政治的対立と肉体について

「さて江藤君。きみは私を信用することができるか?」


 ユーゲンは言った。


 僕たちは、暗い路地に立っていた。互いに向き合っている。ユーゲンの背後で炎がごうごうと上がるのが見えている。

 破壊され、ばらばらになった人形たちはいきなり燃え始めたのだった。ユーゲンも僕もただ見ているしかなかった。その役目を果たせなくなった時点で、自らを燃やし尽くす魔法がかかっていたに違いない。それは明らかに魔法の炎で、まったく熱くないし、雪のような白銀の炎だった。


 そんなことはもはやどうでもいいというようにユーゲンは炎に背を向けている。いま彼は僕を見ている。


 僕はユーゲンの問いに答えた。


「あ?」


 ユーゲンはちょっと肩を震わせて笑った。満足のいく返答を得たように。


「うんよろしい。極めて正常な思考ができているようで安心した。頭を打っていないか心配だったからな。さて、今からきみに魔法をかけるが、こちらをまるで信用できないという場合には、遠慮なく拒否してくれ。そうしてくれて構わない」


 そう言って彼は両手を擦り合わせ、真面目な瞳で僕を見る。穏やかに付け加える、


「きみにはそれができるだろ」


 僕は、じっと黙っていた。ユーゲンの美しい瞳を見つめ返していた。


 ユーゲンは僕に右手を差し出す。ゆっくりと控えめに、薄い魔力を帯びた掌を。僕は奴から目をそらさないまま、静かに握り返した。


 握手。悪趣味な冗談めいた、友好の兆し。僕たちは再び接続される。


 銀色の炎、男の魔力が、薄く僕の全身を包んでいく。ユーゲンの言った通り、いま僕がほんの欠片でも魔力を放ったらこの魔法は拒絶され、消え失せるだろう。

 身体の中に、ユーゲンの魔力が入り込んでくるのを感じる。

 より内側に、深い部分に。僕は強張り、もう少しで接続を切りそうになった。どう考えてもそうするべきだった。僕を襲い、痛めつけたあの人形たち、魔力も魔法も、ユーゲンと同じものだった。あいつらは敵だ。つまり、ユーゲンも敵だ。


 ユーゲンは慎重に魔力を制御し、僕との繋がりを作っていった。あまりに繊細な技なのでどんどん接続が強くなっていくことにも、注意しなければ気づかないほど。

 僕の目に浮かんでいたのは、カフェテラスの光景だった。あのとき。街で、ぜいぜい喘ぎながら必死に逃げていた僕を見つけた、一瞬、この男の目に浮かんでいた純粋な驚きが脳裏から離れない。結局僕はじっと立っていた。ユーゲンの魔法が完成するまでじっとしていた。


 繋がったユーゲンの魔力を通じて、何かが流れ込んできた。身体の奥、鳩尾のあたりに温かな感触が宿り、満ち潮のように全身に広がる。それはほんの数秒のことだった。数秒後、魔法が閉じてユーゲンが手を解いたとき、僕は爪先まで満たす陽だまりのような心地よさにくらくらして小さくよろめいていた。


「おっと」


 さらりとムカつくほど自然な仕草で、僕の肩を支えてみせる。上品な香水。ヒヤシンスかよ……安らぎのような熱の直後、急激に震えと不快感が僕を襲った。

 全身が重くなり、視界が霞んだ。

 実は僕はこの時点で立っていられないほど傷つき消耗しきっていたのだが、それが自分で分からないほどに、消耗していたのだ。魔法でこの男から生命力を分け与えられて初めて、ようやく疲弊が身体に表れたのだった。きつく張りつめていたものが切れてしまった。


「…………くそ」


「無理もないことだ。さあ、もう一度やろうか」


 へたりと地面に座り込む僕の前に、優しく屈み込んで手を包む。温かくて大きな手だった。


「ああ、そうだ」


と、さっきよりもすんなりとパワーを送り込みながら、笑みを含んだ低い声で言う。


「自己紹介が済んでいなかったと思うが」


「最強の魔女だろ」


「きみに対してそう名乗るのはやめておこう、パラドックスで結界が壊れたら困る」


「ふ」


 くそ。笑ってたまるかと思ったのに笑ってしまった。侵入してくる陽だまりのせいだ。



 ところで喉かわいてない? と彼は言った。


 僕は、唖然として男を見上げた。幽玄・煌めき左衛門氏は、ブルーグレイに翳る瞳で僕を見下ろしていた。今やそのありえないほど真面目で穏やかな気性が、眼差しからも眼差し以外の部分からも知れていた。闘技場で初めて目を合わせたときに見たあの殺人的な剣気は光のいたずらだったとでも言うのだろうか。僕が、あまりにもフリーズしたまま凝視しているので、彼は肩をすくめて言葉を継いだ。


「お茶でもしないか? と言ったんだが」


「言葉の意味が分からなかったんじゃない。分かってるから混乱してたんだ」


「ああそう。きみを困らせるつもりはなかった。それじゃ、とりあえず表通りまでは送ろうか」


「待て」


 何もない薄暗い裏路地を――クソ人形たちは燃え尽きた――引き返していこうとする背中に、僕は右手を伸ばしていた。


 ユーゲンが振り向く。僕はさっと手を下ろす。

 行き場なく、しっかり両腕を組むとあばらの下の胃を感じた。実際めちゃくちゃ腹が減ってて、たぶんこいつの生命力をもらったせいだった。僕は言う。


「喉かわいてる」


 十分後には賑やかな夜の中心街にいた。僕たちはレストランの清潔なテーブルに向き合っていた。冷たいミネラルウォーターを一気飲みしてはあと息をつく僕を、ユーゲンは面白がるように見つめる。


