殻を破れ〈解〉

 朝の気配を感じた。陽光も小鳥のさえずりも、コーヒーも無かったけれど。


 のろのろと瞼を開きながら、感じたのは息遣いだった。うなじに柔らかな息がかかっている。ゆっくりと穏やかな、眠っているような呼吸。ユーゲンは僕を背中から抱きしめていて、僕のうなじに顔をうずめ、抱き枕にしていた。首から背中にかけての肌、産毛を呼気が撫でる。


「んん」


 目を開いた。思わず、呻きを漏らしている。


「おはよう」


 すぐ耳元で、低く囁く声が言った。

 ユーゲンは温かく硬い腕で僕の胴を抱き寄せ、ふわふわとうなじに唇を押し付けてくる。


「んん。おはよう……」


「今朝は冷えるね」


「ん……そうかな」


 まだぼんやりしたまま、互いの素肌が触れ合う感覚に身を預けていた。ユーゲンは温かくて、さらさらしてて筋肉の弾力があって呼気がくすぐったい。暖かな砂浜に寝そべってるみたいに、心地の良い安堵に包まれていた。二度寝に誘う浅い波がざんと打ち寄せてくる、僕を引き戻そうとする。


「まだ眠る?」


「ううん」


と目を閉じたまま答える。「もう起きるよ。何時?」


「七時半」


 ユーゲンは答えて、ぎゅうと僕を抱え直した。肌が密着し、相手の関節の毛細血管の熱を感じた。そのまま、唇を耳元へと移してくる。耳のすぐ下に口づけながら、胴に回す手で僕を撫でた。裸の腹をまさぐり、腹筋の形をなぞってくる。


「――おいこら。やめなさい。朝からやんないからな」


「昨日はほとんど何もしてないだろう……まだ、色々試してみたいんだけどな。いろいろ」


「僕は試さない。コーヒーを飲む」


 吐息がふんわりと微笑した。


「そう。それは、残念だ」


 微笑して、あっさりと猥褻な指は離れていった。僕の隣で身を起こし、布団が乱れた。ごそごそと這い出ていく。


 僕は身を起こしていた。ユーゲンの背中を見つめた。


 そう。それは、残念だ。

 笑みを湛えたその一言の、声色に。優しさとユーモアと、ひどく愛おしむような寂しさが滲んでいた。聞き逃すにはそれはあまりにも強く印象的で、だけどこのまま追いすがって男を問い質すには、あまりにもさりげなく軽やかで。


 裸の背中はバスルームに消えていった。すぐにシャワーの音が聞こえ始めた。


 僕は立ち上がり、ふらふらとナイトガウンを羽織ってスリッパをはきキッチンに、向かった。つまり、そうだ、宣言通りコーヒーを淹れようとした。湯を沸かさなきゃ。


 ポットを手に持ち、そのまま、立ち尽くした。カフェインをぶち込むよりも先に、今すぐ考えなきゃならないことがある。そういうことなんじゃないか。ユーゲンがシャワーを浴び終わる前に結論を出さなきゃならない。時間はない。寝起きの頭を振り絞り、今ここで考えなくては。


 あいつはもう結論を出している。

 そういうことなんだから。


 この後ユーゲンと僕は交代でシャワーを浴び、一緒にコーヒーを飲みながらお喋りして、それから着替えてこの部屋から出ていく。そしてもう二度とあいつはこの部屋に来ない。僕たちは二度と会うことはない。あいつは、そう決めてる。


 これこそは、僕が正しく恐れていたことだった。僕が正しく恐れ、そして愚かにも実現させてしまった未来だった。ずっと、ずっと理性は声を限りに怒鳴り続けていたのだ。その男から離れろ。今すぐ離れるんだ。べりべり引き剝がされて大量に血を流す事態になってからじゃ遅いんだぞ。

 そう、もう遅い。とっくに遅いのだ。


 僕は、こうなることを確かに予想していた。だが――こういう形なのだとは、ちょっと思っていなかった。

 その瞬間は、もっと劇的なんだろうと勝手に思っていた。いつか、いつか僕たちの間の、埋められない生き方の溝が、価値観の決定的な裂け目がグロテスクに口を開け、どこかふとしたタイミングで、どうしようもなく口論になりいがみ合って――そういう風に、破綻の瞬間が来るのだと考えていた。

 こういう風だとは思っていなかった。


 僕は考えた。考えた。ぽかんとポットを持ち上げたまま、フリーズして。あいつの浴びてるシャワーの音がやけに激しく聞こえた。水音は雷鳴のように僕を怯ませ、両耳から入ってきて頭蓋骨を内側から掴みがくがくと揺さぶった。


 僕は、ポットを置いた。キッチンから飛び出し、部屋のテーブルを漁っていた。ペン、紙、ペットボトル。どこだ? どこにやった?

