第4話 "選ぶべき道"


1、

 下水道内を、夜風が生ぐさい臭気をまとって通り抜けていく。湿った風に吹かれながら、フラウドは手すりにもたれて、水面に浮かぶ死体を眺めていた。最初こそ外れを引いたが、それ以降は吟味をしたから、そこそこ悪くない味だった。それでも、そこそこ、という評価に尽きる。腹は満たされたが、心は餓えたままだ。あの白銀の髪の少女――年の頃は十二か三くらいだろうか――。あの娘を欲しがって、身体の芯は火照ったように熱い。あの味を堪能できる明日のことを思うと、ひとりでに笑みが浮かんできてしまう。

「一晩で四人か。少し、はしゃぎ過ぎではないですか?」

 興の覚めるような声がして、フラウドは内心舌打ちをしながら、表情を繕った。

「いやいや、そんな! これでも少ない方でしょ!」

 手を開きながら、言い訳がましく口にする。声色は不自然なほど明るい。

「通常なら軽く二桁はイケましたよ! それにみんな訳アリそうなコを選んだからね! すぐに騒ぎになることはないさ!」

「……まあ、いいでしょう。あの方も懸念されていたので確認しに来ただけです。それよりも――」

「あ、そうだ!」

 面倒なことを言われる前に、フラウドはぱんと手を打った。

「明日の計画なんだけどさ! 僕の仕事は他の魔物を引き込むことだろ? ならそのあとは自由にしていいわけだね?」

「……そうですね。ついでに位の高い者を襲うか攫うかしてもらえるとなおありがたいですが……」

「それは都合がいい!」

 にやりと笑った唇の間から、乱杭歯がのぞいた。

「なら一つ教えてほしいんだ! 僕を惹きつけてやまない“あのコ”について、キミなら、何か知ってるんじゃないかな?」



 白髪の少女――セレナは、ひとつ、ほうっと溜息をついた。

 昨夜のことが頭から離れなかった。せっかく買った本も読めず、夜もなかなか寝付けない。一夜が明けてもなお、胸の高鳴りが止まらない。ぎゅうっと胸を締め付けるような感情。これは、もしや――。

 そう考えながら、王城内をふらふらと歩いていた時だった。

 二人分の足音と会話が、通路の向こう側から聞こえてきた。「それで、どうでしたか、昨晩の遊覧は?」「ひとまず、リンゴはしばらく見たくないです」そんな風に言葉を交わす声が、少しずつ近づいてくる。

 ――こ、このお声は!

 間違いない。一晩中耳から離れなかった、あの声だ。

 セレナは通路の陰に隠れ、近づいてくる二人を暗がりから覗いた。

 一人は、ダブルの白いスーツを着込んだ紳士。上衣の襟や袖口にも、スカーフにも、金糸で刺繍が施されている。そちらも端正な顔立ちの優男だが、セレナの目を釘付けにしたのは、もう一人の男の方だった。――黒衣に青色の太刀を下げた、黒髪の男。その怜悧な面立ち。

 セレナの心臓がどきんと跳ねた。

「まあでも、イスタリアとは違った街並みで、興味深くはありました」

「はは、まあ、王都は歴史が古いですからね」

 男たちはゆっくりとした足取りで、徐々にこちらに近づいてくる。彼との距離が縮まるほどに、セレナの鼓動も早くなっていく。と、一瞬、こちらを彼の蒼い目が伺った気がした。目が合ったように思えて、セレナは思わず息が止まった。顔がどんどん熱を帯びていくのがわかる。

 ――な、なんという巡りあわせ! しかし、なぜあの方がここに……?

 セレナはしげしげと彼らを見つめる。白服の紳士は、服装や話し方から、貴族だということが伺えた。ということは、横にいる彼も貴族なのだろうか? それにしては、雰囲気が少し違うような気もする。となると、貴族おつきの護衛だろうか。昨晩の様子から見ても、かなり腕が立つようだったし……。

 セレナは昨晩の救出劇を思い出し、恍惚と虚空を見つめた。そして、我に返る。

 ――いけません、セレナ。うっとりしている場合ではありません。せっかくこうして再び機会が回ってきたのです。ここでもう一度昨晩のお礼をした上で、あの方のお名前を……。

「あ、あの……」

 勇気を振り絞って声をかけた時、だった。

「お嬢様」

 背後から聞き慣れた声がして、セレナは「はひっ!?」と声を上げた。

「じ、じいや! なぜあなたはいつも間が悪いのですか!?」

「いや、そろそろ時間なので呼びに来ただけですが……」

 時間……?

 セレナはきょとんと小首をかしげる。

 じいや、と呼ばれた老爺――グラートは、表情をぐっと険しくした。

「まさか忘れたとは言いますまい。何のためにわざわざあなたの同行をお母上様が許可なさったか」

「ええっと……『ヒスイランの花嫁』第二十一巻王都限定特層板を買うため……」

「それはあなたの私用でしょうが……。本来の目的はあくまで、領外での留学と貴族学校の見学。お忘れですかな?」

 念を押すように言われ、う、とセレナは言葉を詰まらせた。

 そうだった、と思い出す。秋からの貴族学校入学に際して、見聞を広めるための領外での留学。ついては、現在入学を検討している王都の学校の見学をすること。昨日、『ヒスイランの花嫁』の新刊を手に入れて有頂天になっていたが、自分が本来するべきことは、これから山積みなのだ……。

「ですから私は留学など……」

「理由はどうあれここまで来たのです」

 言うなり、グラートはセレナの首根っこを掴んだ。抵抗も為す術なく、ずるずると廊下を引きずられる。

「さあ、そうこうしている間にも時は過ぎていきます。さっさと行きますぞ」

「待ってください! せめて一言、あの方とお話を……!」

「よく分かりませぬが後にしてください」

「はわぁー!」とセレナは悲嘆の声を上げた。



「はわぁー!」

 少女の悲しげな声が遠ざかっていく。知らないふりをしながら、シドウは声のする方から目を逸らし続けていた。

 あの少女。間違いない、昨晩の娘だ……。

 やけに身なりがいいとは思ったが、ここをうろついているということは――そこまで考えて、シドウは苦虫を嚙み潰したような顔をした。

「何やら騒がしいですが……」

 心配そうに通路の方を覗くレクト。

「城に住まう妖精か何かでしょう」

シドウが無感情に答えた。レクトは釈然としない様子だったが、シドウがそのまま歩き続けているので、ひとまず彼に合わせて廊下を歩いていた。

 ほどなくして、会議室、と札の下がった扉の前に辿り着いた。幅だけで男の身長ほどはあろうかという大きな扉で、脇には二人の衛兵が警備を固めていた。

「では、会議が終わるまでご自由に……。最低でも四、五時間はかかると思いますので」

 シドウにそう微笑みかけると、レクトは衛兵促されるまま扉の奥に入った。部屋に足を踏み入れた瞬間、穏やかで人当たりのいい青年・レクトの顔は、レクト・フォン・イスター伯爵の顔へと変わった。

衛兵たちによって、扉は再びかたく閉ざされた。



 ――あの娘がまさか他の四大貴族の関係者とは。さて……どうしたものか。

 とりあえず頭を冷やそうと、外の風に当たるためにベランダに出たが、シドウは落ち着かなかった。春の風は生ぬるく、彼の頭を冷やしてくれそうにはなかった。ただ漫然と、眼下に広がる城下町を眺めていた時、「Hey」と軽薄な声が頭上から聞こえた。

