第66話 窓に飾る花

 ジェットコースターは一番高いことろに来た。あの薄い月に少しは近づけるのだろうか。妻との記憶を辿る。ゆっくりと坂を、そして次第にスピード上げて降りていった。


 プロポーズした日のことを覚えている。日差しがたくさん窓から入ってた春の季節で、開けていた窓の白いレースのカーテンが揺れていた。一樹はプロポーズが受け入れられた安堵と結婚に対しての漠然とした不安でそのカーテンを見ていた。どこかへ行っていた妻が部屋に入ってきた。

『ねぇ、桜木くん、見て。ほら、花が咲いたんですって。お裾分けもらったの』

『本当だ』

 ピンク色の芍薬を手にいっぱいもって、妻が笑いかける。明るい色合いに不安が消える。花瓶に入りきれなかった花をペットボトルの容器をうまく切って、窓に飾り始める。そこから一輪抜いて、一樹は後ろで結ってある妻の髪に差した。その時の嬉しそうな顔を見て、幸せにしようと思った。

『綺麗だ』

 キスをした後にそう言った。


 最初の下りからスピードは弱まることなく轟音と共に車体は進んでいく。後方から悲鳴のような歓声が沸いた。


 結婚してすぐの頃、地元での小さなコンサートがあった。演奏が終わった後、控室に来て妻が遠慮がちに小さな花束を渡してくれる。

『お疲れ様』

『ありがとう。帰ろう。待ってて。すぐ着替えるから』

 少し恥ずかしそうに頷いて、ロビーで待っていてくれた。人が去ったロビーに一人で椅子に座って待っている姿勢も美しかった。

『紫帆…お待たせ。どこか寄っていく?』

『たまにはいいわね』

 そう言っても、どうせ妻はスープを飲むか、紅茶だけだった。それでも二人で深夜まで営業しているカフェに入った。一樹だけが軽く食事をして、帰ろうとした頃には雨が降ってきた。

『雨だ。タクシー捕まえようか』

『すぐだから。このまま歩いて帰りましょう』

 そう言って、軽くジャンプをする。足をすらっと伸ばして着地した。

『足…怪我大丈夫なの?』

『これくらいは大丈夫。もう舞台で踊れはしないけれど』

 夜の雨が妻の髪に飾りをつける。

『でも…さすがバレリーナだね。雨の滴も綺麗だ』

 そう言うと、少し恥ずかしそうな顔をしながら、綺麗なお辞儀をした。

『ちょっと走れる?』

『もちろんよ』

 次の店先のテントまで走る。そしてまた次のテントまで。それを繰り返して、後、少しと言う時に

『足痛くなっちゃった』と笑う。

 アパートまで、もう後、三十メートルのところだから、本当は歩けるのに、そんなことを言う。

『仕方ないなぁ』と言って、屈んで背中を向けた。

 本当に軽い妻だった。背中に乗せても少しも重くなかった。

『疲れてるのにごめんね』

『本当だよ』

 そう言うと、背中から笑い声が聞こえてきた。

『でも本当に、乗ってる? 軽すぎるんだけど?』

『温かくない?』

 確かに背中が温かかった。体重を調整するのにどれくらい努力してきたのだろう。でももうその必要はないのに、まだ普通にご飯を食べていない。でも彼女にとっての普通の食事がサラダとスープなのだろう、と一樹は思った。


(僕は…仲良くしてるつもりだった。君はそうじゃなかったのかな)と思って、なんだか恨み言を言ってるみたいで、一人で嗤う。

ジェットコースターは次の下りのための坂を登っている。登りも加速がついているから、スピードは速い。


 手にしていた郵便物が滑り落ちてテーブルの上に広がった。

『どうして?』

 一樹はそれを見ながら答える。電気代の請求書が来てるな、と思っていた。

『別に僕は子どもはどっちでもいいって言ってるだけで、すごく欲しいなんて思ってない』

『じゃあ、いてもいいでしょ? 引き取って育てたっていいじゃない』

 子どものことで、妻は一度、養子縁組をしないかと言い出したことがある。

『そんなに簡単に考えていいことじゃないよ』

『私は産めないけど…育てることはできるし、誰かの手助けにもなるのよ』

『そうだけど、人の命だし、その人生に責任だって持たなきゃいけないし…分かってる?』

 あの時は初めてじゃないかと言うくらい言い合いをした。一樹はどうしても子どもが欲しいわけじゃないし、できたらそれはそれでいいと思っていた。でも人の子を育てるというほど、今の一樹には時間と気持ちの余裕もなかった。コンサートが詰まっている。いろんな国で演奏をできるチャンスだった。

