煌めき左衛門

 ユーゲンがなぜ夜遊びできなくなったのか、すぐに知ることになった。裏道であいつと別れ、ホテルに帰った途端、僕のスマホに通知が届いていた。


 それは結界からのアナウンスだった。ワルプルギスの決闘について、新たな条件が追加されたという。

 曰く、法案を提出していなかった保守派陣営から、今しがたそれが提出された。ついては両者、今後はその可否を巡って力を戦わせるべし。


「…………法案が提出された?」


 誰もいないホテルの部屋で、思わず僕はその文面を、口に出していた。すんなり頭に入ってこなかった。法案が提出された。法案が……つまり、提出されたと、いうことか?



「そういえば、決闘するのにこっちは法案を出してないんですか? こっちの派閥は」


「保守派だからね~、こちらの望みは、つまり現状維持だよね。急進派の出してくる改革案を、決闘で潰す。それがこっちの目的」


「なるほど」


「去年なんかね~、四勝一敗で惜しかったよ? 毎年圧倒的に優勢なのはこっちなんだけど、その最強の彼だけどうしても倒せないって状況なんだよね」



「うわ」


と、ソファに沈み込みミネラルウォーターを口に含んだとき、その意味がようやくすとんと、胸に落ちてきた。ええと。これってつまり……どれだけ最悪なことが起きてるのか、おぼろげながら察し始める。呻いていた。


 現状、保守派は三戦して三勝をあげている。つまり、このまま全勝を見込んで法案を提出する、その権利を有している。一度でも負ければその陣営の法案は通らないが、今のところは通る可能性があるのだ。だから、このタイミングで提出することができた。


 そして実際、可能性があるどころの話ではない。ユーゲンが勝ちを落とした今、急進派は遠からず全敗の危機にある。

 ふと予感に駆られ、僕は変更のアナウンスの続きを読んでみた。思った通りだった。残りふたつの決闘、保守派の出場者の名前が、法案の提出に合わせてどちらも変更されている。元々、中堅どころの手強い魔女たちで揃えてきていたのが、魔女界のトップ層である名門中の名門に交代していた。確実に急進派を潰し、保守派の法案を通すためここで最強のカードを切ってきたのだ。イギリスの古豪ジョーンズに、スペインの名家ヴァレンシア。どちらも聞き馴染みのありすぎる名前だ。この二者に勝てるような魔女が、今の急進派にいるとは到底思えない。


 たしか、ワルプルギスの決闘にはこういうルールがあった。もし誰かが全勝し、ワルプルギスの議決が下ったとき――法案が可決された際には、向こう十年のあいだ、決闘が中止される。たとえば翌年に正反対の法案が通ったりして、魔女界が混乱する事態を避けるためだ。


 これまで保守派のお偉方は、なるべく魔女界の法秩序を明文化しないでいることに、心血を注いできた。権力を独占し、恣意的に運用できるその仕組みを慎重に守ってきた。急進派はある意味で、今回それを覆した。そう捉えることもできる。保守派は長年ユーゲンに阻まれていた全勝の機会を得たことで、柔軟にそれを利用することに決めた。忌避していた成文法を作ってでも、今後十年、急進派の動きを確実に封じる一手に出たのだ。


 僕は呻きながら、部屋の白い天井を見上げた。……こんなものがなければ、今頃ユーゲンの部屋であの青い天井を見上げていたんだろうか。もう金輪際、あの色を見上げることはないのかも。ないだろうな。もう、あいつと会うことはないだろう。


 きみのせいだぞ、江藤。


 そうだ。僕のせいだ……僕の一勝が、魔女界の歴史を変えてしまった。

 おぞましいことに。


 このとき、僕は自分でも驚くほどすんなりと、そう思ったのだ。おぞましいことだ。僕は僕の招いたこの結果を、おぞましいと、感じた。もはや誤魔化すことはできない。これが、僕の本心だった。誰が何と言おうと、江藤義円が何者であろうと、幽玄・煌めき左衛門がどれほど強く、優秀で気高く、いけすかないイケメンエリートであろうと、僕は勝つべきではなかったのだ。


 僕は勝つべきではなかった。何もかもがもう遅い。

 ユーゲン、あの皮肉っぽい瞳を、もう覗き込めないなんて。



「これさあ……実際、どうなんだろうな?」


 ワルプルギスの夜、五日目の朝。

 気の進まない朝食を、コーヒーで流し込みながら、喫茶店の客たちのおしゃべりを聞くともなしに聞いていた。


 ラジオがわりに、あちこちで熱心に話し込む魔女たちの言葉が溢れている。おおよそ皆、昨夜の法案の話題で持ち切りだった。僕の斜め後ろの二人席では、急進派らしい友人同士が早口の論戦を繰り広げていた。


「なんていうかさ。思ったより、まともだったよな? 思ってたよりは」


「最悪の想像よりは、ね」


 スマホで条文を確認しているらしく、俯きがちにくぐもった声が聞こえてくる。


「俺はてっきりさ、保守派が出してきた法案っていうから、『ポップコーンを魔法で作ってはならない。ちゃんとオーブンを使いなさい。以上』みたいな、ふざけた法律が来ると思ってたんだよ。だって、目的は決闘の中止なわけだろ? なんであれ法案が通りさえすればいいわけで、なのに意外と……しっかりしてる」


「この法案が? それ、マジで言ってる?」


「いやいや、だって見てみろよ。ちゃんと書いてある。村人の眼前で魔法を行使したことが明らかな場合、その魔女は処罰の対象になる。現行犯ならその場で逮捕すらできる! たったこれだけのルールがなかったせいで執行人が今までどれほど――明らかに有罪の連中を、みすみす見逃してきたか! いや実際めちゃくちゃ踏み込んでるぞ、この法案。連中の譲歩を引き出せたと言っていいんじゃないか?」


「譲歩ね……これまで砂漠だった大地に、ほんの一滴の雨を落とすことを緑化と呼ぶのなら、そうかもしれないが。確かにこの法案は、急進派の出していたそれとよく似てる。というか、ほぼパクりだな。急進派の条文を骨子にして三日くらいで作り替えたんだろう。だが、ほら、最も肝心な部分が削除されてる。禁呪の制定が。魔法によって他者の権利を害してはならないという、こっちの法案の心臓だった条項がまるごと無視されてるんだ。跡形もなくね。分からないのか? これこそが、保守派の狙いなんだよ」


「そうかもしれんが。そりゃ、保守派なんだからそこまでは認められないってことだろ。確かに俺も……爺さま連中のやり方には思うところがあるが、正直言って、アンゲラやユーゲンみたいな過激派ってほどでもねえんだよ」


「過激派?」


「だってそうだろ。いきなり禁呪なんて、ちょっとあいつらは急ぎすぎなんだよな。村人たちの権利だってそりゃ大事だが、俺はまず魔女界で生きてる、俺たちの秩序のほうを優先してもらいたい。そっちが先だろ。爺さま連中が譲歩して、その仕組みを作ってくれるっていうんだから、一概に悪いとも言い切れないと思う」


「おい馬鹿。この馬鹿。まんまと分断策に乗せられやがって。まさにお前みたいな奴をそうやって丸め込もうとしてんだよ、あっちは!」


「なんだと!?」


 がたがたっと椅子が鳴る。おいやめろよ、と外野の声がして、喧嘩の気配はそろりそろりと、収まった。互いに黙ってパンケーキをつついている、地獄みたいな空気が僕の背後を漂っていた。この場の誰も、僕に注意を払いませんように。僕は背を縮めてコーヒーを啜った。今日はどこの店もこんな感じなんだろうか。ああくそ、もう、残りの三日ずっとホテルに籠って過ごそうか。


 残り二日はともかく、今日はそうすることにして早々にホテルに逃げ帰った。寒々しい部屋の中、苛立ちを抱えながら、ぐるぐるぐるぐる歩き回った。

 初日ぶりに文庫本を引っ張り出してみるが、活字を追えども追えども、何も頭に入ってこない。気づくとページを開いたまま、殺人事件や探偵とは無関係の男のことを考えている。今、何をしてるだろう? 何を思ってる? 少なくともこんな僕よりは、マシな気分でいてほしいけど、そうじゃない可能性が充分に高かった。昨日あれから眠れたのだろうか。ふいに胸が苦しくなる。両手で顔を覆う。

 ああ。そうか。不具合を起こし、床に転がってる僕と、妙に冷静にそれを眺めてる僕がいた。とうとう、僕はここまで来たのか。こうなるのは分かってたことだ。意外にも早かったな。いや、むしろ遅かったのかも。だってこれは、あの闘技場であの空色の瞳に見つめられた瞬間から、もう決まってたことだ。


 しばらく呆然としていた。

 それから、時計を見ると、ちょうど正午だった。スマホに通知が届いていた。保守派は四戦目を取った。気は重いが、あいつのことを考えるよりかは動いていたくて、昼食を買いに表に出る。


 ホテルは街の外れに近く、周囲は閑散としている。付近にある店のうち、どこで済ませるのが最も手っ取り早いのかだらだらと思案していた。そのとき、暗い道の先からてくてく地図さんが歩いてきた。


 僕は気まずくなった。他人と話したい気分じゃない。暗い顔を見せて心配させたくないけど、無理して明るく振舞うのも、わざとらしくてしんどい――どうやって話を切り上げようか、口を開く前からもう考え始めていた。


 数秒後、気づいた。

 いや、ちょっと待て。ん? おかしくないか?