 若い、男の声だった。

「見かけない顔だ! Who are you?」

「『見かけない』とは……これは随分と異なことを言うな。少なくとも一度は見ていたはずだろう?」

 シドウは振り返らないまま答えた。

「にしても……昨夜もそうだが、そうして高い所から人を見下ろすのが好きなようだな」

「ハッ、これはSurprise。気づいていたのか」

 シドウは脇に立てかけていた太刀の柄に手を伸ばす。

「おいおい、そんなVigilanceしないでくれ」

言って、声の主は軽やかに石床へと降り立った。シドウは横目でちらと背後を伺った。

声の主は、まだ年若い青年だった。目を引くような鮮やかな紫の髪をしている。色白で、切れ長の目元は、どこか異国の風情があった。

「……何者だ」

 シドウが尖った声で尋ねると、青年は真意の読めない笑みを浮かべた。

「Same……Youと同じようなものさ」



2、

 会議室の扉が開き、ぬっと大きな影が伸びてきた。遅れて、大きな足が床を踏む。

 ――これで、全員揃った。

 レクトが固唾を飲んだ時、レクトの斜向かいに座っていたウェステル侯が、「おやおや」と沈黙を破った。

「またしても最後の到着とは。相変わらずの重役ぶりですな、ノースティス伯」

「ふん、時間には間に合っておる」

 ノースティス伯は不機嫌そうに言い、レクトの向かいにどっかりと座り込んだ。テーブルは広いが、中年にもかかわらず筋骨隆々としたその男が正面に座ると、威圧感は免れなかった。鍛えられた身体だけでなく、蓄えた髭にも、皺の刻まれた目元にも、どこか貫禄を感じさせた。

 自分にはないものだ、とレクトは思った。

「それに皮肉を言うならば、俺ではなくそこのサウスト公にこそ言うのだな。今までろくに顔を出さなかったくせにどういう風の吹き回しだ」

 ノースティス伯はどすの利いた声で言い、レクトの隣の席に目を向けた。

 サウスト公はふさふさの白い眉を寄せた。一見優しげな垂れ目ではあるが、眼光は鋭い。

「お言葉ですが、私とて会議を蔑ろにしてきた訳ではありません。他国との通商には手が離せぬ案件も多いのです。戦いにしか能のない方には理解できないかもしれませんが」

「何だと……?」

 それきり、重く、窒息しそうな沈黙があたりに漂った。

 俗に四大貴族と呼ばれる彼らは、中心部であり王の直轄地であるセンタリアを除いた全域の、それぞれ東西南北を統治している。レクトをはじめとするイスター伯爵家は代々、王国の東側・イスタリアを治める領主であった。他にもそれぞれ、北のノースタリアをノースティス伯爵家、南のサウスタリアをサウスト公爵家、西のウェスタリアをウェステル侯爵家が治めている。

 地方分権が強いセイリア王国は、普段はそれぞれの領地の統治を比較的自由に任されているが、国全体が一つのまとまりを損なって土崩瓦解することがないよう、定期的に会議を開いて、統治の方針を固めている。本来ならば、それぞれの地域の代表者たる四大貴族たちは――近頃力をつけ始めた隣国に対抗するためにも――手を取り合うべきなのだが、自らこそ真に民を思っているという自負がそうさせるのか、彼らは口を開けば棘のある言葉で互いを牽制し合った。王の御前で行われる会議中となると、さすがにそうならないのが救いではあるが。

 重要な公務の一つであるこの会議は、レクトにとって気の重いものだった。会議が始まってしまえばどうってことはないのだが、この会議前の空気の悪さは、何度経験しても息が詰まる。

 自分だけが他の貴族たちと年が離れていることも、レクトを気後れさせる要因のひとつだった。それ故、言葉の刃がこちらに向かうことこそ少ないが、それは自分が若輩者であり、彼らと同じ土台にすら上がれていないということの証左のように思われた。自分は懸命に領地を治めているつもりでいる。何万といるイスタリアの民の期待に報いなければならないという責任と重圧は、毎日のように感じている。それでも、若いから――ただそれだけで、侮られている空気があるように思えるのは、自分が疑心暗鬼になっているからなのか。

 レクトが目を伏せて考えていた時、だった。

「どうやら、皆、揃っているようだな」

 その声に、一同がさっと居ずまいを正した。

 堂々たる足音が会議室の中に響く。側仕えの臣たちに椅子を引かれ、王が上座に腰を下ろした。やがて、臣を含む全員が席についた。

「ではこれより、賢人会議を執り行う!」

 その一声を境に、先ほどとは別種の緊張が、部屋中を支配した。



「ところで、Youはどう思うんだい?」

 紫髪の青年は、石塀の上に軽く腰掛けながら、シドウに話を振った。

「……何の話だ」

「ここの警備の話、さ」

「藪から棒だな……」シドウは冷たく青年を睨んだ。「素性も分からん相手とする話には思えんが」

「いやいやPlease、だから警戒しないでくれよ」

 青年は肩をすくめた。

「ただの世間話みたいなものさ。それに、Youも気になったんじゃあないかな?」

 そう言って、青年は視線を外にやる。目下に見える通路では、衛兵二人が並んで巡回をしているところだった。彼らが歩を進めるたびに、金属鎧が仰々しく音を立てる。

「確かに、王都を警備するだけあって、装備の質や人員は上々だ。だが、練度はどうか……」

「……何が言いたい」

 シドウは単刀直入に言った。

 そう焦るなよ、と青年は薄く笑いを浮かべる。一挙一動が気に障る男だ、とシドウは思った。

「ここは王国で最もImportantな地。当然、危険分子は大概ここに入る前に駆逐される。……となると、彼らの実践ExperienceはZeroも同然」

 If――と彼は続ける。

「そんな実情で何かが起こった時」

 果たして、冷静に対処できるか――。



 王城のほど近く、城外の通路を歩いていた衛兵は、同僚がいきなり立ち止まったので、「どうした?」と彼を振り仰いだ。

「き、緊急事態だ……」

 鎧の下の顔は青ざめているのだろう、声が震えていた。

「やっべえほどトイレしてぇ! ちょっと向こうでしてくる!」

 そう言うなり、彼は詰所の方に走り去ってしまう。

「おいおい、巡回前に済ませておくのが鉄則だろうが」

 呆れる声も、同僚には届いていないのだろう。溜息が金属の内側を曇らせた。

 それから、どのくらい待っただろうか。

 巡回ルートは時間厳守だが、走り急いでどうにかなる時間をとうに超えていた。さすがに遅い、と苛ついた衛兵は、詰所の便所へと足を運ぶことにした。

「おい、掛かり過ぎだぞ。まさか大の方か?」

 冗談交じりに扉を開けた時。

 ぐしゃり、と音がした。

 濃い、血のにおいと、獣くささが鼻腔を覆った。

 本能的に鳥肌が立った。遅れて、眼前の光景が何なのか分かった瞬間、衛兵は腰を抜かしそうになった。

まず目に入ったのは、異形のモノ。黒光りするぬめっとした皮膚。大きな頭には口だけが付いている。その魔物が三体ほど何かに群がっている。

それは肉塊にしか見えなかった。ぐしゃり。それが噛み潰されるたびに耳を塞ぎたくなるような音が響く。魔物は、牙から銀色の涎を垂らしながら、同僚だったものを貪り喰っているところだった。死体は原型をとどめておらず、食い散らされた内臓や肉片が、そこかしこに飛び散っていた。



 かぐわしい花々が咲き誇る、王城の屋上庭園。その角にある石塔の上に降り立ったフラウドは、やっと、お目当ての彼女を見つけた。丁寧に梳かれて編み込まれた銀髪が、春風にさらさらと煌めいている。

「見ーっけ」

 フラウドがほくそ笑んだ時、人影が彼に気付いて頭上を仰いだ。護衛だろうか、少女の周りには鎧を着た兵士が五、六人ほど配置されている。

 そんなの――物の数にも入らない。

「む、何者――」

 兵士の一人がそう言い切る前に、フラウドは瞬時にその喉を裂いた。赤黒い刃に変形した両腕は、他の兵士の身体もたやすく切り刻んだ。石畳の上に、血がどくどくと流れ出て、溝の形に赤い線を描いた。