 ソファにもなかった。僕は四つん這いになってベッドの下を覗き込んだ。暗く埃っぽい床の上に、黒い塊が見えた。腕を伸ばして掴む。取り出す。

 空色の美しい卵を握っていた。僕はそれを、両手で握りしめてまじまじと見下ろした。


「おい」


と、卵に言っている。


「おい馬鹿。馬鹿。なんでお前はいつも、待ってるんだ? なんでこれが割れるのを待ってる? 何かが生まれてくるのを待ってる? お前はいま思ってるだろ? これが割れて何かが出てきたらいいのにって。そうしたら――、お前は変わるつもりなんだろ? 未来が出てきたらお前も変われるんだろ? 永遠に変わらねえよバ――カ!! 生まれるのを待ってる限りこんなん絶対に絶対に生まれるわけないんだよ。順序が、逆なんだよ。殻が割れるからお前が変わるんじゃない。お前が、今ここで、変わるんだよ。決断するんだよ。お前が変わるってことが、ってことなんだよ」


 立ち上がり、どたどた走って、キッチンに戻っていた。


 僕は調理器具を漁った。フライパンを取り出した。コンロの火にかけ、換気扇を回した。油を探したけどそもそも調味料は塩しか置いていなかった。


 滑らかな卵の表面を撫で、埃を払い落とした。

 こつんと軽く叩きつけると、きれいなヒビが入った。


 フライパンの真ん中に割り入れる。中身は、つるりと殻から零れ落ちた。こんもりした新鮮な黄身と透き通った白身がじわじわと音を立てた。油を敷いていないので、焦がさないよう弱火にして蓋を被せ、蒸し焼きにした。


 たかが玉子一個分。すぐに焼き上がる。蓋を取ってぱらぱら塩を振りかけ、慎重にフライ返しで皿に移した。食器の抽斗をごそごそ漁った。箸あるかな。あった。


 ソファの前のテーブルに持ってって、もそもそ無言で食べた。僕が食う音だけがしばらく流れていた。


 食べ終わるより前に、ユーゲンは風呂から出てきた。バスローブを纏い髪を拭きながら、こっちに歩いてきて、はたと手を止める。目を丸くして僕を見下ろした。


「わるいがおまえのはない」


 もしゃもしゃ咀嚼しながら、行儀悪く僕は言った。ユーゲンは、曖昧に小さく頷いてみせた。全く意味が分からないって様子だった。分かる必要はない。これは僕の話で、僕だけの問題だ。


 僕は皿を持ち上げ、残りの玉子を一気にかき込んだ。咀嚼し飲み込んだ。

 皿を置き、ユーゲンを見上げる。


「あのさ、ユーゲン」


「うん?」


「僕に何かしてほしいことないか?」


 ユーゲンは、眉を上げた。怪訝な面持ちでこっちを見た。

 困惑し、考え――腕を組む。

 僕を見つめる。


 僕は答えた。「それ以外で」


 彼は、笑っていいのか困っていいのか、決めかねた表情で肩をすくめた。


「ええと、どういうことなんだ。何が起こってるの?」


「いいか。よく聞け。今から僕は、お前の望みを叶える。お前のしてほしいことを、僕は何でもやる」


「うん……? やってくれないんだろ? きみは」


「だからそれ以外でって言ってるだろ! そういう話じゃなくて、つまり」


 僕は苦々しく腕を組んでソファにふんぞり返る。「あと、それも後でしてやるから」


 ユーゲンは表情を失くした。ぽかんと、僕を見つめた。

 その顔にごくゆっくりと、ためらいがちに、かすかな理解のようなものが広がっていった。彼は、さっと赤くなった。眉を寄せた。混乱と興奮に、その目が揺れた。


「義円、その……きみはつまり――だって……」


「僕はお前につく」


 はっきりと僕は告げた。

 立ち上がり、ユーゲンのもとに歩いていった。


「僕はお前側だ。今この瞬間から。お前と一緒に戦う。お前の理想を僕が守る。保守派の法案は何が何でも阻止する。僕はもう、あいつらの思い通りにはならない。そのために僕に何ができるかは分からないが――大して役には立たないかもしれないが。だとしたらせめて、お前の傍にいてやるから。お前を支えてやる。最後まで一緒にいる」


 ユーゲンの強張る頬を両手で包み込んだ。

 正面から、その瞳を覗き込んだ。近づくと石鹸の香りがした。


「義円……」


「お前は間違ってない」


 真っすぐに目を合わせ告げた。


「お前は間違ってない。ユーゲン、お前は勇敢な人間だ。気高い人間だ。お前は正しいことをしてる。他の誰が何と言おうと、お前の戦いは、強さと優しさの証なんだ。僕はそれを分かってる。だから、僕はお前の味方になる」


「待ってくれ」


と、ユーゲンは動揺した掌で僕を押し戻した。硬く蒼ざめる顔を背けた途端その瞳から涙の粒がぱたぱたと落ちていた。


「待っ、待って……待ってくれ。いきなり、そんなこと……きみは、戦うというのか? きみの全部と? 彼らは絶対にきみを許さない、きみの父も私の父も、世界が敵になる! きみはもう名を知られすぎてしまったんだ、私についたりしたら……きみは殺される。義円、きみを危険に晒したくはなかった、だから」