 なんで地図さんがここにいる?


 今日の正午といえば、中心街、時計台でユーゲンと会ってるはずじゃ……なかったか?


「……地図さ」


「義円くん、ごめんね」


 地図さんははっきり言った。可愛らしい声で。次の瞬間、僕は彼女に、腕を掴まれ、空に投げ出されていた。


「えっ――」


 紺色の大空が、ぐるりと一回転して僕の視界を埋めた。きらきらしたネオンがきらきらと横切る、流れ星みたいに。浮き上がる感覚、胃がせり上がり、動きが止まった途端僕は、僕のホテルを上空から見下ろしていた。足場もなく命綱もなく、着の身着のまま――


「ウワア――!?」


「わあああああ! ごめんね! ごめんね義円くんほんとにごめんね!!」


 左隣で、地図さんの叫び声。大声で謝りながら、細く可憐な指が僕の首根っこを掴み、更に上空へと勢いよく投げ飛ばした。僕はフォーシームの見事な回転数を稼ぎながら夜空の果てへと一直線に飛行し、気がついたときには、後ろ手に縄で縛られ、ずるずる引きずられているところだった。街並みの屋根屋根の上、空中を。


「あ。うっ、うお……」


「ああ義円くん! 起きたんだね? ほんとによかった……!」


 星空を背景に、こちらを見下ろしている地図さんの顔には心からの安堵が浮かんでいた。その言葉で自分が気絶していたことを知ったが、問題はそこじゃなく、


「ちずさ」


「ごめんね、ほんとに、ごめんね義円くん~」


 軽々とものすごいスピードで僕を引っ張り続け、謝り続けながら、地図さんは疾走していた。僕はその勢いに思わず息を詰め、言葉を切る。


 後ろ手に縛られている……と思ったのは、身体の自由が利かないのと、腕に食い込む感触があるからだ。だけど、縄は目に見えなかった。僕は目に見えない何かに縛られ、空の上の、目には見えない地面を猛スピードで引きずられている。空中の道は柔らかな空気のような感触で、つるつるふわふわ滑って怪我することはなかったが、そのせいで摩擦を無視した滑走速度を叩き出している。間違いなく地図さんの魔法だったが、そこも問題じゃなくて、


「地図さん! あの」


「ごめんね、全部、わたしのせいなの」


「あの、いやそれより! ぅわっ……」


 そのとき、一陣の風が吹き上げた。


 激しい突風に煽られ、縛られたまま、大きく体勢を崩した。地図さんの短い悲鳴が聞こえた。僕は星空の滑走路をくるくるスリップし、ただでさえ風前の灯火だった平衡感覚をすっかり失ってわけも分からず叫んだ。空中に投げ出された、気がする。自由落下のスピードを全身に感じた。風の冷たさ。


 意味が分からない。なんにも分からない。僕は――地面に戻っていて、男の片腕に抱えられていた。

 胴体ごと、抱き上げられている。米俵みたいに肩に。


「どういうことなんだ」


と、ユーゲンが言った。僕は叫び返した。


「どういうことなんだよ!」


 ユーゲンは、そっと手を離し僕を下ろした。僕はその場に膝をついてへたり込んだ。


 僕とユーゲンの向かいに、月が照らすアスファルトの上に、地図さんの華奢なスーツ姿が立っている。地図さんは僕たちを見つめ、悲しそうな真顔だった。


「ユーゲン、あなたと戦いたくはない」


「もちろん私もだよ、地図」


「どうしてここにいる?」


「どうにも、妙だと思ったんだ。スマホを失くしたなんて嘘だろう。あまりにもきみらしくない。いったい何から、私を遠ざけておきたいのかと思った。そして考えた、時計台から離れた場所にいて、何かの事件に巻き込まれそうなのは誰だ? とね」


 低く穏やかに応じながら、ユーゲンが構えるのが分かった。

 静かに鋭い、刃のような闘気。ユーゲンの銀色の魔力が、薄く全身に満ちるのが見えた。


「やめろ。おいやめろ。戦うな!」


 僕は早口で叫んだ。憔悴し、まだふらふらしながら。


 ユーゲンの魔力が膨れ上がり、爆発的に放たれた。彼は地面を蹴り、同時に銀色の呪詛を放つ。真っすぐに地図さんへと攻撃を仕掛けた。


 地図さんは躱した。素早く、リスのような敏捷さで駆け出していた。地図さんにユーゲンの魔力は見えていない。直感と、的を絞らせない華麗なステップでユーゲンの呪詛を次々と躱し、あっという間にこちらに肉薄している。地図さんの前に、地面や重力という常識のくびきはなかった。彼女の行くところ、あらゆる地点に見えない足場が出現し、縦横無尽に空中を駆ける。動き回ってユーゲンに狙いを定めさせず、呪詛の網をかいくぐって男に飛び掛かる――かに見せかけ、ユーゲンと組み合うことはせず、その脇をひらりとすり抜けて真っすぐに僕を狙った。


 ユーゲンは地図さんのその動きを、間違いなく想定していた。迎撃の構えから、体側をすり抜ける彼女を捕らえる動きにノータイムで切り替えたからだ。だが、僕と魔法なしで渡り合える彼の反応速度も、地図さんの素早さと物理法則を無視した挙動には追いつかなかった。一秒後、僕は僕を縛る縄ごと彼女に引っ掴まれ、走り抜ける勢いのまま再び連れ去られていた。


 いつの間にか、またあの空中の滑走路が敷かれ、僕と地図さんは地面のすぐ上を猛スピードで逃走している。悪趣味すぎるジェットコースターみたいに。背後、ちらっと見えたユーゲンの姿がみるみる小さく遠ざかる。


「地図さん! 待って……! 止まってください!」


「…………」


 地図さんの横顔は険しく、月明かりを浴びて蒼ざめていた。僕のシャツを掴む指に力が入って強張っている。激しく風を切ってグレーのジャケットがはためいている、その背中に――きらきらした何かが見える。


 細く、背後へと伸びている、銀色の糸。

 僕は息を飲んだ。


「地図さん!!」


 地図さんが振り向いたのと、彼が追いついたのとが、同時だった。

 まるで瞬間移動のようにいきなり、ユーゲンは、僕たちの背後に現れていた。息を切らし、疲弊していたが、胸から地図さんへと繋がる魔力の糸をしっかりと握っている。そのまま強く魔力を放つと、繋がった呪詛の糸が太く縄のように膨れ上がった。ユーゲンの呪いが地図さんに流れ込み、地図さんは鋭く悲鳴を上げて胸を押さえた。

 突然、足場が消えた。滑走路が途絶え、勢いよく地面に投げ出される。頭から激しく突っ込み首の骨が折れる、直前にユーゲンが両腕で僕を抱きかかえ脱出している。


「地図さん!」


 よりどころなく男の首にしがみつきながら、僕は地図さんの名前を叫んでいた。「やめろって! おいユーゲン!」抱えられながら周囲を見回す。


 十メートルほど先に彼女が倒れているのが見えた。

 アスファルトの上。


「動かないように」


 はっきりと低く命じ、僕を下ろしたユーゲンは慎重にそちらに歩いていった。


「…………ぅう……」


 横たわる彼女が、かすかに身じろぎ、苦しげに呻く。

 ユーゲンはやや小走りになって歩み寄り、油断なくその様子を確認する。


 ……油断なく覗き込んだように、少なくとも僕には見えたのだ。つまり僕よりも、ユーゲンよりも、彼女が一枚うわ手だった。


 刹那、信じられない速度で身を返し、人間が立ち上がるのに必要なプロセスすべてを魔法で省いて一瞬でユーゲンに向き直った魔女が、身をひねりながらえげつない上段蹴りを叩き込んでいた。ユーゲンはガードしようとした、が、またしても不可視の足場を駆使して繰り出される挙動に追いつけず、まともに食らう。僕だったら一撃で意識を刈り取られてた、はずなので、よろめき後ずさったユーゲンはなんとか急所を外したんだと思う。その隙を地図さんは逃さなかった。バランスを崩した男の眼前に二歩でたどり着き、その右手を――空中に向けて伸ばしている。空中から、見えない「何か」を掴み取った。見えないからその「何か」の形状は最後まで不明だったが、低く腰を落として構え、両腕で大きく振り抜き――百八十二センチの男を僕の目の前にまで吹っ飛ばしたので、おそらく戦鎚かなにか、だったのでは。


 放物線を描いて百八十二センチの男が僕の目の前の地面に激突した瞬間、思わず絶叫していた。冗談抜きに死んだと思った。ユーゲンは息を詰め、それからげほげほ咳き込みながら、身体を丸めて苦痛の声を上げていた。死んでない。まだ死んでない。大丈夫だよな?