「キミたちには興味ない」

 背後の異変に気づいた少女が振り向いた。彼女は無造作に転がる腕や足、そしてフラウドの顔を見た途端、恐怖で目を見開いた。

 その反応を見て、フラウドの背中に、ぞくぞくとした甘美な痺れが走った。両腕の変形を解き、込み上げてくる笑いを隠さず、彼は言った。

「今度は逃がさないよ」


 グラートが屋上庭園に戻った時、そこには異様な光景が広がっていた。護衛たちの身体は無惨に刻まれ、血だまりをそこかしこに作っていた。その死体の中に、セレナのものはなかった。セレナの姿も、どこにもなかった。大きな嵐が全てをぐしゃぐしゃにして、セレナを連れて走り去ったかのようだった。

「そんな……いったい何が……」

 グラートは茫然と立ち尽くすしかなかった。



 ぞわり、と背中を悪寒が走った気がして、シドウは身体を強張らせた。

 それは、異様な気配、としか言いようのない何かだった。あるいは、不穏な直感。

どこかに何かがいる。今まで対峙した中でも、類を見ない何かが。

「おっと、噂をすれば……」

 青年も何かに気がついたようだ。顎に手を当て、青年は目を険しくした。

「この殺気……今どこかで血が流れたね……」

 それを聞くなり、シドウは太刀を引っ掴んで、ベランダから飛び降りた。



3、

「……で、なぜしれっと後ろにいる」

 気配の出所を辿って、街中を歩いているところだった。王城からまっすぐに通りを下っていると、いつの間にか背後にあの青年がついてきていることに気がついた。

「気にしないでいいさ。ちょっとしたInterestだよ」

 軽く笑う青年に、シドウはますます深く眉間に皺を寄せた。

その時、「お嬢様―!」としわがれた声がして、シドウは咄嗟に、背の高い草叢に身を潜めた。

 青年が訝しげに足を止める。

「Hey、Youはいったい何をしてるんだい?」

「話しかけるな……今の俺は取るに足らん道端の草だ。当然返事をするわけもない」

「What’s? 思いっきり喋ってるけど」

 そう言う間に、葉と葉の隙間から、見覚えのある老爺が走って来るのが見えた。

「あ、そこの方! お嬢様……いえ、白髪の少女を見ませんでしたかな!?」

「Sorry……見てないデスネ」

青年が答えると、「……そうですか」と老爺は大きく肩を落とし、重そうな足取りで歩き出した。

「はあ……閣下になんと報告すれば……賊に為す術なく警備が破られたとなれば、間違いなく大ごとに……」

 老爺の呟く声が、どんどん遠くなっていく。

 その背中が小さくなったのを見て、シドウはようやく草叢から身を出した。

「Youの知り合い?」

 なおも懲りず、青年がこちらを向いた。

「……さてな」

 シドウは青年の顔を見ずに答えた。



 気配を辿っているうちに、シドウは既視感を覚えた。この道は、知っている。昨日、適当に街をぶらついていたら迷い込んでしまったところだ。そして、あの少女に会った……。

 考え込みながら、まさか、と思う。些細な違和感に過ぎなかったものは、実際に水道施設に辿り着いてしまったことで、確信へと変わる。

 シドウは目を険しくした。

「……ここだが」

「ふむ……昨夜と同じPlaceだ」

「……いったいいつから見ていた」

 シドウが尋ねると、青年は「それより」と露骨に話を逸らした。

「来てみたはいいけど、何もないネ。これだけ見ると、気のせいだったとも思えるねー」

 松明に照らされた仄暗い道が、水路と共に奥へ奥へと続いている。水は濁っているせいで水面の下は見えない。人気のない地下水道。見える光景は昨日と同じだ。

「However――殺気は駄々洩れダケド」

 水の下で蠢くモノの存在には、シドウも気づいていた。

 刹那、横から影が飛びかかってきた。シドウは正面を向いたまま、太刀でその影を薙ぎ払った。耳の裂けそうな醜い悲鳴が響いて、それは水中に沈んだ。

「Excellent! 焦ることなく完璧な対応、流石だ」

「……そんな悠長に軽口を叩いている暇はなさそうだぞ」

 蠢く気配は、依然として残っている。数体という数ではない。おそらく十数、……いや、それ以上の夥しい数だ。

 その気配が、奥へ奥へと続いている。確かめるまでもなく、次の魔物が大口を開けてシドウにかぶりつこうとした。シドウが身を躱すと、がちん、と大きな歯が合わさる音が聞こえた。太刀で切り払い、壁に叩きつける。またも魔物は劈くような叫び声をあげ、血の色の泡を出しながら水中へと消えていった。



 会議室にて。

 王の進行で、着々と会議は進んでいた。

「では、帝国の要請には応じないということで、次の議題だが――」

 王が資料をめくろうとした時、「陛下! 会議中失礼いたします!」という声がそれを遮った。いつもなら「後にしろ」と一蹴するところだが、その声色がどこか必死めいていて、恐怖を孕んでいただけに、王は無視ができなかった。

「どうした」

 崩れるように会議室内に走り込んできた衛兵が、肩で息をしながら告げた。

「それが、突如王都のいたるところに魔物が出現! 現在、現地の守備隊が対処に当たっておりますが、数が多いため、増援を要することのことです!」

「魔物……!? この王都内にか!?」

 王と同様に、レクトも耳を疑った。東西南北の門も、街中の要所にも、いたるところに兵を張り巡らせているはずだ。門をくぐる者は全員が誰何されるし、身元の確かな者しか街には入れていない。魔物どころか、野犬一匹通さない厳重さ。警備に不足はないはずだ。

 王は一瞬考え込むような仕草をし、すぐに毅然と命じた。

「とにかく、被害の大きい地区へ優先的に向かうよう騎士団長へ通達しろ!」

「はっ! 直ちに!」

 衛兵が走り去ったところで、次なる声が「失礼します」と扉を開けた。王都にいる衛兵とは違う鎧を着た兵士だった。サウスト公がずらずらと連れていた護衛だろう。声の主はサウスト公を目に留めると、「閣下」とまっすぐにそこに走り寄った。

