第65話 薄い月まで登る

 昨日の雪は道の端に少し残っているくらいで、空は晴れていた。まだ午前中の空気は冷たくて、桜は首に巻いたマフラーに顔を埋める。遊園地の入り口に待ち合わせをしていた睦月と葉子が先に着いていた。山崎は後から来るという。葉子ははしゃいで桜の手を取った。

「桜ちゃん、何乗る?」

「観覧車乗ろう」

 四人で乗ってもなんだか気詰まりだったので、一樹が遠慮したら、睦月も下で待つという。

「行ってらっしゃーい」と睦月は二人に手を振った。

 一樹の方に向き直って、「山崎が話したみたいだけど、大丈夫みたいね」と笑いかける。

「申し訳なかったって…思いました」

「…いいのよ。そんな風に思わなくても。でも愛されていたことは知っておいた方がいいかもね」

「どうにか助けられたかも知れない、とか。あれを読んでから、当時感じていた違和感には理由があったって分って…。でもあの時の自分は…見て見ぬふりをしてました」

 睦月は首を横に振る。

「それはね…。冷たいこと言うかもしれないけど、彼女だって他に好きな人をいる人を好きになったわけでしょ。あなたは好きな人がいるのに彼女と結婚した。愛されたいと思ってた彼女を助けられる関係じゃないわ」

「…そもそもが間違ってた」

「さぁ…。間違いなんてないと思うの。でも二人の関係をもう少し違った形にできたかもしれないけど…。でも今考えるべきことじゃない。ただ、彼女に愛されてた…それを知らないで生きていくことはやっぱり違う気がするわ」

 一樹が二人が乗った観覧車を見上げる。窓から桜と葉子が手を振っている。睦月はそれに応えて振り替えした。

「それと…桜ちゃんはあなたの側にいるんだから…。もう辛い思いしなくていいようにしてあげて。あなたも、彼女も」

「そうですね」

 冷たい空気を吸い込むと、突然、睦月が告白した。

「葉子…山崎の子じゃないの」

「え?」

「戸籍上は山崎の子どもだけれど…私が付き合っていた人の子どもなの。葉子には知る権利があると思ってるけど、私たちは伝えられていないの」

 一樹は驚いて、睦月を見る。

「嘘はいけないことだけど…。まだ隠しておくつもり。いつか話すことがあるかも知れないし、ずっとそのままかも知れない。でも…山崎が葉子を愛してくれているのは本当だから」

 睦月は観覧車を見ながら、微笑んだ。丁度、頂上まで来たようだ。

「みんな、何かを抱えて生きてるんだから。桜木さんも頑張って」とウィンクをした。

 山崎から何も聞いていなかったから、正直、驚いた。いつも自慢の娘だとは聞かされていたが、血のつながりがないなんて思ってもみなかった。確かに似てない親子だったが、男女の差もあるし、睦月に似ていたから山崎に似てなくても特に疑問は湧かなかった。

「本当の父親はどうしてるんですか?」

「そうね。どうしてるのかしら? 家庭円満なのか、誰かにまた手を出して、離婚しているのか…。でももう彼のことは興味ないから。私は山崎に会えて、本当に幸せだと思ってる。彼がどう思っているのかは知らないけどね」

「…仕事の話しか聞いたことないですけどね」

「そうなの?」

「あ、葉子ちゃんの自慢はしてました」

 そう言うと、軽く笑った。

「あの人、仕事が好きで、きっと一人でずっと仕事だけして生きていくようなつもりだったのに、こんなお荷物を背負わされて」

「そんな風に思ってないと思いますよ」

 睦月が一樹を見た。

「僕が見た限りはですけど…。仕事帰りに毎回飲むのは家に帰るまでワンクッション置きたいみたいです。ストレスをどこかで置いてから家に戻りたいみたいです。家で格好つけたいんじゃないですか?」

「…そう…なのね。私はてっきり…帰って来たくないんだと思ってたわ」

「まぁ、飲んでる姿は相当意地悪なんで見せたくないのはわかります」

「意地悪なの?」

「僕にも、お店の人にも」

 それを聞いて、睦月は笑った。

「ごめんなさいね。家では少しも意地悪じゃないから…。やっぱり吐き出してたのかしらね」

「仕事場でも意地悪ですけどね」

 そう言うと、意外そうな顔で一樹を見た。観覧車から降りてきた二人が走ってくる。

「桜ちゃんと恋バナしたの楽しかったー」と葉子が明るく言うので、睦月が少し気になったようで「葉子にも好きな人がいるの?」と聞き返していた。

「内緒だよー」と笑う。

 睦月に見つめられた桜は首を傾けて、苦笑いをしていた。

「もう。まだ葉子には早いから」と睦月が真剣な声で言った。

 そこからはお化け屋敷に入ったり、メリーゴーランドに乗ったりしていた。葉子は睦月とジェットコースターにも乗って、その間、桜と一樹はカップケーキに乗る。一樹は十何年振りかにきた遊園地だったから、楽しめた。桜を見ると、少し酔ってしまったみたいだった。