 大丈夫だった。よろよろ、喘ぎながらも彼はすぐに立ち上がった。敵に向き直り、苦しそうに睨みつける。


 地図さんは、大丈夫じゃなかった。ユーゲンに入れたその一撃が最後の抵抗だった。いま彼女は地面に座り込み、激しく肩を上下させている。立ち上がれず、ユーゲンを見ている。


 ユーゲンが踏み出したのを見て、地図さんの全身が強張る。鋭くユーゲンを睨み上げる。ユーゲンはふらつきながら彼女に向かっていった。地図さんはなんとか立ち上がろうとした。必死に、喘ぎながら――


「やめろ」


 僕は歩き出していた。


「やめろ、やめろやめろやめろ。もう沢山だ。やめろよ!」


「江藤君、さがってるんだ」


「うるせんだよ馬鹿、この馬鹿!!」


 僕は激昂した。ユーゲンのアホを突き飛ばし、彼と地図さんとの間に繋がっている呪詛の糸を掴み、魔力で焼き切った。細い糸は一瞬で千切れ、ユーゲンが喘いだ。驚いたように。


「何をするんだ!」


「もうやめろって! 言ってるだろ! 戦わないで……頼むから、もう、こんなの嫌なんだ」


「彼女はきみを攫おうとしてるんだ」


 僕は唸って、わしゃわしゃ髪を掻いた。きつく眉を寄せながら、地図さんを見た。アスファルトにへたり込み、無言でこっちを見てる地図さん。呪詛が解けてすこしマシな呼吸になってるけど、立ち上がれないまま、月光よりも蒼白で。


 僕は弱々しく言った。


「地図さんは…………違う。地図さんは、こんなことする人じゃない」


「現にしている」


「だから! 分かってるって、だから……理由があるんだよ。理由があるってことなんだ……それに、推測はつく。理由も」


 僕は一瞬、ためらった。

 立ち止まり、もう一度地図さんを見て、それからユーゲンを見つめ、自分の両手を見つめた。


 それから、地図さんのもとに歩いていった。


「江藤君」


 ユーゲンの硬い声が飛んでくる。背後から。


「正気じゃない」


「ああ。正気じゃない。でも、しょうがないだろ。ってあるんだよ。ぶっちゃけそんなんばっかりだ。僕の人生……地図さんの人生もな。しょうがない。しょうがないじゃん……はあ、もういいんだ。こんなことには慣れてる。もう慣れた」


「馬鹿を言うな、何を――江藤、おい、待つんだ!」


 僕はユーゲンを振り返った。彼は、憔悴して僕を見つめていた。眼だけがぎらぎらと怒りの炎を映している。僕が見てきた中で、一番激しい、こいつの怒りだった。


「ありがとう」


 低い声で僕は言った。


「僕を守ろうとしてくれて。ありがとな、ユーゲン」


 そのまま踵を返し、地図さんのもとへと歩いていった。

 ユーゲンは黙っていた。もう追ってこなかった。


 僕は歩調を速め、走って地図さんの前に行った。いつの間にか、もう縄に縛られてないことに気づいた。地図さんはなんとか立ち上がり、無表情で僕を見ていた。僕は彼女の左足が酷い状態なのに気づく。包帯の上からも分かるほど血が滲んでいる。


「義円くん」


「その……僕が言いたいのは、つまり、縄はやめといてほしいって、ことです。こんなことしなくても……言う通りにしますから。一緒に行きます。そうしないと地図さんが困るんでしょ? 分かってますから。ちゃんと」


 地図さんはふるふると、辛そうに首を振った。


「義円くん、だめだよ、だって義円くんは何も悪くない……わたしは義円くんを連れてかなきゃいけない。そうしなきゃ駄目なの。でも、ユーゲンさんが守ってくれてる。そしたら義円くんは来なくていい」


「そしたら地図さんは僕を連れてけずに、困ったことになるんでしょう。そんなの嫌ですよ。……僕、友達少ないんで。ほんとに。地図さんを助けたいんです。別に、四肢をもいで食われるってわけじゃないんでしょ? これから」


「…………うん」


と地図さんは言った。しょんぼりうなだれながら。


「……あのね、義円くん」


「はい」


「わたしを信じてくれる……?」


 僕は言う。


「信用します」


「……ほんとはね、今ユーゲンさんと一緒に帰っちゃったら、義円くん本当にまずいの。わたしにこうして――義円くんを攫ってこいって命じたひとは、あなたとユーゲンの関係を疑っている。義円くんが、彼と通じてるんじゃないかって思ってるの。もしこのままわたしだけで帰ったら、ユーゲンがあなたを守ったせいであなたを取り逃がしたって報告しないといけない。彼らの疑いは致命的になってしまう」


「僕がユーゲンと……通じてる? え、僕があいつと、レストランにいたってだけで?」


「うん。きみは現状、決闘で彼に勝てる唯一の魔女。万が一にもあなたが急進派につくようなことがあってはならない」


「……それってやっぱり、保守派のお偉いさん、なんですよね。僕を連れてくるように命じたのは」


「そう。……ごめんね、相川家はどうしてもあの人たちに逆らえないの」


「江藤家だって逆らえないですよ。ちなみに、どなたなんです……?」


 答えてはもらえないだろうなと、僕は思っていた。しかし地図さんは小さく頷き、言う。


「オルキス・ヴァレンシア」


「えっ……」


「……今から、彼のもとに行く」


 地図さんは疲れた目で僕を見た。僕は、ここまでに聞いた話をなんとか消化しようと頭を働かせつつ、頷き返している。

 ちらりと振り返ると路地にもうあいつの姿はなかった。

 僕は地図さんに続いて、ゆっくりと歩き始めた。


「オルキス・ヴァレンシア……ヴァレンシア家の当主ですよね」


「うん。名家の中でも、最も影響力のある魔女の一人」


「たしか、明後日の五戦目に出てくるのがヴァレンシア家だったような……?」


「うん。決闘に出場するのは、ラウルス・ヴァレンシアっていう分家のひとなんだけど」


 言いながら、地図さんが顔をしかめる。痛みをこらえるように小さく息を吐いた。


 視線を落とすと、地図さんはごく目立たないように左足を引きずりながら歩いていて、サンダルに赤黒い血がこびりついていた。


「うわ」


「平気だから」


「平気じゃないですって」


 立ち止まって屈み、魔力を込めた指先で、そっと血まみれの爪先に触れる。指を離しながら、


「いたいのいたいのとんでいけ」


 まじないを唱えた。

 地図さんは、驚いたように見下ろしながら、サンダルを揺らし二歩、三歩弾むように歩いた。


「……すごい。ほんとに飛んでった」


「魔法なので」


「このおまじないが本当に効いちゃうの、ヘンな感じだよ~」


 僕は苦笑した。地図さんも疲れた目で、おずおずと笑みを浮かべた。



 僕たちはかなりの距離を歩いた。地図さんは中心街を避け、灯りも人通りもまばらな街はずれの道を選んで遠回りしていた。

 暗い道を進み、街の反対側まで歩いてきたような気がする。土地勘がない僕には、ここがどのあたりなのかもう分からなかった。なんだか立派なお屋敷が立ち並んでいる、緑豊かな区画に来ていた。夜の静けさと相まって、古いホラー映画みたいな雰囲気だ。


 その十八世紀の幽霊が出そうな立派な洋館のひとつ、どっしりした門の前で、地図さんが足を止めた途端――オルキス・ヴァレンシアの住まいの正面に立って初めて、僕はそこが、人の滞在する住居なのだと気づいた。

 それまで僕は、整然と佇むこの場のお屋敷をすべて書き割りの背景みたいに捉えていたのだ。風情ある、テーマパークの街並みみたいな。僕は勘違いしていた。この街に招かれた魔女は、全員例外なくどこかのホテルの一室で寝起きしているものだと――思っていた。