「何事ですか」

「それが、今しがたグラート殿が戻られたのですが……その……セレナ様が賊に連れ去られたと……」

「何ですって!?」

 サウスト公は動揺をあらわに叫んだ。

「一刻も早く探し出して! あの子にもしものことがあれば……分かっているでしょう! グラートにもそう伝えなさい!」

 サウスト公がまくし立てるや否や、ノースティス伯が静かに椅子を引いた。

「おや、どこへ行かれるのですかな?」と、ウェステル侯。

「害獣が出たら駆除に赴くのは当然だろう」

 言って、腰に下げた剣に早くも手をかけようとしている。

「会議中ですよ、ノースティス伯」レクトは諫めた。「あなたが席を立たずとも、今は向かった兵たちに任せるべきではありませんか?」

 ふん、とノースティス伯は鼻で笑った。

「『兵に任せる』とは。流石、我が身可愛さに救うべきものを見捨てて逃げ出した男の血筋だな。親子ともども臆病なことだ」

 安い挑発だった。だが、レクトは無意識のうちに拳をにぎり込めた。

 ――私は父とは違う。

 民を率いる者が先に退くなど、あってはならない。その禁忌を父は犯した。その咎が、領主としての責任や重圧に加えて、レクトの肩に重くのしかかっていた。

「確かにあの男は逃げ出した。……私と妹だけを残して」

 レクトは努めて静かに言ったが、あの男、と言う時、無意識に憎しみが滲んでいた。

「だがそれ故に違うと言える。私はあの男と……父と同じ轍は踏まない」

 レクトがノースティス伯をきつく睨むと、ノースティス伯は「ふん」と鼻を鳴らし、結局会議室を後にしてしまった。

 騒ぎの後に、嵐が去った後のような、重たい静寂が残った。



4、

 ざぶん、と水音を立て、魔物の死体が水底に落ちた。

「二十九体目……ここまで多いと相手取るのも面倒になってくるなー」

 うんざりした様子でひとりごちる青年に、シドウは鋭い視線を向けた。

「さっきから背後で口だけ動かしてる奴の言葉とは思えんな。矢面に立ってるのは全てこちらだぞ」

 相手は小物だが、何しろ数が多い。数えている余裕はシドウにはなかった。それだけに、青年の言葉には、苛立ちを煽るものがあった。

「No、No、これもれっきとした役割分担だよ」

 青年が飄々とした口調で言うのも、火に油を注いだ。

「Meが指示を出して、YouがFightする。PerfectなCombinationさ!」

「公平性は皆無だがな」

 シドウが吐き捨てた時、またも魔物が水路から顔を出した。水路を埋めてしまうほどの巨体。黒い魔物は、人の拳ほどはある歯を食いしばった後、大きな吠え声を立てた。

「ほらほら、これまたBigなのが来た。さあ、ちゃっちゃとやっちゃって――」

「たまには自分でやったらどうだ」

 言って、シドウは奥に続く道へと歩き去った。

 魔物はまっすぐに青年を見つめる。マジか、と青年は小声でつぶやいた。シドウが振り返る様子はない。彼の姿は闇の中に消えていく。その間にも、魔物はこちらに向かって威嚇を続ける。

黒光りする魔物に目はないが、目が合った、ような感覚がした。

 青年は背中の戦斧に手をかけた。紫色の斬撃が、薄闇の中で光を放った。

 真っ二つにされた魔物は、ざぶん、と大波を立てながら水中に沈んだ。

「やれやれ、本当に置いて行かれるとは」

 青年は戦斧を肩にかつぎ、歩き出した。

「Meが何の力もない一般Peopleだったら間違いなくGo to heavenだよ」

 はぁ、と溜息をついた時、青年の目の端に何かが留まった。

 ――おっと。

 青年はゆっくりと足を止める。

 水面に青白い死体が浮かんでいる。魔物ではなく、人間――しかも若い女ばかりの死体だ。これは酷い。可哀想だが、あれに喰われて身体ごと噛み砕かれるよりはマシか。そこまで考えて、青年ははたと気づいた。奇妙だ。

 さっきまでの連中は、どう見ても捕食型だった。ならば、こうして死体を放置しておくわけがない。その上、死体はよく見るとどれも血の気が失せている。単に死体だから、という域を超えている。血を失っているようだ。その割に、外傷はほとんど見受けられない。

 ――これは……他にもunknownな何かが入り込んでいるということか。

 


 鼻の曲がるようなにおいは、最奥に近づくにつれて、少しずつ薄らいできていた。ここは下水道であると同時に、王都の地下に巡らされた大規模な浄化装置なのだろう。下水と血が混ざって濁っていた水も、よく見ると底が見えるほどの透明さを取り戻しつつある。水路の幅も深さも、少しずつ減っているようだ。

 その水が限りなく透明に近づいて来た頃、シドウは最奥へとたどり着いた。奥には広場のようなものが見えた。貯水槽になっているらしい。水嵩は思ったよりも低い。

 ――ここか。

 禍々しい気配はほど近くなっている。シドウが石段を下った時、「ややっ!」と奥から声がした。

「そのにおい! さては僕に鉄球を投げつけた輩だな!?」

 シドウは視線を上げる。その先、貯水槽の上部の足場に、サングラスをかけた男が立っていた。

 ――誰かと思えば、昨晩の傾奇者か。

「なるほど」呟くなり、シドウの目の色が変わった。「これはしたり……」

 刀の鞘に手をかけ、ゆっくりと引き抜く。

「その首、昨晩のうちに落としておくべきだったか」

 シドウの身体から殺気が膨れ上がり、その黒い前髪を揺らした。

「おおっと」

 男が肩をすくめた。

「いきなり怖いこと言うな。だが待ってくれ。なぜ僕は君に首を落とされないといけないんだい? 全くもって心当たりがないんだが――」

 その瞬間、男の背後に回ったシドウは、首に向かって刃を振り下ろした。

 がきん、と固い音がして、男が貯水槽の底へと叩き落とされた。澄んだ水の中に、男の身体が沈む。

「とぼけるだけ無駄だ。あれだけの魔物を掻い潜って辿り着く場所にいるのが、無関係な一般人だとでも?」

男は水の中からざぶりと起き上がった。その片腕が、赤黒く、刃のような形状を伴っていることに、シドウは気づく。

 ――刀を弾いたのはあれか。

 鋭い視線を送るシドウに、男――フラウドは、雫の滴る前髪の下で、目を細めた。

「はぁ……そんなにギラギラしないでくれよ! ちょっとしたジョークじゃないか! というかキミ何者だい? まさか僕の背後を二度も取るなんてさ!」

「教えてやる義理はないな。第一、仮にお前がそれを知ったところで大した意味はない」

 シドウは太刀を握り直し、眼下の男に言い放った。

「いずれにせよ、お前の首はここで刎ねておく」

 無論、生け捕りが理想だろうが、手心を加えて逃げられては叶わない。それに、生かして捕らえたとて、洗いざらい白状するような玉にも思えなかった。

 シドウの思考を読んだかのように、フラウドは「ハッ」と笑った。

「ごもっとも! なかなかの慧眼だ! ――ただ」

 フラウドのもう片方の腕が、めりめりと音を立て、ゆっくりと赤黒い刃に変化した。

「人間風情が、この僕を見下すのは鼻持ちならないな」

 その声に、先ほどまでの軽さは失せていた。

 ――正体を現したか。

「だからさ……切り刻んでやるよ、その余裕ぶった面を!」

「望むところ……」

 シドウは姿勢を低くし、刀を構えた。



 セレナは、金属が打ち合う甲高い音で、目が覚めた。

「……ここは」

 先日誘導された水道施設にも似ている。が、あの時と違って、水のある場所特有の湿ったにおいは、むしろ清涼なものを伴っている。

 きぃん、きぃん、と、絶え間なく金属音は続く。

 ――何の音?

 セレナはゆっくりと立ち上がり、一歩、一歩と慎重に足を進めた。火花の散りそうな金属音は、その間もずっと聞こえてきていた。やがて、貯水槽と思しき場所が見下ろせる場所に出た。柵に手をかけ、セレナは目を疑った。

 二人の男が対峙しているのが見えた。

「ほんと何なんだキミ! その動き、どう見ても普通の人間業じゃないぞ!」

 そう言ったのは、セレナをかどわかした、あのサングラスの男。両腕が奇妙な刃の形になっている。

「別に不思議なことは何もない。お前が知る人間がたまたま普通以下だった。それだけの話だ」

 そう淡々と返す男は、セレナを助けてくれた、あの黒衣の男だ。青い刀身をすっと伸ばして、険しい視線で異形の男と対峙している。

 ――なぜまたもやあの方が!?

 混乱しながら、セレナは状況を読み取ろうとした。もしや私を助けに!? いやいや、それは流石に都合が良すぎる。

 ――し、しかし、理由はどうあれそこにいるのは事実!

 セレナの目がたちどころに輝いた。

 ――まさか! これが俗に言う運命という奴でしょうか!? だとすれば……。

 はわぁ……とセレナは胸の前で手を組んだ。


 腰まで水に浸かりながら、シドウは思考を巡らせた。

 ――正直、長引かせる意味はない。

 荒くなりつつある呼吸を、悟られないように整える。

 ――少し強引ではあるが、この一太刀で決める……!

