第2話 "不審な影"


1、

 太陽が天頂を過ぎた頃。クレアとルミナの二人は、街道沿いのとある村を目指していた。

 ルミナを送迎する道中に、その村はある、という。どうせ通るなら、道すがらに報告を済ませてしまおうというのが、クレアの魂胆らしい。

 ――件の依頼。

 ただのゴブリン狩りにしては、妙な動きをしていた二人のことを、ルミナは思い出す。

 ――絶対に、裏に何かあるはずだわ。

 この二人が請け負っているのは、単なる雑魚狩りじゃない。直感がそう告げている。ルミナは注意深くクレアの横顔を伺った。謎めいているのは、何もあのシドウだけではない。鼻唄まじりに歩く、一見ただの優男にしか見えない彼も、ルミナにとっては同様に得体が知れない。

 しばらく歩いているうちに、遠くに集落が見えた。村とはいえ、そこらの鄙びた農村とは少し様相が違う。中央の小高い丘には、広場を中心に、ちょっとした商店街ができているのが見える。

入口の川では、荷馬車を引いた隊商の一人が、馬に水を飲ませていた。ここは人やモノがよく出入りする場所でもある。というのも、この村は、ほど遠い王都までの中継地のひとつになっているからだ。

 クレアは慣れた足取りで村に入り、行き交う人々に挨拶を交わした。にこやかに挨拶を返す者もいたが、皆一様に暗い表情なのが、ルミナは気になった。集落の規模に反して、外に出ている人も少ない。昼間にもかかわらず、戸口をかたく閉めている家もある。

その違和感は、中央部に近づくにつれ、確信に変わった。

 商店の集まる一角。雑貨屋、パン屋、酒場、厩つきの宿屋……いつもなら活気にあふれているのであろう村の中心部は、今は息をひそめるかのように静まり返っている。厩につながれた馬だけが、のんきに草を食んでいる。

 小鳥のさえずる声と、彼ら二人の足音だけが、閑静な集落の中に響いていた。

 クレアは迷うことなく足を進め、商店の一角から少し外れた、一軒の肉屋の前で立ち止まった。狭い軒先に、加工肉がいくつもぶら下がっている。死肉の匂いを嗅ぎつけた蠅たちが、螺旋を描いて飛んでいた。

 獣くささと、かすかな血のにおいがした。裏に屠殺場でもあるのだろう。

 店先に人の気配はなかった。クレアは遠慮なく店内に足を進める。ルミナは店の入り口に立って、その様子を眺めていた。時折肩や顔に止まる蠅が鬱陶しい。

「あのー、すみませーん、一昨日の依頼が完了しましたー」

 クレアが奥に向かって呼びかける。すると、「おお、ご苦労さん」と低い男の声がして、おもむろにドアが開いた。

 店主はエプロンをまとった初老の男だった。年の割にはがっしりとした体つき。薄い木綿の服の下には、しっかりと筋肉があるのがわかる。年季の入ったエプロンと手袋は、まだ真新しい血の汚れがあった。肉の処理をしていたところだったのかもしれない。

「って、ありゃ、見ない顔だな」

 クレアの顔を一瞥するなり、店主は不審そうに目を細める。その表情に一瞬、警戒とともに妙な覇気が宿った気がした。緊張が背を走り、ルミナは槍を握る手に力を込める。

「シドウって言ったか、この前来た兄ちゃんはどうしたよ」

「ああ、もう一つの依頼があったんでそっちに行ってるんですよー」

 クレアは愛想よく答えた。

「そうかい……なかなか大変そうだな」

 同情するように笑みを浮かべた店主の顔からは、先ほどの妙な緊張感が消えていた。

 ――気のせいか。

 ルミナはほっと胸を撫でおろす。何かぴりぴりとした様子は、この店主ばかりでなく、村全体に蔓延っているものでもある。突然の見知らぬ訪問者を前に警戒するのは当然のことだろうと思われた。

「にしても、あんたらすごいな」

 打って変わって、店主が朗らかに言った。やはりあの警戒は、得体の知れない部外者に対する咄嗟の緊張だったのだろう。

 彫りが深いがどこか優しげな顔には、商売人らしい笑い皺が刻まれている。

「もっと時間がかかると思ったんだが、あんなちっこい連中をよく見つけたな」

 ゴブリンは子どもの背丈ほどしかなく、皺のよった分厚い皮膚も、自然に同化するような緑色をしている。それを五体――ほとんどはシドウが――瞬く間に仕留めた。腕に覚えのあるルミナでさえ、一匹追い詰めるのがやっとだった。それもシドウに手柄を盗られてしまったが。

 ――あいつ、本当に何者?

 勝った、とルミナが確信したあの瞬間、ゴブリンの額を貫いた青い刃を思い出す。

 ルミナが考え込んでいる間にも、店主の賛辞は続いていた。武器を持たない一般人にとって、魔物を狩るというのは、それだけ大層なことなのだ。

「いやー、それほどでも」照れた様子でクレアが頭を掻いた。「ありますけど」

「あるんだ」

ルミナは思わず呟いた。

 そんな彼らをよそに、安心をあらわに、店主は破顔する。

「これで奴らによる被害もなくなるわけだ。本当にありがとうな」

 そこで一瞬、クレアの笑顔が凍り付いたのを、ルミナは見逃さなかった。

「……そうですねー、だといいんですけどねー」

 かすかな声。店主には聞こえていないらしいが、ルミナはしっかりと聞いた。明らかに、含みのある言い方だ。

 ――やはり、何かある。

 ルミナのうちにある疑念は、確信に変わった。そもそも二人が依頼を引き受けたのは、彼らが便利屋だから、来るもの拒まず、という単純な動機ではないのだろう。ゴブリンを解体していたところもそう。不可解なところは数えればキリがない。

「ああ、そうだ。早く解決してくれた礼だ。上モノの肉を――」

「いやいやいや」

 奥に引っ込もうとした店主を、クレアは食い気味に引き留めた。

「依頼時に貰っただけで十分」

「遠慮はいらんぞ? あれだけじゃ採算が取れんだろう」

「気持ちだけ、ありがたく受け取っておくよ」

 じゃ、そういうことで、とクレアは強引に話を終わらせた。そのままくるりと踵を返し、足早に店を出ようとする。店の入り口で振り返り、

「また何かあればいつでもご相談くださーい」

 そう言ったかと思うと、どこかへ走り去ってしまった。まるで逃げるように。

 ぽかんとしていたルミナは、自分がすっかり置いていかれたことに気づくと、慌ててぺこりと頭を下げ、クレアの背中を追った。

 怪訝そうな顔をする店主だけが、そこに残された。



 村の外。外壁にもたれながら、クレアは機嫌よく口笛を吹いていた。先ほど置き去りにしてしまった少女――ルミナを待つためだ。

 午後の柔らかな陽光と、小鳥のさえずりが心地いい。目を閉じながら思わずうとうとしていると、妙な殺気を感じて、クレアは目を開けた。

 目の前に、ルミナがいた。仁王立ちをしている彼女は、明らかに怒りを帯びていた。

「置いて行ったのはごめんって」

「そうじゃないわよ」

 どん、と槍の柄が地面を突く。

「さっきから何なの?」

「……何のことで」

「とぼけても無駄。ゴブリンを解体した時に何かコソコソ話してたでしょ。それに加えてさっきの意味深な発言も」

 ――聞こえていたのか。

 ごく小声だったが、口から出てしまったことには気がついていた。お前は考えていることをすぐに口走るから気をつけろと、シドウから先日言われたばかりだった。ルミナは後ろでおとなしくしていたから、バレていないと思っていたのだが――

 クレアは黙り込む。ルミナは明らかに事情を知りたそうにしているが、話すと後が怖いのは自分だ。シドウに何をされるかわかったものじゃない。

「教えて。今回の一件、ゴブリン以外にも何かあるんでしょ? そもそも、どんな被害が出てるの?」

 ルミナが鋭い目つきで詰問する。

 クレアは口をぎゅっと結んだ。首筋を冷や汗が伝うのがわかる。

 槍の切っ先が、陽光を反射して、きらりと怪しげに光る。

「……相当固く口止めされているようね」

 仕方ない、とルミナが姿勢を崩したので、クレアはほっと息をついた。

 ――その刹那。

 キンッ、と耳元で音がした。見開いた瞳を、クレアはこわごわと横に動かす。

 槍がまっすぐこちらに伸び、顔のすぐそばに突き立てられていた。

 鋭利な金属に穿たれた石壁の一部が、ぼろ、と音を立てて崩れる。

「十、九、八……」

 笑みを浮かべたルミナが、静かにカウントダウンを始めた。

「三、二、一、……」

「ちょちょちょちょ、七から四は!?」

 上ずった声をあげ、クレアは抗議する。ルミナは少しも笑みを崩さず、片手で槍を構えたままでいる。

 その表情があまりにも彼に似ていて、クレアは芋ずる式に今までの恐怖を思い出した。

「分かった、言う、言うから!!」

 気づくと口走っていた。

 その言葉を聞き届けて、ルミナはようやく、槍の先端をクレアから離した。



2、

 同時刻。

 のどかな農村。ある民家の軒先で、シドウは一人の男から依頼を受けているところだった。

 軒先で座り込んでいる男の名はグウィン。三十がらみの、痩せた小男だ。憔悴しきっている顔は、何日もろくに眠れていないのだろう、青い隈が浮いていた。

「……つまり、行方不明の奥さんを探してほしい、と?」

 覚束ない説明をシドウが総括すると、グウィンは「はい……」とうなだれた。

 グウィンの話は一週間前に遡る。

 普段よりも仕事が忙しい一日だった。グウィンは疲れて家で休んでいたが、ふと、仕事で届けなければならない物が残っていることを思い出した。届けに行こうと席を立つと、ふらりと身体が傾いだ。見かねた妻――ミリアは『荷物は自分が持っていく』と言い出した。

