殻を破れ〈問〉

「ああちょっと待って。それ、貸してくれ」


 鏡の前で、ネクタイの結び目を整えていたユーゲンがそう言って僕を見た。

 首元から離した左手を、こっちに差し出してくる。


「ん? なにが?」


 スマホをポケットに突っ込みながら、僕は聞き返した。

 ユーゲンを見ていると、ずれたままのタイがひどく気になる。うわっ直したい。うずうずする指先をぎゅっと自分の腰に押し付ける。そんなことをやってやる間柄ではないだろ、どう考えても。


「なにって、スマホだよ。きみのスマホちょっと貸して」


「は?」


 軽やかな足取りで、彼は僕のほうにやって来た。僕はユーゲンのタイに気を取られながら、ふらっとポケットに手をやりデバイスを差し出していた。なんとなく、無意識的に示してしまった信頼の緊密さに自分でぎょっとしたが、よく考えたらここ圏外だし、機能はほぼ使えないしな、と思い直す。


「私の連絡先だ。登録しておいた」


 そっけなく数秒操作して、すぐに返してきた。画面にはただ一個だけアプリが表示されている。古めかしい前世紀の電話機を模したロゴマーク。ワルプルギスの結界内で唯一使える、魔法による通話アプリだ。


「はあ、そんなに気に入ったわけ?」


 僕の冷やかしにユーゲンは微笑を浮かべた。


「もちろん、そういう要件でも構わないが――念のためだ。もしまた昨夜のような連中が現れたら、すぐに電話してくれ」


 彼は鏡に戻り、ささっとタイを決めた。横髪を撫でつける。


「おいユーゲン。僕はお前に守ってもらうつもりはない」


「そう? ならセックスに誘う用」


「……」


 僕はそれをポケットにねじ込んだ。


 僕たちは、ユーゲンのホテルの前で別れた。なんだかすべてが嘘だったようにあっさりと、じゃ、と手を上げて背を向けた。

 よい夜を。

 お前もな。

 ブラウンスーツの華やかな背中が消えていった。真夜中の街角へと。


 腕時計を見下ろす。朝の九時十七分。驚いたことに、祝祭の三日目は始まったばかりだ。


 再びひとりになって、僕は歩き始めていた。



 業腹なことにユーゲンは正しかった。


 優男の姿が雑踏に飲まれ、見えなくなった途端。反対方向へと歩き始めて数分後、見知らぬ魔女たちとすれ違い、夜風を切る僕の全身は、奇妙なほどに強張っていた。自分でも無意識のうちに、余計な力が入ってしまうのだ。


 行き交う人々を眺めながら鮮烈に頭に浮かんでくるのは、ユーゲンとのデートでもなく、酒の入った議論でもなく、人形たちの姿だった。あの虚ろな顔のない顔。木の擦れる音。僕を締め上げた鎖の容赦ない強さ――ユーゲンと別れた途端、他人ばかりの雑踏の中に、漠然とした殺意があまねく宿っているような、見えない影を幻視した。


 まごうことなき悪意をもって暴力を向けられたというその事実が、両肩に重くのしかかる。今更僕は実感する。


 昨日はといえば、あらゆる人間から好奇と羨望の目を向けられ、鬱陶しくもくすぐったいような、ただそれだけだった。今やその視線のすべてが、僕への害意を帯びているように感じられてくる。嘘だ。こんなのはあり得ない妄想だ。分かっているのに全身が緊張するのを止められない。そう、ユーゲンの言う通り、僕は素人だった。闘技場で殴り合うのとはわけが違う。こんな事態には慣れていない。

 だから彼は連絡先をくれていた。


 思わずスマホを見下ろした。表示されている彼の名前を。コールしたくなってしまう前に、さっさとしまい込む。ポケットにねじ込む。あいつの連絡先を知ってる。その事実が重要だった。僕がいつまた襲撃されようと、あるいは二度とされないかもしれない、いずれにせよ、いつでもあいつに助けを乞えるという事実が僕の支えだった。僕が今後も正気で道を歩けるのは、そのおかげだ。

 くそが。めちゃくちゃ、嫌だ。業腹だあいつに助けを乞うなんて。あいつに助けを乞う前から既にあいつに救われてるなんて。

 僕がこの先、ユーゲンに電話する羽目になったとして……あいつが何かから僕を守ってくれたとして。彼はそのことで恩を着せたりはしないだろう。そんな態度はおくびにも出さないだろう。そんなことで、僕を下に見たりしない。元々あいつにとっては、守ってやるべき素人だ。

 ムカつく。


「…………待てよ」


 いや、待て。

 僕は足を止めた。


 もう一度、スマホを見る。アプリに登録された連絡先を見返している。ユーゲン含め三十人ほどしか登録していない、その中に、一昨日交換していた地図さんのそれもあった。相川地図。


 そうだ、地図先輩がいる。ユーゲンと同じくプロの。何かあったらまず彼女に助けを求めればいいんだ。初めからそうじゃないか。

 よくよく考えてみれば、ユーゲンに電話する必要はなかった。なんで気づかなかったんだ。あいつに頼らなくたって、僕はこの夜を生き延びられる。


 そこまで考えて、ようやく、ふっと肩から息が抜けた。小さく脱力する。

 ユーゲンに頼らなくてもいい。この連絡先は使わないということだ。そのことになぜか、驚くほど安堵した。アプリを閉じ、デバイスをしまう。顔を上げて歩き出す。



 三日目、今日は決闘の二戦目だった。

 正午、僕も闘技場に行ってサンドイッチをかじりながら観戦した。勝敗はすぐに決し、僕たち保守派の二勝目。特に見るべきところはなかった。


 ところで昨日、あんなにもゴタゴタが襲来する以前に、心に決めていた野望を実は忘れていない。僕の予定によれば、今日はの日のはずだった――見方によっては本日既にその予定を終わらせているとも言えるかもしれないが敢えて宣言する。