 腕をまっすぐに伸ばしたまま、シドウはゆっくりと顎を引いた。


 ――何か仕掛けてくる気か。

 フラウドは、シドウの殺気が増したのに気がついていた。

 ――なら接近して来次第、躱してからカウンターを……

 そう考えた時、だった。

 シドウが刀を低く構えた。青みを帯びた刀身が、さらに青白い光をまとう。


「――三ノ太刀」

 シドウは目を見開き、目の前の敵をしかと見据えた。

「“飛燕”」

 刀が勢いよく風を切る。青い光の筋――斬撃が燕の群れのようにまっすぐに飛んで、フラウドに直撃した。衝撃音と、振動。背面の壁に罅が入る。遅れて、いくつもの斬撃に深く切りつけられたフラウドが、ゆっくりと水の中に倒れた。

 しばらく経っても、彼は起き上がってこない。

シドウが構えを解いた時、だった。

「はわーっ!?」という悲鳴が、頭上から聞こえた。

 シドウは声のした方を斜に見上げる。先晩の少女が、足場から落下しそうになり、必死にしがみついているところだった。

「……大丈夫ですか?」

「ぜ、全然大丈夫じゃありません! 腕が……!」

 ずる、と少女の身体が下がった。指だけで懸命に身体を支えているが、今にも落ちてしまいそうだ。

 シドウは刀を床に突き立て、少女の下で両腕を伸ばした。

「ひとまずこっちで受けるので、思い切って手を離してください」

「て、手を離す……? 無理です! 離したら落ちる! 落ちたら死んじゃいます!」

「しっかり受け止めますから」

 少女は少しの間「うぐぐぐ」と逡巡し、それから「へ、へあー!」と勇気を出して手を離した。落下してきた少女を、シドウの腕が――約束通り――しっかりと受け止めた。

「はわ、助かった……」

少女は胸を撫で下ろす。姫抱きする形になった少女の身体を、シドウは丁寧に下ろした。

「ありがとうございます……。ところで……なぜここに?」

 頬をほんのりと赤く染めながら、少女は尋ねた。

「いや、そちらこそなぜ――」

 シドウは妙な気配を感じ、咄嗟に刀に手を伸ばした。

 きぃん、と刃を受け止めたのは、間一髪だった。シドウの握る太刀と、フラウドの両腕の刃とが、削れるような音を立てて膠着し合った。

「随分とあっけなく倒れ伏したと思えば……やはり小芝居だったか」

 シドウは右手に限界まで力を込めて、押し切られそうになるところをなんとか凌いでいた。触れ合った刃同士が小刻みに震える。

 フラウドも力を込めたまま、余裕なさげにせせら笑った。

「ハッ、むしろあれで勝ったつもりになられては困るな! まあ、飛んできた斬撃に驚いたのは事実だけど……ね!」

 シドウが太刀を払うと、フラウドは後ろに飛びのいた。

 真正面から睨み合って、シドウはあることに気づき、眉根を寄せた。

 ――こいつ……先ほど与えたはずの傷が……ない。

 フラウドが倒れた時、顔面にも首にも胴にも、浅からぬ傷がついていたはず。

 確かに、“飛燕”をはじめとした三ノ太刀系統は、斬撃を飛ばすという性質上、威力が他のものに劣る。しかし、あれだけ真正面から受けて傷一つないというのは……。

 そこまで考えて、シドウは思い至った。

 ――いや、そうか……。傷がつかないのではなく、消えた……。

「どうやら察したみたいだね」

 フラウドが不敵に笑った。

「誰も、この僕に勝つどころか傷一つつけることさえ敵わない。何せ、つけたところでたちどころに再生するんだからね! 文字通り不死身なのさ!」

 禍々しい笑い声が、貯水槽の高い天井に響いた。

「不死身……か」

 シドウは「ふっ」と低く笑った。笑わせてくれる。

「何がおかしい。そこはもっとこう、絶望するところじゃないのか?」

「こちらもそれなりの場数を踏んできたのでな。過去に対峙した中には、不死の境地へと至った化生の類いも在った。――故に、一つ言わせてもらうとすれば」

 シドウは青い刃をまっすぐと相手に突きつけた。

「他ならぬその不死への驕りが、お前自身を殺す……」

「へえ……なら、確かめてみるか……」

 その言葉を最後に、張りつめたような静寂が、辺りを満たした。

両者が睨み合い、足の爪先に力を込めた、その瞬間――


「そこまでですよ、フラウド」


 不協和音のような声が、低く、鼓膜を震わせた。

 その声は、どこから聞こえてきたのか分からなかった。シドウは姿勢を崩さないまま、目だけでぐるり周囲を見渡す。声の主の姿はない。どこにも。

「すでに、目的は達しました。引き際ですよ」

 声は続ける。いくつもの声が重なり合っているような、不快な響きだった。人ならざるモノの声だ、とシドウは直感的に理解した。

「いやいや、見てわかるだろ!? まだ絶賛取り込み中だ! それに、まだ最後のお楽しみにとっておいたメインディッシュもある……!」

 フラウドが不満そうに頭上を仰いだ。シドウもつられてそちらを見る。黒い、霧のようなものが、貯水槽の上部に暗く漂いつつあった。霧は少しずつ濃くなり、密集し……やがて、一つの影を結んだ。黒いローブをまとった何か。ローブの中は虚空のように真っ暗だった。

「私は引けと言いました」

 声が、水面を微かに震わせる。ささやくような響き。けれど何か、有無を言わさないものがある。

「王都中にばら撒いた魔物たちが殲滅されるのも時間の問題です。あなた一人の些事に付き合っている余裕はありません。拒否するなら置いて行きますが?」

 フラウドは悔しそうに歯を食いしばり、「あー、クソ!」と声を荒げた。

「はいはい、行くよ! 行けば良いんでしょ! ……まったく、こんなに手間取るなら、我慢なんかせずに味わっておけばよかった!」

 フラウドがくるりと背中を向ける。その背中に向かって、シドウは「待て」と切っ先を突き出した。

「このまま……みすみす逃すとでも?」

「ええ、見逃しますよ」

 例の声が、代わりに答えた。

「あなたが我々の退路を阻もうと動けば、まず間違いなく後ろの少女は無防備になります。それが何を意味するか……聡い方なら理解できるはずです」

 少女を背後に庇ったまま、シドウは奥歯をぐっと噛みしめた。

「賢明です……」

 その声を皮切りに、黒い霧が再び漂った。視界が闇に覆われる。

「それでは失礼……またいつか……相見える日まで……」

天井から響く声は、それきり止んだ。霧が晴れると、声の主と思しきローブ姿も、フラウドの姿も、忽然と消えていた。

 シドウはしばらく無人の空間を睨んでいた。


 ――今のは……いったい?

 男の背後に庇われていたセレナは、不安そうに上空を見上げる。先ほど、確かに何かがいたのに、今は跡形もなく消えている。ただ、高い天井があるだけ。

 目の前にいたあのサングラスの男も、いなくなっている。

 どうやら、自分は助かったようだ……。

 そうだ。今こそ、名前を聞く好機だ。黒衣の男の、なおも強張っている背中を見て、セレナは唐突に思い出した。

「あの……」

「お嬢様―! いずこにおられますかー!」

「はわ!? またしてもじいや!?」

 セレナはとっさに辺りを見渡し、声の出所を探した。まだグラートの姿は見えない。なら、今のうちに訊くしかない。

「あの、今度こそお名前を! あ……あれ……?」

 セレナは呆気にとられた。

 さっきまで自分を守ってくれていた背中が、いつの間にかなくなっている。

 がらんとした貯水槽の中に、自分だけが取り残されていた。やがて、グラートのものと思しき足音が、遠くから近づいてきた。



5、

「今回は本当に申し訳ありませんでした」

 帰路を歩きながら、グラートは深く頭を下げた。

「私が目を離してしまったばかりに……。ともかくご無事でなによりです」

「ええ……」

 セレナは沈んだ表情のまま、ぽつりと答えた。魂が抜けたようにぼんやりしている様子に、グラートはいささか心配になった。賊に攫われ、お嬢様はどれほど、怖い思いをしたのだろう。またしても誰かに助けてもらったというが、以前のように浮足立ってはいない。