「なるほど。喉が渇いてたんだ」


「そうだ。他に何があるのかな」


「もう帰る?」


「すぐにもね」


と言いながら僕はメニューを開いてゆっくりと目を走らせている。何を食おうがどうでもよかった。ちょっと黙って考える時間が必要だった。いったい何が起きてるんだ。というか、僕は何をやってるんだろう。上の空のまま注文をこなした。これから何が起きるのか見当もつかないし、何を食うことになるのかもほぼ分かってない。


 前菜が来た。運ばれてというより、きたというのが正しい。ワルプルギスの街の飲食店にはコックも店員もいない。出店は別としてだが。料理は魔法のように厨房から、注文した途端ふわふわと空中を浮かんで手元までやって来る。こういうのを便利と考えるか、気味が悪いと思うのかは、魔女であっても分かれるところだ。顔に出しはしないけれど、無から泡のように浮かび上がってきたものをすんなり口に入れるのは僕にはやや落ち着かなかった。支配し、飼い馴らしているようでいて、得体の知れないものに命を握られているのはこちらだという気がする。蛸のマリネを口に運びながら正面のユーゲンを見やると、彼は平然とした顔でフォークを使っている。どう思っているにせよ彼も顔には出さない。もちろん。


 彼が頼んだのはコースではなかった。テーブルに並んでいる、食べ終わるのが先か糖尿病で死に至るのが先かっていうカットケーキ三皿を見て、僕は思わずフォークを止めていた。


「うお……おとめちっくだな」


「おやおや、男のくせにお砂糖が怖いのかな」


 嘲るようににやりとしてユーゲンはクリームを口に運ぶ。泰然と。ひと睨みして自分の皿に戻りながら、僕は頬に血が上るのを感じた。腹が立った。自分にもユーゲンにも。まさか毎晩こんな食事を取っているわけがない。いわばユーゲンのこれは、登山家が携帯するナッツやチョコレートだった。カロリーが必要なのだ。僕にあれだけ惜しげもなく生命力を分け与えておいて、平気のはずがない。

 ユーゲンがこのことについて一言たりとも僕と交わすつもりがないというのは一目瞭然だった。彼は悠々と愉しんでケーキをやっつけていた。僕の「ありがとう」も「ふざけんな」も一切聞き入れるつもりがない。聞こえなかったふりさえするだろう。彼の献身でいま肉体に満ち満ちている食欲が忌々しく、乱暴にマリネをかき込む。


 しばらくは沈黙が流れていた。僕たちは静かに食事していた。

 僕は、料理に集中するどころではなかった。奥側のテーブルを選んだにも拘わらず、店中の視線を感じる。背中に横顔に、ざくざくと好奇のナイフが突き立てられていた。ひそひそと囁く声までが紙やすりのようだ。


「見られてるぞ、色男」


「きみが見られてるんじゃないかな」


 砂糖漬けのアメリカンチェリーから目も上げずにユーゲンは言う。

 物憂げな(あるいはめんどくさそうな)瞳にかかる、銀色の睫毛。店のオレンジ色の灯りが揺れている。


「僕は今日一日、嫌ってくらい注目を浴びてきた。知らない人間に見られまくったしそろそろ慣れてきたよ。だから分かる。こんなに酷くなかった。こんな、自分がどっかのセレブみたいな――生身じゃない存在になったみたいな不躾な興味を向けられるのは金輪際初めてだ。だから僕じゃない」


 くそ。ぺらぺら喋り過ぎてる。頭を冷やせ……口いっぱいに何かの葉っぱを詰め込む。押し黙る。


「うむ、きみと同意見だな。つまり、私もこんなに注目されるなんて思いもよらなかったんだ。元来そんなに目立つほうではないし」


「んうんぐ(うそつけ)」


「本当だってば」


 ユーゲンは片眉を上げた。肩をそびやかし、お上品に紅茶を傾ける。葉っぱを全部飲み下してから、僕は苛々とフォークを振った。


「じゃあなんでこんなに見られてるんだよ」


「そうだな。無敗の魔女と、その私を負かしたきみが同じテーブルでデートしてるからじゃないかな」


 僕は葉っぱをもう一枚突き刺して口に運んだ。「なるほど」


 ユーゲンは二個目のケーキに進んでいた。その口元にかすかな笑みが浮かんでいる。何の笑みなんだ、と僕は考えていた。この食事はいったい何なのだろう。僕たちは、慎重に核心を避けて会話していた。僕たちふたりの間には本来、拳を交わして語るようなことしか存在してないはずで。それは既に済んでいた。


 メインが運ばれてきても、穏やかな沈黙は続いていた。僕はそれが気まずいのか、それとも沈黙が破られるのが怖いのか分からなくなっていた。

 ほんとに何なんだこれは。ひょっとすると何でもないのだろうか。ただ食事して、ふわふわとよく分からないなんだか心地いい言葉だけ交わして、終わり。意味とかない。確かに要らないのかもしれない。

 しかし向けられる好奇の視線は、どんどん無遠慮になっていくように感じられた。僕たちがほとんど言葉を交わさないことが他の客の興を削ぐどころか、ますます過熱させるように見えた。くそ。もう帰ろうか。僕のナイフに力がこもる。ふと、気配に顔を上げると、ユーゲンは僕をじっと見ている。