 今日はデートの日だ。


 相変わらず僕は、不躾な注目を浴び続けていた。昨日よりかは落ち着いた気もするけれど。襲撃されたせいで、人の視線が妙に恐ろしくびくびくしている自分がいるが、「敢えて」だ。敢えてやる。怯えに負けてたまるか。


 いざ前向きになると、上手い流れが掴まるもので。相手はすぐに見つかった。

 ワルプルギス通話アプリに登録されている、数年前の連絡先のひとつに僕は電話をかけていた。


「義円! またきみと会えて嬉しいよ」


「ルイ……! 僕もだ、ほんとに久しぶり」


 フランスの魔女、ルイ・ランベールの懐かしい姿が雑踏の中からひょっこり現れたとき、思わず足を止めたくらい、胸がいっぱいになった。懐かしさに眩暈がした。


 ルイは全然変わってなかった。

 ぬぼっと背の高い猫背の男で、蒼白い肌、ワカメみたいに目元を覆う黒っぽい前髪に、ヘンな眼鏡。その奥から僕を見下ろしている不健康で知的な瞳――ロンドンに留学していた頃、五歳年上のルイのすさまじく切れる頭脳とエロさに気づいてたのは僕だけだった(たぶん)。いわゆる元彼というのか友人というのか、なんともいえない仲だが、とにかく僕たちは馬が合った。共通点が多かった。陰気な性格とか。


 実は昨日、彼とは街でひょっこり再会していた。ルイは同僚の魔女たちと連れ立っており、ぜひこのあとふたりでゆっくり話したい、と誘われたのだが、昨日の僕は断ってしまっていた。

 今日電話したらありがたいことにすぐ来てくれた。


「義円、きみが日本に帰っちまって、それがどんなに最悪な事件だったか分かるか? もう俺の理論を理解できる人類は地球のこっち側にいないんだよ、クソッタレだね」


 早口で喋りながらルイはレストランでばかでかいアイスクリームをふたつテイクアウトして、僕の意思も聞かずひとつをぐいと押し付けるとゆっくりかじりながら道を歩き始めた。数年ぶりのデートだろうがお構いなしに珍妙で身勝手でペースが早くて、僕は懐かしすぎてにやにや頬が緩んだ。


 黒いスプリングコートのひょろっとした背中に、小走りで追いつくと横目で見下ろしてくるルイと目が合う。皮肉っぽいかすかな笑みの色。まるでタイムスリップしたような感覚に襲われる。ふたりで冬のロンドンを歩いてたあの頃、あの風の冷たさ、あの空気の匂い。びっくりするくらいルイは変わってない。顔色の悪さも、眼鏡の下のひどい隈も、そのせいで実年齢より老けて見えるのも。アイスクリームを舐めながら、僕たちは昔のこととか、現在のこととかを話した。


「まったく、きみが今も大学にいてくれたらな! この馬鹿げた世界も幾分かマシになるというのに」


「できれば僕もそうしたいんだけどね」


「きみほどの頭脳がいったいどこで何をやってるの? ああやめろ教えてくれなくていい、どうせろくでもないんだから」


「ルイ」


 僕は笑っていた。アイスクリームは甘すぎなくてすごく美味しかった。相変わらず毒々しくて突拍子もないけど何をやってもセンスがいい。ルイはそういう男だった。


「だが昨日は――あ、いや一昨日か……いささか驚いたな。あんな場所できみを見かけるとは思わなかった」


「僕もあんなことになるなんて思わなかったよ」


「まさか学者から武闘派に鞍替えしちまったのか? いやはや」


「おい違うってば。なりゆきだったんだよ。もう決闘なんて出ないし」


 突然、ルイは弾けるように笑い出した。悪魔的な哄笑にぎょっとした。喉を反らし、彼のアイスクリームが傾く。


「幽玄・煌めき左衛門のあの顔! あれ見たか? 傑作だったな」


「めっちゃ怖かった覚えしかない。おいルイ、垂れるぞ」


 ルイはにやにやしながら赤い舌でアイスを舐めとる。僕は自分のアイスに集中するふりをした。ユーゲンのあの顔? どの顔だ。実に色んな顔を思い出せるが、闘技場でのことなどもう遠い昔みたいだ。


「俺は煌めき左衛門の連中が大嫌いだ。ユーゲンの小僧に恨みはないが、あのお綺麗な顔が歪むのはまったく麗しい眺めだったね」


 うーん。それに関してはちょっと分かってしまうな……僕はにやつきを堪えようとして失敗した。ユーゲンの小僧に恨みはないけれども。


「ところでルイ、そっちはどうしてたんだ? 最近はどんな研究を?」


 ルイは肩をすくめた。


「なんにもやってないよ」


 これもルイの常套句だった。それからしばらく、歩きながら彼の魔法研究の話を聞いた。ここ数年は交流してなかっただけあってルイの理論の大半はちんぷんかんぷんだったが、お互い気にしなかったし、すごく楽しかった。頭のいい男が話している様子が僕は好きだった。瞳の奥に暗い炎を灯し、理路整然と情熱的に語る様子を見ているのが。ふと、昨夜のユーゲンの声が耳によみがえってくる。あの男のひたむきな言葉、ロジック、熱を帯びた眼差し。なんで、あの青い天井の部屋についていってしまったのかなんとなく分かる気がする。なんにせよ、ルイのほうがずっと頭脳明晰だが。


 ふたりともアイスクリームを食べ終わり、あてもなくぶらぶら表通りを歩いていた。ルイと僕の間で数年止まっていた時間は、こうして再会した途端、風のようにすんなりと流れ出していた。きっと未来もそうなんじゃないかという気がした。