 最初、グウィンはその申し出に反対した。ありがたいことだが、さすがに夜の一人歩きはさせられない。だが、ミリアは、『いつも家族のために頑張ってくれてるんだから、こんな時くらい頼ってほしい』と譲らなかった。

 グウィンは事実、疲れ果てていた。だから、心配な気持ちこそあったが、最終的にはミリアの申し出に折れた。

「でもこの時の選択を、私は後になって後悔しました」

 グウィンは深く溜息をつく。

 その夜も、次の朝も、そのまた次の朝も、彼の妻が帰ってくることはなかった。

 彼女は荷物を届けに行ったきり、忽然と消えてしまったのだ。

 ――失踪者。

 シドウは眉間に皺を寄せる。

「先方の家にも聞きに行きました。ですが、妻は荷物を置いてまっすぐ帰ったと……。やっぱり、妻に届けに行かせたのは間違いだったんだ……」

 グウィンは拳を握りしめ、悔しそうにうつむいた。

 グウィンは妻が消えた後、ここ最近、近隣で畑荒らしが横行していることを仕事仲間から聞いた。その矢先、グウィンの勤めている現場の畑でも、作物が荒らされた。その痕跡からは、ゴブリンによる被害だということがわかった。

 加えて、嫌な噂を聞いた。近頃、この辺りで相次いでいる失踪も、ゴブリンによる仕業なのではないか、という――。

 シドウは黙って話を聞いていた。なるほど、似たような噂はあちこちで聞いたことがある。しかし……。

 腕組みをしたまま考え込んでいたシドウは、「でも……」とグウィンが続けるのを聞いて、顔をあげた。

「でも……?」

 シドウは続きを促す。

 グウィンはしばらく迷っている様子だったが、やがて覚悟を決めたのか、シドウをまっすぐに見据えた。

「失踪に関して、私は、ゴブリンのせいではないと考えています」

 震えてはいたが、気迫のある、まっすぐな声だった。

「なぜそうお思いに?」

「私は、今でこそしがない農民ですが、一時期、生物学者の真似事をしていたことがあるんです。その際、魔物に関してもそれなりに調べていました」

 話によれば、こうだ。

 個体数の多いゴブリンは、時に畑を荒らす害獣でもある。そのため、対策を講じることを目的に、グウィンは彼らの生態について調査をしたことがあった。

 その時に分かったのは、ゴブリンの知能はきわめて低く、行動原理はただ生きることだけということだ。後先考えず、目の前で起きていることだけに、本能によってのみ対処する。

「もし彼らが犯人ならば、失踪など起こらないはずなんです」

 ゴブリンは人を襲うこともあるが、襲った人間の痕跡が見つかることを危惧しない。そもそもそこまで考えることができないからだ。襲いたい時に、襲いたい場所で襲う……生態学的に見れば、それがゴブリンの本来の在り方だ。

「なるほど……痕跡の一つもないのはおかしいと」

「はい……」

 グウィンはそう言ったきり、また自信なさげにうつむいてしまった。

「――全くもってその通り」

 シドウが言うと、グウィンはハッと顔をあげた。

「……ということは」

「ええ。失踪に関して、奴らは無関係です。此度の一件、隠蔽工作が可能な一定以上の知能を持ったモノが関与している可能性が高いかと」

 無論、人攫いや盗賊の線もありうるが、最悪なのは……。そこまで考えて、シドウはそれを言葉にはしなかった。いたずらに依頼人を不安させるべきではないだろう。

 代わりにシドウは、姿勢を正して依頼人・グウィンに向き合った。

「いずれにせよ、昨晩も一人行方不明になったという話を聞いています。これ以上被害が広がらないようにするためにも――その依頼、謹んでお受けいたします」

「あ、ありがとうございます!」

 グウィンは立ち上がりざま、シドウの手をとって喜んだ。

 それからは依頼料の話になった。シドウが依頼料を示すと、グウィンはその金額の低さに驚いた。シドウが示した金額は、パンを二つ買えるかどうかという金額だったからだ。

 困惑するグウィンに、シドウは微笑みながら言った。

「もとより報酬目的でやっているわけではないので、問題ありませんよ」

「では、一体何のためにこんな仕事を――」

 グウィンが尋ねた時、だった。

 何か物音がした。シドウは咄嗟に音のした方を見上げた。民家の二階のあたり――ちょうど屋根裏部屋のあたりから聞こえてきたように思える。

「今のは?」

「多分、娘ですね」

 グウィンがいくらか緊張がほぐれた様子で答えた。

「娘さんがいるんですか」

「ええ。もっとも、私は家を空けることが多いので、あまり懐いてはくれないんですが……紹介しましょう」

 グウィンは立ち上がり、ドアノブに手をかけると、軒先から室内へとシドウを促した。

 娘、という言葉が出た途端、それまで硬かったグウィンの表情が柔らかくなった。

「妻がいなくなってからというもの、『自分も探しに行く』と言って聞かなくて……困ったものです」

 グウィンは苦笑する。だが、言葉にしているほど「困って」はいないのだろうということは、シドウにも予想がついた。こういう話は惚気話と同じだ。

 グウィンが居間を通り過ぎ、二階へとつながる階段を上っていく。少し遅れてシドウも続いた。階段の踊り場に、娘が描いたらしい絵が飾ってあるのが見えた。並んだ三つの丸い顔。両脇は両親で、真ん中でリボンをつけているのが娘だろうか。拙い字で「まま」「ぱぱ」「なとら」と書かれているのがいかにも微笑ましい。絵を見るだけで、この娘がいかに両親を大切に思っているかがわかる。

 グウィンの態度といい、娘の絵といい、よほど仲のよい家族なのだろう。

「え!? そんな!?」

グウィンの声で我に返った。

 シドウはゆっくりと階段を上っていく。

「どうしました?」

 尋ねるが、答えは言われなくても想像がついた。

 グウィンは部屋の前で立ち尽くしていた。グウィンの肩越しに見える部屋は、もぬけの殻だった。何かの花と、描きかけの絵が机の上に放置されているのが見えた。

「物騒だから外には出るなって言っておいたのに……! 多分、母親を探しに行ってしまったんです! ああ、ナトラ……」

 取り乱すグウィンを、「落ち着いてください」とシドウは宥めた。面倒なことになったな、と言いたいのを隠しながら。

「奥さんの調査と並行して探しましょう。娘さんが向かいそうな場所に心当たりは――」



3、

 平原に二つ、影が伸びる。一つは男の。もう一つは、槍を持つ少女の。

 ざ、ざ、と足音が響く中、ルミナは黙ってクレアの話を聞いていた。

「とまあ、あらましはこんな感じかなー」

 ――相次ぐ行方不明者。

 先ほどから感じていたきな臭さの正体はこれだったのか、とルミナは合点した。村中が妙な警戒心に包まれていたことも、ゴブリン討伐の際に彼らが解体をしていたことも、これなら説明がつく。

『予想的中だな。今回の件に関して、こいつらはシロだ』

 シドウのあの言葉は、行方不明者がそこにいなかったことを指していたということだ。確かに、言われてみれば、痕跡を残さない失踪なんて、ゴブリンのような小物には引き起こせない。

「なるほどね……」

 半ばひとりごちるように、ルミナが呟いた。それを聞いてクレアが、思い出したかのように「あ」と口を開いた。

「シドウには僕から聞いたって言わないでね!? バレたらこれでもかってくらい怒られる!」

「大丈夫よ。こう見えて私、口は堅いから」

「信じていいんだね?」

 懇願するような眼差し。ルミナはこくりと頷いた。

 それにしても、この念の押しようは――シドウが相当怖いと見える。

 一体どんな風に口止めをされたのだろう。

そして――私には一体、何ができるだろう。

考え込んでいるうちに、クレアが足を止めた。

「じゃあ、ここを道なりに行けば王都に繋がる街道に出るから、そこまで行けば後は分かるでしょ?」

 クレアの指差した先には、金色の小麦畑が広がっている。道はまだ長く、正直ルミナは心細かったが、不安をこの男の前で出すのは癪だった。街道まで出られるのなら、まあ、なんとかなるだろう。彼女はそう高を括り、「ありがとう」と指し示された方向に向かって歩き出した。