 僕は睨み返す。


「こんなの馬鹿げてる」


「そうだね、確かに」


 ユーゲンは認めた。真剣だが、どこか面白がってもいた。ユーゲンに見られていると感じると、周囲から向けられる他のそれはふと遠のく。


「随分真面目に鍛えてるね」


「え?」


 虚を衝かれ、ナイフを下ろす。ユーゲンの視線は僕の上半身あたりを漂っている。


「まったく迂闊だったな。昨日は気づかなかった」


「……そう」


 口角を下げて、再び肉を切りにかかる。何と返せばいいか分からなかった。確かに昨日は、晴れ舞台なのでこの男と同様スーツ姿で参加していた。今日はただのジーパンと、黒無地のTシャツ。真夜中だろうと雪が降ろうとワルプルギスの夜は快適なのでそれで充分だった。僕は着痩せする人間ではある。見た目以上の体格だと、半袖になると分かる。


「まあ見えていなくとも、動きですぐに分かったのだが」


「お前に言われると嫌味にしか思えないな」


「それこそ嫌味じゃないか?」


 にやりとフォークを置いて首を傾げる美丈夫を、僕は肩をいからせ睨んでいる。着痩せしていようがいまいが仕立ての良いブラウンのジャケットのボタンを外し、悠然と腰掛けている男の上体には消せない威圧感があった。


「僕がお前に筋肉で勝ったとでも言いたいのか?」


「そうは言わないけど。この際きみの名誉のためにはっきり言っておくが――私の名誉のためにも――私がきみに勝っていたはずなどとは、誰にも言わせるわけにいかない。まあ始まって五秒くらいは、どうすればきみに怪我させずすんなり終われるかだけを考えていた。だがそんな考えは間違いなく五秒で吹っ飛んだし、それ以降浮かびもしなかったよ」


「おい黙れ。ユーゲン、僕がお前に勝ったのはただの偶然だ。お互いその……分かってるだろ」


 いきなり核心に近づくのが分かったので、僕の語気はどうしても尻すぼみになった。このあたりは非常に微妙な領域だった。僕は……ユーゲンと僕の魔法の話をしようとしている。僕たちふたりとも、互いの魔力とその関係性について分かっているが、それを口に出すのは致命的なマナー違反だった。ついさっきこいつ自身も同じようなことをほのめかしたが、あれは衰弱した僕を魔法で助けるためだ。たとえ分かりきっていても、昨日初めて顔を合わせたような間柄で他家の魔法に言及するのは本来一発退場ものだった。


 ユーゲンは小さく口を開いた。まだ言いたいことがありそうだった。眉を寄せ、考え込んでいたが、結局不本意そうに口を閉じた。僕の言葉が真実だからか、あるいはマナーのためか。紅茶を啜り、低く呟くだけに留めた。


「あまり気分のいい考え方ではないな」


「そうかよ」


 再び沈黙。


 なんなんだよもう。さっきから、何が言いたいんだこいつは。なんでよりによって僕の筋肉の話なんか持ち出した? もしかしてこいつ、と一瞬僕は考えていた、「わかってんだろうな」をやりにきたのか。「いいか日本人、昨日の勝負は偶然の事故だ、調子に乗るなよ」って?

 かなりありそうな気もするのだが、今の反応からすると、どうも違うようだった。

 じゃあ何なんだよ。分からん。


 親の仇の死体みたいにステーキを噛みちぎりながら(いやこの比喩はよくないな、誰も幸せにならない)僕は俯いてぐるぐる考えていた。なんで僕がこんなにぐるぐるしなきゃならないのかも分からず、しまいには腹が立ってくる。そうでなくとも今日は色々なことが起こり過ぎていた。昨日の今頃は、毛布を引っ被ってミステリの世界にいたのに……少なくとも人形のバラバラ死体は実際に目にする羽目になってしまった。この調子じゃ明日は僕がバラバラ死体かもな。


 そこまで考えて、血の気が引いた。


 いや。……いや。なんで、このことを忘れてたんだ。僕は馬鹿か?

 ユーゲンとなんで食事してるかなんて、どうでもいい。そんなの。


 僕は今日殺されかけたんじゃないか。少なく見積もっても、攫われかけた。しかもその犯人はまったく分かってない。見当もつかない――いま目の前でタルト生地をお上品に切り分けてる男じゃなければ。甘いのだけでそろそろ飽きないのかな……いやこいつのことなんてどうでもいい。ああくそ駄目だ、どう誤魔化しても、もう僕はユーゲンを疑ってはいられなかった。たぶんこいつではないんだと思う。だとしても、だとしたら犯人は間違いなく他にいるわけだ。


 ユーゲンと目が合った。彼は、僕が顔を上げるのを待っていたようだった。内心に走っていた強すぎる動揺と恐怖を、僕は上手く隠せていただろうか。おそらくあまりにも強すぎて、それは表に出なかった。分からなかったと思う。

 ユーゲンは微笑んでみせた。正面から僕の目を捉えて、にこりと。


 は?


 凛々しい太めの眉が皮肉っぽくかすかに上がり、空色の瞳が、店の電灯を映して蜂蜜色に揺れた。一瞬――すれ違う満員電車の窓から目が合ったあの誰かみたいに、ほんの一瞬、見過ごせないほど強烈なニュアンスがその瞳によぎった。あくまでも上品に引き結ばれ、笑みを浮かべる完璧な唇とは反対に。


 は?

 僕は。ええと、あー、呆然と、してしまった。ん? あ、そう。そう……いやいや待ていや待て、そうか。んんんん……?


 石化する僕を見て思わず噴き出したりはしなかった。次に瞬きしたとき、目の前のユーゲンはもう素知らぬ顔でタルトをもぐもぐするイケメンに戻っていた。あまりにも早業。超然。


 ……レストランの喧騒が戻ってくる。なんだ、今の。いやもちろん今のがなのかは分かってる。それが分からないほどの、なんというかアレではない。うおおマジか。待て待て待て待て待て! だめだ待て、まずは身に迫った危機についてだろ。まずって何? 落ち着け江藤大きく深呼吸しろ!