「おや」


と、ルイが立ち止まる。

 色っぽくアイスのついた指を舐めながら、通りの先を見つめていた。


「どうかした?」


「人が集まってるね」


 コートのポケットに指を突っ込み、ルイはすたすた歩いてゆく。道の先、小さな広場になっているところに、確かに小さな人だかりができていた。催しでもあるのだろうか。


「…………ん? ルイ? あれ?」


 人だかりの原因を見ようと、広場に向かった僕は、いきなりルイの姿を見失っていた。


「ルイ! おーい」


 さっさと先に行ってしまったのか、広場の方向を見渡すが、枯れ枝のような黒い背中は見当たらない。

 ひとしきり、きょろきょろ当惑した挙句に僕は、道の端で彼を見つけた。当初、広場の方面に行ったのかと思って随分行き過ぎてしまったが、実際は通りの端のほうにある小さな出店に彼はふらりと立ち寄っていた。


「ルイ! 急に消えるなよ」


 出店の陳列を、猫背を更にかがめて覗き込んでいる男に駆け寄る。


「おやすまない。なあ義円、これは何だと思う?」


「なにって……」


 見下ろすと、それは本当にこぢんまりとした露店だった。


 無人の店だ。テーブルに置かれた小さなカードに、商品の値段だけが書かれている。品揃えは一種類。

 見た感じ、復活祭の卵イースター・エッグだ。他の何かには見えなかった。カラフルに彩色された小さな卵がごろごろと無造作に、危なっかしくテーブルに転がされていた。指でそのひとつをつまんでみると、卵はびくとも動かない。魔法で机に固定されているようだった。金を支払えば、卵を持っていけるということだろう。


 現在はルイと僕しかいないが、どうやら繁盛しているようで卵は残り三つだった。がらんと寂しいテーブルの真ん中に、もう一枚カードが置かれていて、それにはこう書かれている。


「……〈殻を破れ〉」


 ぽつりと、読み上げる僕の声に、隣のルイが興味深げに頷く。

 僕は、かわいいアヒルのデザインの貯金箱に二人分の料金を入れて、卵をふたつ慎重に持ち上げた。美しい真紅の意匠のひとつを、どうぞとルイに手渡す。アイスのお返し。ルイは微笑んで受け取り、うきうきした足取りで道を横切っていく。道の反対側にベンチがあったので、僕たちは並んで座った。街灯の白々とした光の下、正体不明の小さな魔法道具をじっくり観察した。僕のそれは鮮やかな空色で、驚くほど繊細な筆致の白雲が描き込まれている。


「うん……うん、なるほど」


 横から上からその球面をなぞり、睫毛が触れるほど近くで見つめていたルイが小さく呟く。やにわに、ひゅんと右手を返して勢いよく地面に叩きつけた。


 僕はぎょっとしたが、ごつんと鈍い音がしただけで、落ちた卵にはひびひとつ入らなかった。持ち上げ、砂埃を払うと真紅の滑らかな殻が街灯に照らされ艶めいている。ルイは爪先でこつこつと叩き、卵に耳を寄せた。舌先でちろりと舐めてもみた。


「殻を破れ」


と、面白がる口調で彼は繰り返した。僕は眉を寄せ、自分のそれを見下ろしている。


「どういう意味だ?」


「明白じゃないか」


 ルイは、僕の空色の卵を指さして言った。


「殻を破れば、大空へと羽ばたける。そういうことだ」


「どういうことだよ……」


「きみには文学的素養が足りんな、義円」


 呆れと嘲笑を浮かべたルイが、腕を組む。指先で真紅の卵を弄びながら、


「この卵は、つまり俺自身ってことだ。そっちのそれはきみ自身だ。もちろんね。実に繊細な魔法だな。理論が気になる。店主がいたら質問攻めにしてたとこだが……」


「やめとけよ。もう助けてやらないからな」


 僕も呆れてルイに笑い返している。他人の魔法だろうが何だろうが、興味がわいたら解き明かそうとするルイの性格のせいでどれだけ面倒ごとに巻き込まれたか知れない。頭脳はピカイチだが腕っぷしは吹けば飛ぶようなこの男、しょっちゅう他人を逆上させ殺されかけてはいつも僕に助けを求めてくるのだった。厄介千万ながら、あのルイに頼られて悪い気はしなかったのも事実だ。


「くそ。きみがいないならやめておくか。自力で解き明かすほかないな」


「どういう意味なんだ……? この卵が、僕ら自身って」


「うん」


 ルイは真紅の殻をまじまじと見つめている。指先で小さく傾けながら、


「おそらく未来魔術だろうな、これは」


「え……占いってこと?」


「ああ、そうだな。そうそれ。いわゆるフォーチュン・テリングの一種だと思う。この卵は、つまり我々の現在を象徴している。殻が破られたとき、生まれてくるもの――それが何であれ、それこそが、俺たちの未来の姿ということだ。要するにかなり手の込んだおみくじだよ。面白い。実に面白いね」


 そのとき、僕の脳裏に閃いたのはあの路地裏の景色だった。ごく最近、似たような話を僕は聞いていた。ルイの口から再び聞くことになるとは思わなかった。

 たしか、


「『未来ってのは結局、現在の一歩先に過ぎない。注意深く現在の姿を、ありのままに観察すれば自ずと未来の姿が見えてくる』……」


「おや、ちょっとは詳しいようだな」


「いや。知らん人の受け売り」


 僕は肩をすくめる。


「でも、未来魔術はインチキなんだろう? 未来を知るような魔法は、理論上存在し得ないっていうけど」


「インチキだって? はっ、それを言うなら異端だな」


 いきなりルイは身を乗り出し、爛々と輝く瞳で僕を見つめた。嬉々としてその唇が紡ぐ、


「理論上存在し得ない? 俺に言わせれば、その理論にカビが生えてるね。魔法かがくはいつでも常識の塗り替えの営みだ。頭の固い連中は未だ過去にしがみついてるのさ。未来は魔法の領分だ。間違いなく、今世紀が終わるまでにはそれが実証される」


 不敵に言い切って、ルイはウィンクしてみせた。

 真紅の卵に視線を落とすと、両手でそっと包み込みながら、てっぺんを人差し指でつついた。ルイが慎重に、そこに魔力を流し込むのが僕には分かった。目には見えない、かすかな気配の揺らぎ。