「だから離れるつもりだった」


 僕は静かに引き取る。

 ユーゲンは、痛々しいほど傷ついた眼で僕を睨んだ。赤くなった瞳からぽろぽろ零れ続けた。


「考えてみたんだよ。ユーゲン、お前についたら確かに僕は死ぬかも。でも、考えてみれば。考えてみれば、僕の人生はそもそも限界の局面だ。日本に帰れば父さんはもう待ってくれない。たぶん、来年の終わりにはどこかのお嬢さんと結婚させられてる。そうなったら……それってつまり、僕にとっては死ぬのと同じってことだ。結局のところ僕は終わりなんだよ、よく考えると」


「馬鹿な……馬鹿を、言うな、駄目だ」


「馬鹿を言ってるのはお前だ。僕はもう決めたんだよ。ユーゲン、まだ何かぐだぐだ言いたいのか?」


「わっ……私が……言うことでは、ないのかもしれないが」


 ぐいと力強く涙を拭い、震える声を低く抑えるようにしてユーゲンは言葉を吐く。


「古いものに、家とか歴史とか、道理というものに背を向けるのは、到底賢い生き方ではない。そういう巨大な何かに歯向かってみて、得るものなどほんのわずかで。失うばかりの道なんだ。実際のところほんとうに、ろくな人生ではないんだよ。こんなものは、本当に」


「これからは違う」


 僕は言った。ユーゲンの両手を取って強引に引き寄せ、もう一度その目を覗き込んだ。


「この先は僕がいる。それじゃ駄目か? ユーゲン」


 ユーゲンは真っすぐに僕を見つめ返してきた。強く鋭い眼光だった。


 それ以上何も言わなかった。

 両腕を回し、全身で、きつく僕を抱きしめた。



 ドーナツの袋を抱えて、僕は疾走した。午前八時半。夜の街の喧騒は、今日も遠くで煌びやかに飛び交ってる。


 ほんの十分出かけただけだ。ドーナツを買っただけ。それでも、ホテルに駆け戻って僕の部屋のドアを開け、僕の部屋のソファに座ってるのを目にするまで、あいつが帰ったんじゃないかって気が気じゃなかった。

 ユーゲンは机を前に、何か書いていた。紙片を何枚も広げ、真剣な顔つきでペンを走らせている。ちらりと僕に目を向けて、笑みを見せた。


「随分早かったね」


「お。おう」


 なるべく息切れを悟られないよう努力しながら僕は答えた。ドーナツの袋を置き、コーヒーをカップに注いだ。その間にユーゲンは紙を片付けてテーブルを空けた。僕たちは砂糖多めの朝食に取り掛かる。向き合って話しながら。


「アプローチは二通り」


 口周りに砂糖がつくのも構わず大きく一口頬張り、カフェオレで流し込んでからユーゲンは切り出した。


「ひとつ、こちらが勝つこと。もうひとつ、向こうが負けること。この二パターンだ」


「ん……? 一パターンじゃね? それ」


「アプローチの違いだ。明日の決闘を急進派が取るためには、こちらが強くなって力で向こうを打ち負かすか、あるいは向こうを何らかの手段で説得して負けさせるか、このどちらかだ」


「向こうを負けさせる……つまりは今のうちに保守派の弱みを握って、脅すってことだよな?」


「そういうことになる。いずれにしても手を打っておけるのは、決闘が無い今日のうちだ。すぐに動かなくてはならない」


「明日の保守派の決闘者は――」


「ラウルス・ヴァレンシア・キロス」


 ユーゲンはカフェオレを傾ける。


「私の従兄弟にあたる男だ。現実問題として、彼を説得するのは難しいだろうな。ラウルスには見切りをつけて、彼に勝てるような魔女を急進派から出す方策のほうを考えるべきなのだろう。――それがまったく困難な話なのだが」


「…………ううん……?」


 僕は、齧りかけのドーナツを握ったまま首を捻っていた。きつく眉を寄せる。頭を働かせながら。


「……なあユーゲン。これは僕の、めちゃくちゃ素人考えなんだけど」


「何だろうか」


「ラウルス・ヴァレンシアを脅迫してわざと負けさせるのは……実際、かなり簡単な話じゃないか? どうにも、そう思えてならない」


 ユーゲンはしばし黙っていた。

 ドーナツを咀嚼し、カフェオレを飲み、じっと真顔で。


「……きみが何を言ってるのやら、私にはまるで分からないな。義円。まったく、何を言い出すのかと思えばまったく、論外だ」


「分かってるじゃねーか僕の言ってること! ええと……そうなんだろ? 僕がいるだろ。僕ならヴァレンシアの、一番の弱みを握ってる」


「きみは自分が何を言ってるのか分かってるのか?」


「分かってるよ。つまり、僕自身昨日教わったことだ。保守派と言っても一枚岩じゃない――少なくともヴァレンシア家にとっては、決闘で勝つよりも大事なことがある。わざと負けることになってでも、守りたいものが」


「きみがヴァレンシアの秘奥を世界中に公開したとして、ヴァレンシア家以上に損害を被る存在がいる。きみだ。義円。きみはとんでもない数の魔女を敵に回すんだぞ」


「お前と同じくらいになるだけじゃないか? それに、ヴァレンシアが取引に応じれば秘密を言いふらす必要は無い。要は脅しなんだから」


「……」


「僕はヴァレンシア家の魔力の秘密を他人に喋ることができる。その気になれば、誰にでも。ヴァレンシアの呪いは僕には効かない。手札は充分すぎると思う」


 ユーゲンは再び黙り込んだ。今度は、長い沈黙だった。


 それから、にわかに顔を上げてさっき机に広げていた何枚もの紙を拾い集め、じっと見つめた。紙にはユーゲンの手書きで細かい文字や、図形や呪言のようなものが書き込まれていた。……何だこれ? 呪いの儀式でもやるのか?