「あの人形のことだけどさ」


 早口でユーゲンを見つめ僕は言葉を発していた。何かのついでのように、あくまで淡白に。


 ユーゲンは笑みの気配を消し、静かに僕を見返した。


「うん」


「あいつら僕を殺そうとしたと思うか?」


「いいや。そうは思わない」


 緩やかに彼は首を振る。この会話を想定していたようで、言葉は淀みなかった。


「おそらくは、きみの魔法を探りにきたのだと思う。人形の攻撃にきみがどう対応するかを見て、きみの魔法の性質を類推するのだろう。もっともその情報を主人に持ち帰ることはできなかったが」


 予想外の言葉だった。僕は呆気に取られた。なんで、そんな特殊すぎる理由をこいつが考えたのか理解できない。


「この数年、私を破った魔女はいなかった」


 ユーゲンは声を低め、やや語気を強めた。噛んで含めるように僕に説明する、


「江藤君、きみが私の天敵なのだとしたら、私は来年以降も勝ち星を計算できないことになる。ワルプルギスの決闘のバランスは大きく崩れるんだ。彼らはそれを確かめておきたかった。きみが私に勝ったのは偶然の奇跡なのか、来年以降も再現性を期待していいのか、どちらにせよ早いうちに知っておく必要がある。それ如何で今後の魔女界の歴史は変わってしまうのだから」


「僕はもう決闘に出るつもりはない」


 周囲の目も忘れて、僕は強く言い募っていた。憤りと恐れでナイフを持つ手が震えた。


「僕は地図さんの代打で出た。それだけだ。来年も地図さんの爪が剥がれてない限りもう決闘なんか出ない、出るつもりもない」


 ユーゲンは表情を消して僕を見つめた。じっと静かに眺め、そして頷いた。


「そうか。それは……なんというか残念だ。リベンジできないとはね」


 僕は、なんとか苦笑を浮かべた。彼もちらりと笑んだ。ふたりの間に張りつめていた空気は、非常にぎこちなくそろそろと緩んでいった。緩みきってまた沈黙に戻ってしまう前に、最後にこれだけ聞く。


「あれはお前と同じ魔法だろ」


 お前の魔法だろ、とはもう言わなかった。こいつは既に答えている、私ではない、と。


「ああ」


 ユーゲンは話しづらそうだったが、隠すことはしなかった。わずかに眉間に寄る皺は、強い感情を無理やり押し込めようとして隠せない分だった。


「唾棄すべき連中だ。同じ血が流れていることを呪わずにはいられない。――実際、それを利用して呪ったこともある」


 最後の一言は冗談めかして付け加えられた。それでこの話は終わりだった。僕はそっけなく頷き、ぬるいステーキに戻った。ユーゲンもそうした。



 避けがたく本質的すぎる部分への言及がありながらも、終始、テーブルを囲む僕たちの間には礼節があった。慎重に互いを慮っていた。いったいなぜ、このけったいな会食にユーゲンが僕を誘ったのかも今や分かっていた(と思う)が、ここは礼儀正しく無視するべきなんだろうなとも、僕は思っていた。


 僕たちはあまりにも違っている。そもそも出会った場所からして闘技場のこっち側とあっち側という具合だ、これ以上一緒にいたら、僕たちはそこと向き合わなきゃならなかった。いにしえの作法に則り川原で殴り合ったとしても解決しない類の問題である(それに何度も言うが、それはもうやった)。

 レストランを出て夜道を歩いてゆく背中を見つめながら、僕は別れの言葉を考えていた。


 人通りは落ち着いてきていて、夜風が涼しかった。ホテルや出店のとりどりの灯りが揺れていた。かすかなヒヤシンスの香り。僕の前を悠然と歩く男から流れてくる。別れの言葉なんて、じゃあここで、おやすみ。で充分すぎるのだが、僕は少しでも良い印象を残したがっていた。こいつに。なんで残したいかって、僕のほうは、既にこいつに良い印象を持ちすぎてるような気がしたし、このままじゃどうにも釣り合わない気がして。そう印象が。負けたまま。


 知的で軽やかな別れの挨拶を考えていた。あのさ、ユーゲン。


 僕の言葉がまとまるよりも先にユーゲンは振り向いた。無言で、僕の先を歩いていた彼は、からかうような笑みを向けてきた。

 じっと怜悧な瞳が僕を見ていた。緩やかな夜風に髪が揺れていた。僕の呼吸は喉に貼りついた。今しかない。僕は切り出そうとした。あのさ、ユーゲン。



「正直に言って。決闘などクソくらえだ」


 ユーゲンは告げた。眉間を揉みながら。


 僕は、洪水のような騒音の中で身を乗り出しながら、音に負けじと怒鳴り返していた。


「その通りだ。お前は完璧に正しい」


「ふ」


 目元を手で覆ったまま、彼は肩を震わせて僕の言葉をせせら笑った。めちゃくちゃ感じ悪いが、不思議と悪い気はしなかった。僕はエールのジョッキをぐいと相手に押し付ける。ユーゲンは黙って受け取り、僕が半分まで空けていたそれを一気に呷った。


 旅行鞄みたいにぎゅうぎゅう詰めの店だった。八方で下品な話し声や、酒気を帯びた罵声や笑いが飛び交っていた。レストランで感じていたほどの酷い視線はここでは感じなかった。ある種もっと露骨に見られていたかもしれないが、僕たちも酒が入ってる。


「社会でも最重要の事柄が、暴力によって決められてゆくほど業腹なことはない」


 素面であっても舌を噛みそうな言い回しを、すらすらとユーゲンは言い放った。空のジョッキを僕に突き返し、まるで全部お前が悪いとでもいうように鋭く睨みつける。実際言った。