「ところで……なぜあのような場所に?」

 グラートが水を向けても、セレナは黙りこくったまま、答えない。

「情報提供がなければ、見つけるまでもっと時間を要したでしょう。賊も消えておりましたし、いったい何があったのですか?」

 暗い裏通りから、日向に足を踏み入れる。

「それは……」

重々しく口を開いたセレナは、顔を上げるなり、眼前の光景に慄然とした。

 まずその目に映ったのは、死体、だった。一つだけじゃない。表通りの石畳の上に、夥しい数の骸が、累々と転がっていた。眼球が飛び出しそうなほど目を見開いたまま息絶えている男。その、抉れた腹から飛び出た腸。鎧の間から血を流している兵士。子どもを庇いながら倒れている女。その腕の間で、火がついたように泣く赤ん坊。往来に横たわる全員が死んでいるわけではないらしく、時折、呻くような声も聞こえた。

 セレナの喉に、細い悲鳴が込み上げた。

 グラートの腕に縋りつく。グラートは痛ましげに目を伏せた。小さく震えるセレナの目を、自身の手で覆いながら。

 セレナは震えが収まらなかった。歯の根が合わない。グラートの大きな手で視界を覆われてもなお、目の前のおぞましい景色は焼き付いて離れなかった。

「……見ての通り、街中に魔物が現れ、王都中大混乱です」

 グラートが静かに言った。

「なぜ、このような……」

 震える声で、セレナはやっとのことで口にした。



 惨憺たる景色を前に立ちすくむ少女と、彼女にそっと寄り添う老爺。その二人を見下ろしていたシドウは、またしても背後に気配を感じた。高所からの俯瞰する視線。気配の主が誰なのか、見なくても分かった。

「やけに到着が早いと思ったら……呼び寄せたのか」

「別に呼んだわけじゃあない。もしかしたらあの先にいるかもっていうInformationを提供しただけさ」

 相変わらずの胡乱な口調に、悪びれた様子は少しもなかった。シドウは目元を暗くした。

「馴れ馴れしく話しかけてきたかと思えば、こちらが避けているのを察していた上で、あの男を差し向けた。加えてそのふざけた話し方。――人をおちょくっているのか」

「おお、コワイ。さては仕留め損ねたことが不満なのかい?」

 ますます煽るように、青年は言う。

シドウは首だけで振り返り、射殺さんばかりの眼差しを青年に向けた。

「……とにかく、そろそろ答えてもらう」

 冷たく、尖った声で彼は言った。

「お前が何者で、どんな意図をもって接触してきたのか。よもや、この期に及んではぐらかしはしないだろうな……」

 シドウの視線の先で、戦斧を担いだ青年は、薄い笑みを浮かべていた。



 会議室に残ったのは、ウェステル侯とレクト、ただ二人だけだった。王都に魔物が出た、との報を受け、兵を束ねる王をはじめ、他の者は慌ただしく会議室を出てしまい、もはや会議どころではなくなっていた。

「やれやれ……結局この場に残ったのは我々二人だけですな、イスター伯」

 ウェステル侯が困り顔でレクトに笑いかけた。

「それにしても、ノースティス伯には困ったものだ。魔物と聞けば自ら武器を取り立ち向かう。勇ましいことこの上ないが、自身の立場をもう少し考えていただきたいもの」

「ええ……」

 レクトは曖昧に頷き、「ですが」と言葉を重ねた。

「それは見方を変えれば、気後れせず常に先頭に立てるということです。少々行き過ぎなきらいはありますが、民を守る役目を担う一領主として、あの姿勢が羨ましくもあります。今の私は退かないだけで精一杯ですから……」

 ウェステル侯と、ノースティス伯と。どちらの顔も潰さないよう、レクトは慎重に言葉を選んだ。だが、自分はノースティス伯のような武勇ではない、と卑下する気持ちは、まるっきり嘘というわけではなかった。

 ウェステル侯はレクトの沈んだ顔を見て、優しげに目元を細めた。

「いえいえ、あなたはまだ若い。その歳で総領主を務めておられるなんて、まだ幼かったあの少年が、随分とご立派になられたものですよ」

 ありがとうございます、とレクトは慇懃に頭を下げた。

「お父上の件もそうですが、先ほどのノースティス伯の言葉はあまり気にしなくていいでしょう」

「はい……分かっているつもりです」

 言って、レクトは自分のあまりに頼りない拳を見つめた。この手に、多くの者の命が委ねられている。その事実が重い。

 私に、何ができるだろう。イスタリア各地での魔物の増加。そして、王都に魔物が溢れるという未曽有の窮地。救うべき民を前に、私は、何をするべきなのだろう……。

 レクトが黙り込んでしまうと、それきり会議室は静かになった。衣擦れの音すら耳に障る、無音。その静寂の外から、城門に群れを成す人々のざわめきが聞こえた。



 城門の前は人でごった返していた。

突如として各地に出現した魔物によって、王都はたちまち混乱の渦に飲み込まれた。騎士団の尽力で魔物の殲滅が進み、状況が落ち着いても、街にはいたるところに人間と魔物の死体が溢れている。度重なるショックで我を失った人々は、目の前の衛兵たちを問い詰めることで、やり場のない恐怖と不安を無意識のうちに晴らそうとしていた。

「おいおい、なんで魔物がここまで入ってきてるんだ!」

「警備は一体どうなってた!」

「ちゃんと説明しろ!」

 非難の声が、礫のように飛び交う。それを一身に受けた衛兵たちは、自らも混乱の中にありながら、人々の怒りを必死にとりなそうとしていた。

「現在確認中です! 状況が判明次第、改めて説明を……」

 衛兵の声は、次々投げつけられる非難の声の中に、掻き消される。



 ――頃合いか。

 ――そのようですね。



 日が翳った。

 にわかに空が暗くなる。突然の変化に、人々は思わず視線を上げる。その間にも、空は見たことないほど不気味な色に染まっていく。

 不安とざわめきが広がる中で、あ、と誰かが声を上げた。その指が差した先には、空にぽっかりと穴が穿たれたように、黒い太陽が浮かんでいた。深い闇が放射状に広がっている。

 ――傾聴せよ、己が罪過を忘却せし愚者ども。

 どこからともなく声が響き、低く地を這った。人々は不安げに、あるいは呆然と空を仰ぎ、黒い太陽を見つめる他なかった。

 ――いくら偽りの平穏に浸ろうと、過去から目を背け続けることは許されぬ。

 思わず椅子から立ち上がっていたレクトは、窓の外に見える景色に、そして遠くからも近くからも聞こえるように思える声に、感じたことのない胸騒ぎを覚えていた。

 ――不遜にも玉座に居座る王に、厚顔無恥な貴族。

 セレナはグラートの腕にしがみつき、青ざめながら空を見ていた。いくら目を逸らそうと思っても、身体中の全神経が硬直したかのように、視線が離れなかった。瞬きひとつできなかった。

 ――そしてそれに踊らされる手前勝手な民草よ。

 シドウは怒りをこらえるような顔で、じっと空を睨んでいた。

 ――もはやお前たちに……安息の地はないと知れ。



6、

「クレア、馬車を確認しに行ったきり帰ってこないわね……」

 イスタリアの大都市、フェリキタス。涼しい風の吹く裏路地。木箱に腰掛けていたルミナは、不満げにぶらぶらと足を揺らした。まったく、どこで油を売っているんだか。唇を尖らせる彼女に、「場所は教えたから、迷うことはないでしょうし、気長に待ちましょう」とストラが言った。