 クレアの視線を背後に感じながら、ルミナは歩を進める。ふと、思い立って振り返った。

「どしたの?」

「……あんたもやっぱり、『私みたいなのが魔物に関わるんじゃない』って思う?」

「うーん……」

 顎に手を当て、考えるクレア。

 どうしてそんな質問をしたのか、ルミナは自分でもよくわからなかった。

 どんな答えが返ってきても、自分は魔物に対する執着を捨てられない。それでもなお、問いを投げかけたのは、どこかで肯定してもらいたかったからなのかもしれない、と思った。

 けれど、いざ「ぶっちゃけ、個人の自由だと思うよ」と答えが返ってくると、ルミナは意外に思った。彼もシドウの仲間なのだから、てっきり否定されるとばかり思っていた。

「ただ、」とクレアは真剣な様子で続ける。飄々としている彼には珍しく、深刻で真面目な表情だった。

「どんな理由があって魔物に関わるのかは知らないけど、シドウの忠告も、一応心の隅に置いておいてくれるとありがたいかな。彼があそこまでムキになるのは珍しいからさ」

「そっか……色々ありがと」

 言って、ルミナは踵を返した。彼女の半身である槍を握りしめたまま、影を踏みながら歩いていく。

 あの冷血漢にも、彼なりの事情というものがあるのか。考えもしなかった、けれど当然の事実を前に、ルミナは葛藤していた。確かに、「魔物に関わるのをやめろ」とは、単なる意地悪で言っているわけではないのだろう。そのことはわかる。けれど、理由を口にしないでただ「やめろ」と言われるのは、やっぱり納得がいかない。

それに自分は、相手にどんな事情があろうと、どれほど説得されようと、結局執着を捨てられない。それもルミナにはわかりきっていた。変えられない過去がある限り、自分はそこにしがみつくしかない。

 あれこれ考えながら帰路を歩いていると、どこからか視線を感じた。

「ん?」

 顔をあげた先に、人影があった。子どもほどの背丈。

 目を凝らすと、人影は小さな女の子のようだった。こちらをじっと凝視していた彼女は、「迷子?」とルミナが声をかけると、「ナトラは迷子じゃないよ!」と声を張り上げた。

 ナトラ、と名乗った女の子が駆け寄って来る。

「あのねあのね、迷子はナトラじゃなくてママなの。だからね、ナトラね、ママを探してるの。それでね、お姉ちゃんにも手伝ってほしいの!」

 ――こういうのって、自分が迷子になってることが分かってないパターンよね。

 苦笑しつつ、ルミナは考える。となると、この子を放ってはおけない。まだ日は高いが、これからどんどん日は傾いていく。街道まではまだ遠そうだ。こんなところで子どもが一人。夜道では何があるかわからない。

覚悟を決めたルミナは、しゃがんでナトラと目線を合わせた。

「分かった、お姉さんに任せなさい」

「ありがとう、お姉ちゃん!」

 ナトラは目を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。

 なかなか素直で可愛らしい子だ。ルミナはまんざらでもなかった。「お姉ちゃん」と呼ばれることは、大人扱いされるようで、なかなか悪くない。

「じゃあ、あっち行こう、あっち!」

 ナトラはそう言うと、ルミナが歩いてきた方角に向かって走り出した。

「来た道戻ることになるわね……」

 ふう、と溜息をつきつつ、ルミナの胸は「お姉ちゃん」と呼ばれたことへの余韻で満たされていた。

 ――そうよ、私はもう子どもじゃない。自分のことは自分で決める。

 とりあえず、当面の目標は、自分を子ども扱いしたシドウを見返すことだ。迷いを断ち切ったことが気持ちよくて、ルミナは「ふふふ」と思わず笑みをこぼした。

「お姉ちゃん早くー!」



 それからルミナは、「迷子のママ探し」にひたすらつきあうことになった。――が、これがなかなか、思うようにいかない。歩いても歩いても、どこも同じような畑ばかりで、人影ひとつありはしない。その上、ナトラはすぐ目的を忘れて遊んでしまう。道をそれるたびにナトラを連れ戻し、少し歩いてはまたナトラが走り出し、というのを繰り返しているうちに、日はすっかり傾いて、風も少しずつ冷たくなってきた。

 少し休憩をとろう、とルミナは木陰に腰掛ける。ナトラはまた面白いものを見つけたらしく、どこかに走っていってしまった。草むらの陰で、頭の後ろのリボンがぴょこぴょこ動いているのが見える。

 ぐう、と腹が鳴った。

 昨日、ハルナナカマドを逃した彼女は、手に入れるはずだった収入もなかった。このまま夜になって、仮に町につけたとしても、夕飯を調達する術が無い。どうしよう、と途方に暮れていた時、「お姉ちゃん!」とまた明るい声がした。ナトラがこちらに走って来るところだった。

「見て見て、まあるいお花があったよ! 可愛いでしょ!」

 ナトラは花を誇らしげに掲げる。手元の花は薄紫色で、たくさんに集まった花びらがぼんぼんのような球形を象っている。

 懐かしい花だ、と思った。

 ――そういえば、もう春も終わりか……。

 ルミナは胸中でひとりごちた。

「その花はアリウムって言うのよ」

「アイウム?」ナトラが小首をかしげる。

「アイウムじゃなくて、アリウム」

「アイウム!」

 何度教えてもナトラは「アイウム」と勘違いしたままで、ルミナは訂正を諦めた。

「それより、もう暗くなってきたし、こうやって当てもなく探すよりも、一旦家に戻った方がいいと思うの。もしかしたらあなたのママも戻ってるかもしれないし。もちろん家までは送っていくから、家の場所を教えてほしいんだけど――」

「あ、あっちにも綺麗なお花―!」

 話もそこそこに、ナトラはまた走り出してしまう。「ちょっと、話聞いてー!?」とルミナが呼びかけても、どこ吹く風である。次々目に留まる花に夢中になって、小さな頭がどんどん遠くなっていく。ルミナには追いかける気力もなかった。

 ――ああもう、今日で無視されるの何回目よ!

 疲労がどっと押し寄せた気がした。



 湖畔は小さな花畑が広がっている。あちこちに種々様々な花が咲いているのだ。花が好きなナトラにとっては宝の山だった。またアイウムの花だ! 夢中になっていたナトラは、目の端にもうひとつ、黄色い花が咲いているのを見つけた。やわらかな、けれど薄寒い風に揺られて、花びらがひらひらとはためく。蝶みたいで、きれいだ。

 花に見入るナトラ。この花はなんて言うんだろう? あとでまた、お姉ちゃんに聞いてみなくっちゃ。そう考えて花を手折ろうとした時、手元にぬっと影が伸びてきた。

 ナトラは背後を振り返った。逆光のせいで、人影がどんな顔をしているのかはわからない。

「誰?」

 問いかけても、人影は答えない。影が長く伸びている。人影は思った以上に遠く、大人だ、ということがかろうじてわかる程度。

「ママ……?」



「おーい!」

 ぼうっとしているうちに、ナトラはすっかり遠くまで行ってしまったらしい。ナトラを見失ったルミナは、焦りながら彼女を探していた。今日一日酷使した足は棒のようで、槍を杖代わりにして歩く。全く、どこまで行ったんだか……。おおかた、また珍しい花でも見つけたのだろう。

 ナトラを必死で探しているうちに、ルミナは元来た道を見失っていることに気づいた。これではまた迷子だ。せっかく帰り道をクレアに教えてもらったのに。

 これがもしシドウに知れたら……。少し考えて、ルミナの悪い想像は止まらなくなった。あの意地悪な男のことだ。やっぱりこちらを子ども扱いして、邪悪な笑みを浮かべるのだろう。それどころか、「次にご飯作る時はお子様ランチでちゅねー。それともハッピーセットがいいでちゅかー?」などと小馬鹿にしてくるに違いない。

 ――そんなの絶対嫌ぁぁ……!