「義円くん」


 しばらくの間、黙って隣を歩いていた地図さんがそっと呼んだ。囁くような声で。


「はい」


「わたしを信じて」


「……はい」


「何を聞かれても、ただ知らないと答えて。分からないで通して、絶対に」


「……分かりました」


 僕たちはお屋敷に入っていった。


 息を詰めるほど、広くて豪華なロビーに出迎えられていた。まるで執事みたいな人(たぶん執事)が出てきて、慇懃に歓迎の挨拶を述べた。慣れない空間、異様な空気に、じっと呼吸を浅くしていると執事みたいな人に促され、どこかの部屋に案内される。地図さんはロビーに残り、僕はひとりになって、馬鹿広いお屋敷の重厚な廊下を歩いた。いくつかの部屋を通り過ぎ、シャンデリアの照らす、明るい客間みたいな場所(たぶん客間)に出る。

 そこはだだっ広い豪華な部屋だった。大きなソファに浅く腰掛けた。屋敷には、不思議なほど人の気配というものがなかった。暫定執事が出ていってしまうと、しんと冷たい沈黙だけが降りる。


 なんとなく深くは吸い込みたくないような空気がずっと漂っていた。僕は呼吸を殺し、気配を殺し、置物のようにただ座っていた。冷や汗が首筋を伝い降りてゆく。いつ物陰からヴァレンシア家当主が現れるのか、びくびくしている内心が表に出ないよう、肩の力を抜こうとした。


 重苦しい沈黙の中――ずいぶん、待たせるなと、左手の腕時計を見下ろしている。


 そして目を剥いた。文字盤の上では、既に二時間が経過していた。この部屋に入ってきてから。

 思わず時が経つのを忘れていた、みたいな生ぬるい感覚ではない。僕の感覚ではほんの十分前くらいなのだ。


 無論、ある種の結界なのだろう。もうとっくに敵の腹の中にいる。僕の感覚を狂わせ、理性を乱し、思考力を奪う魔法の家の中に――敵への内通を疑われているのだから、当然といえば当然か。そのとき、動揺を見計らったかのように人が入ってきた。


 さっきの執事っぽい人だった。軽食とビールを持ってきてくれた。


「旦那さまはお忙しいのです」


「はあ、そ、うですよね。もちろん」


「こちらをどうぞ」


「あっお構いなく……」


 執事っぽい人は、さっと一礼して行ってしまった。枯れ枝のように寂しく、ぴしりと伸びたその背中。どうにも、人間味を感じない物腰だ。人間じゃないのかもしれない。僕はうんざりしながら、ほとほと困り果ててテーブルを眺めている。

 洒落たビールグラスに、美しく泡立つ麦わら色の液体、皿にはこれ……なんだっけこれ、ええと、そうボカディージョだ。スペインのサンドイッチ。この屋敷は過剰なまでの英国趣味に見えるけど、そもそもヴァレンシアはスペインの魔女なんだっけ。


 いや、ご当地色を感じてる場合じゃない。どうする? これ……腹なんか減ってないし、どんだけ減ってようが食べたくないけど。食べないわけには、いかないよな。向こうは僕を疑ってるんだから。まるで口をつけないとあっては、保守派への忠誠心オーディション書類審査で不合格、ということになりかねない。


 ……少なくとも毒ではない。それは間違いない。僕を殺すのが目的なら、これまでいくらでもその機会はあったし、人間の死体を新規作成する場所に自宅の客間は選ばないだろう。


 だとしたら、自白剤あたりだろうか? このボカディージョを一口食べるや否や、フシギな魔法で自分の本音を夜が明けるまで喋り尽くしてしまうのだろうか? うん順当に考えて絶対これだよな。やらない理由がない。僕がヴァレンシア家当主だったとしても、そうする。だとすると望みがないわけではない。僕は体質上、この類のまじないや魔法薬への耐性を持っているので、むしろこれは好都合だ。


 僕はビールグラスを引っ掴み、一気に半分ほど空けた。喉に流し込む。


「…………うっま!」


 おっと。本音が出てしまった。なんだこの酒めっちゃ美味いぞ。

 ボカディージョを持ち上げ、バゲットと顎の角度に四苦八苦しつつかぶりつく。小麦の香りに、塩味のきいたハムのシンプルな取り合わせが素晴らしい。もしゃもしゃかじりながら、薄く薄く目立たないように、全身に自分の魔力を張り巡らせていた。江藤の魔力は切断の力、拒む力である。このバゲットにハム以外の何が挟まれているにせよ、その魔法が僕の中にまで入ってくることはない。おそらく。

 ところで本当にこれ美味しい。コンビニで売ってくれないかな。


 オルキス・ヴァレンシアが部屋に入ってきた。


 スッと音もなく現れた初老の男を見て、僕は、パンを詰まらせ激しく噎せた。ビールを流し込み、胸を叩き涙目になっている間に彼はきびきびとした仕草で、僕の向かいに腰掛け、こちらを見つめた。


「どうぞ気にしないで」


「…………ずいません」


「食事を続けてくれて構わんよ」


 どう言われようと、僕にそんなつもりはなかった。ビールグラスをことりと置き、ヴァレンシア家当主の顔を見つめ返す。言葉を待った。

 白髪交じりの茶髪、陰鬱そうな面差し。上等の黒いスーツに巨躯を包んでいる。瞳には抜け目なく険しい光があった。

 ひどく冷淡に口を開く。


「きみの意見を述べたまえ。幽玄・煌めき左衛門について」


「しゃらくさイケメンですね」


 間髪入れず、僕は応じた。


 前置きもなしに、いきなりこの尋問口調。やっぱりこれ何か盛られてるな。このおっさん、僕からさっさと要点だけ聞き出して終わらせるつもりだぞ。


 僕はなるべく、魔法にかかって忘我の境地で喋らされている、ように見えるよう演技した。淀みなく言葉を吐く。


「そうですね。まあ、悪い奴ではない。良い奴だってのは認めますよ。やたら気さくに話しかけてきたし、おっとりしたボンボンって感じだったな。野郎なんか飯に誘って楽しいのかよって思ったけど。でもね、僕は嫌いですね! だって胡散臭い。いかにも紳士でございって顔して、ああいうのがどうせ、裏では一番性悪なんだ。絶対そうだ。決まってる。あの顔ならさぞかし女食い放題なんだろうなー、ハッ!」


 ところで、ノンケってほんとにこんなこと言うか? さすがにこんなんではなくない? くそっ加減が分からんぞ。


「ふむ」


とオルキスは真顔で頷いた。何がふむだ。


「きみはどうやってあれを打ち負かした?」


「え、だってあいつザコでしたよ。よくわかんないけど、なんかめっちゃ弱かったっす。なんか知らないけどあいつ、こっちにビビッて全然手出してこなかったから、普通に殴りにいったら、なんかわーってなって、そんでガーッて殴ったらなんか勝ってました」


「なるほど。きみの家の魔法の性質は?」


「浮遊術です。重力を操作します」


「ユーゲンの魔法は何だったんだ?」


「だから、分かんないんですって。なんにせよヘボでしたよ、あいつ」


 オルキスはほくそ笑むように、小さく口元を歪めた。


「よく分かった。最後の質問だ。きみはヴァレンシア家についてどう考えている?」


 え、なんだその質問。いったい何の関係が……? ちゃんと我々に忠誠を誓っているのか、みたいな意味か? 今の僕は本心を喋らされてる体だし、あんまりゴマするのも不自然だよな?