「きみのせいだぞ、江藤」


「負けるから悪いんだろ」


 彼は刺々しく笑んで両腕を組んだ。前髪がさらりと瞳にこぼれる。


「きみの戦いは、まったく素晴らしかった。江藤君……きみは本当に。だがきみが勝ったせいで、魔女界の平和はまたしても遠のいてしまった。おぞましいことだ」


「お前が勝ってたとして、その暴力で平和を勝ち得るってのも――おかしなことじゃないか? おぞましいとまでは言わないが」


「そうだ」


と、ユーゲンは僕の言葉にたじろぐことなく真面目に見つめ返してくる。


「何よりも私は、ワルプルギスの決闘をこそ憎む。我々が決闘を制した暁には、あらゆる物事に先んじてこの決闘制度を廃止するつもりだ。すべてはそこからだと思っている。私たちはこの世界の貴族ではない。特別な存在などではない。魔力を持たない者たちと万事同じように決めるべきだ、つまり、力ではなく民主主義でね」


 僕はユーゲンの眼がきらめき、唇が言葉を紡ぐのを見ていた。アルコールが入ってやや血色がよくなり、赤みがさした唇の色。美男子にも種類があって、僕が思うに世の中には、エロいほうのイケメンとエロくないほうのイケメンがいる。ユーゲンは明確に後者だった。魂がいったい人間のどこに宿っているかと同じくらい、性的魅力のありかも、非常に複雑な学術上の神秘なのである。ただ美形であればいいというものではない。彼の造形はどうにも整いすぎているし、清潔感が他の一切を覆い尽くしてしまっている。まだ会ったばかりだが、およそ魔女と名のつく生き物でここまで性格が良いのを僕は見たことがなかった、これほどまでに潔癖な印象の男を。

 僕は、思っていたのだ。いい奴かもしれないが――大真面目に「民主主義」なんて言葉を吐く男はセクシーじゃないと。


 思っていたのだ。



 地図さんの言葉を思い出していた。


 とぼとぼと闘技場に向かいながら、まだユーゲンの顔も知らなかった頃。僕は、地図さんが説明してくれる話の内容をほとんど聞き流していた。


 もちろんひどい緊張状態で、ちゃんと話に集中するどころじゃなかった。幽玄・煌めき左衛門氏に関する情報はひとつでも多く欲しかったが、欲しかったのは彼の戦闘にまつわるデータだけだ。

 なぜ彼がこの決闘に参加しているのか。どんな思想の持ち主なのか。僕は全部、上の空で聞き流していた。僕の側には目的も思想もなかった。だから相手にも必要なかった。


 それでも今、頼りない記憶のうちから地図さんの言葉を引っ張り出している。二杯目のエールに口をつけながら、目の前のヒヤシンス王子の、戦闘以外の要素について――エロさについて――真面目に考える羽目に陥っていた。


「争点は、主に禁呪きんじゅの制定かな~」


 地図さんは確か、そう言っていた。


「急進派が目指してるのは、世界魔女機構が、今よりもっとビシバシ魔女たちを取り締まることなの。現在はほら、魔力の強い旧家たちで、なんとな~く全部決めてるじゃない? わたしたち魔女の世界のこと。それをやめろ~って感じかな。そのために法律を明文化して、違法な魔法を使用した魔女は誰であれ、わたしたち執行人で逮捕できるようにする。う~ん、正直わたしも一執行人としては、そのほうがありがたいかな~。今は誰を取り締まるのか、ほとんど慣習だけで決めてるから」


「えっ……禁呪って、魔法そのものが違法化されるんですか?」


「そこなんだよねえ」


 う~んと首をひねり、地図さんは言っていた。


「急進派のあの法案が通ったら、いくつかの魔法そのものが使用禁止になる。魔法で人を殺してはいけないとか、魔法で金を盗んではいけないとか、そのへんの初歩的な部分ではあるんだけど。どの程度厳格に運用されるかにもよるけど、ちょっとかなり変わるよね~、世界が」


 基本的に、魔女界の掟はシンプルだ。

 非魔女たち(僕らの業界では「村人」と呼んでいる)にバレてはいけない。村人に、我々の存在を知られてはならない。


 バレない範囲でなら基本的に、殺しも盗みも何でもアリである。魔法を使ってしまえば、通常僕たちのやることが村人世界の法で裁かれることはない。法で裁けないような悪人や権力者を、こちらも法で裁けない呪術で葬ることを生業にしている魔女もいる。


 そんな無法地帯ではあるが、だからこその派閥であり、家同士の絆だ。しっかりと徒党を組み、力の強い名家の権威に守ってもらう。そうやって魔女たちは生きてきた。たとえ殺しが合法であっても、身の周りでしょっちゅう知り合いが殺されたりするような終わってる社会ではない。そういうことは滅多に起きない。……まあ滅多に。


「あれ?」


と、ふと考えながら、そのとき僕は思ったんだった。

 地図さんに尋ねていた。


「そういえば、決闘するのにこっちは法案を出してないんですか? こっちの派閥は」


「保守派だからね~、こちらの望みは、つまり現状維持だよね。急進派の出してくる改革案を、決闘で潰す。それがこっちの目的」


「なるほど」


「去年なんかね~、四勝一敗で惜しかったよ? 毎年圧倒的に優勢なのはこっちなんだけど、その最強の彼だけどうしても倒せないって状況なんだよね」


「はあ……」


 考えてみれば当然のことだが、保守派の魔女には古くからの名門家が多い。対する改革派には比較的新しい家柄や、力の弱い魔女たちが多くなるので決闘となれば前者に分があるわけだ。