 ルミナは頭を抱えた。

「いや待って、落ち着くのよ私」

 わざと口に出して、ルミナは自分の胸に手を当てた。ひとつ、深呼吸をする。

 彼らと出会ったのは単なる偶然だ。別に、また会う確証なんてない。

 帰り道についても、心配はいらない。あの子の親をパパッと見つけて、家まで送るという体でついて行って、確認がてら帰り道を聞けばいい。

「ふふっ、完璧! 我ながら実に大人っぽい対応だわ」

 落ち着いてきた彼女は、少しずつ調子に乗り始めた。なんだ自分、やっぱりやればできるじゃないか。もう子どもじゃないんだ。毅然としていればいい。

 作戦を実行するには、やはり一刻も早くナトラから情報を聞き出さねばならない。

 ――そうよ、あの子、一体どこに……。

 遠くに意識を集中させていたルミナは、背後から忍び寄る影に気づかなかった。何かを察した時にはもう、後頭部を衝撃が襲っていた。意識が遠くなっていく――。



4、

 地平線に夕日が沈んでいく。もう太陽は頭が隠れてしまった。

――ルミナは今頃街道についたあたりだろうか。

帰路をゆっくりと歩いていたクレアは、遠くから見覚えのある人影が近づいてくることに気がついた。

「あれあれ、シドウじゃん。なんでこんなところに? 別件の依頼は?」

「なんでも何も、今まさに以来の最中だ」

 見ると、なるほど、確かに見たことのない男がシドウに連れ添っている。

「そっちこそ、依頼報告と迷子の案内は済んだのか?」

「モチのロンだよ!」

 クレアは胸を張って答えた。

「ならちょうどいい」シドウがクレアの方に歩み寄った。「人手が要る」

「彼が今回の依頼人なんだが、今娘さんを最優先で探している」

 シドウが顎で示した先に、件の見慣れぬ男が所在なさげに立っていた。随分と頼りなさそうな男に見えた。こけた頬と落ち着きのない目がそう思わせるのかもしれない。

「それが依頼なの?」

「厳密には少し違うんだが……まあ、そう捉えてもらって差支えない」

 おーけー、とクレアは合点した。伊達に相棒をやっていたわけじゃない。なんとなくの事情は、深く訊かなくてもわかった。

「三人で手分けして探す?」

「いや、彼は一人で行動させるわけにはいかない」

 言われて、クレアは「そうだね」と頷く。確かに、男は見るからに非力そうだ。ひとりで行動させては、いたずらに失踪者を増やすことにもなりかねない。

 これまでの行方不明者たちは、皆一様に夕方から夜にかけて消えている。そして今は日没。犯人が動き始める頃合いだ。もしかすると既に動き出しているかもしれない。そんな中で、非武装の一般人を一人で行動させるのは、危険極まりない。

 シドウも同じことを考えていたのか、クレアの目を見ると、黙って頷いた。

「ここは四つ角だ。お互いに歩いてきた二つを覗いた残りの道を、二手に分かれて探そう」

「分かった。それで、探してる子の特徴は?」

「俺はすでに聞いたが、依頼者本人から聞くのが一番だろうな」

 シドウの視線の先にいる男は、恐縮したように肩をすぼめている。

「となると、彼と一緒に行動するのは僕ってことだね」

 よろしく、とクレアは右手を差し出す。その手に最初戸惑っていた男は、「あ、はい! よろしくお願いします!」と手を握り返してきた。思いがけず強い力だった。

「それじゃあ、僕たちはこっちの道を行くから、もう一つの方は頼むね」

「ああ、お互い気をつけてな」

 短い別れの言葉を交わし、彼らは二つの道を別々に歩き出した。

「あ、シドウ」

 少し歩いたところで、クレアはシドウを振り返った。ひとつ、訊かなければいけないことを忘れていた。

「もしも犯人とかち合ったらどうする? やっちゃっていいいん?」

 シドウは足を止めた。「当然、穏便に済ませられるならこの上ないが」

 振り返らないまま、彼は続ける。

「相手に話し合う気がない場合、もしくは運悪く魔物に当たった場合――遠慮はいらん。捻りつぶせ」

「了解」

 クレアの言葉を聞き届けると、シドウは黙って再び歩き始めた。

「それじゃあ行きましょうか」

 ぽかんとしている男に向かって、クレアはにっこりと笑みを作った。



 ――とはいえ、手分けしたところで当てもなく歩き回っていては効率が悪いな。

 単独で歩き出したシドウは、思案した。

 日はどんどん暮れてゆく。

 早急に片をつけるなら、少しでも視野を広くした方がいい。そう判断した彼は、ひとつ、背の高い木を見つけると、迷わずその上に飛び乗った。

 木の頂点に降り立ち、あたりを見渡す。空には月が昇りはじめている。手掛かりはないかと地面を見下ろすと、シドウはふと、見覚えのある銀色を目に留めた。――槍だ。

 シドウは目を細め、木から飛び降りた。近づいて、目を凝らす。やはりあの槍だ。ルミナという少女が肌身離さず持っていた、繊細に装飾された銀色の長槍――。

 ――こいつがここにあるってことは、あのおてんば娘、また首を突っ込んだか……。

 シドウはひとつ溜息をつき、長槍を拾い上げた。



5、

「……ちゃん、……お姉ちゃん」

 意識の外側で、声が聞こえる。最初は輪郭がつかめなかったその声は、次第に明瞭になっていく。この声は――

「ねえ、起きて、お姉ちゃん!」

 ――そうだ、ナトラだ。

 そう思った瞬間、ルミナはハッと目を開けた。そうだ、私は、ナトラを探していて、それで突然、何者かに襲われた――

 急いで身体を起こすと、ずきり、と頭の芯が痛んだ。

 ナトラが心配そうな顔でこちらを覗き込んでいる。

「ああ、よかった……」ルミナは心の底から安堵の息をついた。「怪我とかない?」

「うん、ナトラは平気。でも……」

 言って、ナトラは周囲に目をやった。

 見慣れない薄暗い部屋だった。屋根裏部屋なのか、天井がやけに低い。大きな木箱が無造作に置かれているのを見ると、物置か何かに見える。灯りは蜘蛛の巣が張ったランタンひとつ。部屋の四隅は照らしきれず、深い闇が落ちている。

「この部屋から、出れないの……」

 ナトラの声は弱々しい。

 ただでさえ狭くて暗い部屋だ。加えてこの悪臭――血のような、獣のようなにおい。

 ルミナは立ち上がり、ドアノブに手を伸ばした。回らない。鍵がかかっているらしい。

 窓も外から塞がれている。板がみっちり打ち付けられているらしく、光ひとつ差さない。

 ルミナは固唾をのんだ。閉じ込められている。

 ――行方不明者。

 クレアから聞いた話が頭をよぎった。今自分たちは、まさにその行方不明者になってしまっているのではないか?

 だがルミナは、すぐに笑顔を作った。

「でも心配いらないわ! いい? 何事も諦めたらそこで終わりなのよ」

「どういうこと?」

「つまりね、諦めなければどうにでもなるってこと!」

 彼女は楽天家らしく言い放った。

「この程度の扉なんて、この槍さえあれば……」

 思わずそう口にして、ルミナは気づいた。

「あれ……ば……」

 いつも離さず持っていたあの槍が、どこにもないことに。

 途端、絶望感に襲われた。どうしよう。どこかに落としてしまったのか――

「お姉ちゃん?」

「……槍が無い以上、為す術が無いわ。大人しくしてましょう。足掻くだけ無駄よ……」

「さっきのお話どこ行ったの!?」


 ぎし、と板が軋むような音がした。


 足音だ。

 階段を上っているのか、少しずつ、近づいてくる……。

 音と同時に、不穏な気配も徐々に近くなる。扉を前に、二人は後ずさった。ナトラがルミナの袖をぎゅっと握った。

 ぎぃぃ、と音を立て、扉が開く。

「ようやく目が覚めたか。長いおねんねだったなあ」

 低い声に、ルミナは聞き覚えがあった。

 最初に目に入ったのは、男の持つ大きな鉈だった。グロテスクなほど巨大な刃先が、鈍く光を返す。

それから、汚れの染みついたエプロン。初老だが、がっしりとした体格――

 ルミナの目がにわかに険しくなった。

 あの肉屋の店主だ。

「あんた、昼間の依頼者よね。……まさか、一連の失踪事件の犯人って……」

 男は「ハッ」と肩を上げて笑った。

「まさかも何も、この状況見りゃ分かんだろうが。ガキ二人がコソコソ嗅ぎまわりやがって。ゴブリンの件は解決してんだから大人しく帰っとけばいいものをよぉ……。自業自得ってもんだぜ」

 言いながら、男は徐々に距離を詰めてくる。ルミナはナトラを庇うように立ちふさがった。

「……何のためにこんなこと」

 ルミナが問うと、男は片頬を上げてぐしゃりと笑みを浮かべた。

「あ? んなの“喰う”ために決まってんだろうが。まあ、てめえらを選んだのは、ウロチョロ嗅ぎまわってるのが目障りだったからだけどな」

「嗅ぎまわるって……! 私たちはただ、この子の母親を探してただけよ!」

 心外な言い方に、ルミナは思わず言いかえした。

「第一、人が人を食べるなんて……」

「お、おじちゃん……」

 ルミナの陰にいたナトラが、唐突に口を開いた。小さな手が、ルミナの袖を強く握る。

「ママは……どこにいるの……?」

 勇気を振り絞って訊いたのだろう、声が上ずって、震えていた。

「あ? んなこと知ってる訳が……いや、待てよ」

 考え込んだ男は、何かに気がついたのか、にやりと不気味な笑みを浮かべた。

「そうか、どうりで嗅いだことのある臭いがするわけだぜ。そのチビ、一週間前の真夜中に出歩いてた不用心な女の娘か!」

 それが男のツボを刺激したらしい。大きな笑い声が、部屋中に響き渡った。

「ハハハハ! こいつは傑作だ! 子は親に似るってのは本当だな! 親子そろって危機感の欠片もねえ!