 ゆらり、とルイの掌の上でそれが動く。かすかに震える。やがてはっきりと大きく、左右に傾いだ。


 割れる音がした。内側から細かなひびが入り、ぼろりと繊細に崩れて、そして「未来」が現れた。


 真紅の殻から飛び出した未来は、黄金色をしていた。

 カタチはよく分からなかった。小鳥にも見えたが、卵という出自がそう思い込ませただけかもしれない。何しろ敏捷で、一瞬も止まっていなかった。黄金のなにかが、せわしなくルイの周囲を飛び回り、黄金の細かな光を撒き散らし、男に光を降り注いだ。

 五秒もそうしていたか、定かでない。黄金の未来はルイをきらめかせ、愛情深く目配せした後、さっと身を翻して飛び去っていった。夜空の彼方へ、一瞬で見えなくなった。


「……うん」


と、ルイは徒手になった腕を組み直した。しんと暗くなった星空を見上げていた。


「どうなんだろうな? 今のは、実際のとこ」


「え! どう見ても大吉だろ」


 僕は呆れて叫んだ。


「え? そうか?」


「ルイ、きみ僕の文学的素養をどうこう言えないぞ。お前の未来、黄金に光り輝いてたじゃないか」


「ああ。あれ金色だったのか? こないだ焦がして捨てたやかんの色にそっくりだったから。料理の不注意を戒めるお告げかと……」


「何をどうしたらそこまでひねくれられるんだよ……」


 苦笑しながら僕は、自分の卵に視線を落としていた。ルイがやっていたように人さし指で、そのてっぺんに自分の魔力を注ぎ込んだ。そっと注意深く、確実に。


 何も起こらなかった。


「…………おう?」


 戸惑い、首を傾げた。

 もう一度やってみる。


「ん。んん……? ヘンだな。出てこない」


「おおお!」


と、なぜか自分のときより興味深げに目を輝かせたルイが、僕の手元を覗き込んできた。興奮した口調で、


「面白い! これは面白いぞ」


「僕は面白くないんだが」


「ああ! 分からないのか? この卵――この未来魔術は、ただ魔力を注ぐだけじゃ発動しないんだ。そういう機構になってない。これはもっと根深いものだ――そう、もっと文学的なんだ、この魔法は」


「文学はもういいよ! どうしろってんだ」


「だから、最初から言ってるだろ。〈殻を破れ〉。必要なのはそれだけだ。義円、きみはまだ、きみ自身の殻を破るに至っていない。そういうことだよ」


 僕は空色の卵をぎゅっと握り潰し(無理だった)、ぎりぎり睨みつけた。


「おみくじの分際で偉そうにも程があるだろお前!」


 ルイはげらげら笑い転げた。ばしばし上腕を叩いてくる骨っぽい手から逃れながら、ポケットに卵を突っ込む。忌々しく乱暴に。僕たちがぎゃあぎゃあ揉み合っているところに、そのときどっと群衆の歓声が聞こえてきた。


 明るい電飾がきらめく、道向こうの広場が沸いていた。

 浮き立つ喧騒が、夜風に乗って伝わってきた。いつの間にか人だかりは小さな広場を埋め尽くすほどになっていた。僕はその騒ぎを見て、「あ」と口を開ける。


「そういえば。あっち行こうとしてたんだよ! ルイ、きみが見にいこうって言ったのに」


「そうだっけ?」


「しらばっくれんなこの唐変木。なんで卵なんか買ってんだ」


 僕たちは立ち上がり、ゆっくり広場に歩いていった。祭り特有の熱気がじんわりと、広場からこちらに漏れ出していた。魔女たちの背中が折り重なるようにして広場の中心を取り囲んでいる。僕たちが入り口にたどり着いたとき、しんと一瞬、ざわめきが消えた。

 何かが始まる。それが分かった。


 魔女がひとり、きびきびと広場の中心に躍り出た。ぐるりと取り囲み注目する群衆を見つめ返し、さっと脇から道具を持ち上げた。


 それは大きな金属製のリングだった。


 初め僕は、大道芸が始まるのかと思った。銀色の環は、ライオンがくぐれるほどではないが人間なら何とかいけそうな感じだった。高々と両手で掲げた途端、どっと歓迎的などよめきが上がる。


 魔女はゆっくりとした動きで、リングをぽんと空中に放り投げた。落ちることなく、その場にふわふわと浮遊して留まる。大きな拍手が上がった。

 僕は、妙だなと思った。村人のいわゆる奇術マジックならともかく、この魔女の街で、ただ物体が浮かんだからといって拍手がわき起こるはずもなかった。

 これは、大道芸ではない。どうやらもっと別の文脈のことが起きてると気づく。


 頭上、浮かんだ銀の環に向けて、未だ無言の魔女が視線を向ける。真っすぐに左手を上げ、人さし指を突きつけた。

 魔法の構え。


 音もなく、目にも見えず、ただ頭上へ指の先から放たれた魔力。

 それが、魔法の銀の環をくぐり抜けた途端、劇的な変化を見せた。


 人間の目には見えないはずの魔力が、環を通過した途端、鮮やかなピンクパープルに変じたのだ。

 割れるような歓声。その色は絵の具のように広がり、美しいフラクタルを描き、やがて大きなハイビスカスの花の形を取った。ふわり、煙のように薄れて消える。


 拍手の中、もうひとり、群衆の中から歩み出て同じように環に向けて魔力を放った。彼の魔力は黄緑色だった。四方、黄緑色のイルカの群れになって奔放に泳ぎ回った。

 ひとり、またひとりと、指を突き出してはリングに魔力を通してゆく。青、銀、オレンジ、動物や植物や、ただの模様、食べ物、アクセサリーなど、無秩序と調和のカオス。広場の上空を飛び交った。魔女たちはその光景に酔いしれ、美しい色が飛び出すたびに手を叩き、口笛で賞賛した。