「…………きみは命知らずだ」


 ようやく、彼はそう呟いた。


「お前に言われたくないけどね」


「きみを止めはしない。だが、準備をさせてくれ。みすみすきみを死なせたくはないからな。私がきみを守る。時間をくれないか、義円」


「うん」


 僕は頷いた。「僕を守ってくれ、ユーゲン」


 二時間くれ、とユーゲンは宣言した。二時間で準備を済ませるから。


「僕は何をすればいい?」


「今のところは、何も。私はこれから魔法を組むから、ちょっと集中させてくれ。きみが必要な段階になったらまた呼ぶ」


「え。術式を作るの? 今から? 二時間で間に合う?」


「無論きみほどではないが、私もそれなりに優秀な魔女なんだよ」


「いやそんなの知ってるけど……」


 ユーゲンは部屋の隅に机を動かし、そこで猛然と魔法に取り組み始めた。ものすごい勢いで色々と書き連ねていった。

 僕は彼の集中を極力阻害しないよう、ベッドで黙々と考えを練った。今日これからラウルス・ヴァレンシアに会って何を話すか、そして話さないか、論点と筋道に沿ってなるべくクリアにしていった。とかく喧嘩というのは下準備が大事だ。こういう類のは特に。


 時々、ユーゲンは部屋を出ていった。誰かと通話しているようだった。だがほとんどの時間は黙って壁に向かい、呪術の緻密なレース編みに心血を注いでいた。


 やがてゆらりと、音もなく立ち上がって彼がこっちに歩いてきたとき、蒼白い亡霊のように疲れ果てていた。ちらりと腕時計を見るとちょうど二時間くらいだった。ユーゲンはベッドに胡坐をかいてる僕のとこまで来て、ぬっと右手を差し出した。


「きみの血液が欲しい。尿か唾液でもいい」


「ん」


 僕は、人差し指でちょいちょいと手招きした。座り、見上げたまま。ユーゲンは真顔で寄ってきて、腰を屈めベッドに片手をつく。僕は見上げ、ユーゲンは見下ろす形になってやや窮屈な接吻をした。今朝、起きてこいつと言葉を交わし、一緒に行動すると決めてから色々あったがこれが今日初めて交わすキスだった。なんていうか、一度いちゃつき出したが最後お互いの服を剥ぎ取り始めるに違いないと分かっていたからだが、結局僕たちがすることになったのはひどく事務的な呪術のプロセスだった。


「……ん。充分だ。ありがとう」


 それでも身を離した後、濡れた唇をぺろりと舐めてユーゲンは微笑した。長い指でわしわしわし、とゆっくり僕の頭頂部を梳き、机に戻っていった。


 そこから更に三十分くらい。遂に、ユーゲンの魔法は完成して、彼は疲労と達成感の控えめな歓声を上げながら、椅子の上で伸びをしてばきばき背中を鳴らした。


「お待たせ。さて、ラウルスに会いにいこう」


「お疲れ……今から行くのか?」


「うむ。やるなら早いほうがいい」


 きみがやめたいならいつでもやめていいよ、私はむしろそうしてほしい――などとこいつが言い出す前にすぐさま僕は立ち上がった。着替えるユーゲンの横で、僕も久々のスーツに袖を通した。

 ……だが、ジャケットのボタンを留めたところで思い直している。こんな安物、わざわざ着てったところで余計見下されるだけじゃないか? むしろ、戦闘服だなんだと気負わないほうがいいんじゃないか。

 結局全て脱ぎ、メジャーリーグ球団のTシャツと短パンという舐めた格好に武装し直した。うん。こっちのが断然決まってる。


 それからホテルを出た。ふたりで真夜中の街路を歩いた。


「何の魔法をやってたんだ?」


「うん。簡単に言うと、ヴァレンシアの人間がきみを殺せないようにする魔法だ」


「えっ……そんな都合の良い魔法があるのか?」


「まあ、工夫次第でね。上手く働くよう祈っててくれ」


 中心街やや外れの、道が狭く入り組んだ一角に真っすぐ向かった。そこはまだ僕が足を運んだことのないエリアで、田舎の商店街のような雰囲気だった。よく分からないものを売っている雑貨屋がずらりと並んでいた。


 僕たちは、静寂に満ちた細い横道を歩いていった。通行人はおらず、世界の終わりみたいに静かだ。

 だが奥へ奥へと進むにつれ、ひそひそ声が冷たい霧のように、降ってきた。

 得体の知れない売店、道に面した建物の二階。窓やバルコニーから、カーテンの隙間から漏れてくる光、そして目。通行する僕らをじっと見下ろし、物見高い視線を注ぎ、囁き合う声が聞こえる。