まあでも良かったじゃねえか! 親子感動の再開だ! 俺の腹ン中でな!」

 男は肩を震わせ、涙が出るほど笑い転げていた。

 ナトラは泣きそうな顔をして、目を見張った。

「ママ……」

 ルミナはぎり、と歯を食いしばった。

 怒りが胸の内を満たしていくのがわかった。この、黒い感情。私はこれをよく知っている。

「ナトラ」

 ルミナはごく低い声で囁いた。自分でも思ってみなかったほど、感情のない、冷淡な声だった。

「合図したらドアに向かって走って」

「え……?」

 潤んだ瞳がルミナを見上げる。

「ここから逃げるなら、ドアが開いてる今しかないわ」

「あん? 何こそこそ話してん――」

 言い終わらないうちに、ルミナは床を蹴った。ど、と鈍い音を立て、ルミナの足が男のみぞおちにめりこむ。

 渾身の飛び蹴りを食らった男は、派手に壁に打ち付けられ、気を失った。

「さ、今のうちに逃げましょ」

「う、うん……」

 戸惑うナトラの手を引き、ルミナは階段を駆け下りた。そのまま一階のドアを開け、走り去る。



 二人は必死に逃げた。逃げても逃げても、先ほどの男の気配から逃れられない気がして、足を止められなかった。しかし、次第に体力の限界が来た。小さな手を引く腕が重くなる。ナトラは顎を上げて苦しそうに呼吸をしていた。

 ――もうそろそろ、大丈夫かな。

 ナトラの限界を察して、ルミナはゆっくりと足を止めた。

 遅れて緊張が押し寄せた。はー、と深く息を吐いた時、自分の息がかすかに震えているのが分かった。ナトラがいなければ、地面に崩れ落ちてしまいそうだった。

 間一髪、だったが――

「ね、何とかなったでしょ? 最後まで諦めなかったからこその結果よ」

 ルミナは明るく笑った。ナトラは肩で息をしているが、どこか腑に落ちない様子だった。

「いや……あんなに強いなら、最初からドアなんて簡単に開けれたんじゃ……」

 鋭いことを言われ、ルミナは固まる。確かに、槍がないことに動揺していて、そこまで頭が回っていなかった――

「ま、まあ、それはそれ! あれよ! 結果オーライって奴!」

「気づいてなかったんだ……」

「と、とにかく今は、あいつが追ってくる前にどこか安全な場所に……」

 ぞわり、と背中が粟立つ感覚がした。

 不穏な気配。

「お姉ちゃん?」

 気づいていないのか、ナトラはきょとんとしている。

 ――何? 今……何かが――

 途端、背後でものすごい地響きが轟き、振動で足下が揺れた。

 おずおずと振り返る。

 そこには異形のモノがいた。

 人の背丈の二倍……いや、三倍はあろうかという巨体。手元には巨大な刃物を重たげにぶら下げて、大きな目はぎらりと赤く光っている。ぱっくりと割れた口からは歪な牙がいくつも顔を出していた。

 ぐるるるる……と唸るような音がしている。

「な……魔物!? なんでこんな時に」

 しかも、ゴブリンなんかとは訳が違う大物だ。

 呆然とするルミナに、またも哄笑が浴びせられた。

「……おい、ガキ」

 呼びかける声は地を這うように低く、不気味な周波を伴っている。人ならざるモノの声だ、とルミナは直感的に理解する。

 巨体……牙……赤く光る目……大きな得物……

 昔、寝物語で聞いた伝承を、ルミナは思い出す。

 ――人食い鬼、“オーガ”。

「てめえはさっき、人が人を喰うのはおかしいっつったよなぁ」

 それが喋るたびに、顎から突き出た牙が上下する。暗闇の中で、牙と目だけがはっきりと浮かんで見える。

『んなの“喰う”ために決まってんだろうが』

 先ほどの男の言葉。

――まさか。

「けどよぉ、そりゃつまり、魔物が人間を喰う分には、何の問題もないってことだよなあ?」

「……人に化ける魔物がいるなんて聞いたことないわよ」

「ハッ、そりゃてめえが何も知らねえガキだからだろうが。この世界にどんだけ魔物がいると思ってんだ?」

 それは嘲るように言う。唇の端が持ち上がって、歯茎がむき出しになるのが見えた。

「……そうね。確かに、嫌になるくらいたくさんいるわ」

 ルミナは静かに答えた。

「おかげで、悲しみを抱える人たちが、毎日のように生まれてる……」

 胸にちくりと痛みが差した。

 ――幼かった私は、墓前で泣くことしかできなかった。

 花を手向けては泣き崩れていた日々を、非力だった自分を、ルミナは思い出す。

 でももう、私はあの時みたいな子どもじゃない。

「そう……だから私は、多くの悲劇を生み出すあんたみたいな魔物を、絶対に許さない」

 ルミナはまっすぐにオーガを睨みつけた。

「これ以上、この子みたいな被害者を出さないためにも、あんたはここで――倒す」

それが、私の背負うと決めた運命だ。

 例え誰に何と言われようと。

「あ? 『倒す』だあ?」

オーガはせせら笑った。

「おいおい、調子に乗ってんじゃねえよ。さっきの一発はまぐれだ。その気になりゃ、てめえなんざ片手でミンチなんだよ。そもそもこの体格差だぜ?」

「ふん、それが何? 的が大きい分、蚊を殺すより簡単よ!」

「ハッ、強がりやがって。だがまあ、今まで抵抗する間もなく一呑みだったからなあ……」

 オーガは不気味に口を歪ませ、くっくと笑った。

「たまには活きのいい獲物を嬲るってのも悪くねえな……せいぜい楽しませてくれよ?」

 ナトラを背後に庇いながら、ルミナは深呼吸をする。自分を落ち着かせるために。

 大見得を切ったはいいものの――この子がいる状況では、あまり派手に立ち回るわけにはいかない。無論、素手でこいつに勝つことも難しいだろう。

 ――せめて、手元に槍さえあれば……。

 歯を食いしばった時、流星のような光が、眼前に鋭く降下した。

 ――え……?

 目の前の地面に突き刺さっているものは、見間違えようもない、ルミナの槍だった。

 ――なんで空から槍が?

 少し唖然としたけれど、すぐに気を取り直した。どうして、なんて今は問題じゃない。

これで突破口を開ける。

 ルミナはおもむろに槍を引き抜いた。

 たとえ体格に差があったとしても、急所を突けば、人も魔物も関係なく膝をつく。だが、長々と戦えば当然、体力的にこちらが不利だ。となれば。

 ルミナは槍をしっかりと握り、構えた。

 ――一撃で終わらせるのがベスト。

 ルミナは勢いよく地面を蹴り、オーガに向かって駆けた。



 おいおい、とオーガは胸中で苦笑した。結局正面から突っ込んでくるのか。不意をつかれたあの時と、まるで変わらない。大方、図体が大きい分動きが鈍いとでも思ったのだろう。

「なめやがって」

 オーガは大きく凶器を振りかぶった。さっきと違って、この身体ならば、それくらい対応できる。正面から突っ込んでくる少女など、スローモーション同然に見えた。

「一思いに潰れちまいな!」

 重い刃を振り下ろそうとした時、だった。

 突然、目の前にいた少女が消えた。――いや、違う、跳躍したのだ。

「クソ、上か!」

 槍の先端が、月光を跳ね返して煌めいた。



 一撃。

 急所をついた手ごたえを、ルミナは感じた。

 魔物は血を噴きだし、遅れてどさりと倒れ込んだ。巨体が倒れた振動で、地が揺れる。

 ルミナは槍を握り直し、ひとつ息をついた。

「た……倒したー!」

 ルミナの顔は晴れ晴れとしていた。緊張が去ると、反動で笑いが込み上げてきた。

 これで次にシドウに会った時、思い切りしたり顔をしてやれる。ゴブリンなんて目じゃない、これだけの大物なのだ。シドウどころか、今まで自分を馬鹿にしてきた奴等にも――

 ルミナの高らかな笑い声は止まらない。

 勝利に酔っていたルミナは、周りの音などまるで耳に入っていなかった。

 背後で蠢くものにも、気がついていなかった。

「お、お姉ちゃん後ろー!」

 ナトラの声で我に返る。

「ん、後ろ?」と背後を仰ぎ見れば、倒したはずのオーガが、ゆらりと立ち上がるところだった。

「……ガキが。調子に乗ってんじゃねえぞ……」

 ――な、なんで!?