 少し休憩しようとなった時に、山崎からメッセージが入った。

「もう中に入ってるんですって」と睦月がメッセージを読む。

「え? どこ?」と葉子が見渡す。

「入口で待ってるって」

 駆け出す葉子を三人はゆっくり追いかけた。

「パパ、仕事は? 来れたの?」と山崎を見つけた葉子が嬉しそうに訊く。

「久しぶりの遊園地、葉子と行きたいし…仕事置いてきた」

「パパだめじゃーん」と笑ってる。

「一緒に、あれ乗ろう!」とジェットコースターを指差す。

「えー? パパ乗れるの? ママは乗れたけど…」

「お昼食べてからよ」と睦月に怒られる。

 一樹と山崎がハンバーガーを買うために並んだ。日曜のクリスマス当日なので、遊園地は混雑している。

「ちょっと痩せた?」と山崎が訊いてくる。

「まあね」

「悪かったな」

「うん。でも…彼女の気持ちを知って。まだ罪悪感あるけど」

 そう言う一樹の顔はかつての無表情ではなかった。

「それは仕方ないけど、桜ちゃん、一緒にいるんだろ?」

「…そうなんだ。一緒にいていいのか悩んだけど…。少し前に進めたのは、彼女のおかげだから。僕も彼女にお返しできたらなと思ってる」

 山崎は安心したような顔で頷いた。

「葉子ちゃんのこと、睦月さんから聞いたけど…」

「あ、そうなんだ。でも不思議だけど、自分の子っていうか、葉子の父親だって思えるんだよね。そもそも男は出産しないし、何をもって親になるかってことだけど。遺伝子が違うって言われても、あんまり分かんないんだよね。赤ちゃん産まれてすぐ母になる女性と違って、男って、子どもが話し始め出してようやく父親になるってよく聞くけど…。まぁ、そんなもんだよ。ずっとパパって言われて、立派なパパにさせてもらった気がする」

「そっか」

「かわいい娘だから心配で仕方ないよ」と恥ずかしそうに笑った。

 テーブルで待っている三人が楽しそうに会話している。内容は聞こえないけれど、恋バナの続きかも知れない、と一樹が言うと、山崎は顔色を変えて、聞き返した。一樹はその様子を見て、笑ってしまった。

「おい、娘ができたら笑ってもいられなくなるからな」

 桜との子どもを想像して、一樹は「かわいいだろうな」と呟く。

 それを聞いて、山崎は鼻を鳴らした。

「あ、そう。やっぱりママは店を閉めるみたいだ。ボトル残ってるの取りに来ていいって」

「あの人と?」

「みたいだね。あんな信用ならんやつとさ」

「…。睦月さん、帰りが遅いのは帰りたくないからかと思ってたらしいけど?」

「え? うーん。そんなことは…」となぜかもじもじし始める。

「なんで早く帰らないの?」

「素面で家に帰るのが…恥ずかしい」

「は? 恥ずかしいって」

「睦月さん…綺麗だし」

 一樹は異様なものを見た気がする。毎晩、毎晩、飲んで帰っている理由がそれだとは思わなかった。

「僕は仕事とのワンクッション置くためだと思ってた」

「まぁ、それもあるけど…。愚痴も言いたくなるしね。睦月さんの前では落ち込んだところとか見せたくない」

「じゃあ、また違うところ探して飲んで帰るの?」

 そう言うと首を横に振った。

「いや、僕も…彼女と向き合うことにするよ」

 睦月とは一緒に横にいて楽しかった。ちょっと変わっているけど、彼女の言うことは間違えていないし。でも正面から向き合っているかと言われればお互い、少しズレたところを見ていた気がする。いや、睦月は見てくれていたかも知れない、と山﨑は思った。

「山崎さんと結婚できて、よかったんだって」と一樹は滅多にしないお節介を焼いた。

「…あ、そう…。なんだ」

 明らかに照れている顔を隠すために、売店のメニューを眺める。

 確かにそれぞれ何か抱えながら、どうにかこうにかやっていってるんだな、と一樹は思った。そしてやはり後悔もした。あの時、もっと妻と向き合えていたら…。音楽の仕事が軌道に乗って、忙しくなっていた時期だった。本当は結婚なんてするべきじゃなかったのかも知れない。結局、間違えた選択ばかりをしていた気になる。