「正直、特に何も。あんまりピンとこないっていうか。僕にとっては、雲の上みたいな方々です。このお屋敷、めっちゃ立派ですよね。ぶっちゃけ僕には居心地悪いというか……」


「よろしい」


 悠然と、オルキス・ヴァレンシアは頷いた。微笑みを浮かべ立ち上がる。


「わざわざすまなかったな。ゆっくりしていきたまえ」


「え、はあ。どうも。あの……僕……なんでここに連れてこられたんでしょうか? なんか、やらかしました?」


「いいや、きみは我々の希望だ。これからも期待している。それに気に病む必要はないよ、すぐに忘れるからな」


 それだけ言い捨て、もうこちらを見もせずにヴァレンシア家当主は部屋を出ていった。


 僕が息をつく間もなく、入れ替わりで、執事が戻ってきた。虚ろな両目で僕を見つめ、


「お帰りはこちらです」


「……」


 僕は無言で頷き、執事に続いて屋敷の廊下を歩いた。相変わらず、どれだけ耳を澄ませても僕と執事の足音しか聞こえず、オルキス・ヴァレンシアの気配すらもう感じられない。あいつの最後の言葉からして、僕はこの後、この家で起きたことをきれいさっぱり忘れてしまうことになってるようだ。あの食事にはそういうまじないもかかってたらしい。


 その魔法がいつ発動するはずなのか分からないが、僕はなるべく不審に思われないよう、無表情で屋敷を歩いた。庭に出、門まで来て執事が立ち止まる。


「またのお越しをお待ちしておりま」


「うおっ」


 暗闇の中でいきなり立ち止まり、幽霊みたいにゆらりと振り向いた執事に僕はぎょっとして跳び上がっていた。足がもつれ、よろめいてその肩にぶつかってしまう。


「うあっすみませ」


 その瞬間、


「おまちしており」


 僕と触れ合った、彼の肩が、銀色に弾け飛んだ。


 ――僕には、銀色に弾け飛んだように見えたのだ。それくらい衝撃的な光景で、混乱した。僕が触れた途端――執事の右肩が勢いよく銀色に燃え上がり、銀色の炎が、肩から全身にかけて野火のように燃え広がった。


 銀色の魔力が彼の全身を覆っていた。

 一瞬の、出来事だった。ほんの一瞬、僕に触れられたことで、彼を駆動していた魔力が噴き出し、乱れ、まるで執事のようだったそれは、正体を見せた。


 人の形を模した、白木の塊。

 顔のないのっぺらぼうの頭、糸で繋ぎ合わされた四肢、お仕着せに身を包んですらりと立っている――。


 僕は、言葉を発することができなかった。空気が喉に詰まり、馬鹿みたいにぽかんとそれを見ていた。叫ばずに済んだのは幸いだった。


「――またのお越しをお待ちしております」


 一瞬後、銀色の炎はすうっと収まり、どこからどう見ても人間の男の姿を取り戻したそいつが、無感情に僕を見て言っていた。


「…………」


 僕はゆらりと、後ずさった。そいつを見つめたまま。じりじりと、土を踏む両足の感触。素知らぬ顔で。何もなかったように、屋敷に背を向け、ゆっくりと歩き去った。夜気が肌を撫で、冷たい汗を乾かした。ヴァレンシアの邸宅は不気味なほどに静かだった。



 門を出てお屋敷街のしんとした道を行き、歩き続けると、やがて地図さんの小柄な姿が目に入った。


 彼女は僕が出てくるのを待っていた。靴音を立て、こちらに駆け寄ってくる。


「義円くん! 大丈夫? 何もされてない!?」


「は……あ、は、い。大、丈夫、です」


「大丈夫じゃなくない? 何があったの? なんか……」


「あっいえ、ほんとに屋敷では何もなかったので。いくつか質問されただけです。言われた通り、何も知らないって答えましたよ」


「そう? 本当? ならいいけど……」


「地図さん」


「う、うん」


 僕は、口を開いて言葉に詰まった。

 何から切り出せばいいのか。まだ、上手く飲み込めてない。混乱してる。


 そろそろと道を歩き始めた。ヴァレンシア邸の方角を背に、庭木のざわめく暗がりを進んでゆく。地図さんは心配そうな沈黙で、僕の横をついてきた。


「……人形」


 僕は言った。ともかく最初に言葉になって出てきたのはそれだった。


「人形を、見たんですけど。あの、執事の格好してて、顔が無くて」


「え、ああ……ヴァレンシアのからくり人形のこと?」


 地図さんは意外そうに声のトーンを上げて言った。え、その話? なんで今それ? っていう、感じだった。

 僕はいっそう眉を寄せる。


「つまり、あれはヴァレンシア家の人形なんですか?」


「うん。そうだけど……? それがどうかしたの?」


「ええっと、よく分かんないんです、自分でも。でも……僕の知る限り、あれは別の家の魔法だったと思うんです」


「え? 確かに、人形を使う家はヴァレンシアだけじゃないけど……」


「違うんです。そうじゃなくて。あの人形を動かしてたのは、煌めき左衛門家の魔力だったんです。いや、本当になんでか知らないけど、煌めき左衛門家の魔法人形がヴァレンシア家にいたんですよ!」


「えっ待って。待って。ん……? ごめん、ちょっとよく分からない。ヴァレンシア家の人形がヴァレンシア家にいるのは、普通じゃない……?」


「だから違いますって。煌めき左衛門家の魔力なんです」


「え? え? だから、ヴァレンシア家でしょ?」


「なっ……」


 このとき、唐突に、僕は理解に至った。


 あらゆるこれまでの不可解に説明をつける、その事実に。思い至った途端、気づいた途端、混沌に満ちていた世界はいきなり明るく開けた。

 あり得ないほど噛み合ってない地図さんとの会話、銀色の魔力、人形、決闘、ワルプルギスの夜。


 僕は呆然と言った。


「煌めき左衛門家ってヴァレンシア家なんですか……?」


 地図さんはじっと、真剣な表情で僕を見返した。

 当惑を浮かべながらも、はっきりと、


「ええと……ごめんね義円くん。さっきからわたしには、義円くんが同じ名前を何度も繰り返してるようにしか聞こえない……」


 僕は絶句した。足を止めた。


 一方の地図さんは、じわじわと理解し始めていた。さっきから僕が喚いていた支離滅裂な発言の意味するところに気づいたらしく、


「あっ。うそ? えっそんな……だって、そう、そうだ、義円くん、結界の翻訳のせいでおかしな聞こえ方、してたんだ! 本名が分からないって。だってそんな。だって、もちろん知ってると思ってた! 義円くん、ユーゲンさんがヴァレンシアの魔女だって知らなかった……ってことなの?」


 同じく立ち止まって絶句した地図さんは、街灯の頼りない光でも分かるほど真っ青になって、僕を見つめた。


「うそ…………うそ、わたし、義円くんになんてことを……」


「……地図さん?」


「し……知らなかったの。義円くんは知ってると思ってた。だって彼はすごく有名だもの。ああ、義円くん、わたし本当はまだ義円くんに教えてないことがあるの。言わないほうがいいんだと思ってた! でも、知らなかったなんて!」


「地図さん! ちょっちょっと落ち着いてください。あの。待って、僕もまだ何が何だか……」


 顔の前で、パンと両手を打ち合わせた。地図さんとしっかり目を合わせ、


「――状況が、込み入りすぎてます。順を追って話しましょう。お互い」


「……うん」


「まず、幽玄・煌めき左衛門は、ヴァレンシア家の魔女なんですね。どうやら」


「……うん。正しくは、ヴァレンシア家の魔女だった。数年前に父親と――ああそうか、義円くんはこれも知らないってことなんだ、当主のオルキス・ヴァレンシアと対立して、家を出たの。オルキスは一人息子を勘当し、ヴァレンシア宗家には跡取りがいなくなってしまった」


「ユーゲンが……あのおっさんの息子? ヴァレンシアの正嫡?」


「うん。彼は天才で、数百年に一人という濃いヴァレンシアの魔力を持って生まれたの。だけどユーゲンはいつしか生家とその思想を憎み、魔女界の改革を目指す急進派についた。彼がヴァレンシアを出奔したその年から、急進派はワルプルギスの決闘に挑むようになった」


「ええと……つまりオルキスはユーゲンみたいに、僕が保守派から離反するのを恐れたんですか?」


「……違うの。ごめんね、義円くん……わたしはあなたに嘘をついてたんだよ。わたしね、」


 一瞬、地図さんは躊躇った。

 慎重に言葉を選ぶように、こめかみを揉みながら、


「わたし本当は、知ってるの。ヴァレンシア家の魔法の正体を。ユーゲンの使う魔法は謎だって、義円くんには言ってたよね。本当は知ってたんだよ。彼らの魔法、つまり、ヴァレンシアの魔力の性質を。一度だけユーゲンと仕事したことがあって、そのときたまたま彼の魔法の性質に気づいてしまった。……そして、義円くんも知ってるよね?」


 僕は頷いた。暗い夜道を、並んで歩き続けながら。口を挟ませずに地図さんが素早く制する、


「駄目。口に出しては駄目。不思議に思ったことはない? いくら魔法は秘するものといっても、ヴァレンシアほど古い名家の魔法が今日まで誰にも知られてないなんて。これは、昔からのヴァレンシアのやり方なんだよ。ヴァレンシアの魔力について知ってしまった魔女は全員、知ったその瞬間、自動的にヴァレンシアの呪いにかかるの。わたしもその呪いにかかっている。あの家の秘奥について他人に一言でも明かした途端、たちまち心臓が潰れて死ぬ――という、呪いに」