 確かに刃は心臓まで達したはずだった。あの手ごたえは嘘じゃない。

 狼狽のうちに、オーガが太い腕を振り上げる。白刃が大きく振りかざされ、ぶおん、と風が巻き起こった。

「しまっ――」

 己の油断を後悔した、その時。


 ざ、と暗闇を横切る影があった。


「“一ノ太刀”」

 斬撃が一筋の線を描く。

「“境劃”」

 青い太刀が、まっすぐにオーガの首を刎ねた。

「クソ……が……」

 オーガの首がごとりと落ち、頭のなくなった胴体は、遅れて血をまき散らしながら倒れた。


 ルミナは固まったまま、その光景を見ていることしかできなかった。

 力が抜け、すとんと座り込む。

「……へ?」

 あの青い太刀。鮮やかな手つき。どちらも私は知っている。

「……なんで、ここに」

 シドウを眺めながら、ルミナは呆然と呟いた。

 シドウは静かに太刀の血糊を払い、鞘に納めた。

「偶然だ、偶然。ちょっとした迷子探しをしていてな。まあ、その迷子も無事見つかったようで一安心しているところだ」

 迷子。

 その言葉に、ルミナは明らかに動揺した。自分を小馬鹿にする(妄想上の)シドウの顔を咄嗟に思い出してしまった。

 彼女は慌ててまくしたてた。

「か、勘違いしないでほしいんだけど! 『私も一緒に迷子になった』なんてことは絶対になくて! だから……その……お子様ランチもハッピーセットも作る必要はないわけで……あれ?」

 言っているうちに自分でも混乱してきたルミナは、「悪いが言っている意味が分からん」とシドウにばっさりと切り捨てられた。



「ナトラ!?」

 二人のやりとりを眺めていたナトラは、自分を呼ぶ懐かしい声に、顔を上げた。

「パパー!!」

 ナトラは男――グウィンにたまらず駆け寄った。安心したとたん、堰を切ったように涙が溢れた。グウィンに思い切りしがみつく。言葉は声にならず、涙と一緒にぼろぼろ落ちていってしまう。

「ああ、良かった……。お前まで居なくなったらと思うと、私は……」

 狭い肩に回されたグウィンの腕は、かたく自分の娘を抱きしめていた。

「勝手に抜け出したりしてごめんなさい!」

 怒られる前に、ナトラは自分から訳を語りだした。しゃくりあげながら、必死にグウィンの腰を掴む。

「でもママ全然帰ってこないから……ナトラずっと待ってたよ? でもでも、今日は大事な日だから」

「え……大事な日……? 一体何の……」

 判然としないグウィンを前に、ナトラは語りだす。



 一週間前の夜。

 ナトラが部屋で寝る準備をしていると、母――ミリアが部屋まで来て、上着を羽織ろうとしているのが見えた。

「ママ、どこか行くの?」

 問いかけると、「うん、ちょっとお出かけ」とミリアが答える。

「もうお外暗いよ? 一人じゃ危ないから、ナトラも一緒に行く!」

「ふふっ……ありがとう」

ミリアは笑って、幼い娘を静かに宥めた。

「でも、あなたにはお留守番をお願いするわ。パパと一緒におうちで待ってて……ね?」

「パパと一緒……?」

「ええ」

 にっこりと微笑まれたが、ナトラは二重の不安に苛まれていた。母をひとりで出かけさせる不安と、それから、父と二人で取り残される不安と。けれどナトラはそれを言語化できず、表情を曇らせるしかなかった。

「嫌?」

 嫌、ではない。けれど……。

 黙り込むナトラに、ミリアは眉を寄せ、心配そうに尋ねた。

「ねえ、ナトラ……。パパのこと、嫌いなの……?」

 ナトラはぶんぶんと首を横に振った。

「嫌いなわけないよ! パパもママもおんなじくらい大好き!」

 きっぱりと言って、「でも……」とナトラは続ける。

「パパ、最近帰って来るの遅いし、いっつも難しいお顔してるし、さっきもママに向かっておっきな声出したりして、ちょっと怖いの……」

「……そっか」

 ミリアは神妙な顔で呟き、すぐに笑顔を作った。ぽん、と娘の頭に手を当てる。

「でも大丈夫よ。今は少し忙しくて余裕がないだけだから。それに、来週が何の日か覚えてる?」

「え、来週……?」

 少し考えたナトラは、すぐに思い当たるものがあり、ぱっと顔を明るくした。

「あ、パパのお誕生日!」

「そう! 本人は忘れてるみたいだけどね。だからめいっぱいお祝いしてあげましょう」

 ミリアはいたずらをしかける子どものように笑った。

「パパもきっと、前みたいに笑ってくれるわ」

「うん! 絶対、約束だからね!」

 そう、約束したはずだったのに……。



 次の日も、その次の日も、ミリアは帰ってこなかった。

「ママ、帰ってこない……。なんで? ナトラ、何か悪いことした?」

 グウィンの腰にしがみついたまま、ナトラは小さな肩を震わせた。

「もしかして……前、遅れちゃいけない用事があるのに、全然起きてくれなかったから、パパのお顔に落書きしちゃったこと? しかも気づかずに行っちゃって、恥ずかしい思いさせちゃったこと?」

「いや待った」

 ナトラの語りに涙目になっていたグウィンは、唐突に冷静になった。

「やっぱりあれお前か」

 ナトラは顔を上げず、黙ったままでいる。

グウィンはあの時の大変さを思い出して、顔をしかめた。今でこそ笑い話だが、あの時は集会に着くなり「遅刻に加えてふざけた罪」と言われ、危うく村八分にされかけたのだった。

 消え入るような声で「ごめんなさい」とナトラが言った。

 その頭を撫で、グウィンは「でも、そうか……」と思い直した。

 まだ小さいナトラにまで心配をさせていたなんて、自分は全然気づいていなかった。それどころか――



 一週間前。仕事が佳境に入り、連日身体を酷使する日が続いていた。遅くまで残業をしたのち、グウィンは帰るなり、ぐったりとダイニングテーブルに突っ伏していた。妻のミリアが出してくれた食事も、喉を通らなかった。

「あなた、大丈夫? 最近どんどんやつれてきてるわよ」

「……ああ」

 疲労で頭が回らない。「本当に?」とミリアが心配そうにこちらを覗くが、それも生返事しか返せないでいた。

「ねえ、ちゃんと話して!」

「ああもう、うるさいな。疲れてるんだ! 休ませてくれ」

 声を荒げるなり、彼はまたテーブルに伏してしまった。手足も頭も、鉛でできているかのようだった。今は少しでも休まなくては、明日もまた仕事がある……。

 眠りに落ちかけたとき、ふと、忘れていた大事な用事を思い出した。眠気は嘘のように吹き飛び、グウィンは立ち上がろうとした。が、足にうまく力が入らず、危うく転びそうになってしまった。

「ちょっとあなた、どうしたの」

 駆け寄ってきたミリアが、慌ててグウィンの肩を支えた。椅子に戻されたグウィンは、落ち着きなく指を動かしながら、妻に言った。

「今日中に先方にビルートの種を持っていくんだった。行かないと……」

「そんなの明日の朝でもいいでしょ? ついさっき休みたいって言ったばかりなのに……」

「仕方ないだろ! 信用に関わる問題なんだ!」

 グウィンの強い口調に負けじと、ミリアの声も強くなる。

「それにしたって根を詰めすぎよ! 私たちのために働いてくれてるのはわかるけど、あなたが潰れちゃ意味がないわ!」

 ミリアは譲らなかった。そればかりか、冷静さを欠いている夫の頭を冷やそうと、「最近のあなたは見ていられないのよ」と言葉を続けた。

 いつも死んだような目をしていること。

 以前のような笑顔が全くなくなってしまったこと。

 それを見ているナトラが、委縮気味になっていること。

 自分でも薄々自覚していたそれを、改めて言葉にされるのは、耳が痛かった。

「無理して今の仕事を続ける必要はないわ!」

 グウィンは妻に諭されれば諭されるほど、意固地になった。机を強く叩き、彼は怒鳴り返した。

「そうだって言うだけなら簡単だ! ただ、世の中そんな単純じゃない! 大体お前に何がわかるん――」

 そこまで言って、グウィンはようやく我に返った。

 言いすぎた。

 今のは完全に、自分の八つ当たりだ……。

「わ、悪気はないんだ……。ただ、分かってくれ……」

 グウィンは取り繕うように、必死に言葉を重ねる。

「今の雇用地は確かに大変だが、給金も他より多い。だから……」

「……ええ、分かってるわ。あなたが私たち家族を何よりも大切に思ってくれていることも、少し熱が入りすぎちゃう学者肌なことも。

だって私は、そんなあなたに惹かれたんですから……」

 ミリアは穏やかに微笑み、グウィンの正面に腰掛けた。グウィンの武骨な手に、ミリアのほっそりした手が重ねられた。

「じゃあせめて、今はゆっくり休んでて。種は私が持っていくわ」

 グウィンは今度こそ声を張り上げた。

「な、そんなの駄目に決まってる! 夜道には危険が多い! 私が持って――」

「そんなこと言って、あなたフラフラじゃない。お願い、今だけでも私を頼って。あなたの辛い顔を見てると、こっちまで心が締め付けられるの。私たちがあなたの足枷になっているようでいたたまれないの。お願いだから……」