「おや。聖騎士だ」


と、低く面白がるような声が降ってきた。その言葉は、ひそひそ声を割って明瞭に聞こえた。


「見ろよ。聖騎士が来てるぞ」


「こんな場所に来るとは」


「隣だれ?」


「おいみんな、敬意を払えよ。高潔なる人間愛の騎士様のお通りだぞ」


 どっと笑い声が上がった。誰かの口笛も聞こえた。ユーゲンは穏やかに無言で歩き続けた。悠々とした大股で、僕もその背中を見つめたまま歩いた。


 ……かねがね思ってたことがある。人間、生きてく中で、いったい何をやれば「聖騎士」などというあだ名をつけられるに至るのか――と。まさか、皮肉で呼ばれてたんだとは。この男が絶えず向けられてきた、悪意の鮮やかさに眩暈がする。これはそのほんの一端なのだ。


 ほどなく、ユーゲンは立ち止まった。灯りもない煤けた建物のドアの前に立っていた。そっけなく拳でノックすると、すうっと扉が開いて真顔の女が顔を出した。針金のような視線を、こちらの頭のてっぺんから爪先まで突き立てる。


「ラウルスに会いたい。彼はいるだろ?」


 おっとりと親しみを込めた口調で、軽やかにユーゲンは切り出した。毎週末飲んでる親友に今夜も会いにきたわけだけど、っていう調子で。


「いる」


と彼女はぶっきらぼうに答えた。音を立てることなく扉を開け放った。まるで店子が夜逃げした雑居ビルみたいに外からは見えていたが、その建物の内側は、かなり品のいいバーだった。ピアノと、落ち着いた声量の談笑に満ちていた。僕たちが現れても誰ひとりこちらを気にしない。


 ラウルス・ヴァレンシア・キロスはボックス席で、変わった色の葉巻をくゆらせているところだった。

 ユーゲンと僕が並んで対面に座っても、彼は顔色ひとつ変えなかった。ひどく鬱陶しそうに目を細め、こちらを見る。焦茶色の毛髪、空色の瞳。実際ユーゲンとよく似た面差しの美男子である。


「どういう要件かな」


 呟くような声で、至極めんどくさそうに男は言った。小さく首を傾げ。


「ラウルス、我々も長い付き合いだ。どういう要件だと思う?」


 言葉の気安さとは裏腹に、いたく淡白な声音でユーゲンは応じている。


 ラウルスは、僕たちを睨んでいた。薄目でじっと。沈黙。葉巻の煙が淀みながら僕たち三人を取り囲んでいた。ひどくいい香りがしていた、煙らしからぬ、瑞々しい花のような。


「そうか」


と、気だるげな声音を崩さずに男は言った。僕の目を見て、


「伯父は、すっかりお前に騙されたようだな。それにしても、お前ももう少し賢い男だろうと思っていたのだが」


「ラウルス」


 僕は口を開く。


「それに、オルキス。命名だけで、かなり露骨な法則づけです。この一族の魔女は、生まれた瞬間からヴァレンシアという血と魔力の体系に組み込まれるということ。まるで標本のように。もちろん、ラテン語は植物の学名にも使われていますね。死語であり、そして世界言語でもある」


 劇的な一瞬だった。

 僕の言葉に、ラウルスは硬直し、蒼ざめて目を見開いた。


 僕のほうはといえば、腹の底でわき上がる悪寒と拒否感を抑え込んでいた。

 魔女として社会生活を営むこと二十余年、身に染み付いたというのは突然ポイ捨てできるものではない。

 他家の魔法の核心を、臆面もなくいま口に出してみせるという行為に、僕の良識は悲鳴を上げていた。


「実に興味深いことです」


 僕は、わずかに身を乗り出して続けている。目を輝かせながら他人の魔法を暴き立てるあのいかれたルイ・ランベールを思い出しつつ、今だけ僕はルイになったつもりで喋った。


「そもそも、世にあるほとんどの呪術・魔術・魔法は、モノとモノとの間に繋がりを結ぶという作業です。いわゆる魔術的世界観というもの。本来は直接的な関係を持たない二者を、概念的な象徴の枠組みによって秘密裏に繋げてしまう。ごく基本的な魔術の構造と言えます」


 たとえば天の星が、人の運勢を指し示すのも、人形に打ち込んだ五寸釘が、その場にいない相手に届くのも――星と人が、人形と人が、象徴性によって繋がっているからである。

 卑近な例でいえば、好きな芸能人がコマーシャルで紹介している商品は買いたくなってしまう。その人に関わるものを身近に置くことで、相手に近づくかのように錯覚する。これも魔術。