 これまでで一番、大きな歓声が上がった。そのとき、ひしめく人波の隙間から、男がひとり出てきた。

 リングの下に立つ。彼の登場を、群衆は熱狂的に迎え入れた。


 僕はその魔女を見たことがあった。

 しかも、つい数時間前だ。ワルプルギスの決闘の二戦目に、急進派の魔女として出ていた男だった。名前は思い出せない。名門ブルーム家の魔女に、あっさりとひねられていたはずだ。


 名家出身でない彼は、群衆の歓迎にはにかむように頭をかいた。それから、笑顔で広場を見回し、リングに指を向けた。


「未来に!」


 はっきりと宣言して、放たれた魔力は黒いカラスの群れになった。魔女として古典的なこのモチーフはむしろ、保守派と言えたかもしれない。

 だが、みんな喜んで彼に倣い、魔力を送り込んで色とりどりのカラスを作り出した。広場の上空がカラスで覆われるほどになると、熱狂が最高潮に達した。


 彼の登場で、僕はようやく理解した。この催しがいったい何なのか。

 そして、ユーゲンが一戦目を落としたにも拘わらず、なぜ無意味な二戦目を彼らが戦っていたのかも、理解した。


 考えてみるとぎょっとすることだが、いま僕の周りにいる魔女たち、熱狂している群衆のほとんどは僕の敵ということだ。

 この広場で起きていること。それが、急進派のメッセージだった。調和と連帯。決闘ではなく、力ではなく。

 たとえ力で負けても、恥じることはない。抗い続ける。抵抗の意志を示し続けるのだと、彼らは告げていた。


 僕は呆然としてその光景を見つめていた。

 頭の中で理性の声がした。早く、この場を離れないといけない。みんなこの美しい魔法に気を取られているが、一戦目を取った保守派の魔女がいるとそのうち気づくかもしれない。ここにいるのは危険だ。僕はお呼びでない人間だ、どう考えても。


 動揺しながら隣のルイを見上げていた。背の高いルイは、入り乱れる色の中で、花火のように逆光になっていた。

 ルイは微笑んでいた。数年前と何も変わらない、性悪で不敵な笑み。ルイ・ランベール、僕の憧れだった男。


 僕と目が合って、ルイの瞳はいたずらっぽくきらめいた。笑みの気配を漂わせたまま、ルイはそっと手を上げ、小さく指を突き出す。


 魔力を放ったのか、喧騒の中で感じ取ることはできなかった。

 だけど、銀の環から黄金の――ルイの「未来」と同じ色をした巨大な丸いやかんが飛び出していた。紫色のティラノサウルスとぶつかり、誰かの笑い声が聞こえた。


 今度こそ僕は立ち尽くしてしまった。


 ……あのころ。ルイと僕は、あらゆることを語り合っていたんだ。大学で、下宿で、木立の下で。魔法の話や科学の話や人生の話、愛の話、料理の話、家電の話。だけど僕は知らなかった。大学では考える必要がなかった。僕にとってルイはルイで、彼の家や派閥のことは、どうでもよかった。

 僕は話題にしなかったし、ルイも言わなかった。

 あの頃。


「ルイ」


 僕は、そっと呼んだ。


 そのとき大きな悲鳴が上がった。


 広場に浮かぶ、銀の環が、ギインと鋭い音を立てて勢いよく地面に叩き落とされていた。一瞬だった。見えない巨人の手が振り下ろされたかのように。

 辺り一帯に飛び交っていた色と形が、一斉に崩れて混ざり合う。乱暴な筆がパレットを蹂躙したようだった。繊細な調和は一瞬にして、醜い泥になってしまった。


 どっと笑いがわき起こった。


 僕が思っていたよりも、実は僕の「味方」は、この場に大勢いたのだ。地面を転がるリングを慌てて追いかける急進派の魔女の姿に、さらに爆発的な嘲笑があちこちから聞こえた。リングは不自然なほどに素早く地面を転がり続けていた。もちろん、誰かの魔法だった。何人もの魔女が止めさせようと、リングに向けて魔法を放っているのが見えるが、操っている魔女のほうが何枚もうわ手らしく一向に止まらない。


 今や嘲笑と悲鳴と怒号が広場を覆っていた。誰が敵とも、味方とも知れず、入り乱れて一触即発の空気――


 ルイの指が僕の手首を掴んだ。

 彼は無言のまま、早足で僕を引っ張っていき、その場を離れた。背後で怒鳴り合う声。乱闘が始まる気配がした。ルイはぐいぐい進んでいく。振り返らず、黒い癖毛が揺れるのが見えていた。


 表通りの外れまで来て、あの喧騒から、人のまばらな静けさに耳が馴染んできた頃。ようやくルイは僕を放した。

 一度も振り返らず、強い力で引っ張られてきた僕は手首をさすりながらルイを見ていた。やっと振り返ったルイは、にやっとして眉を上げた。「やれやれ、ひどい目に遭ったな」って、あの頃みたいに言い出すんじゃないかと思った。いつも面倒ごとに(主にルイのせいで)巻き込まれて、ふたりで走り回っていた。

 代わりにルイは言った。


「きみが大学に戻ってくるのを待ってるよ」


「……うん」


「俺たち、あの頃みたいに楽しくやろう。じゃあな、義円」


「うん。ルイ、元気で」


 ルイは手を上げ、さっとコートの裾を翻して去っていった。


 風が吹き抜けた。僕たちの時間――もう二度と戻ってはこないものの残り香が、薄れ、消えてゆく。


 デートは終わりだった。僕は、細長い背中が見えなくなるまで見送ってしまいそうな、愚鈍な身体に鞭打ち、ずるずる引きずってホテルまで連れ帰った。なんにせよ、今日の予定は終わった。ベッドに沈み込んだ。