 妻の必死さに気圧され、グウィンは折れた。事実、ありがたい申し出だった。もう一歩も歩きたくないというほど、彼は疲労困憊だった。

「わ、分かった……お願いするよ……」

 グウィンが言うと、ミリアは安心した様子で微笑み、さっそく席を立った。

「それじゃ、仕度してくるわ」

「ま、待ってくれ、ミリア!」

 立ち去ろうとするミリアを、グウィンが慌てて呼び止める。

「なあに?」

 おっとりと尋ねるミリア。

 謝らなければ、と思っていた。さっきは怒鳴って悪かった。そう、一言告げたかった。それからただ一言。愛しているよと。

 けれど、グウィンは躊躇ってしまった。口下手な彼には、謝罪を――まして愛の言葉をはっきりと口にすることが、どうしてもできなかった。

「えっと……。ごめん、やっぱり今度話すよ」

 ミリアはきょとんとしていたが、そう、と全てを察したように微笑した。

「それじゃあおやすみなさい、グウィン。明日があなたにとって良き日でありますように」

 その言葉が、グウィンの聞き届けた最後のミリアの声となった。



 帰ってきたらもう一度謝ろう、とグウィンは決めていた。きっとミリアは笑って水に流してくれるのだろうが、だからこそ、改めて誓おう。私は生涯をかけて、愛しいわが家族を守ると。

 そう、決めたはずだった……。

 だが、それは二度と叶わぬ願いとなってしまった。

 ――本当は決めた気になっていただけだったのだ……。

 危うく失いかけた我が子をしっかりと抱きしめながら、グウィンは唇を噛んだ。ナトラはまだ肩を震わせて泣いている。さぞ怖い思いをしたのだろう。

 ――ただ一言の謝罪、ただ一言の感謝を伝えることにも臆病になる私に、一体、何が守れたというのだ。

 事実、今日はナトラさえ守り切れなかった。ナトラが助かったのは、運よく彼らが守ってくれていたからだ。

 グウィンは自嘲した。自分には泣く資格などない。そう思っているはずなのに、熱いものが頬を伝って落ちた。

 亡き妻の忘れ形見、ナトラの背中をなでながら、グウィンは涙が溢れるのを止められなかった。

 ――今度、などという言葉に頼っていた時点で、口先だけの半端者だったのだ。

 心のどこかで当たり前にあると思っていたものほど、失ってからその大切さを痛感する。グウィンは耐え難い代償と引き換えに、それを知った。

――だからこそ、妥協は許されない。“次”があるという保証がないからこそ、かけがえがないのだ……。

 グウィンは後悔と愛おしさを同時に抱きしめながら、「ナトラ」と震える声で語りかけた。

「パパはお前を愛しているよ、ナトラ」



6、

 あの親子が再会してから、すっかり力が抜け、気づくと眠り込んでしまったらしい。

 翌朝ルミナが目を覚ますと、見知らぬ天井が目の前にあった。

 うーん、と背伸びをして、ルミナは身体を起こす。

 よく眠れたような気がするのは、昨日、無茶をして疲れていたからだけではないのだろう。寝かされていたベッドは清潔で、よく沈む。シーツにはおそらく絹が使われているのだろう、肌触りが滑らかだ。

 ベッドに腰掛けたまま、ルミナは部屋を見渡す。

 部屋は広い。窓から見える景色が高いことに、ルミナは驚く。

ベルベットのカーテンと、細工の凝らされた窓。家具はごくシンプルなものしか置かれていないが、どれも上等なものらしく、きれいな飴色をしていた。壁には絵画までかけられている。

「また知らない場所……」

 そう呟きながらも、ルミナはどこかで既視感を覚えていた。

 ――そうだ、あの屋敷。

 空腹で行き倒れていたところを拾ってもらった時、ちょうどこういう形の窓が、中庭から見えた気がする。

 ルミナは部屋の外へと出た。廊下は吹き抜けになっていて、高い天井にシャンデリアが下がっていた。どこか気後れを感じながら階下を目指していると、突然、男の悲鳴が空間を劈いた。ルミナはびくりと肩をすくめた。

 悲鳴は外から聞こえたようだ。視界の先、階下に、ちょうど外に続く裏口が見えた。

 ルミナは急いで階段を下り、声のした方へと向かった。



 中庭に続く出口をくぐると、そこには衝撃の光景が広がっていた。

「青い空、白い雲、そして煌々と輝く朝日……今日もいい日になりそうだ……って思ってたのに……」

 クレアは澄み切った空を見上げていた。

 確かに、クレアのいう通りいい天気で、のどかな日だった。――クレアが木から逆さ吊りになっていることを除けば。

「なぜ僕はこんなことに!? 朝イチでこれは結構ハードなんだけど!?」

「さて、何故だろうなぁ」

 傍らにはシドウが腕組みをして立っている。微笑んではいるが、目の奥が明らかに笑っていない。

「自分の胸に手を当てて考えてみるといい」

「はい! 両手塞がってて胸に手を当てられないから解いて!」

「あ?」

「冗談です」

 二人のやりとりを見ながら、ルミナは背筋を凍らせていた。一体何が起こっているのか、脳の処理速度が追いつかない。

「疑惑の内容は単純だ」シドウが淡々と告げる。「クレア、お前部外者相手にペラペラお喋りしたんじゃないだろうな」

「え、し……しし……シテナイナリヨ」

 露骨に目を泳がせるクレア。

「図星か」

 シドウの目がさらに細まる。

 きつく口止めをされているとは聞いていたが……。ルミナがぎょっとしていると、「なら、もういっそ本人に聞いてみるか」とシドウがこちらを向いた。

「え!?」

 突然自分に向けられた矛先に、ルミナはたじろいだ。

 シドウの不穏な笑みと、吊るされているクレアとを交互に見る。

「ち、ちなみに……あくまで純粋な疑問として、何でそう思うのよ」

「いやなに、別段明確な根拠があるわけじゃない」

 ないのかよ、とルミナは胸中で呟いた。

「こいつ口が軽いから、うっかり何か口走りでもしたんじゃないかと思ってな」

「シテマセン、ワタシ、ナニモシラナイネ」

「その胡散臭い喋り方何!?」

 というか、疑惑の段階で普通ここまでする……!?

 何重にもツッコミが追いつかない。

「あ……やばい……意識が遠のく……」

 ミノムシのようになっているクレアは文字通り虫の息だ。「御覧の通り」とクレアを一瞥し、シドウは続ける。

「こいつは素直さが長所なんだが、それ故にこういった腹芸は向いてない。――言っとくが、嘘をついても身のためにならんぞ」

 う、とルミナは口ごもる。「分かってるわよ……」

「しかしだ……。もしどうしても話せないって言うなら仕方ない」

「え?」

「そこに“たまたま”もう一本縄がある」

 見ると、庭の片隅に、確かに、頑丈そうな麻縄が一本。

「後は……分かるな?」

「あんた絶対最初から二人揃って吊るすつもりだったでしょ!」

 思わずそう口走ると、ミノムシのようになっているクレアが、鼻で笑った。

「無駄だよ、シドウ。僕たちの間には秘密の約束があるんだ。彼女は言った。『私は口が堅い。命を懸けてでも、この秘密は守り通す』と」

「いやそこまで言ってない!この秘密と命なら命の方をとるわ! というかそれ言った時点でバレバレよ!」

 シドウの笑みがいっそう深くなった。

「――さあ、最終通告だ。ここで素直に答えれば、わざわざ尋問に縄を使う必要はなくなるんだが……」

「さあ、言うんだ!」

 クレアがカッと目を見開く。

「『そんな卑劣な脅しには屈しない』と!『私たちは一蓮托生、やれるものならやってみろ』と――」

「ごめんなさい聞き出しました」

「裏切り者ぉぉー!」

 ルミナはシドウの圧に屈した。

「な、なんで……秘密にするって、約束したのに……」

「いや……今更隠しても既に感づかれてるし……あと吊られるのは嫌」

「ひどい、僕は現在進行形で吊られてるのに!」

 こほん、とシドウがひとつ咳払いをする。

「一応聞く。理由は?」

「そんなの、あれだけ除け者にされたら誰だって気になるじゃない!」

「確かにな」

 シドウは一度納得したそぶりを見せた。ルミナがほっとしたのもつかの間、シドウは重ねて尋ねた。

「でも、それだけじゃないんだろう?」

 今度こそルミナは慌てた。沈黙の中で、並べるべき言葉を探す。けれど、どう取り繕ったところで、この男には見抜かれてしまう気がする……。

「え……えと……あの……なんていうか」

 声が上ずる。どうにか気持ちを落ち着けながら、ルミナは続ける。

「ご、ゴブリン討伐で一匹も狩れずに終わって、ちょっと、むしゃくしゃしてたから……なんか、他にも依頼とかがあるんだったら、その、手伝ってあげようか――」

「ほーう?」

「……ちょっとした嫌がらせに横取りしてやろうかと思って……それで……あわよくば相手が魔物だったらそれを倒して、私を過小評価したあんたにドヤ顔してやろうとか……思った……ような気も……します」