「ヴァレンシア家の魔法も、この魔術的世界観の同系ではあります。ヴァレンシアの魔力は接続の力、繋がりを結ぶという方向性のもの。一族の人名において一律の法則性があるのは、『根を同じくして繋がっている』という象徴性をあなたたちの血と魔力に付与するためでしょう。ですが、ポイントはそこではない。あなたたちの魔力は、もっと尖った性質のそれです。僕は何度か、ヴァレンシア家の魔法をこの目で見ました。あなたたちの魔力は、糸や、もっと言えば鉤縄や、鎖といったものによく似ている。つまり、あなたたちの魔法はより直接的で、『物理的』です。呪術を扱うほとんどの家が迂遠な儀式や呪言によって、つまりは象徴性のみに頼って相手を呪うのに対し、ヴァレンシアの魔女は、呪いたい相手に直接自分の魔力を打ち込んでしまう。相手の魂を直接魔力の鎖で縛り、支配するのです。これは非常にシンプル、かつ強力な方向性だと思います。シンプルがゆえにほぼ防ぎようがなく、シンプルがゆえにおそらく他家よりは複雑な術に向かないのでしょうが、呪詛で相手を害するという一点にかけては、初見殺しの最強魔法と言えるでしょう――弱点としては、からくりを見抜かれてしまった場合、相手によっては上手く対策されてしまうであろうことです。そのため、あなた方は自身の魔力の秘密を頑なに、ずっと守り続けている。どんな手段に出てでも」


 僕は、そこで言葉を止めた。


 一気に喋り過ぎて、全力で泳ぎ切った後のように、どっと疲弊していた。隣に座ってるユーゲンの存在を意識し、ふらつきそうな上体をぐっと支える。

 僕の言うべきことは言い終えた。後は、行く先を見守るだけだ。


 ラウルスは何とか表情を保っていた。唇を引き結び、蒼ざめた頬を小さく震わせている。この男にとっても、誰かが大っぴらにこの話をする場面なんて初めてだったのかもしれない。


 だが、押されて倒れ込むつもりはないようだ。

 険しい眼つきで僕を睨み、薄い唇の端を上げている。


「――よほど、命が惜しくないのかな。きみは」


「死にたくなんてないですよ。この男が僕を守ってくれるそうなので」


「なるほど。そう言って、ユーゲンはお前を口説き落としたのだな? ふふっ……だが本当にそれを信じたと言うのか? あまりにも純真じゃないか」


「はあ」


「彼は四六時中きみを警護するというのか? この先――死がふたりを分かつまで? うむ、確かに、彼は誓いを果たすかもしれないな。死がふたりを分かつまでそう長くはかからないだろうから。きみのその口を閉じておいてもらうため、明日の決闘をむざむざ捨てるよりかは実際、きみの口を『閉じさせる』ほうが余程我々にとって簡単な話だ。そうは考えなかったかね、江藤君?」


「あなたたちは僕を殺せないそうですよ。ユーゲンがそういう魔法をかけたので」


「なるほど。で、さっきと同じ質問なわけだが。? ちょっと、考えてみてほしいのだが。きみはさっきから自分でこう言ってるじゃないか。『自分にはヴァレンシアの魔法が効かない』と……だとしたら、いったいどうやって彼は、ヴァレンシアの天才は、きみに護りの術をかけたというのかな。矛盾じゃないか。江藤君、実に残念なことだが、きみはこの男に上手く担がれたんだよ。私は知っているのだが、彼は実際、見た目通りの天使ではないのでね。いやはや」


 僕は口を開いた。

 ラウルスの只今の主張の、論理的な瑕疵をつく反駁は、二、三通り思いついていたが――結局のところ、この話を掘り下げたところでどうなる? ここは本質じゃない。


 横のユーゲンを見やると、彼は黙って、肩をすくめた。ラウルスの言葉を肯定したようにも見えた。


 結局僕は答えた。「まあそうかもしれないですね」


 ラウルスが、眉を上げる。


「なに?」


「確かに、よく考えればユーゲンが僕を魔法で守るのは無理です。あれは嘘だったのかも」


「ふん……ようやく気づいたか? だが、遅すぎたな」


「同感です。この話は今更こねくり回しても無意味だ。というわけで、先に進みましょう」


「…………いったい何を言ってる?」


「僕はこの後、どうやら死ぬしかないみたいです。そりゃ命は惜しいけど、こうなったらしょうがないですよ。僕は正義が勝つところを見たくてこいつについた。ユーゲンに協力した以上、その行く末を見守るとします。ついては、それが成功するのかどうか、です。まあ死にたくはないけど、僕が死ぬとして、それは今すぐなのか? それとも明日の決闘まで、ユーゲンがSPとして僕のお喋りな口を守り通してからなのか? そういうことになりませんか」


 ラウルスの瞼が、ぴくぴくと動いた。彼は口元を震わせた。

 雑言を、あるいは言葉以外のものを叩きつけられるかと一瞬身構えたが。敵ながら天晴れの自制心だった。苛立たしげに、激しく足を組み替え、すぐに彼は立て直す。葉巻はさっきから全く減っていなかった。


「では、今すぐ試してみるかね? 江藤君――それに『最強』どの。たったふたりでこの場から生きて帰れるのか、面白い検証になりそうだな」


「それには及ばないだろう」


 そのとき、ようやくユーゲンが口を挟んだ。


 彼は、じっと石のように、無感情にここまでの顛末を眺めていた。ユーゲンのような男にとってそれは相当の苦痛だったろう。

 そろそろ、僕は分かるようになってきている。彼は驚くほど冷静かつ無頓着に振舞うことができるのだが、本来は、パニック映画冒頭のアホなカップルが食い殺されるシーンでショックを受けて両手で口を覆うタイプだ、本来の中身は(ちなみに僕はげらげら笑い転げて軽蔑されるタイプだ)。