 目を開けたとき、真夜中だったが、時計は午後九時を指していた。


 すこぶる不機嫌に食事を済ませ、何をするでもなく、自室の壁を睨んでいた。シャワーを浴びようかとも思ったが、億劫で結局諦めた。手っ取り早く、酒の力を借りてしまおうかと思った。しかし、どうにもダサすぎる。それではあまりに工夫がないだろうと、辛うじて自制心が。


 やがて笑いがこみあげてきた。自分の馬鹿さ加減に。

 不用意に、昔の男フォルダをいじり回して傷つかずに済むとでも思っていたのだろうか? なんという阿呆だ。のこのこ昔の男に会いにいって、「もうあの頃のままではない」とかいう「海は広い」みたいなしょうもない気づきを得て、すごすご逃げ帰ってくるとは。

 自嘲の赴くまま、新鮮な傷を抉る楽しさに浸って、更に僕は考え続けた。ワルプルギスの決闘に際し、急進派から提出されていた改革法案を取り出し、読んでみた。すべての魔女に向け公開されているにも拘わらず、真面目に読むのは初めてだった。これがユーゲンたちの主張……そしてルイの立場でもある。ルイが急進派だなんて考えてみたこともなかったのに、そうと知ってみれば、納得することばかりだった。彼はいつも未来を見ていた。


 条文は英語で書かれている。タームが多く、やや読解に難儀したものの、時間をかければ全文を読破することができた。思っていたほど長くはない。硬い言い回しを取り払えば、昨夜、ユーゲンが話していた通りの内容だ。

 魔法によって、他者の権利を害することは決して許されない。禁呪を行った者は誰であれ、取り締まりの対象となる。そして、決闘制度の廃止。今後は広く議論と民主主義によって魔女界を運営する、その仕組みを作ること。


 なんだこれは、と、心のどこかでは眉をひそめる僕がいた。キラッキラの理想論だ。まさしくってやつじゃないか。こんなことを大真面目に実現しようとしてる連中がいるなんてまったく信じられないね、ちょっとは現実を見ろよ。


 だが一方で脳裏に浮かんでくるのは、一面のお花畑をきびきびと、肩で風切り歩いてくるユーゲン、というクソコラみたいな光景だ。ブラウンスーツをはためかせ、触れるものみな斬り捨てる、抜身の気迫を纏って。射殺すようなあの眼光がこっちを見ている。色とりどりの花弁は風に舞い、煉獄の炎のように男の全身を取り巻く。そう、僕はあいつの尋常じゃない殺気を知ってるし、敵として真正面から浴びたことすらあった。あれこそが、「現実」と戦い続けている人間の洒落にならない剣呑さ、お花畑人間の真の姿なのだと、知っている。


 やっぱり、酒が恋しくなってきた。僕は条文を放り出し、うろうろうろうろと部屋を歩き回って、冷蔵庫を開け、水を飲み、歩き回った。

 それからベッドに身を投げ出し、ごそごそポケットをまさぐってあの胸糞悪い卵を取り出していた。空色の地に、美しい白雲の模様を見つめた。指で包み、魔力を流し込む。何も、起きない。もっと勢いよく、大量に注いでみる。滑らかな殻に沿って卵を包み込む魔力が、溢れてシーツにこぼれ落ちた。僕の魔力は殻の外側に満ち、溢れかえるばかりで、卵の内側に入っていこうとしない。この硬い殻を突破し、中身にまで魔力が届けば、中から僕の未来が出てくるはずなのだ。


 うつ伏せに身を投げ出したまま、僕はじっくりと近くで卵を観察した。僕の魔力を拒む、その殻に触れ、魔力の流れを追う。目を閉じ、額に押し当て、内側の気配を探ろうとした。

 ふつふつと、暴力的な欲求がわき上がってくる。

 ふん。〈殻を破れ〉だって? 誰がこの魔法を作ったのであれ、理論があって機構があるはずだ。偉そうに。絶対に解き明かしてやる。たかが卵の分際で。仕組みさえ分かればこんなの無理やりにでも発動できる。隠れても無駄だ、引きずり出してやるぞフハハハ!


 バネのように僕は起き上がり紙とペンを取り出した。

 そうと決まれば、仮説だ。このクソ卵をまずはよく観察し、その機構についていくつかの仮説を立てる。仮説を立てたら、あとは論理と慎重な実証。この殻をこじ開ける方法が必ず見つかるはずだ。


 僕は仄暗いサイエンスに没頭した。ペンを走らせ、卵をつつき、実験を構築して、繰り返し繰り返しあらゆる方向からアプローチを試みた。荒唐無稽な仮説も、我ながら良い線行ってそうな仮説も、残らず試した。卵に集中し、卵のことだけを考えていると、卵以外のすべてを追い出せた。


 ふと腕時計に目を落とした瞬間、愕然としたことに、午前八時だった。


「は?」


 僕は、呻いた。天井を仰ぎ、未だ傷ひとつない空色の卵を放り投げた。


 汚い文字を書き殴った紙片が散乱するシーツに、どすんと全身で沈み込む。敗北の味を噛みしめながら、浅い眠りについた。



 正午過ぎ、ひっそりした小さな公園のベンチで、ホットドッグをもしゃもしゃかじっているところに地図さんは現れた。


 真夜中の公園はかなり不気味だった。暗すぎるせいか、誰もいない。なるべく独りになるべきでないと頭では分かっているのだが、人目のない場所のほうがどうにも居心地よくて。腹は空いていなかった。何か食べなきゃいけない時刻なので、仕方なく食べていた。ただでさえ日が昇らないこの街で、ヘンな時間に寝起きしてしまって非常にまずい。油断すると体内時計なんてあっという間に狂ってしまう。