 とはいえ、僕には今夜の経験もあった。急進派のエース・ユーゲンを負かした僕が昨日の今日で襲われたというのは、実際かなり血なまぐさい。

 急進派の「煌めき左衛門家」がどこまで大きな派閥なのかは知らないが、彼らも魔女界の改革のためならなりふり構わず手を打ってくる、ということだ。僕が来年もユーゲンと戦うことになるのなら、それこそ命すら狙ってくるだろう。当のユーゲンはそんな一族のやり方に反発しているようでもあるが。


「パワーゲームにはうんざりだ。誰が王だろうと将軍だろうと――そんなのは関係ない。弱者のための秩序が必要だ。そのための禁呪だ」


 ユーゲンはうっすらと上気し、ちょっと酔ってきていた。

 長い指がワイングラスをゆっくりとなぞっている。僕を見つめ話していた。心地よく理性が緩み、人間の本性が立ち現れてくる、この瞬間。店の全テーブルでそれぞれの理性が席を立っていた。魔女たちはうるさく騒いでいた。この男は、の話をしている。


「ただ魔法の強さが――権力を正当化するなど。間違っているとは思わないか? ただそれだけの理由で、あらゆる横暴が見過ごされるこの現状は」


 僕は曖昧に頷こうとして、すこし考えて、エールを一口飲んだ。いつの間にかかなり減っていた。アルコールでふわふわする。


「うちの江藤は、保守の派閥だが……それなりに古い家ではあるけど、はっきり言って弱小だ。だから名家に媚びるし、従わなきゃいけない……そうしなきゃ僕たちは生きていけない。これが僕の生きる世界なんだ。ユーゲン、お前は凄いと思うけど、でもお前には分からないよ。歴史だ。自分の意志とは関係なく、引き継いでいかなきゃならない。これまで続いてきたものをこれからも続ける、僕たちはただそのために生きている。この流れに逆らうような勇気は、僕にはない」


 ユーゲンは眉を顰めた。

 怒りというよりは、やや怪訝な。妙に僕の言葉が、意外だったようだ。なんだか微妙な表情で、何かを言いたげだったが、結局それは言わなかった。言葉を飲み込むようにワインを傾け、それから明らかに口調を変えて言う。


「まあ、きみが殊更勇敢さに欠けていると言うつもりはないが。だが、きみの本心はどうなんだ? 本心ではどう思ってる? 何かを変えたいとは思わないのか?」


「変える? 何を? 法律が変われば、僕らみたいな木っ端魔女もご老体たちから意見を求められるようになるのか? それで何かが良くなるようには思えない。むしろ、今より悪くなる気がする」


 ユーゲンは不愉快そうに口角を上げ、腕を組んだ。


「それも重要なことではあるが。どうも、誤解されているな。我々が魔法の規制を求めるのは、魔女界の秩序のためではないよ。無論それもあるが、大部分は非魔女のためだ」


 僕は目を瞬いた。ユーゲンの言葉は、僕が予想すらしない領域から飛んできた。


「……村人の?」


「興味深い呼称だとは思わないか」


 腕を組んだまま皮肉っぽく彼は片眉を上げる。


「我々は魔力を持たない彼らを見下し、優越感に浸りながら、平凡で善良な『村人』と呼ぶ。翻って、特別な力を与えられ超越者である自分たちのことは、燃やされるべき『魔女』と。実際の魔女裁判にかけられた者たちのほとんどが村人だったことを思えば、いささかグロテスクだ」


 いいかい、と笑みを消し、


「これはあまりにも当然のことだが、魔法の詐術によってそれと知らず金銭を巻き上げられたり、あるいは非道な儀式や実験のために拉致されたり――世界中でこういう目に遭っている人間のほとんどは、村人だ。彼らは何が起きているのかを知らず、身を守る手立てもない。邪悪さと知能を持つ人間ならば、悪事の標的にわざわざ魔女を選んだりはしない。我々はそれに対して無関心でいていいのか? すこぶる好都合だ、自分ではない誰かが狙われているというのは。だがそれは正しいことか? 彼らは村人で、魔女の世界にやっては来ない。しかし明らかにではない。実際に被害に遭っているのは彼らだ。責任があると言わざるを得まい。魔女の社会を構成する者として、私には、彼らの権利を代弁する責任がある」


 僕はまさに、呆気に取られていた。こんなことを言い出す魔女を見たことがなかった。ジョッキを取り落としそうになり、わたわた取り繕う。僕の動揺が伝わってしまったかは分からないが、ユーゲンは黙ってワインを飲み干した。


 父上殿は気に入らないだろうな……というのが、ぱっと最初に浮かんだ、考えだった。


「権利」とか「民主主義」とか、一番嫌いなやつだ。テレビでそういう言葉が出た途端にチャンネル変えるし、ああいう言葉を使う人間は全員頭がパーなんだと思ってる。


 僕は?


 きみの本心はどうなんだ? 本心ではどう思ってる?


