あの男、くだらない予言を教えてくれやがって。既に予言に振り回されてるじゃないか。ネガティブな占いに引っ張られて、僕まで消極的になってどうする。
よし。明日は絶対にデートしよう。絶対だ。自分から誘おう。性根がねじ曲がってて助かったな、八つ当たりしたら元気になってきた。
だが、あの男は正しかった。軽い気持ちで未来を知ろうとしてはいけなかったのだ。
直後、僕はそれを思い知ることになる。
前方にホテルが見えていた。僕はぼんやりと、電飾を見ながら歩いていた。このあたりは人通りも少なく閑散としている。背後、街の反対側で花火が上がっており、低い轟きとカラフルな光を背中の向こうに感じていた。街灯の照らす道の先から人影が歩いてくる。背の高い三人の男。なぜか、軍隊の行進のように三人の歩調はぴったりと揃っている。僕は目を細め、電飾から視線を下げてその男たちを見た。三人の身長も、ぴったり同じ高さで、二メートルくらいあった。突然そいつらは僕めがけて猛スピードで走り出した。まったく同じ歩調で。
「え?」
僕は、小さく呟いた。
呟きながら自分でも馬鹿みたいな反応だと分かっていた。
え? って言いながら、僕の足は地面を蹴り、踵を返していた。え? って言いながら、僕は素早く駆け出していた。逃げなきゃならない。分かっていた。いったい何が起きてるのか理解する前に、状況に対処しなきゃならない。
全速力でアスファルトを蹴りながら、首を曲げて背後を見た。
男たちは音もなく、悪夢じみたスピードでこちらに迫ってきていた。一瞬で距離が縮む。ぐんぐん大きくなる。よく見れば、男たちじゃなかった。人間でもなかった。
人形だ。
顔も表情もない、白木の人形が黒いコートを着込んでこちらに走ってくるのだ。木製の四肢がぎこちなく走行のフォームを真似ながら、からからと虚ろな音を立てていた。凄まじいスピードだった。だめだ。逃げきれない。いや、逃げなくては! 僕は魔力を放出し、両足を重力から切り離して大きく前方に跳躍した。
浮遊感。胃がせり上がる。足元の地面が遠ざかり、猛スピードで眼下を流れてゆく。コンマ数秒で魔法が切れ、落下が始まる。姿勢を崩さないようにしながら、なんとか左足で着地して次の一歩を踏み出した。もう一度切り離し。跳躍。見た目ほど、扱いやすい魔法じゃないのだ。失敗すれば地面に激突する。死ぬかもしれない。
振り返ると人形たちはまだついてきていた。詰められてはいない。けれど離れてもいない。くそっ駄目だ速すぎる、振り切れない。
いつの間にか、僕は街の中心部まで戻ってきてしまっていた。表通り、出店、ざわめき、魔女たち。みんな驚いて僕を見上げ、僕が地面に落下すると悲鳴を上げて逃れた。僕も叫んだ。誰も踏んでない。踏んでない。早くここを離れなきゃ――そのとき、僕の目の前、夜空で花火が弾け、緑色の大きな光が散らばる。僕の全身も街並みも鮮やかな緑色に照らし出された。全ての輪郭がグリーンになった、一瞬――その一瞬。僕ははっきりと見た。すぐ斜め横の、カフェテラス。小さめのテーブルにひとりで着いて、緑色の彼が片肘をつきこちらを見ているのを。緑色に縁どられ黒く逆光に沈む姿の内側、きらりと光る目が僕と合った気がした。驚いたように、すこし見開いて。
僕は着地に失敗した。
ぐしゃりと潰れ全身複雑骨折、は免れたが、跳躍の魔法のタイミングがずれ、凄まじい勢いで空中に投げ出される。くるくる、落ち葉のように錐もみして回る。姿勢を制御できない。どこに向かってるのか。
落下が始まって、僕は街のかなり上空にいることを察した。僕のすぐ横にビルの窓ガラスが見えた。くそ! 魔法。魔法、魔法――何をやったのやらよく分からない。自分でも意味不明だったが、生きたまま、数秒後地面の上に戻っていた。僕はどこかの路地裏に転がっていた。周囲に誰もいない。でかい蜘蛛はいた。
からからからん。
空から、虚ろな音が降ってくる。白木の刺客はビルをひらりと飛び越え、列をなして降りてくるところだった。
三体が五体になっている。
逃げ場はなかった。僕は立ち上がりつつ、全身に魔力を漲らせていく。呼吸が浅く引きつるようで上手く集中できない。人形たちを睨み上げる。そして、五体から一斉に魔法が飛んできた。