「あ! 義円くんだ! お~い」


 そのとき、背後から可愛らしい声がして、地図さんがとことこやって来た。僕は眉を上げて振り返り、バンズから口を離す。


「地図さん」


「こんな場所で何してるの~? わぁ、おばけ出そう」


「はは、たしかに。まあ飯食ってるだけですけど。先輩はどうされたんです?」


「あ、ええとね~……なんだっけ……? わたしも通りがかっただけなんだけど~」


 小首を傾げ、地図さんはふんわり笑った。


「あ、そうだ。そういえば義円くん、ユーゲンさん見てない?」


「え」


 内心ぎくっとした。地図さんを見上げ、


「ユーゲンって、あの。あの人ですか?」


「あの人だよ~。なんか義円くん、仲良くなったらしいけど」


「はっ……?」


「あれ? 違った? ふたりで食事してたって、話題になってたけど」


「あ……ああ。はあ、まあ。なりゆきで、まあそれは」


「うん……? まあそれはいいんだけど。あのね、義円くん、彼の連絡先知らないかな? ひょっとして」


 僕は首をひねってみせた。我ながら、冷静な声で返せたと思う。


「いやちょっとさすがに知らないですね……」


「そうか~。いやそうだよね。ごめんね、実は彼に用事があってね」


「地図さんは連絡先知らないんですか?」


「ううん。同僚だから知ってるんだけど、実はいま携帯を失くしちゃってて~」


「え……! 大変じゃないですか」


「そうなんだよ~。まあいいや、他の同僚を当たってみる。あ、もしこの後ユーゲンに会ったりしたら、伝えてくれないかな? 『明日の正午、時計台に来てほしい』って」


「それは構いませんけど……」


「見かけたらでいいからね~」


 それじゃ、とおっとり手を振って、にこやかに地図さんは去っていった。僕はホットドッグに戻りながら、スマホを取り出して画面を見下ろした。幽玄・煌めき左衛門の連絡先を表示する。


 伝言しようか、結構ぐだぐだと悩んでいた。が、結局やめた。僕があいつにわざわざ電話するほどの――ことでもないだろう、実際。見かけたらでいい、って地図さんも言ってたし、あの様子ならすぐに連絡がつきそうだった。

 ケチャップを舐め、アプリを閉じる。そのとき結界から通知が入る。ワルプルギスの決闘の三戦目がたった今終わり、保守派が三勝目をあげていた。



 非常に間の悪いことに――あるいは、逆かもしれないが、地図さんと別れてほんの五分後に僕はユーゲンと遭遇した。


 奴は道の端を歩きながら、早口で誰かと通話していた。片手を腰に当て、真剣な面持ちで眉根を寄せている。話にかなり集中しているようで、その足取りは遅い。

 ふと、その足が止まる。

 デバイスを耳に当てたまま、彼は、表情を失くしてこちらを見た。ばっちりと目が合う。道の反対側。


 僕はひょいと小さく片手をあげ、無表情で歩き続けた。

 わざわざ呼び止める理由もない。地図さんには申し訳ないが、あんなに忙しそうなところに割って入るほどとも思えない。


 すたすた歩き続けていたら、背後から、カツカツと靴音が迫ってきた。小走りの気配。「江藤君!」僕は振り返る。ユーゲンは、麗しい目元に思案げな色を湛えてこちらを見つめ、向かってきていた。揺れる前髪がやや乱れ、険しい眉の印象を魔法のように和らげている。彼はスマホをしまい込みながら、僕のもとに駆け寄ってきて、歩調を緩めた。


 僕は口を開いた。

 ちょっと、勘違いしないでくださる? こないだはつい体を許しちまったけど、僕はまったくお前のことなんてぜんぜん何とも思ってないんだからねっ!

 などとここで口走ったら完全に「敗け」なのである。言葉に詰まったり、綺麗な顔をまじまじ見上げたり、意味もなく頬を赤らめたりするなど論外だ。僕はぐっと目に力をこめ、ユーゲンが言葉を発するより先に言い放っていた。


「よお色男。で、今夜は空いてんの?」


 ユーゲンはぴくりと固まった。

 眉を上げたのち、花のように破顔する。


「ああ、まったくなんてことを言うんだ。正直なところ、空いてるとは言えなかったが、その言葉のせいで何としても空けなきゃならなくなった」


「無茶言うなよ。いい大人だろうが……まあそれはともかく。ちょうどよかった、あんたに伝言預かってるんだよ」


「なに?」


 僕は手短に、地図さんの言葉をユーゲンに伝えた。


「地図が私を? 何の用だろう」


「さあ。僕はそれしか聞いてないから」


「――うむ、分かったよ。伝えてくれて感謝する」


「別にいいよこれくらい。そんで……お前のほうは何だったの? わざわざ僕を追っかけてきて、用があったんだろ」


「おや、用事がなければ呼びとめてはいけなかった? 確認だよ、江藤君、あれから危険な目に遭うことはなかったか?」


 僕はユーゲンを睨みつけた。腰に手を当て、


「おい。僕の騎士をやるなっつっただろ。生憎なんにも起きてないよ、超平和だ」


「そう、それは本当によかった」


「うるせえ。おい、そんだけかよ……じゃ、僕は行くからな。伝言は伝えた」


「おい待つんだ」


と、ユーゲンは鷹揚に両腕を組んで言う。まるで子供に、物の道理を言い聞かせるような口調だった。瞳にはからかうような笑みが宿っており、


「ところで。さっきの話がまだ、終わっていないだろう? どこできみと待ち合わせたらいいのかな」


「はあ? 先約があるんだろ? 無茶言うなよ」


「うむ」


 そうだな――と、ユーゲンは数秒思案する顔で空を見上げ、


「うん、上手いこと詰めよう。今から調整すれば何とか間に合う。いくつか予定を繰り上げてもらって――そうだね、九時には来られるんじゃないかな。それで構わないか?」


「おい無理しなくていいよ。そんな」


「だって無理したいんだよ。駄目か? きみが嫌というのなら、もちろん引き下がるけど」


「いっ」


 とうとう僕は言葉に詰まった。くそ。


「い、やでは、ないけど……」


「よろしい。では決まりだ。九時に、そこの広場で待ち合わせようじゃないか。いいかな?」


「お……おう」


「さて。そうと決まればこんな場所で油を売ってはいられない。さらばだ江藤君、私は、忙しいのでね!」


 真面目くさってびしっと言い捨て、ユーゲンは走り去っていった。夜の街並みの向こうへと。



 果たして九時十四分に、彼は広場に現れた。


 ユーゲンは、ひどく焦っていた。それはちょっと見たこともないほどの、慌てようだった。広場の入り口から、僕の立っている噴水のもとへと全速力で走ってきて、ジャケットをはためかせ、汗だくで髪は乱れていて、まだ整わない息のまま両膝に手をつき、告げる。