 僕の本心は、よくわからなかった。父さんの苦々しい表情、蔑むような声音、口に出すのも憚られるような罵倒語の数々は思い出せるのに――自分の胸は空っぽで、真っ白で、なんだかうまく言葉が出てこない。


 でも。

 でも、と、何か言わなきゃの気持ちだけで僕は言葉をかき集め、無意味に反駁している。


「でも、魔法を禁じるというのは……僕たちは魔女だ。どうやって生きていけばいい?」


「殺したり奪ったり搾取したり、それ以外の方法で。難しいことじゃない」


「呪殺とか、そういうので生計を立ててる連中もいる。路頭に迷うことになる」


「そういうことだ」


 きっぱりと彼は言った。


「それがどうした。いま私は、弱い立場の人間の安全と尊厳をいかに守るかという話をしている。徹頭徹尾、これはそういう話だ。それによって誰が稼げなくなるか、誰が既得権益を失うかは関係ない。その話はしていない」


 ユーゲンは眉をひそめていた。今度ははっきりと、怒りの色だった。

 僕は彼の顔立ちが、元々かなり険が強いのだということにそのとき突然気づいた。つり目がちの険しい瞳、厳格な眉のライン、酷薄そうな口元。こんな風に笑みを消し、怒りを湛えてじっと僕を見ているとそこにいるのはあのとき闘技場で見た死の天使そのものだった。僕は彼のひどく威圧的な美貌を、このとき初めて意識したのだった。綺麗な言葉遣いと声音、温厚さとユーモアが魔術的なまでにそれを覆い隠していたのだ、今まで。


「それは」


と、低くなる声で僕は言っていた。


「確かにそうかもしれないが」


「しれないが、何だ?」


「……ある種の魔法を禁止すれば、それは必ず魔法の衰退を招く。いま、お前は僕の政治的無関心と世間知らずっぷりにうんざりしてるところだろうが、長年世間に背を向けいったい何やってたかといえば、研究だ。僕は魔法というのがどういうものか知ってる。まあ、少しは。邪悪な魔法の、邪悪な部分だけを選んで禁止するなんてことは絶対にできないよ。禁術と呼ばれるものが増えれば増えるほど、僕たち魔女の英知も、結局のところ先細りしていくだろう。使い手がいなくなる。知識が継承されなくなる。伝承に失敗し、消えていった魔法は多い。そうして体系は痩せ細っていくだろう」


 驚いたことに、ユーゲンは僕の言葉に頷く。顔つきは険しいままだったが。


「きみの言う通りだろうな」


 頷き、すこし躊躇って、腕組みを解き彼は言った。


「我々は、ゆっくりと滅びてゆく種族だ。禁呪があろうとなかろうと、関係なく。私はそう思う。知っての通り、この見事なワルプルギスの結界を作り上げた魔女はもう何百年も前に死んでいるが、同じことができる者はこの時代にひとりとしていない。我々の魔力は弱まっている。そう、名家の者たちでさえも。それが私の答えだ。我々はいずれ滅びる、そうだとして、いま世界の残酷さに歯止めをかけるためにその滅亡を早めるべきなのか? ああ、間違いなく早めるべきだ」


 僕は、もう四分の一ほどになっているエールを持ち上げ、ゆっくりと口に含んだ。僕を見つめるユーゲンを見返しながら、考えていた。ゆっくりと。エールを飲み、考えた。直前の言葉だけでなく、こいつに言われた一言一句全部を思い返していたと思う。エールを飲んだ。そして飲み干して、僕は言った。


「それは」


と、僕は言った。


「それは、そうだな…………確かに。お前の言う通りだ、ユーゲン」


 ユーゲンが目を見開き、ぱちぱちと瞬きした。

 ゆっくりと。


 ユーゲンの言葉だけでなく、あのインチキ占い師の言葉まで、ついでに僕は思い出してしまっていた。

 あいつは言ってた。僕は何かの勝負に負けることになる、と。あれから既に色んな意味で負けまくってる気がするし、チンピラにもボコられたが、あるいはひょっとして、このことを言ってたんだろうか。お前は幽玄・煌めき左衛門に殴り合いで勝つかもしれんが舌戦では完膚なきまでに論破されるから気をつけろよ。分かるかそんなの。


「………………あ? なんだよその顔」


「…………数えきれないくらいこの話をしてきたが、この話を聞いて『そうだな、確かに』なんて言う人間は存在しないんだよ。いやはや」


「そうか? よくうんざりしないな、それ」


「してるに決まっているが……」


 やんわりと目を細める。今度は、呆れの表情。剣呑さは魔法のように消え去っていた。生来この男は穏やかで、理知的だった。僕を睨んでいたあの天上の炎の苛烈さに、竦むようだった心の奥が解け、全身の肌が粟立つ。僕はこの感覚を、嫌いじゃないと思った。

 こいつエロいなと思った。論理的に考えて。


「僕は、お前の敵だ」


 夜風。

 人通りのない石畳を、ふわふわ飛ぶように歩いてる。

 月明かりの下で、黒い影のような男のシルエット、スーツを着た背中が踊っているように見えた。僕はゆらゆら、歩いていた。魚みたいに。


「そうだな」


とユーゲンの声は陽気だった。


「忌々しいことこの上ない、実に、目障りな男だ」


「はっ、目障りだってさ」


「見ていろ、来年こそは、来年こそは……我々が勝つ。正義というものを見せてやる。きみが出てきたって……関係ないね……次は私が勝つ」


「ふん、お前は、僕の敵かよ?」


 ユーゲンはすこし黙った。ぼんやりと、考えるように。


「どうだろうな、そうでないと願いたいが」


「調子に乗るなよ、お前、ちょっと言い負かされたからって僕は……僕はお前の敵だからな。そこんとこわかっとけ」


 どっちのせいか分かんないけど、肩と肩がぶつかった。僕たち両方ふらふら歩いてた。ヒヤシンスの香りとくすくす笑いが降ってきて、まるでシャボン玉を浴びてるみたいにくすぐったかった。


「そうだな、きみは私の敵だ」


「お前は敵だ、ユーゲン」


「実に忌々しい」


「忌々しいな」



 ――朝だ。そう思ったのは、きらきらの陽光でも小鳥の声でもなく、コーヒーの匂いがしたから。


 僕は布団を抱いて、んんん……と眉を寄せていた。目を閉じたまま、世界の明暗を感じた。世界は暗い。真夜中だ。ぼんやりと控えめな、オレンジ色の灯りが頬の左側を照らしている。暖かな光を感じた。