僕にはその魔法が見えた。
銀色の炎のような気配だった。
揺らぐ銀色の鎖が一斉に五本、向かってきて、僕の体にきつく巻き付いた。僕は呻き、空気を吐き出しながら必死で印を切り、魔力を放っていた。どうなってるんだ意味不明だいい加減にしろ! 鎖は、やすやすと切れ、僕の体から弾け飛んだ。思った通り僕の魔力は効くらしかった。だけど、五体。五体いた。すぐに次の鎖が打ち込まれる。飛んでくる。前方から上から後ろから僕に襲い掛かる。僕は人形たちを見上げ、必死で鎖を躱し、魔法で弾き返し、何度も何度も、纏わりつく鎖を切断の魔力で焼き払った。何度やっても攻撃は止まず、激しさを増していく。
僕は一瞬、意識を手放したんだと思う。気づいたときには両腕ごと何本もの鎖に巻かれ、上空から吊るされていた。ビルの隙間の夜空を背に、五体の人形たちが顔のない顔で僕を見下ろしていた。最後まで無言のまま。
息が喉の奥で詰まった。締め上げられる激痛に、歯を噛んで呻く。
路地に靴音が聞こえた。靴音がした。
誰かが走ってくる。
酸素の足りない頭で僕が見下ろしたとき――ユーゲンは曲がり角の向こうから飛び出してくるところだった。全速力で駆けてきて息が上がっている。空色の瞳が、夜空を見上げた。
「くそが」
と、僕はかすれた声で吐き捨てた。肺に残っていた空気を罵倒に使い果たした。
「その通りだ」
ユーゲンは冷静にそう答え、こちらを見上げながら、真っすぐに右手を突き出した。
人差し指でこちらを指さす。一瞬、爆発的な銀色の魔力がその全身に迸り、呪詛が飛んできたのが分かった。
次に僕が目を開けたとき――ほんの五秒後だが――ユーゲンは隣に立っていて、僕は地面の上にいた。鎖から解かれ、喘ぎながら横たわる僕を、彼は見下ろしていた。
「くそが」
「そうだね」
「お前じゃないのかよ」
「そうだ、私ではない」
「それじゃなんでここにいるんだよ!」
夜空の人形たちを見上げながら、ブラウンスーツの背中が言う。
「残念ながら、きみのような素人を守るのが、私の仕事なのでね」
ユーゲンは地面を蹴る。
置き去った風が、僕の髪を巻き上げたほどだった。濃い魔力の気配が空気を揺るがし、ユーゲンの魔法は矢のように頭上の人形たちに向かって飛んでゆく。
五方向から、一斉に銀の鎖が放たれた。ユーゲンは受けない。ほんのわずかな身の捻りで、ひらりと正確に躱している。薄汚れた路地の地面を軽やかに蹴り、とめどなく殺到する追撃の鎖をひとつ残らず回避する。踊るような流麗さ。駆け、跳躍し、身を翻し、視線は頭上に向けたままでいる。今や狭い路地は夥しく複雑に絡み合う五本の鎖で蜘蛛の巣のようになっていた。身動きも取れないほどに。それが一ミリの狂いもなく、ユーゲンの狙い通りだとそのとき僕は気づく。
人形たちに向けて、初めユーゲンが放っていた魔法、それも銀色の鎖の姿をしていたが、突如その鎖は絡み合った敵の五本に纏わりつき、素早く強烈にまとめ上げてしまった。こちらの魔法が反対にあちらを捕らえた。間髪入れずユーゲンは自らの鎖を――五本ひとまとめにきつく縛り上げたそれを、凄まじい膂力で引いた。引きずり下ろした。身じろぎする間もないまま、五体の人形ががらがらと身を打ち合わせながら真っ逆さまに墜落――急降下、地面に激突する。身の竦むような、恐ろしい破壊音を立てて。
魔力の気配が消えた。靄のように薄れていった。人形のそれもユーゲンのも。
残っていたのは、屍だった。人形のそれを屍と呼ぶのならば――死屍累々。木製の人形は一体残らずばらばらになっていた。首から脚まで無事にくっついているものはひとつもない。無残だ。
あまりにも一方的だった。
僕は冷たい地面に尻をついたまま、屍の真ん中に立つ男を見上げていた。
彼も僕を見下ろしている。白木の破片をぱきぱきと踏み砕きながら、大股でこちらに歩いてくる。
未だに名前を知らない。
だけど、僕の口からは思わず、その称号がこぼれ落ちていた。
「…………『無敗の男』……」
「だった、と言うべきだろうな」
彼は微笑した。
そっと、僕に手を差しのべた。
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