『桜木くんに迷惑かけないから』

『一体、なんのための子どもなの? 僕に迷惑かけないって、一体、何? それって家族って言える?』

『家族…なの?』

『結婚してるから、家族じゃないの? 君だけが育てるの?』

 それで紫帆が泣き出して、一樹は困ってしまった。その意味が分からなかった。でもそれ以降、養子縁組の話はなくなった。もしかして家族と言う言葉が妻には思いがけなかったのかもしれない、と今ではそう思う。


(あの時、もし子どもを引き取って育てていたら、君は死ぬことがなかった? 三人で? 暮らしていけてた? それとも僕と引き取った子どもを残して?)

 坂は連続で続いて、目まぐるしく世界が変わる。仮想の世界を何度考えても、妻が生き返ることはない。分かっているけれど、止められなかった。記憶が混ぜ合わされる。                


 子どもがそれほどまでに欲しいのだろうか、と思って、一樹は妻を抱いた。でもどう考えても出産に耐えれる体をしていない気がする。細くて、長い首にキスをする。手足も細くて、力を入れたら折れそうだ。慎重に肌を撫でていると、紫帆が微かに笑った。

『最近は衰えてるけど、筋肉あるんだから』

『そんなこと…今言わなくても』と一樹も笑う。

『恥ずかしくて』

『え? どうして?』と聞き返すと、枕が軽く頭に当てられた。

 仕返しに額にキスをした。困った顔が見えたので、もっとキスをした。


 忘れていた思い出がどんどん溢れてくる。愛していない、とずっとそう思っていた。あの時ですら、そう思っていた。

 車体は傾いて、地面の方に体が引っ張られながら、すごい勢いで進んだ。引きずられるような感覚だった。


 嫌がらせだったのかもしれない。お互いに、分かっているのに、相手が欲しいものを与えられなかった。

 お土産選びはいつも困った。お菓子は食べないし、小物も欲しがるタイプではなかった。香水や、化粧品、スカーフ、ハンカチ…。使ってなくなる必需品も多かった。

『お土産…毎回買わなくていいのよ』

『…うん』

 渡す度に、そう言われて、辛くなる。ありがとうと言う一言が欲しいのに、どうして申し訳なさそうな顔をするんだ、と一樹は思った。買うのをやめればいいのに、一樹はどこかへ行く度に買ってしまう。家で待っている彼女のことを思いながら。きっと彼女を愛していない贖罪だった。贖罪だったはずなのに、一樹のそれ自体が妻に愛がないことを感じさせていた。そして妻もそれを拒否するような、受け入れ方だった。


 ぐるぐるとジェエットコースターが回る。本当に愛してなかったのか、傷ついてなかったのか。繰り返して問いかけても分からなかった。

 視線を空に向けるとあの便りなさげな月がずっと浮かんでいる。もう二度と手の届かないところに行ってしまった妻に伝えたいことが一樹にもある。 


 妻が一人で日本に帰ってからも、ドイツから決まった時間に毎日、電話をしていた。決まった時間にしか電話できない自分を一樹は冷たく思いながら、通話ボタンを押す。話したいから、話す…じゃなくて、時間が来たから電話する。それなのに電話をやめられない自分が偽善者のように思える。         

『日本で年越し…できたの、何年振りかしら』

『のんびりできてる?』

『えぇ。久しぶりに友達に会ったり、意外と出かけることが多くて。でもごめんね。一人にさせて』

『こっちはお正月ってそんなに大袈裟じゃないから、年明け早々仕事だし…。大丈夫だよ』

 少し沈黙があった。

『春になったら戻ってくる?』と訊きながら、帰ってきて欲しいと思っているのか、一樹は自分でも分からなかった。

『冬が終わったら…』

 そんな曖昧な約束を交わしていた。


 それなのに、あの日は妻からの電話で、留守番電話だった。一樹がリハーサル入っていると伝えていた時間に留守番電話に吹き込まれていた。

『桜木くん、いつもありがとう。リハーサル中だよね。ごめんね。…コンサート頑張ってね。ずっと応援してるから。それと…体に気をつけて。ちょっと具合が良くないから、今日はもう電話はいいの。それから…ありがとう』

 それが最後のメッセージだった。具合が悪いのだから、また明日のコンサート後にでも連絡しようかと考えていた。そのコンサートの最中に日本の警察から連絡があった。身元確認は妻の両親が行ったと。一樹はアンコールを終えてから全てを聞かされた。

(あの時、すぐに折り返しの電話をしていたら…)と何度自分を責めただろう。

 あの留守番電話は妻からの最後のメッセージだった。

(もし繋がっていたら、死ぬなんてことはなかった?)