「既に言ったはずだ」


と、ユーゲンは淡白に述べている。


「きみたちは彼に手を出すことができない。そう言ったはずだが」


「そんな都合の良い話は相手にしないと、言ったはずだが?」


「きみはひとつ勘違いをしているようだ、ラウルス。私は、江藤義円に魔法をかけたのではないよ。無論それは不可能だからな。私は、呪いをかけたのだ。私自身に」


「…………何だと?」


「ごく単純なものだ。もし江藤義円が死んだ場合、同時に私も死ぬ。そういう呪いだ」


 ラウルスの顔色が、そのとき紙のように、劇的に白くなった。

 それくらいの変化だった。


 僕は言った。


「は?」


 は? って言って、隣のユーゲンを見ている。


 ユーゲンは狩人のような暗い熱心さで、ラウルスだけを見据えていた。


「嘘だ」


と、すぐさま絞り出すような声で、ラウルスは唸った。ぎらぎらと危うい眼つきでユーゲンを睨みつけている。


「嘘ではない。試してみたいと思うか?」


「黙れ。黙れ……」


「ラウルス、私ははかりごとに向かない男だ。きみも知っているだろう。元来そういう人間が、それでもやむにやまれぬ事情により、誰かを脅迫する必要などとというものに迫られたとする。ラウルス、私は聡明な男ではない。損得の分かる人間ではない。ラウルス、私は、何をするか分からない。それを肝に銘じておくことだ」


「黙れ……! 俺が、お前ごときの脅しに屈するものか。ユーゲン。そんなことできるわけがない。口先だけだ。卑怯者。正気じゃない!」


「その通り。ラウルス、私に理性を期待するな。良識を期待しないことだ。私は、やるとこの口で言ったことだけを必ず実行する。たとえそれが常軌を逸した行動であってもね。さあ、卑怯者の脅しに屈する気になったか?」


「出ていけ」


と、彼は立ち上がり勢いよく腕を振った。


「とっとと出ていけ馬鹿ども、今すぐだ! 貴様らの妄言など聞くに値しない、思い上がるな、ヴァレンシアを相手取れるなどと思わないことだ! 私は屈しない」


 ユーゲンはさっと立ち上がった。

 僕に目配せし、振り向くことなくボックス席から出てゆく。


 僕たちは無言で、バーを出た。扉を出た途端に灯りの絶える、侘しいゴーストタウンを早足で歩いていった。

 僕はユーゲンをじっと見つめた。


「――失敗だ」


 僕が口を開こうとした直前に、苦々しくユーゲンが吐き捨てている。


「ああ、くそ……」


「……失敗だったのか?」


「きみも見ての通り、ラウルスは愚かで不愉快な男だが、計算のできない魔女ではない。感情に任せて卓を投げるタイプではないんだ、良くも悪くもね。取引には応じないと、彼が言った以上、それは事実だろう。手心は期待できないだろうな」


「だけど――本当にそんな真似できるのか? ヴァレンシア家の秘密が暴露されるってのになんで応じない?」


「思うに」


と、彼は眉間を押さえながら、言っている。


「おそらくラウルスは、ヴァレンシアの次期当主になる。私がいない今、その有力候補の一人でね。だがこの決闘で負けたりすれば、彼はそのレースから脱落することになるだろう。哀れなラウルス。一族の存亡よりも、自分の座る椅子だ。当主になれないならば家などどうなってもいいと、そういう腹なのだろうな」


 彼は深くため息をついた。

 僕は、顔をしかめて両腕を組んだ。正直、ラウルスは応じるに決まってると高を括ってた。まさか失敗するとは思わなかった。


「まあ、それは分かった」


と、僕は硬く言う。


「駄目だったものは仕方ないな。切り替えよう。そんでユーゲン、お前の話だよ」


 僕はユーゲンの横顔を見ながら、問い質した。実際ラウルスの話なんかより、よっぽどしたかった話を。


「僕が死んだらお前も死ぬってどういうことだよ?」


「ええと、言葉通りの意味だ」


 ユーゲンは、打って変わって気まずそうな小声になって答えた。

 ちらっと僕に視線を向ける、


「……ええと、まず私がヴァレンシアを出奔した際のことだが。ヴァレンシア家を裏切った呪い屋として、最初にやっておくべきことがあった。自分の血を呪うという、作業だ。これは文学的な比喩ということではなくて――つまり――私は自分の血に、自分で呪詛をかけたのだ。もし私が死んだ場合、私が私の血にかけた呪いにより、同じ血筋に連なっている者全員が同じく死に至るという、呪いをね」