「……知った魔女は……全員?」


「そのはずだった。義円くん以外は。ううん言わなくていい。わたしに説明しなくていいけど、義円くんにはなぜか、その呪いがかからなかった。ヴァレンシアの口封じのこと、今の今まで知らなかったんだよね」


 僕は、右手を自分の胸に当てた。

 身体の中に、あるいはこの魂の内側に、自分以外の魔力やその痕跡を探してみる。欠片もそんなものは感じ取れない。確かに、あいつの魔法を他人にバラしたら死ぬ、なんて話は寝耳に水だった。ヴァレンシア家と江藤家の魔力の関係性からして、僕にはその呪詛が効かなかったんだろう。


「はい、そうです」


「だから、オルキスは怪しんだんだよ。それがきみを拉致した本当の理由だった。決闘の勝敗とか、江藤家の忠誠とか、本当は彼らにはどうでもよくて。ヴァレンシア家にとって一番重要なのは、家門の秘密が守られること。義円くんはユーゲンの魔法を破った、つまりヴァレンシアの秘密に気づいた可能性が高いのに、なぜか呪いにかからなかった。しかもその後、敵のユーゲンと交流まで持ち始めた。それで」


「……僕の本心を吐かせようとしたんですね。本気で、ヴァレンシアの秘密に気づいてないのか」


「うん……わたし、教えないほうがいいと思ってたの。オルキスが義円くんから何を聞き出したがってるのか、知らないままでいるほうがむしろ安全だと思って――『知らない』って嘘をつくなら、義円くん自身が、ほんとに核心を理解してないのが一番だと思った。それくらいしか思いつかなかったの。あのヴァレンシア家を、咄嗟に欺き通す方法なんて」


 でも、と地図さんは、眉を下げる。


「でも、義円くんがユーゲンの家名すら知らなかったなんて……あまりにも無防備な状態で、あなたをあの場に送り出してしまった。こんなことならちゃんと話しておくべきだった。ごめんなさい……」


「地図さんは、たぶん間違ってないです。確かに僕、何重にも色々と分かってない状態でした。そのせいで今思えばめっちゃアホっぽかったんじゃないかな。おかげで結局オルキスも、割と納得してたように見えたんです。多分ですけど」


「……ほんとに?」


「ええ、今思えば」


 地図さんは両手で顔を覆った。深く、深く肩を落とした。「よかった…………」


 ふと、僕は気づいた。

 ユーゲンも地図さんも、結局のところまったく同じ目的で戦っていた。殺し合わなきゃならない理由なんかなかったのに。クソッタレだ。


「僕を、守ろうとしてくださったんですね」


「……あなたを巻き込んでしまったのはわたしなんだよ」


「そうだとしても、です。あなたは僕のために、やれる限りのことをやってくれた。あなたも危ない橋だったのに。まあ、僕だけが知らない重大な秘密がまだ他にあるとかなら、さすがに教えといてほしいですけど」


「ううん……これで全部」


 地図さんは憔悴した目で、ゆるゆると首を振る。


 ごめんね、と、彼女は繰り返した。悲しそうに僕に言った。ごめんね。義円くん、ごめんね。



 意気消沈の地図さんの背中を見送り、それから中心街の賑わいに向かって、ひとりで歩いた。


 街灯とネオンが徐々に増え、人通りが増え、明るさに吸い寄せられる虫のように僕はとぼとぼと歩いていった。目的地はどこでもなかった。この数日間、長すぎる夜の中で知ったこと、見聞きしたこと、振り返れば、当時はまるで気づかずにいた背景が見えてくる。

 天地がひっくり返ってしまったかのようだ。

 それくらい、僕にとっては衝撃だった。煌めき左衛門家に関しての素朴な勘違いが、今まで僕の目を霧よりも雨よりも曇らせていた。ここに至って僕は、ようやくそのことを知った。

 僕はどれほどあいつを見誤っていたのか。


 オルキス・ヴァレンシアの真意も名家の秘密主義も、もう僕にとってはどうでもいいことだ。その話は既にあの威圧的なヴァレンシア邸に、地図さんと話した路地に置いてきてしまった。

 いま、僕の頭を占領しているのは煌めき左衛門家のことだった。ヴァレンシア家ではなく。


 古風なホテルの立ち並ぶ静かな道を歩きながら、僕はゆっくりとスマホを取り出している。

 アプリを開き、連絡先を呼び出す。


 不思議と胸の内は凪いでいる。これは、地図先輩が危険を冒してまで僕を守ろうとしてくれた、その思いやりを無にする行為だ。

 そう分かっていたけれど。


 ほんの数時間前、魔女ふたりを前にして僕は選択を迫られたんだった。僕はあいつじゃなく地図さんを選び、地図さんについてゆき、そして今地図さんに背を向けようとしている。


 僕はコールした。


 十数秒、かかった。それから低い声が応じた。


『…………何の用かな』


 マイクの向こうにざわざわと喧騒が漂っていた。どこか、人の集まる場所にいるようだった。


 僕は息を吸った。はっきりと言葉を発した。


「僕にこの連絡先をくれたとき、お前は言った。危険な目に遭ったら電話してくるように、と」


『ああそうだ。そしてきみはこう言ったのだ、守ってもらう必要はないと。言われたにも拘わらず私はきみの前に現れ、きみが望んでもいない、騎士の真似事をしていたわけだ。その私にいったい何の用なんだ?』


「ユーゲン」


 僕は低く呼んだ。端末を握り、力を込める。


「お前が言ったんだ。もし危険じゃなければ、それ以外の用件で、かけてこいって」


『…………』


「デートしよう」


と、僕は言った。



「謝りたいことがある」


 決然と僕は告げた。

 深夜零時、白い壁紙の、僕の部屋の真ん中に立っている。

 僕の目の前にユーゲンは立っていた。スーツを着た逞しい身体は固く強張り、杉みたいに真っすぐに立ちつくしている。苛立ち、当惑し、憂慮の眼差しで、僕を見ていた。


 僕はユーゲンの胸元を見つめている。彼のネクタイに指をかけ、ゆるゆると解きながら、話していた。


「……お前に謝りたい」


「何を?」


と、やや気まずそうに身じろぎする男が、掠れる声で聞き返した。指先、布越しの肌の体温。


「きみが決闘で、私を負かしたこと? それとも、きみを縛り上げて拉致しようとする相手を、止めようとするのを止めたことをか?」


「お前を見くびってたことをだ」


 ゆっくり慎重に引き抜くと、シャツとタイがしゅるりと擦れた。静かな部屋に、意味もなく印象的にその音は響いた。

 ユーゲンは動揺の息遣いで僕を睨んだ。素早く右手をあげ、僕の手首を掴む。


「待て。ちょっと待つんだ江藤君……我々にまつわる本質的な話を始めるのか、いかがわしい空気にするのか、どちらか一方にしてくれ」


 僕は動きを止めた。


 一瞬だけ。それから、黙ってのろのろとネクタイを抜き取り、ぽいとソファに放って、彼のジャケットの襟にも指をかけた。


「そっちにしろと言ったんじゃない!」


 ユーゲンは呆れて言い放ち、僕の肩を掴んだ。僕は顔を上げ、男のかすかに赤くなってる顔を間近に見つめた。見上げる空色の瞳は鋭く揺れていた。


「義円」


「……は?」


「僕の名前は、義円だ」


「…………義円」


「うん」


 こいつの素敵な声が呼ぶと、まるで素敵な男に生まれ変わるような、気がした。

 弱さも醜さもこの瞬間だけ忘れられる気がした。僕を呼ぶユーゲンの声に背中を押されるようにして、なんとか目を合わせたまま、僕は告げる。


「僕はお前の名前を知らない」


「……なに?」


「言葉通りの、意味だ。ユーゲン。僕にはお前の名前が、正しく本名の通りに聞こえない。お前の本名を知らなかったし、今もそうだ。知らない」


 ユーゲンは一瞬、ぽかんと目を丸くしていた。まさか、こんな方向から話が始まると思わなかったのだろう。


 混乱と思案がかわるがわる、その目によぎった。

 が、やがて「あ」と合点して小さく呟き、僕を見返す。


「あ、ああ……つまり、きみは結界のせいで……?」


「うん。翻訳がバグってるんだ。もちろん僕はヴァレンシア家の名を知ってるし、どういう家なのかも知ってた。だけど、それがお前と同じ名前ってことを知らなかったんだ。僕の耳には、どうしても別の名前に聞こえる。ええと……言ってる意味分かるか?」