 答えてくれない問いをずっと繰り返す。

 突然、世界から音も色も消えた。

 春が来るにはまだ少しだけ冬が残っていた。以降の演奏を全てキャンセルして、空港に向かったが、その日は記録的な大雪で飛行機はなかなか飛ばなかった。一樹が着いた時にはもうすでに火葬まで済まされていた。ドイツで別れた時の妻が一樹にとっての最後の姿だった。


 好きでもない人と死んでしまった妻は最後に『ありがとう』と言った。

(そんなことを言ってもらえることをしただろうか?)

 思い出すら消えてしまって、愛していないとずっと思っていたけれど、一度、思い出せば、思い出が溢れ出してきて、それなりに幸せな時間を過ごせていたことを知った。

『ありがとう』

 そう言わなければいけないのは、自分だ、と一樹は思った。

(君が僕をずっと愛してくれてた。…僕も君が好きだった)


 ジェットコースターは一旦止まった。後少しで乗り場まで、と言うところで。

(でも君を好きだったことを…気づかなかった)


 止まったジェエトコースターはもう二度と動き出さないのか、と思った。でもしばらくすると、ゆっくり動き出して、乗り場に着いた。隣に座っている桜は悲鳴ひとつ上げなかったが、のろのろと車両から降りた顔は青ざめていた。

「大丈夫?」

「届きましたか?」

「え?」

「月まで」と息も絶え絶えな声で言う。

 空に浮かんだ白い月は透き通って見える。

「そうだね」と返事しながら、うらはらなことを考えていた。

(遠くて…届かなかった)

 桜を支えながら、乗り場から離れる。ベンチに座らせて、飲み物を買ってくる。

 気持ち悪そうだったから、ただの水を選んで、桜に渡した。

「ありがとうございます。私はただ怖かったです」

「無理しなくてよかったのに…」

「私も月まで手が届くかと思ったことがあるんです。あの落ちた日に」

「え?」

「届くわけないのに、手を伸ばしました」

 そう言うと、桜は笑った。

「それと同時に地球の引力もすごいんだって知りましたけど」

「死ぬ気だったの?」

「そんな積極的な気持ちじゃなくて、月をもう少し見ようって手を伸ばしただけです。生きるとか、死ぬとかそんなこと考えてなくて…」

「打ちどころ悪かったら、庭で死んでたよ?」

「そしたら、一樹さん、舌打ちしてそうですね」と言って桜は笑った。

 あの頃の一樹だったら、そうしたかもしれない。

「笑い事じゃないよ」と言って、桜の隣に腰を下ろした。

「でも打撲だけで済んで…。落ちる時に桜の枝にあたって、ぼきぼきって折れて、途中、引っかかって、それでゆっくり落ちた感じで。助けられました」

「よかったよ。病院にも行かないって意地張るし」

「…ごめんなさい」と言って、一樹の腕にもたれた。

 空を見ると、まだ薄い月が浮かんでいる。まるで月が青空に透けているみたいに見える。

「私でいいですか?」と桜は月を見ながら訊いた。

「…桜と一緒にいたい」

「私もです」

 二人で月を見上げる。白くて、ぼんやりと浮かんでいて、少し優しく見えた。


 空港に着いて、荷物を預けて、検査場に向かう。桜は初めての国際空港で、辺りを物珍しく眺めていた。パスポートと搭乗券を握りしめて、検査場を抜けると、免税店がある。

「一樹さん、空港って楽しいですね」と言うので、少し可愛く思った。

「何か買う?」

「お菓子買おうかな。飛行機の中で食べる物…」と言うので、さらに一樹は笑いを堪えなければいけなかった。

「化粧品とか安いみたいだけど…。荷物になるし帰りの方がいいかもね」

「はい。…あ、日本酒味のキットカット」と売り場に向かう姿を見ると、もう笑うしかなかった。

 笑い終えて、桜の方へ行こうとした時、すれ違った人の首に星型のタトゥーが入っているのが目に入った。一樹は思わず振り返って、見る。ショートカットの女性の後ろ姿だった。