 ユーゲンはそっと窺うような眼差しを僕に向けた。

 僕は、腕を組んだまま歩いている。


「――つまり、ヴァレンシア家の誰かがお前を殺そうとしても、そうするとヴァレンシア家が滅亡することになるっていう、わけだな」


「そういうわけだ」


「つまり。僕が殺された場合も、連鎖でお前が死んで、やはりヴァレンシア家が滅亡する」


「そうだ」


「まさか本当にそうしたわけじゃないよな? ラウルスにそう思わせるための、ブラフだろ? ユーゲン」


 ユーゲンは肩をすくめた。


「ええとね。義円、さっききみの唾液を魔法に使っただろう。実を言うと」


「ああもう分かってるよ!!」


 僕は、爆発した。ユーゲンの左上腕を拳でげしげし小突いた。


「馬鹿! くっそ馬鹿! とっととやめろ解呪しろ早く!」


「嫌だ」


 僕に小突かれながら、ユーゲンは厳然と突っぱねている。


「きみは私のために命を懸けた。義円、だからこれはイーブンだ。こうするのが自然だと思う」


「先に言えよ! そうするって先に言えよ!」


「先に言ってたら止めただろう。だから言わなかった」


「うっさい黙れ!」


 ユーゲンは、ちょっと笑った。


「頼むから、長生きしてくれよ。私のためにもね。何と言ってもきみは、我々急進派の切り札だ」


 それに、と彼は突然、思い出し笑いに大きく肩を震わせている。


「きみがラウルスを挑発したやり方といったら! いやまったく最高に酷かったな! 笑いを堪えるのに必死だったよ。きみって、悪魔みたいに邪悪だ」


 ユーゲンは喉を反らして大笑いした。久々に、心からの笑みを見せた彼の横顔に、僕は一瞬、何もかも忘れて黙ってしまった。


 夜風が、全ての言葉を攫っていったみたいだった。僕はぐいと目を逸らし、首を振っている。くそ。


「……ああいう傲慢な男は誰だって我慢ならない」


「うーむ、そういえば私もその男の一人だった。きみのそういうところ、実際嫌いじゃない」


「そういうとこ?」


 僕は目を細める。ユーゲンは、にやにやしたまま答える。


「弱いくせにやたら喧嘩っ早いところ」


「喧嘩売ってんのか」


「あはは。褒めてるんだよ。義円きみは、勝てるかどうかで戦う相手を選んでないんだ。それは尊いことだ。きみが私をあのとき――私を『クソ優男』って呼んだあの瞬間、私の運命は決したのかもしれないな。今きみとこうして歩いてるのも、残りの寿命をきみと共有さえしてるのも。何ら驚きではない」


「僕はまだ驚いてるからな」


 僕は、そう言った。それ以上は何も言えなかった。


 ユーゲンはどうあったってもう、彼自身にかけたこの呪いを解くつもりはない。忌々しいことに僕にはそう、分かってしまっていた。


 代わりにこう言い返している。


「僕は、お前のそういうとこが嫌いだ」


「うん? どういうとこ?」


「僕は、お前みたいな偉そうなイケメンが嫌いだし。嫌いだったし。だけど、お前のほうはといえば、気にもしてなかった。勝ち負けがどうとかさ。お前は僕に負けてからも、当たり前に僕に優しくて、気さくで礼儀正しくて、卑屈さなんか欠片もなくて。ああ、って思った。僕とこいつじゃ、お話にならないんだなって。思い知らされたんだよ。腹立つ。ほんと嫌いだ」


「おやおや」


と、なぜかユーゲンはそのとき笑みを消して、無表情に僕を見た。


 すこし驚いたように。


「……何だよ?」


「うーん、これは喜ぶべきことなのかな、私としては」


「は?」


「だって私の努力は成功してるわけだからね――こんなにも目論見通りに。つまりさ、義円? あんなにも全力でやって打ち負かされた相手に、どう振舞えばいったい、こっちとしてはまるで何とも思ってない風に……さりげなく軽やかに見せられるのか。器の大きい男だと思ってもらえるだろうかって、そういうことを考えるわけだよ。こうして言葉にすると、実に馬鹿みたいだが」


「……」


 僕は、今度こそ呆気に取られてこいつを見つめた。

 一番の衝撃だった。


「おっおまえ――あれ、演技かよ?」


「まあ、言ってしまえばそうだな。いやはや実に。きみに負けたあの日は、悔しくて悔しくて眠れなかった。きみのことばかり考えてしまって。自分が負けるなんて微塵も考えてなかったんだ。きみと再会して、うーん、どんな顔すればいいのやら本当に困ったけど、とにかく必死に悟られないようにした。きみにはほら、いかんせん、セクシーだと思われたかったし……」


 僕は、両手で顔を覆った。「あー!」


「ああもう、まったく、きみが私のこと褒めちぎったりするからこんな恥ずかしい話する羽目になったんじゃないか」


「クソが黙れ、くそ、誰がお前のことなんか褒めちぎった? 僕はお前のそういうとこが嫌い、って言ったんだ」


「ああそう。うん、そうだっけ」


 ユーゲンは気まずそうにこめかみをかいた。月光の下で揺れてる前髪が、月と同じ銀色に染まってる。


 ユーゲンは、赤くなってるのが見て取れた。たぶん照れていた。僕は、彼以上に赤面している自信があったから、顔を覆ったままでいた。

 照れながらユーゲンはすこし可笑しそうに、口角を上げていた。


 僕は思った。死にたくないなと、ふと思った。本気で思った。


 僕の未来はいま、僕の胃袋の中で僕と一緒に移動している、アミノ酸として吸収されながら。僕は僕の未来を引き連れて歩いている。僕は死にたくない。生きてこの夜を出られるのだろうか。月光に照らされる、ユーゲンの横顔を眺めていた。

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