「すまない」


と彼は、喘ぎ喘ぎ言った。


「すまない、本当に……はあ、こんなことになるなんて! 想定外の事態なんだ、どうしても――すまない、本当に」


「お。おい落ち着けよ? どうした」


「だっ……駄目なんだ、どうしても……いきなりの事態で……今夜は空けられそうにない。これから……どうしても急な用件で。せっかく空けてきたのに」


 すまない……と、額を拭いながら、目線を上げるユーゲン。

 僕は肩をすくめた。


「そうかよ。なら電話でよかったのに。わざわざ走らなくても」


「きみに……はあ、申し訳なくて」


「別にいいよ。大した約束でもないんだし。なんかよく分からんが、とにかく大変なんだろ? さっさと行けよ、ほら」


 回れ右、と指で背後を指してみせると、ユーゲンは眉を下げ、じっと僕を見つめた。「すまない」ともう一度言う。僕は、ひらひら片手を振った。煮え切らない仕草で小さくひとつ頷き、ユーゲンは背中を見せる。噴水の向こうへと駆けてゆく。


 大した約束でもないんだし。僕は、胸の中で繰り返した。

 大した約束でもないんだし。大した約束でもないんだし。念仏みたいに唱える。ぶつぶつ唱え続ければ、それが真実に変わるとでもいうような、魔術的な作業だった。というか、そもそも事実だ。実際、大したことない約束だった。しっかりしろ、僕。がっかりなんかしてない。するな。する理由もない、つまり、するべきでない。


 茶色の背中が止まった。


 さっきよりも、乱れた靴音、疾風のように舞い戻ってきて、


「――江藤君」


 ユーゲンが連れてきた夜風が、ひゅうと僕の左右を吹き抜けた。

 僕は眼前、ぜいぜいと肩で喘ぐ男を見つめていた。


 戻ってきた彼の眼は、鋭く揺れ、狼狽えながら僕を睨みつけていた。ユーゲンは戸惑っていた。明らかに、衝動的な自分の行動に精神が追いついていなかった。彼が言葉を捻り出すまでに、やや間があった。


「……ほんとに楽しみにしてたんだ」


と、ようようユーゲンは言った。その声はあまりに真剣で、恨みがましくて、コミカルな響きがあった。


「ああそう」


と僕は言った。


 ユーゲンの手首を右手でぐいと掴み、歩き出していた。早足で強引に。引っ張られてよろよろついてくるユーゲンの、狼狽と困惑を指先に感じる。振り向かずに僕はぐいぐい連行していった。ざわめきを外れ、広場の噴水の水音から、街灯の明るさから遠ざかり――薄暗い裏道、ビルの陰まで来て、奴の手を解放する。振り向いた。

 ユーゲンは何も言わなかった。眉をひそめて理由を尋ねたり、しなかった。路地裏の暗がりに沈み、判然としない男の輪郭。人通りは遠く、喧騒はかすかな海鳴りのように、僕たちの沈黙の底を漂っている。


 差し出した僕の右手に、ユーゲンの指が絡んできたとき、その体温の高さに驚いた。強く抱き寄せられ、ビルの壁に背中を押し付けられるとヒヤシンスとユーゲンの匂いに包まれていて、僕は両手で彼の顎をとらえ、唇を受け止める。熱っぽいキスだった。他の何も目に入ってないような。危うい情熱をぶつけられて思考が途切れる。僕を閉じ込め、僕を求め、ユーゲンは僕に屈していた。僕は目を閉じ、男のスーツと知性に覆い隠されていた激しさの波に溺れた。布越しに密着する肌の熱さ、硬い筋肉の感触、僕を捕まえる力強い指先――息が続かず、どちらからともなく唇を離したとき、暗がりの下で男の瞳に宿っている熾火の赤さが見えた。言葉もなく、吐息だけが触れ合う。一瞬。すぐにまた重ねる。僕から舌を絡めると、ユーゲンはどこか苦しげな呻きを漏らして身じろいだ。柔らかく無防備な場所で触れ合い、互いを侵略し、征服される。何度も、何度もその単純な行為を繰り返し、重ねるほどに溺れた。


「んんん」


と、汗ばむ額を重ね合わせたまま、ユーゲンがきつく眉を寄せる。息継ぎの隙に、喘ぎながら、


「だめ……だめだ、駄目だ、これ以上は。もう」


 僕は乗り出し、額を押し当ててにやっとした。


「へえ。ちょっとはすっきりしたのか? 欲求不満坊や」


 ユーゲンは弱々しく笑みをこぼした。薄暗がりでも分かるほど紅潮している。


「まさか。もちろん悪化してしまった」


「ふうん。僕の知ったことじゃないね。さ、やることやったらお前なんかもう用済みだ。どこへなりと消えちまえ、解散解散」


 ユーゲンの肩を押し返し、しっしっと右手を払った。身を離すと、体温が上がったせいで夜風がひどく冷たい。ユーゲンはふらふらした目つきで、ちょっと気まずそうに僕を見ていた。気まずそうな笑み。


「おやすみ」


と僕は言った。


「おやすみ、江藤君」


 ユーゲンは頷いた。一瞬だけ、名残惜しそうな目を向けて。「おやすみ」かすかな笑みの気配を残し、ヒヤシンスの香りとともに、魔女の背中は今度こそ路地裏の闇へと、消えていった。以上。

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