 目を開けた。ゆっくりと。

 淡いブルーの天井が見えた。


 ところで目を開けたとき、ふつう、天井の色なんて気にしない。極めてどうでもいいことだからだ。天井の色が議論の争点になることなんてそうそうない。ええと、雪に閉ざされた洋館のいったいどの部屋で被害者は殺されていたのか、みたいな話にならない限り。


 いや。ほんとにそうだろうか? ならば僕はなぜ、そもそも天井の色のことなど考えたのだろうか? 目を覚ましてすぐに思ったのだ。あれ。なんで天井が青いんだろ……って。


 あ。そうか。ここホテルだった。


 あと付け加えるとこれ、僕のホテルじゃない。僕の泊まってた部屋の壁紙は白だ。


「おはよう」


 静かな声が言った。左側から。


 僕は表情を失くし、さっと首を曲げた。スタンドライトのぼんやりとした灯り、テーブルに片肘をついて、のんびりとユーゲンがこっちを見下ろしている。机の上にはコーヒーカップ。


「コーヒー飲む?」


「うおお」


と僕は呻いていた。


「やっちまったのか……?」


「何をもって『やっちまった』とするかによるだろうな、無論」


 大真面目かつ気だるげに彼は答え、コーヒーを美味そうに啜った。すごくいい匂い。朝の匂いがする。


「コーヒー飲む?」


「……うん」


 微笑して、彼は立ち上がり小さなキッチンに歩いていった。暗い部屋の壁を黒々と影が踊り、裸の見事な腹筋がオレンジ色の灯りにひらっと照らされた。ナイトガウンをだらしなく羽織っており、その下には単にボクサーしか穿いていないのがはっきり見える。ポットとマグを持ってきて僕の分を注いでくれた。「砂糖は?」「要らない」温かい液体を胃に入れると、じんわり血が巡り始める。


 ユーゲンは僕を眺めていた。すこしして、言った。


「まさか何も覚えていないのか?」


 僕はコーヒーを噴きかけた。かたかたいたずらに陶器と歯をぶつけ、


「そこまで飲んでねえ」


「そう、何よりだ。で、やっちまったの?」


「……………………やってない(最後までは)」


「なるほど」


「なるほどって言うな」


「ふふふ」


 僕は右手で布団をはねのけて左手にマグを持ったまま、スリッパに両足を突っ込む。布団を除けたその瞬間、僕に至っては下着すら穿いていないことに気づくが「ギャアア」と叫んで布団に撤退する衝動になんとか打ち克ち、何でもないような顔で立ち上がり、ぺたぺた歩く。


 ユーゲンは顔をしかめた。しれっと言った。


「何でもいいが。目の毒だから着てくれないか」


「だから僕の服どこにやったんだよ! あと目の毒なのはお前だろ、ふざけんな」


 その言葉に、彼は目を見開いた。二秒後、ありえないくらいにやにやしながらもったいぶって肩をそびやかし、ナイトガウンの前をゆっくりと閉じた。ぴっちり禁欲的に襟元を作り、ベルトを結ぶ。


 僕は無視を決め込んでうろうろ僕の服を探した(全裸で)。そういえばこいつレストランで僕の筋肉じろじろ見てたんだっけ……いやそういう意味かよあれ。わりに俗っぽいとこあるんだな。玄関もバスルームも見て回ったが、結局ベッドの端のほうに一式畳んで置いてあったのを見つけた。ちゃんと洗濯もされてる、畜生。田舎町の夜景がゆらゆら煌めく窓を見つめながら、手早くジーパンを穿いた。靴下も。背後から、くつくつと低い息遣いが、やがて堪えきれない爆笑が聞こえた。


「あっはははは!」


「うるさいんだよ朝から」


「ふっ……ふふふ、すまない。なあ江藤君」


「なに」


「きみと私、政治的スタンスは真逆だというのに——体の相性は素晴らしいと言わざるを得ないな」


「おっ……お前な、よくそんなバカみたいなことが言えるな」


 思わず振り向いて(上裸のまま)睨んだら、ユーゲンは微動だにせずからかう笑みでひょいと眉を上げた。


「おーやおや。あるいはひょっとして、そう思ったのは私ひとりか? だとしたら大いに恥ずべきことだ」


「おっまえ……おい、おまえ、それは禁止カードだろ。その詰め方は外道だろ」


「さあ、白状するんだ。我々の政治的対立と肉体について、きみの意見はどうだったんだ?」


 瞬間的に僕の脳内をあらゆる情報が駆け巡った。

 寝起きの動揺した頭で、なんとか組み立てようとしていた。このくそ忌々しい余裕綽々優男に一撃食らわせ意表を突くような、起死回生の受け答えを。そんなの存在するのか? 認めるなんて癪だが、ここはさらっと軽やかにこいつの言葉を肯定してしまったほうがまだ傷は浅い――か? 何と戦ってんだ僕は?


 だがあらゆる言葉を押しのけて、頭の隅に封印していた情報が今や孵化したカマキリみたいにわらわらと溢れ出してきていた。昨夜、この部屋で起きていたこと、具体的なすべて。


 僕は最悪の受け答えを選んだ。

 反論も、肯定もしないまま、ただ真っ赤になった。自分で分かるくらい死ぬほど。


 沈黙。


「あ、待ってくれ……そういうのは予想してなかった」


 少なくともユーゲンのにやけ顔を崩すのには成功した。彼は、さっと僕から目をそらし、ごそごそ気まずそうに居住まいを正した。


「おいユーゲン」


「もう答えなくていい。大丈夫だから」


「おいこっち見ろ。おい」

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