「まぁ、少しずつだよ」と背中を軽く叩かれた。


 ご飯を食べ終えると、山崎一家はジェットコースターの列に並んだ。並ぶ列から手を振ってくれる。遠くから見ると、親子にしか見えなかった。

「観覧車乗らない?」と一樹は桜を誘った。

「え?」

「僕とは嫌?」

「嫌じゃないです」と嬉しそうに笑う。

 二人で乗り場まで向かう。山崎にメッセージを残すと、「家族で楽しむから、どうぞ」と返ってきた。

「遊園地、久しぶりですか?」

「うん。もういつ振りか分からないくらい…。祖父母に連れてきてもらったから…。ジェットコースターなんて、乗れなかったけど」

 観覧車は待っている人も少ない。

「沙希さんとは来ましたか?」

 遠慮がちに訊くので、一樹は少し笑った。

「来てない。大体、演奏会に出かけることが多かったかな」

「演奏会。それは素敵なデートですね」

 桜は想像もしていなかったので、素直に驚いた。

「桜はデートで来た?」

「行きましたけど…。私、あんまり乗り物に乗れなくて…なんか楽しめなかったような…。あ、今日は楽しいです」

 観覧車に乗る順番が来て、乗り込んだ。席は隣に座った。

「観覧車は遠くが見えるから、楽しいですよね」と言う。

「観覧車も乗った?」

 すると嫌な記憶を思い出したかのように、暗い顔で話し始めた。

「乗りました。一番上に来たら、キスをするって言うのが流行ってたんですけど…。何か、ちょっとそういうのが苦手で。だって、それまでの間もなんだか気が気じゃないし…。キスするためだけに乗るみたいな感じになるし…楽しめなくて」

「じゃあ、キスしなかったの?」

「…しましたけど。でも…やっぱりな微妙な気持ちになりました」

 気を遣って言ってくれているような顔でなくて、本当に残念そうな表情を見せた。

「ごめんね、嫌なこと聞いて」

「いいえ。私の方が申し訳ないです。せっかくの遊園地なのに…」

「楽しめてるよ。桜と一緒だし…」

 遠くに富士山が見えた。桜は指さして「すごい」と言う。天気がいいので、よく見える。一樹も遠くに見える富士山を眺めた。

「桜…本当にドイツに住むことになっても大丈夫かな?」

「はい。どこでも大丈夫です」

「ありがとう。それで…ビザの問題があって」と言う一樹の口を手で押さえる。

「もう、一樹さん、何も決まってないでしょう? コンサートもまだしてないのに。失敗したら、ドイツに住むとかそれどころじゃないですからね」

 口を手で押さえているからか、何も言わない。

「結婚の話はコンサート終わってからにしましょう。それにビザの関係でプロポーズされるのも嫌です」

 黙って頷くから、桜は手を外した。口を塞いだことを謝ろうとした瞬間に、腰を引き寄せられて、キスをされた。ちょうど、一番上に来たタイミングだった。すぐに離してくれなくて、桜は焦って、手で胸を押した。

「嫌だった?」

「嫌じゃないですけど、一番上じゃなくなったら、他の車両から見えちゃうんです」

「なるほどね」

「感心しないでください」と桜は怒って、唇を噛む。

 噛んでいる唇を親指でなぞる。

「その癖…止めなさい」

「一樹さん…」

「何?」

「嫌じゃなかったです」

「キス?」と言いながら近づくと、頷きながら桜に押し返された。

「もう一周する?」

「しません」ときっぱり断られる。

 その顔が可愛くて、笑ってしまった。

「なんで、笑うんですか?」

「桜、あのね。失敗しないから」

 きょとんとした顔で一樹を見る。

「コンチェルト、失敗、絶対、しないから」

「あ、ごめんなさい」

「いいよ。だから結婚してください」

 桜の目が大きく開かれた。

 観覧車は地上に着いた。促されるように降りる。一樹は空を見上げた。薄い月が浮かんでいる。昼間に見る月は透き通っていて、空に浮かんでいる。頼りなさ気な月は妻に似ていた。桜もその月を眺めていた。

「ジェットコースターに乗りませんか? あの月まで届くかも知れません」

 桜が何を思ったのか分からないけれど、二人で乗り場に向かう。

「桜、大丈夫?」

「一生に一度くらいは乗ってみてもいいかなって、今思いました」

 しばらく列に並んだ。

「一樹さん、さっきの返事は乗り終わってからでいいですか? 無事に生きて返って来れたら…」

「そんなに怖かったら、乗らなくてもいいのに」

 首を横に振って、一樹の手を握る。

「あの月、奥さんに似てます」

「そうだね。思い出した」

「だから…なんか、乗りたくなりました」

 意味はわからなかったけれど、一樹はもう反対することもなかった。長い列待つ。その間、月もずっと浮かんでいた。順番が来たけれど、よりによって、一番前の席だった。安全バーが降りて、ゆっくりと動き出す。カンカンと音を立ててゆっくりと月まで登っていく。

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