夜明け

「義円くん! こっち! こっちだよ~」


 地図さんの声が聞こえ、僕は振り返っていた。朝の陽光の下を、小柄な姿が駆けてくるのが見えた。こっちに手を振りながら。


 僕は、ぱちぱちと瞬きして、自分の頬を何度か叩いた。走ってくる地図さんの姿にピントを合わせた。なんていうか、認識のピントを。


 途端、僕は、ひとりじゃないことに気づいた。実際、僕の周囲には大勢の人がいた。


 現在。僕は朝の駅に立っている。気がつくと、大きな駅のホームにいた。せわしなく行き交う魔女たちは、僕の左右を邪魔そうに早足で通り抜けてゆく。


 地図さんはとことこと駆けてきた。ショートボブの黒髪にグレーのパンツスーツ、いつもの地図さんだ。ものすごい早着替えっぷりだけど、僕はそれを指摘することなく片手を上げて、挨拶していた。


「おはようございます、先輩」


「おはよう~」


 地図さんはおっとり微笑んで、立ち止まった。僕たちは何も語ることなく、瞳で笑みを交わし合った。それだけだった。


「電車もうすぐ来ちゃうよ~。日本行き、百二十二番線だからね」


「はい――あの。何時発でした?」


「十三時二分発」


「ありがとうございます」


 直後。

 僕はホームを走り出している。


 線路、ホーム、階段。見渡す限り、右にも左にも永遠に線路が連なっている。シュールな悪夢の中みたいな場所だ。実際は、ワルプルギスの夢の世界から魔女たちを追い出し、現実へと送り返す結界の装置だった。


 腕時計を見下ろすと、十二時五十八分。日本に帰る電車まであと四分。百二十二番線はすぐに見つかった。隣にあった。僕はきょろきょろと見回した。人混みを、線路を、ホームを見回した。


 ――手掛かりは何も見つからないし、何を探せばいいかもよく分からなかった。

 どの列車に乗るのかさえ、僕は知らない。


 階段は複雑な動線を描き、忍者屋敷みたいに脈絡なくあっちとこっちで繋がっている。百二十二番線の隣は七番線で、その隣は千五百六番線だ。


 十三時。


 十三時一分。


 十三時二分。

 僕は、階段を駆け上がり、ホームを疾走した。日本行きの最終電車になんとか滑り込んでいた。



 ゆらり。もう一度、閉じていた目を開く。


 直後、僕は、再び人混みの中にいた。今度は、さっきよりも開けた明るい場所にいる。


 夢から目覚め、更に、それすらも夢だったと目覚めて知るような、気味の悪い感覚だ。

 眉を顰め、頭を振っている。認識を目の前の現実に再調節する。ワルプルギスの結界ほど大掛かりな魔法から抜け出るのは、入るときよりもずっと大変だった。


 だけど、もう帰ってきた。

 いま僕の周囲には、久しぶりに村人たちが行き交っている。日本に帰ってきていた。ここは――空港だった。羽田のロビーに、僕は立ってる。


 スマホを取り出した。ようやくその存在を思い出していた。スマホ以外の荷物はホテルに置いてきていた。たぶん今頃、僕の家に転送されて散乱してる。


 僕はアプリを立ち上げた。立ち上げようとした。

 ワルプルギス通話アプリのアイコンは、画面から消え失せている。

 夢みたいに。


 僕は、数十秒、止まって画面を見下ろしていた。理解するまで、時間を要した。


 ……「圏内」に、僕は、戻ってきている。つまりは、そういうことだった。魔法はもう必要なかった。怪しい、いかがわしい夜の世界に引っ込んでいた。魔法よりも優れた科学技術に素早く席を譲って。


 僕は見回していた。人、人、人。誰もかれも忙しかった。孤独を纏う、知らない誰か。早足で、ここではないどこかへと向かい続けている。


 僕だけが突っ立っていた。羽田空港。東京都大田区。にしても、なんで羽田なの。日本人は全員東京に住んでるとでも思ってるのか。東京が日本の全てみたいな意識、何なの。あれは吾輩がナントカ線でナントカ町へと急いでいたときのことだが。知らねえよ。もっと説明しろよ。日本人の三分の一が東京にいるんだとしても、少なくとも僕はいないんだが。