「それにしても、今日は暑いわね」

 ストラは手で顔を扇いだ。額にはうっすら汗が浮かんでいる。

 その言葉に、ルミナも「ほんとに」と頷いた。

日陰に入れば涼しいが、煌々と照り付ける日差しは、春の終わりどころか、夏の始まりを感じさせる。その上、大通りは人混みも相まって、凄まじい熱気が立ち込めていた。人いきれと強い日差しにやられ、ストラがふらふらし始めたので、ルミナたちは急いで建物の影に入り、ひと休みしているところだった。

 ストラはまだ火照りが冷めない様子だ。見かねたユースが、「お嬢、何か飲み物を買って来ましょうか」と提案した。

「ありがとう、助かるわ」

 ストラが力なく笑いかける。ユースが心配そうに眉根を寄せた。それから、視線をさっとルミナに向ける。

「そんじゃそこのお前」

私? という風に、ルミナが頭を動かす。

「俺が守るまではお前がお嬢を守ってろ。ないとは思うが、もしもお嬢に危険が迫ったら身を挺してでも守れ」

 この人、ストラとそれ以外の人とで態度が大違いね。そう思いつつ首肯するルミナに、ユースはさらに続けた。

「お嬢にかすり傷一つつこうもんなら、俺もお前も死んで詫びる。いいな?」

「死!?」

 あまりの言葉に驚くルミナをよそに、「じゃあ、お嬢、行ってきます」とユースは立ち去ってしまった。遠ざかっていく大きな背中を呆然と見つめていると、「気にしないで……彼、私にはすごい過保護だから」とストラが苦笑した。

「前なんて、私が石につまづいて水に落ちたら、その石を粉微塵にした後、戒めだと言って自分も水に飛び込んだりね」

「ええ……」

 ルミナは顔を引きつらせた。ストラはそれを見て、ふふ、と楽しげに笑った。やっと顔色が良くなり始めていた。

「ところで」

 そう切り出したストラの目つきは、真剣なものに変わっていた。

「昨夜の勧誘、ほとんど二つ返事で受けていたけれど良かったの? 彼らの中に加わるということは、時に危険な依頼をこなすことにもなるわ。もう少し慎重になった方がいいんじゃないかしら」

「危険は承知の上よ」ルミナはきっぱりと答えた。「でも私にとってはこの上ない好機なの」

 ストラがじっとこちらを見つめる。促すように。

 手元の槍をぎゅっと握りながら、ルミナは言葉を続けた。

「今までも魔物の脅威から一人でも多く守りたいと思って、騎士団に入団申請したけど、子どもだとか女だからとか、適当な理由をつけられて取り合ってもらえなかった」

 お嬢ちゃんには無理だよ。そう、嘲るように言われた時の憤りは、今でもありありと思い出せる。子どもだから。女だから。たったそれだけで侮られる、悔しさ。今まで自分は、それを抱えながら、ただ悶々としていることしかできなかった。

「けど、これでようやく、魔物の被害に苦しむ人たちに手を差し伸べられる……!」

 ルミナの語気に、ひとりでに力がこもった。

 その傍らで、ストラが複雑そうな表情を浮かべていた。

「確かに、イスタリア内で直接魔物と関わるような組織は、騎士団以外ないに等しいものね」

 一応、納得したように言い、ストラは問う。

「けどそれなら、他の地域に行こうとは思わなかったのかしら。それこそ王国内で最も魔物の多いウェスタリアや、総領主自ら魔物撲滅を掲げているノースタリアとか」

「あくまで私が守りたいのはイスタリアよ」

 ルミナは迷いのない口調で告げた。

 それから、さっと目を伏せる。長槍の柄を指先でそっと撫で、彼女は言った。

「物心ついてからずっと育ってきた故郷。そして……パパの大好きだったこの場所」

 ルミナの胸にちくりと痛みがさした。

「そう……」

 ストラは静かに頷いた。

「まあ、二人とも腕が立つし、あそこに入るなら普通に魔物の相手をするよりは安全だと思うけど……。魔物が増えてきている今、そのうち彼らだけでは手が回らなくなるかもしれない。あなたの加入を素直に戦力増加とみて喜ぶべきなのかしら」

 ストラの顔には、不安そうな影がさしていた。



 人相の悪い男が二人、がに股で路地を歩いていた。屈強な体躯に、尖った顔つき。それを隠すような、深いフードのついたマント。腰には海賊刀を差している。二人の背格好は似ていて、歳も近いが、歩き方だけがまるで違った。一人は地面を踏み荒らすようにのしのしと歩き、もう一人はそれを横目に、ポケットに手を突っ込みながら、気だるそうに足を動かしている。

「あー、クソ!」

 のしのしと歩いていた方の男――ガルは、苛立ちを隠せない様子で吠えた。

「あの質屋、絶対鑑定額でたらめだろ! 安く買い叩きやがって!」

「盗品を売りつけてるこちらの後ろ暗さに付け込まれたんだ。通報されずに買ってもらっただけマシと考えろ」

 気だるそうな方の男――ギドは、冷静に返す。その返答にますます怒りを煽られたガルは、八つ当たりのように歩調を速めた。

「にしたってよぉ、あれだけ出して金貨五枚はねえだろ! 最低でも十枚は確実にいくぜ!? あー、ムシャクシャする」

 言って、ガルは憂さ晴らしになりそうなものを探した。その時、ちょうどよく、木箱に無防備に腰掛けている二つの頭を見つけた。非力そうで、しかも可憐な少女たち。

一人は牡丹色の髪。おっとりとした目をしていて、脅せば大人しくなりそうだ。見るからに育ちの良さそうな恰好をしている。綺麗なものを汚す背徳感を想像して、ガルは下卑た笑みを浮かべた。

もう一人は、金髪を二つに結わえている。槍を携えているが、あのくらいの小娘なら一捻りだ。こちらは気の強そうな顔をしているが、抵抗されるのを無理やりねじ伏せるのも悪くない。ガルはますます愉快そうに笑みを深くした。

「どうしたんだよ、ニヤニヤして」

「おい見ろよ、あそこ。良さそうなのがいるぜ」

 機嫌よくガルが指をさす。その先にある二つの人影を見て、ギドはガルが何をしようとしているのかを察した。

「おい馬鹿、今はやめとけ。お頭にも『盗品の換金と軽い視察だけにして来い』って言われてるだろうが」

「心配しなくてもすぐ済ますって」

 ギドの制止に聞く耳を持たず、ガルは少女たちに話しかけた。



「ねえ君たちかわいいね。今二人だけ? 暇ならイイコトしない?」

 角から出てきた男に急に声をかけられ、ルミナとストラは同時に顔を上げた。

 目深にかぶったフードの下に、薄気味悪い笑みが浮かんでいる。目に傷がある。ズボンをだらしなく腰で穿き、その腰には抜き身の海賊刀が刺さっていた。いかにも荒くれ者といった感じだ。