「あ」と声が出た時、その女性が振り返った。

 その人はしばらく一樹を見て、笑顔を見せた。つられて、軽く頭を下げる。そして何事もなかったように、女性は立ち去った。

 一樹を通り過ぎ、追い越す幾人の人、空港の中で、行き交う人はそれぞれ別の場所に向かう人達でもう二度と会うことのない人達だ。ただすれ違うだけだったら、傷つけることも、傷つくこともない。

 同じマンションですれ違う人だけだったらよかった。こんな風に挨拶を交わして、通り過ぎるだけの関係だったらよかった。そうして淡い人間関係を繰り返していた。

「一樹さん」

 柔らかい声で呼びながら、桜は振り返る。お菓子を二袋抱えて、にっこり笑っている。その笑顔を見ながら、すれ違うだけでは、足りないと感じている自分を自覚した。

「桜、どうしてそんなにお菓子を買うの? 飛行機の中で…さすがに食べきれないと思うんだけど?」

「お土産です。一樹さんと一緒に演奏してくれるオーケストラの皆さんに」

 その優しさに触れて、何度、慰めてもらっただろう。

「ありがとう」

 今では素直に口に出せる。

「もう少し、いるかも」と言って、一樹は三袋取り上げた。

 桜が目を丸くしている。

「僕の分も入ってる?」

「あ…」と言って、桜は慌てた。

 さすがに五袋もあれば足りるだろう。練習中にみんなが食べてもおかわりできる。

「一樹さんには…おにぎり持ってきましたよ。簡易にお湯でできるやつですけど」

 昨日、夜中に何か詰めてたのは、それか、と一樹は思った。

「桜、本当にありがとう」

 嬉しそうに笑って、手を繋いでくる。お土産を買って、搭乗口までゆっくり歩く。ブランド店のガラスを桜が覗き込んでいる。

「まだ見てるの?」

「…。うーん。似合いの二人になりましたか?」

「そんなことより、僕が桜といたいから。…まだこれ以上見るなら、ショーケースのもの全部買うよ」

 慌てて、桜はガラスから視線を外した。ショーケースの中には高価なバッグや小物が置かれている。

「僕が…買いたかったな」

「え?」

 桜の手には一樹の父親がプレゼントしてくれた鞄がある。それを見て、一樹はため息をついた。桜にプレゼントしたのは一樹に対しての罪滅ぼしが含まれているのかもしれないけれど、そんなことで桜にプレゼントなんてして欲しくなかった。

「そう言えば、桜にクリスマスプレゼントも渡してなかった」

「もらいましたよ」と言って、笑う。

「渡した覚えないけど…」

 くすくす笑いながら、繋いだ手を握り直した。

「もう忘れたんですか? またもらいますよ?」

 そんな何回もあげれるものを渡した記憶もなかった。桜は立ち止まって、背伸びして、口に手を当てて一樹の名前を言った。それで一樹は思い出した。

「どうぞ。何度でも」

 そう言うと、桜が顔を赤くして、でも頷いた。

 さっきより少し早めに歩く。ドイツに着いたら、最初はホテルに滞在するけれど、ピアノを練習できるように、二人で知り合いの指揮者の家に滞在することになっている。桜がドイツを気に入ってくれたらいいな、と思っている。もしかすると住むところはドイツじゃないかもしれない。それでもずっと一緒にいられたらいい。

「桜…」

 桜が一樹を見上げた。一樹が何か言おうとする前に桜が言う。

「楽しみですね」

 ずっと一人でピアノを弾いていた一樹のことを思って、言った。ぼさぼさ頭のまま、朝日が差し込むリビングでピアノを弾いていた姿が今でも思い浮かぶ。桜がいても、何も気にせず、ずっと毎日ピアノを弾いていた。誰もいなくても同じだっただろう。誰に聴かせるでもなく、ただひたすら弾いていた。祈りのような毎日。

「一樹さんのピアノが神様に届いたのかもしれません」

「そうなるように…頑張るよ」

 もうすぐ搭乗口が近づく。




                                                                            終わり


 

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星影ワルツ かにりよ @caniliyo

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