「う。うむ……分かると思う」


 ユーゲンは、真剣に頷いた。僕は続ける、


「僕はお前のことを分かってなかったんだよ。何ひとつ、分かってなかった。僕は――いつかお前に言ったんだ。、って。すさまじいコトだろ。古い厳格な家に生まれ、因習に縛られながら、その重力に足を取られながら生きる人間の気持ちなんて。お前には分かるわけないって……僕は言ったんだよ。自分がいったい何を口走ってたのか、僕は、今夜初めて知ったんだ。本当についさっき、初めて」


 結局のところ。いくら自分のろくでもなさから目を背けたところで、自分自身を誤魔化しきることはできない。

 僕のこの勘違いはすべて結界の超翻訳のせいだと、言うこともそりゃできるが、事実そうではない。誰よりも僕自身が分かっている。


 思えばユーゲンははっきりと出自への嫌悪を口にしていたし、彼の強い魔力、無敗の実力からしても、名家の魔女であることは充分に推測できることだった。むしろそう考えるほうが自然だった。順当に考えれば。

 それなのに、真逆の結論を僕は導き出していた。不自然な論理の捻じ曲げに、疑問を覚えすらしなかった。


 だって、考えたこともなかったのだ。

 保守派の家に生まれついた魔女が、保守派ではないなんて。

 因習を、不自由を、内心で忌み嫌っていたのだとしても。それはあくまで内心の話だと。ごく個人的な話だと。公の場では、社会では、まともな大人なのだから――大人の振る舞いをするものだ。おぞましい悪心は、しまっておくものだ。

 大人なのだから。


 つまりそれが僕の論理だった。幽玄・煌めき左衛門は急進派の魔女だ、つまり、煌めき左衛門家は急進派の家に違いない――論理的に考えて。


「……お前流にいえば。大いに恥ずべきことだ。僕は自分が恥ずかしい。お前という人間を、まったく低く見積もってたことが恥ずかしい。僕にとってお前のその生き方は、想像すらつかないものだったんだ。なぜなら僕には無いからだ。そんな勇敢さは、僕の人生には」


「……江藤君」


 僕はぎっと睨みつける。


「義円だ」


「……義円。きみは……その。何と言っていいのか、つまり――」


 ユーゲンはなぜか、やや途方に暮れていた。

 僕を見つめ、じっと静かに惑っている。


「つまり、ええと。そんなことで、私に電話してきたのか?」


「あ? そうだよ」


「だってきみは……怒っているんだと思った。私がきみを守ろうとしたことに、腹を立てたんだと」


「そんなことでお前に電話すると思うか? たかが文句言うために」


「……分からないよ。実際のところ、私はきみのことを何も知らないし」


 そう言ってから、ユーゲンはちらりと弱々しく微笑む。


「きみと同じくらい」


「……そうだな。僕はさ、そもそもわざとお前のこと避けてた。頑張ってお前を邪険にしてたんだよ――分かるだろ?」


「頑張って、邪険に?」


 皮肉っぽく片眉を上げ、彼は繰り返した。僕は傲然と肩をそびやかす。


「そりゃ、お前とこれ以上お近づきになって、ろくな目に遭うわけないからな。お前は敵だし。つまり、敵だし」


「ネクタイしてるし」


とユーゲンは付け加えた。


 僕は、呆気に取られて見上げた。


 ユーゲンはどこか寂しそうに、僕の瞳の奥を覗き込んでいた。窺うように。

 僕はさっと視線を下ろした。こいつの首元に、指で触れ、シャツのボタンをひとつひとつ外していく。慎重に乱暴に。


「お前、ほんとにムカつく」


「実際、きみが言うほどの大した人間ではないよ」


「ああそうなんだろうな」


「我々ふたりとも、性欲で人生を台無しにしてる最中か?」


「そうだよ。もう黙ってろ」


 鎖骨の硬いところに唇を押し当てると、男の押し殺した呻きが降ってきた。

 僕は舌を出し、鎖骨から喉、顎の裏にかけて逞しい首筋を真っすぐ舐め上げた。ユーゲンはまるで苦痛のような余裕のない喘ぎを上げた。「……義円」熱っぽく、要領を得ない指先が僕に食い込んでせがむ、うなじを撫で、後ろ髪を梳き、僕を上向かせる。


 それから何度も、時間をかけて無意味なキスを繰り返した。僕たちは言葉を忘れた。ソファに身を投げ出し、互いの胴体を抱き寄せ、はっきりと互いの輪郭を教え合いながら唇を重ねた。ろくにまともな駆け引きも、政治もないまま、性急に触れ合い慰め合って、ふたりともすっかり疲れ切ってたので、その日はもう寝た。



 闇の中で目を覚ました。


 ベッドの中。誰かの声。

 僕は、起こされていた。夢ともつかぬ混沌の浅瀬から、ぐいと腕を掴まれ、引っ張り上げられている。


 数秒、ぼうっと暗闇を見つめていた。夢と現実とが、はっきりと分離して形をなすのを待っていた。それからようやく、現実側の世界で、誰かが呻いていることに気づく。


 僕は首を巡らせた。ユーゲンは、僕のすぐ右側に寝ている。こちらに背を向け、ぼんやりと裸の肩の輪郭が見える。

 僕は素早くベッドサイドに手をやっていた。腕時計を取り上げ眼球に触れそうなほど近づけると、辛うじて読み取れる文字盤は、まだ深夜を指していた。僕は慎重に時計を戻し、ごそごそと横向きになって、シーツに肘をつき男の様子を窺う。


「……ユーゲン?」


 ユーゲンは、闇の中荒い呼吸を繰り返していた。喘ぐような息遣いの合間に苦しげな呻き声。うなされてるにしても、ちょっと心配になる苦しみようなので、僕は一旦起こしてやるかと決意した。


 上下する肩に手をかけようとした。その瞬間、ユーゲンは泣き縋るような声で弱々しく、だけど確かにこう呟いたのだ。


「……………………父さん」


 僕は、ぴたりと手を止めた。雷に打たれ、硬直した。


 直後。ユーゲンは覚醒している。


「はっ…………は、……」


 彼は、激しく肩を震わせ、浅い呼吸で身を返して、素早くこちらを見た。ひどく混乱し、怯えて凝視する瞳から、見間違えでなければ涙の粒が一筋転がり落ちた。


 目が合う。静寂。深夜の暗がりの中。


「ユーゲン」


「やめてくれ」


と、即座に遮っていた。ユーゲンの声は低く硬く、痛々しいほど切実だった。


「あのさ」


「何も言うな。頼むから。言わないでくれ、何も」


 僕は言った。「僕も父さんが怖い」


 ユーゲンは言葉に詰まる、ように見えた。緩やかに、上がった息を整えていた。沈黙。僕はじっと、闇の中の瞳を見ていた。男を見つめていた。


 やがて彼は遠慮がちに、苦笑を浮かべた。

 僕の胸がぎゅうと狭くなるような笑みを。


「…………私は怖いなんて言ってない」


「そうですか」


「きみを起こすつもりはなかったんだよ。すまない……」


 僕は黙って、右手を差し出した。夜気の中、冷たいシーツがごそりと鳴った。ユーゲンの温かな指がそっと握り返してくる。

 指を絡める。ひどく震えていた。僕は両手で、その手を包み込んだ。


 そのとき気づいたが、ユーゲンの魔力が、彼の全身を取り巻いている。灯りのない部屋の中、ぼうっと銀色の幽光が僕の目に飛び込んできた。


 ユーゲンの身体を覆うそれは、背中から、細い糸の姿になってどこかへと伸びていた。僕はそれが何かを知っている。ヴァレンシア家の呪詛の糸である。


 いま、銀色の魔力は、ユーゲンの背中から細く伸びている。それは、ゆらゆらと部屋を漂いながらユーゲンの背後へと、窓の外へと、向かっていた。

 窓の外にある何かと。どうやらここではない、遠い何かと繋がっている。


「父のものだ」


と、僕の視線を追ったユーゲンが気だるげに答える。


「それは、父のもとに繋がってる」


「……これは呪いなのか?」


「ああ。ヴァレンシアのとても古い呪詛だ。家を裏切ったときにね。父は私に言った、『お前は自ら地獄を選ぶのだから、地獄の中で生きるべきだ』と……眠りに落ちると、暗闇から必ず、悪夢が襲いかかってくる。悪夢を見ずに目覚めることはない、この数年、ずっと。そういう呪いだ」


「……ずっと?」


「おかげでもう慣れたけれどね。他にも色々呪われはしたが、まあ私のほうが父よりヴァレンシアの魔法に長けてるから、呪い返してやったよ。結局、この悪夢だけはどうにも解けなくて。父にはよほど才能があるのだろうな、この呪詛の」