 無実の羽田に、とりあえず僕は怒りをぶつけた。

 それ以外にどうすればいいか分からなかったのだ。


「義円」


 低い声が呼ぶ。

 ……背後から。


 僕は、息を止める。呼吸も、怒りも、言葉も全部消える。


 ただ全身を満たしたのは、苦しさだった。振り返るのが、怖かった。不安で、興奮で、わけの分からない沢山の感情で、胸が苦しくなる。


 僕は振り返った。


 男は、すぐ目の前に立っていた。息を切らしていた。僕を睨んでいた。僕を睨み、ものすごい早口で、捲し立てている。



 この馬鹿。どうしようもない馬鹿。きみは卑怯者だ。いつもいつもこっちに追わせて、こっちに言わせて、何も思わないのか? きみと、権謀術数や政治的冒険活劇がやりたくて、あのとき私がきみを誘ったとでも思うのか? きみと街中駆けまわり、ならず者どもに追い回されるのが理想のデートだとでも? 私がどんな気分できみを追いかけたか考えてみろ、必死できみを探したんだ、駅を走り回って、日本に帰るきみの電車に飛び乗るときどんな気持ちだったか分かるのか? 私はきみを追いかけた! きみはなんで私を追いかけてない? なんできみが私の電車に飛び乗ってない? きみは卑怯だ。きみは卑怯だ。私はもう言ったぞ。散々きみに伝えてきた。私が言うべきことなんてもう残ってない! きみが私に言う番だ。きみの番なんだ。きみが私と、冒険と決闘以外の退屈なデートを、私とする番なんだ。



 ユーゲンは、そう言ったのかもしれなかった。


 とにかくひどく興奮してて、手のつけられない怒りようで、周囲の人間が、遠巻きに僕たちを眺めてた。


 一週間。僕がユーゲンと出会ってから、一週間だ。たった一週間で僕はどれだけこいつのことを理解したんだろうか。

 いま僕は、正しくユーゲンの感情を受け止めてるんだろうか。こいつが僕に何を言ってるのか、何を僕に伝えたいのか、分かってるんだろうか。

 一週間分の答え合わせだった。ユーゲンは続ける、


 何か、言ったらどうなんだ? 私の人生に踏み込んできたのはきみなんだぞ。義円。私がこんな風になってるのはきみのせいなんだ。きみは、それを、分かってるのか。きみが私に何をしたのか理解してないとでもいうのか。ああ、義円……お願いだ。やめてくれ。頼むから言わないでくれ、全部、嘘だったなんて、


「ごめん」


と僕は、言った。「僕も、お前が好きだ」


 ユーゲンは息を止めた。

 僕には分からないその言葉が、途切れた。


 彼は凍りついていた。喘ぐように、肩を震わせた。


「お前が好きだ」


 もう一度ゆっくりと、僕は言葉にした。

 ユーゲンには伝わっているのだろうか。


「お前が好き……お前が好きだ。まだ、お前と一緒にやりたいことの半分もできてない。もう会えないと思って頭が真っ白になった。自分が馬鹿すぎて。殺したくなった。お前に殺されても、仕方がない」


 ユーゲンは深く、息を吐き出した。揺らぐ瞳。頬は上気して赤い。


 すこし気まずそうに、僕を見つめ、


「…………今のは忘れてくれ」


 流暢だが、母語でないと分かる英語に切り替えて彼は言った。


「僕は忘れてほしくない」


 僕も、英語で答えている。「お前に伝えたいことがある。めちゃくちゃある。僕がお前に言わなきゃならないこと、全部言うまでもうお前を解放するつもりはない」


 彼は、ぎこちない微笑を浮かべた。瞳はきらきら輝き、朝の色だった。

 僕は彼の笑顔が好きだった。これも、後でちゃんと言わなきゃ。

 でもまず最初に聞いておくことがある。


「なあ、教えて」


「うん」


「お前の名前。教えてくれ」


「イーリス」


 彼は言った。静かな声で。


「イーリス・ヴァレンシア・オルティス」


 僕は男を見つめた。その響きが、ざわめく朝の空気を震わせるのに耳を澄ませた。

 舌の上でそっと転がしてみる。


 それからはっきりと言う。


「ところでイーリス、喉かわいてない?」


 男は、目を丸くした。一瞬。


 それから声を上げて笑っている。太陽よりも明るく。

 優しく目を細め、


「――もちろん。干からびそうだ」


「それはまずいな」


「うむ。実にまずいことに」


 僕たちは頷き合う。にやにやと。


 イーリスは僕の肩を叩いた。

 せわしなくうるさい朝の空港を、ふたりで歩き始めた。

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夜と踊れ 等速直線運動 @sobamo

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