「おい、ガル」

 傍らに立っていたもう一人の男――よく似た恰好をしている――が、話しかけてきた男を咎めた。

「あん? お前は黙ってろよ、ギド」

ガルと呼ばれた男は不機嫌そうに言い、再びこちらに向き直った。

「後ろのこいつは興味ないみたいだから、俺と君たちの三人で、ね」

「おい待て、止めろとは言ったが興味ないとは言ってない」

 ギドと呼ばれた方の男は言って、ガルと同じように口元を歪ませた。

「……何、あんたたち」

 ルミナは不快感に眉をひそめた。隣でストラが、「あら、今度はホントのナンパかしらー?」とのんきなことを言う。

「もしそうなら他を当たって。というかまず近づかないで」

 ルミナが棘のある声を出すと、ガルはひゅうと口笛を吹いた。

「つれないこと言うなよ。もっと素直に行こうぜ?」

「嫌だって言ってるんだけど?」

「そう言わずにさぁ」

 下品な笑みを浮かべたまま、なおも食い下がる。

 ――埒が明かない。

 我慢ならなくなったルミナは、槍を片手に立ち上がった。

「あーもー、しつこい! あっち行ってって言ってるでしょ! いい加減にしないと本気で怒るわよ!」

「おお怖、君が本気で怒ったらどうなるんだいお嬢ちゃん。口ででかいことを言う奴ほど、実際は大したことないって知ってるか?」

 その台詞が、嘲笑が、あまりにも昔の光景と酷似していて、ルミナの中でぷつんと何かが切れた。

 ――『おい嬢ちゃん。お前みたいな小娘に、何ができるってんだ?』

 騎士団に入りたい、と言った時。自分に降り注いだ下衆な笑みが、耳元に蘇った気がした。

「それ……もう一回言ってみなさいよ」

「だから、いくらガキが喚こうがちっとも怖くねえって――」

 途端、ガルは衝撃で壁際へと吹き飛ばされた。したたかに背中を打ち付けた矢先、槍の先が顎をくいと持ち上げた。

「口の利き方には気をつけた方がいいわよ」

 ルミナは男を見下ろしながら、冷ややかに告げた。

「それ以上馬鹿にするようなことを言うなら、二度とその口が利けないようにしてやるんだから」

 凍てつく眼差しと、喉元に突きつけられた槍の切っ先。

 一瞬、何がなんだかわからず固まっていたガルは、少しの間をおいて、自分の状況を理解した。

「お、おいギド、見てないでこいつどうにかしろ!」

 ガルの声は情けなく上ずっていた。身じろぎすらできず、顎を上げたまま目だけで縋る。

「自業自得だろ、馬鹿。俺は止めただろうが」

 ギドは冷たく言い捨てる。そうは言ったが、ガルがいくら考えなしの馬鹿でも、このまま見捨てて帰る気はなかった。

「とはいえ、これ以上騒ぎがでかくなるのも良くねえ……」

 ギドは腰から海賊刀を抜き、顔の前に掲げた。

「おいお前、悪いことは言わねえからその槍下ろしな」

 その言葉が、ルミナの神経をますます逆撫でした。槍はそのままに、もう片方の男に向き直る。

「それが人にものを頼む態度? 『連れが迷惑かけてすみません』くらい言うのが筋でしょ」

「そいつが勝手にやったことだ。俺が謝る理由はねえ。それより、こうなった以上大人しくしろ。警備を呼んだり、反抗しようもんなら痛い目見るぜ」

「へぇー、そう」

 ルミナは怒気をたたえたまま、にっこりと笑みを浮かべた。

「けど、『大口叩く奴ほど大したことない』んでしょ? それとも、あんたもこいつの二の舞になりたいの?」

「ガキが……後で泣いても許さねえぞ」

 ギドが凄んで、今にも飛びかからんとした時。


「ちょちょちょストーップ!」


 声がしたかと思うと、ギドの頭を軸にひらりと飛び越え、クレアが二人の間に降り立った。

「はいはーい! こっからは進入禁止―!」

 両腕を大きく広げて、ルミナとストラのいる方を塞ぐ。

「ダメだよ、こんなとこで喧嘩なんて! 暴力反対! まずは話し合って!」

「なんだお前」唐突に表れたその男を、ギドは威嚇するように睨んだ。

「よく分からんが、邪魔するならまとめて――」

 ギドが刀を振りかぶる。「クレア!」という叫びが、ルミナの中から出かかった。

 が、クレアはその太い腕をたやすく受け止めた。手首を掴まれた男の身体が空中で回転し、地面に投げ飛ばされた。がっ、と呻く声がして、男の手から海賊刀が落ちた。

 あまりにも鮮やかな手捌きに、ルミナは目を奪われていた。

 男が昏倒すると同時に、クレアが我に返った。

「ハッしまった! 暴力反対と言いながら、条件反射でつい!」

 クレアはなぜか慌てた様子で、気絶した男の傍にしゃがみ込んだ。

「あのー、もしもし? 生きてますかー? やった僕が言うのもなんだけど、しっかりしてくださーい!」

 そう言って、肩を揺すったり、頬を叩いたりしている。

「これでもうあんただけよ。素直に謝るなら赦してあげなくも――」

ルミナが視線を戻すと、壁際で腰を抜かしていたはずの男の姿がなかった。

「ふぁ!?」と声を上げたのもつかの間、背後からぎらついた声がした。

「お前ら……そっから動くんじゃねえぞ」

 ルミナは嫌な予感がした。振り向くと、ガルがストラを拘束し、細い首筋に海賊刀を当てがっていた。

「あああちょちょちょ! 待ってそれ待って! その人に何かあるとマジでヤバいんだって! というかなんで目離しちゃったの!?」

「は!? 私!? 元はと言えば、突然割り込んできたあんたに気を取られたせいで!」

「ええ!? 酷い! 僕のせいにするの!?」

 早口で口論する二人を見ながら、ガルはぽかんと口を開けていた。

 ――なんかよく分からんがすごく動揺してんな。とりあえずこの手を選んで正解だったってことか……。

 したり顔を浮かべた時、「おい、そこの社会のクズ」と、頭上から声がした。

「え?」

 ガルが声の方に顔を向けると、ゆらり、と立ち昇る覇気が、黒い影のように見えた。

 ――ユース!

 声を上げそうになったルミナは、慌ててその言葉をひっこめた。ユースは大ぶりな剣を肩に担いで、凄まじい殺気で匪賊を見下ろしていた。こちらまで身がすくんだ。

「ただでさえ臭くて汚ぇ地面をはい回る腐れゴキブリが。よりにもよってそのクソだらけの手で……」

 ユースは地面を蹴り、剣を振り上げた。

「お嬢に触れんな!」

 ――あ……これ、間違えた奴だ……。

 ガルが悟った時には、もう、遅かった。




「すみません、お嬢」

 二人の匪賊が地面に伸びている傍ら、ユースがストラを前に片膝をついた。

「そばを離れたとはいえ、こんなへっぽこ共に一瞬でも任せた俺の失態です」

「へっぽこ!?」ルミナとクレアは同時に叫んだ。

 ストラは怯えた様子もなく、いつもと変わらない微笑を浮かべた。一時は危険が迫ったが、ストラにはかすり傷ひとつない。

「大丈夫よ、結果論ではあるけれど、こうして何事もなく収まったわけだし」

 すみません、とユースはもう一度頭を下げる。

 ストラが無事だったから「へっぽこ」呼ばわりされるだけで済んでいるが、これでストラが少しでも傷ついていたら……。あの斬撃の向かう先は、きっと匪賊だけではなかったに違いない。ルミナは気づいて、ぶる、と鳥肌が立った。

「それより気になるのは、そこで伸びている彼らね」

 ストラが匪賊たちに目を向けた。ぴくりとも動かないが、一応息があることは、クレアが確認済みだ。

「明らかに堅気ではなさそうだけれど、いったい何者なのかしら」

「さあ……見たまんまのゴロツキでしょう。何にせよ、警備隊に渡しちまえば気にする必要もなくなります」

 たいした問題ではない、という風にユースが言った。

 そのまま匪賊たちを警備隊に引き渡し、ルミナたちは帰路についた。街の正門をくぐったところで、クレアが話しかけてきた。

「ねえ、ここじゃこういう奴らってよく見かける?」

「まさか」とルミナは答えた。「たまに突っ張ったようなのはいるけど、ここまであからさまなのはまず見かけたことないわ」

「ふーん……。じゃあたまたま流れてきたならず者ってところか。うーん……けどなあ……」

 クレアは腑に落ちない様子だった。何か続くのかと思ったら、それきり黙り込んでしまう。

 ルミナはきょとんと彼を見据える。それを知ってか知らずか、クレアはかすかな声でひとりごちた。

「なーんか嫌な予感……」

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碧眼と失われた煌槍のノスタルジア レイノクニ @muryokuna_seinen

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