 僕はそっと、ベッドに肘をつき身を起こした。ユーゲンは訝る気配で、横たわったまま見上げてくる。


 座ったまま身を乗り出し、ユーゲンの背中から伸びる細い糸を掴み、慎重に手繰り寄せた。左手で糸を持ち上げ、右手に自分の魔力を込める。魔力を込めながら、中指と人差し指を立てて交差させる。


 ユーゲンはすこし面白がるように吐息した。「幸運を祈ってくれてるの?」


「残念ながら違う。グッドラックと勘違いするの、お前だけじゃないから安心しろよな。江藤家の秘奥を明かすときが来たようだ……なんていうか、これがうちの方向性なんだ。、っていうまじないなんだけど」


 印を結ぶ右手に魔力を流しながら、その指で、オルキスの呪詛の糸に触れた。


 あっけなく千切れてくれることを期待していたが、見た目に反してそれは強靭だった。

 雪のように儚く見える銀糸に、魔力を押し返される感覚に僕は驚いている。ユーゲンの言っていた通り、これは強く強く、深い呪いだ。おそらくは歳月を経ることで、魂の深くにまで根付いてしまっている。僕は糸を引いてピンと張らせ、切れない鋸をぎこぎこ引くような具合で、ちょっとずつちょっとずつ糸を削っていった。


「んっ。んん……」


 僕の動きに合わせて、ユーゲンがくぐもった声を上げる。


「痛い?」


「ううん、ちょっと変な感じだ…………ぁっ」


「おい。ヘンな声出すな。そういう趣旨じゃねえ」


「わっ分かってるけど……」


 しばらくすると、ユーゲンが痛みを訴え出したのでそこでやめた。

 魂の深部を蝕んでいる呪いなので、いきなり全摘は不可能だ。それでも頑固な糸の半分くらいは削り壊せたんじゃないだろうか。


「……信じられないな。ほんとうに軽くなった、心に羽が生えてるみたいだよ」


 愕然とした口調でユーゲンは述べた。僕は魔力を解いてぼすんと隣に倒れ込みながら、


「羽は言いすぎだろ。喜ばせなくていいよ」


「本当だってば、ほら……」


 ユーゲンが伸ばしてきた左手を握ると、確かに震えはもう収まっている。僕はぎゅうと握り返して彼の体温を楽しんだ。手を繋いだまま並んで横たわっている。天井を見つめている。


「でも、考えてみると皮肉だな」


 闇に向かって僕は喋った。


「皮肉?」


「悪縁を断つっていうのは、僕の存在の本質みたいなものだ。そういう魔力が僕の血には流れてる。何代も前から。それなのに僕自身は、親に怯え家の掟に囚われて、鎖で繋がれてるようなものだ。本気で逆らおうなんて考えたこともなかった。一方で僕と正反対のヴァレンシアの魔力を持つお前は、あらゆる呪縛と戦い続けてるんだからな」


「本当に?」


 僕を握る、左手が揺れた。


「本当に、抗おうという気持ちはないのか?」


「……どうだろう。この数年はなんかもう、全部が煩わしくて。何も考えたくなくて、家に籠って研究ばっかして――少なくとも魔法で成果を上げれば、あれこれ言われずに済むから」


「そういえば、きみはいくつか特許を持ってるよね」


 ユーゲンの言葉に僕は度肝を抜かれた。右に顔を向ける。


「なんでそんなことまで知ってんだ?」


「調べたに決まってるだろう。それに、生憎私はきみにぶっ飛ばされてから初めて知ったのだが、界隈ではそれなりの有名人だろう? きみの理論は色んなところに応用されてるし、私が普段使ってる魔法道具にも実はきみの特許のを見つけた……生憎、きみにぶっ飛ばされてからだが」


「うるさいぞ」


 僕は苦笑した。ユーゲンの指先も震えるのが分かった。


 古い、記憶がある。思い出せる限りでは、これが魔法に関する僕の最も古い思い出だ。

 小さな頃から魔法の修行をしていた。魔女の家では大体、どこでもそうだ。文字を覚えるよりも自転車に乗るよりも先に、魔力の使い方を覚えさせられる。毎日毎日、欠かさず庭で魔力を放つ訓練をしていた僕を、ある日父さんは廊下から眺めていた。ふと足を止め、珍しくにこにこと優しい顔で言ったのだ。


「義円、毎日頑張ってるな。お前は本当に魔法が好きだな」


 僕は、すごく嬉しくなった。後から考えれば、僕が毎日頑張ってたのはそう言い付けられてるからで、怠ければひどく叱られるからなのだが、もちろんそのときは褒められて嬉しくて舞い上がった。そうか。僕は魔法が大好きなんだ。父さんがそう言うんだからそうなんだろう。僕は魔法が好きなんだ。


 それは、間違っていたわけではなかった。僕はそれからほとんどの江藤の魔法を会得し、数世代使われていなかった古い時代の術もいくつか使いこなした。大学に行って魔法研究にのめり込み、いくつか新たな理論を打ち立てたりもして。僕は魔法に向いている人間だった。たぶん、愛してもいる。

 だけど。


「実際のとこ……最近はそうも都合よくいかなくて。研究さえ上手くいってれば、煩わしいこと全部、無視できるって思ってたんだけどな」


「……最近?」


「まあその、しばらくロンドンにいたんだけどさ。数年前いきなり日本に呼び戻されて、何だ急にって思ってたら、とっとと結婚しろってさ。僕が外国の得体の知れない女にとっ捕まるんじゃないかって心配になったそうで。身を固めるまでは、もう日本から出るなってさ。どっさり見合い話持ってこられたけど、全部のらくら断って、部屋に籠って学問に逃げて……でもその生活も、もう限界かもな。そろそろ三十だし、父上殿もいよいよ痺れ切らしてて。所帯持って、親安心させてさ、早く、江藤の魔力を継ぐ子供を作らないと……」


 ユーゲンはすこし黙っていた。

 闇の中、静かな呼吸の音。長い指の感触だけ。


 ユーゲンは言った。「でもきみゲイだろ」


 ……実際のところ、まだ言い逃れの余地はある。否定することはできた。まだ。でも、何のために? なぜ言い逃れるのか。逃れるって何だ。罪人みたいに。もう大人だけど、大人だから嘘もつけるけど、つかなくていい嘘をつくのって本当に本当に、疲れるんだ。


 僕は言っていた。「まあね」


 そう答えた、途端じわじわと、笑みがこみ上げてくる。なぜか可笑しさが胸に広がった。

 僕はじっとユーゲンを見つめた。


「お前も一人息子だったな、そういえば」


「おや、さっき私の姓を知ったくせにもうそんなことまで知っているとは」


「お前だって僕を調べ上げてたんだから、おあいこだ」


「どうやら共通の話題で盛り上がれるようだね、私たち」


「最悪の話題でね」


 ユーゲンが噴き出した。僕もにやにやした。絡めてる指に力を込めると、更に強く握り返される。


 にやつきながら今更だけど、そうかこいつの姓ヴァレンシアなのか、と唐突に僕は思っていた。

 本名を知らないと言ったが、実際半分くらいは知ったことになる。なんでこいつの苗字だけが煌めき左衛門に変換されるのか謎だが――まあ誤訳に整合性とか求めても無駄か。ところで、煌めき左衛門って何? 意味も響きも「ヴァレンシア」に掠りもしてないんだが。光り輝くような美男子だから煌めき左衛門……なのか?


 この様子だと、「幽玄」のほうもどうせデタラメだな。

 だが、ヴァレンシア家という出自から類推することは、可能になったようだ。今回地図さんの口から出たヴァレンシアの人名だけで、既に顕著だ。オルキス月桂樹ラウルス……いずれもスペイン語ではなく、ラテン語で植物の名前。名付けに限らず魔術にラテン語を用いるのは特に古い家に多いのだが、ユーゲンの本名もこの法則に沿っていると見ていいだろう。ラテン語で植物……どうだ? どのあたりの花だろ?


 ん? というか、そもそも、なんで僕はこんなにもユーゲンの本名を知りたがってるんだ。


 知る必要あるか? 「ユーゲン」で通じてるんだし、別にどうでもよくないか。セックスのときに呼びたいからとか? え、そうだとして、なんで僕はセックスのときにユーゲンの本名を呼びたい? 「ユーゲン、ちょっとやりにくいから右脚動かして」とか言うときにそれが本名である必要性って何だ?


「義円」


 静かな低い声が呼んだ。


「ん?」


「おやすみ」


「……おやすみ」


 そっと微笑む気配がした。手を繋いだまま。

 穏やかな呼吸が暗闇に溶けていくのを、ぼんやりと聞いていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る