言いながら、ルミナは少しずつ目をそらす。

「そうか……よくわかった」

心臓がいやに大きく打っている。判決を待つ罪人のような気分だった。

「素直な奴は嫌いじゃない。それに、結果的に依頼者の娘さんを助けたわけだしな」

「そ、それじゃ……!」

 ルミナはぱっと顔を上げた。

「ああ、認めよう。お前はすごい。色々ときつく言ってすまなかったな」

 先ほどとは打って変わった、穏やかな表情のシドウが、そこにいた。

 ――この男はこんな顔もできたのか。

 呆然としたルミナは、一瞬の間ののち、我に返った。

「な……何よ、急に。あんたに褒められたって、全然嬉しくないし! むしろ、なんか不気味だわ……!」

 慌ててまくし立てるが、顔が耳朶まで真っ赤になっていた。

「ま、まあでも、悪い気分はしないわね……。それに、私もその……誤解してたわ。あんたって結構いい奴――」

「だが、金輪際魔物には関わるなよ」

 シドウの眼差しは、もとの凍てつくようなものに戻っていた。

「なんでよぉぉ! あんた今認めるって言ったじゃない!」

「俺が言ったのは実力の話だ」

 シドウは無慈悲に言い放つ。

「槍の技量が並み以上あることは認める。だがそれ以外はからっきし。それこそ、昨晩のように得物を失った状態で、魔物相手にどう相対するつもりだ?」

 痛いところを突かれて、ルミナは「う」と肩を強張らせる。

「“運よく”槍が返ってこなければ、為す術もなく終わっていたように思うんだが」

「うう……それ……は」

 返す言葉もなかった。

「って、やっぱりあの時の槍は……!」

 槍だけじゃない。討ちそこなった魔物にとどめを刺したあの助太刀も、どうもタイミングがよすぎると思っていた。この男は、一部始終を傍で見ていて、ルミナを試したのだ。

――前言撤回。かなり性悪よ、こいつ。

ルミナはむっつりと黙り込んだ。

「何にせよ、ここまで忠告してなお命が惜しくないというのであれば、――好きにしろ」

「……そう。そこまで言うなら、わかった」

 確かに、シドウの言う通りだった。槍に頼りきっていたせいで、足元を掬われたこと、自分の腕を過信していたこと、視野の狭さ。実戦に立てば、シドウの言葉がなくても、言われるまでもなくわかっていた。あの状況でピンチを切り抜けられたのは、シドウの力があったから。

自分は結局、まだひとりで立てない子どもなのだと痛感させられるようで、ルミナは歯がゆかった。シドウに怒りを向けてしまうのは、結局、自分がふがいないからだ。何より自分に腹が立っている。

「少し……考えてみる」

 ルミナはうつむきながら、答えた。

「賢明だ」

 シドウの声がどこか優しげに聞こえたのが、いっそう腹立たしかった。

 ――けれど。

 ルミナは、思う。

 ――『魔物を狩る』という目的を失ってしまったら、私はどうすればいいの……?

 考え込んでいた時、目の端で、シドウが縄を手に取ったのが見えた。

「ちょ、その縄どうするつもり?」

「ただ片付けるだけだが?」

「そ、そう……ならいいんだけど」

 ほっとしたのもつかの間、「なあ」とシドウが切り出す。嫌な予感がした。

「やっぱり一回だけ吊られてみないか?」

「は!? なんで結局吊ろうとするのよ!」

 シドウは怪しげに口角を上げる。「逆さづりなんてそう経験できんぞ? いいのか?」

「いいに決まってるでしょうが! あんた実は思いっきり楽しんでるんでしょ、このむっつりサディスト!」

 やっぱりいい性格だ。どうして一瞬でもいい奴だなんて思ったんだろう。憮然とするルミナをよそに、シドウは「この後予定があるから」とどこかに行ってしまった。

「ちょ、ちょっと! 重要なこと忘れてるわよ!」

 シドウはルミナの言葉を無視して、すたすたと歩いて行ってしまう。

 ルミナが庭木を振り返った時、クレアはすでに口から泡を吹いて気絶しているところだった。

「あ……もう遅かった……」



 ぱちゃり、と水音がした。

 庭園の裏手の洗濯場。顔を洗ったシドウは、水面に映る自分の顔を見つめていた。顔がいつもより苦々しげに見えるのは、きっと気のせいじゃない。

 どれもこれも、あの娘のせいだ。あいつとばったり会ってから、どうも調子が狂う。

 ――まったく。

 適当に突っぱねておけば、そのうち嫌になってやめるだろう、というのが彼の算段だったが。ルミナにとっては、それは逆効果だったようだ。とんだ誤算だった。

「これはますますお前に似てきてるぞ」

 誰ともなく呟く。シドウの前髪から、ひとつ、水滴が零れ落ち、波紋を作った。

「と言ったら、鼻血出して喜ぶんだろうけどさ……」

 だからこそ――同じ轍は踏ませたくないのだ。

 あの娘が、彼の忘れ形見だからこそ――

 木桶のふちを握る手に、力がこもる。



「あー、朝からツイてない……」

 木から降ろされたクレアは、ベンチに力なく横たわりながら、ぼそりと口にした。頭は相変わらずガンガンと痛むし、縄の巻きつけられていた足首や腕には、まだ縄の感触が残っている。跡も一日そこらじゃ取れないだろう。とんだハードSMだった。

「もー、酷いじゃないか」

 クレアは非難をこめてルミナを見つめた。木から降ろしてくれたのはこの子だが、あの手のひら返しは本当に酷かった。「私は口が堅いから」と言ったのは事実なのに。

 ――まあ、シドウは怖いから、気持ちはわかるけどさ。

「ごめん、つい咄嗟に……」

 そう弁明するルミナの表情は暗い。心ここにあらず、といった様子。

 シドウに面と向かって実力不足を突きつけられてから、この子はずっとこんな感じだ。自信家の彼女らしくもない。――いや、自信家だからこそ、己の矜持が折れるのは堪えるか。

「……それで?」

 クレアが水を向けると、何か考え込んでいた様子の彼女は、はっとしたように顔を上げた。

「さっきの話。どうするつもり?」

 ルミナは再び考え込んでしまう。答えは出せていないのだろう。

 沈黙の中で、小鳥のさえずりだけが、場違いに陽気だった。

「そもそも、シドウも言ってたけど、どうして魔物にこだわるの?」

 ルミナは目を伏せたまま、重たげに口を開いた。

「それは……」



7、

 王都より東。イスター伯領・イスター邸にて。

 その広大な庭園の中、ロングヘアの少女が四阿に腰掛け、景色を眺めていた。ここからは領内がよく見渡せる。眼下に広がるのどかな風景は、一見、退屈なほどに平和そのものだ。

その彼女の傍に、そっと歩み寄る者がいた。

「お嬢」

 呼びかけられ、少女はゆっくりと背面を振り仰ぐ。

「あら、おはよう。今日もいい朝ね」

 やわらかな春風に、絹のような髪がそよりと揺れた。

「――それで、何かあったの?」

 少女の問いに、青年はかしこまった様子で答えた。

「立った今、早馬が来たんですが。どうも昨晩、領内に魔物が出たみたいで……」

「あらあら、それは大変ね」

 少女は口元に手を当てる。「ちなみに、その魔物って言うのは?」

「実際に見たわけじゃないんで、本当かどうかは分からないんですが……」

 そう前置きをして、青年は続ける。

「話によると、現れたのは人喰い鬼」

 つまり――“オーガ“。

「それは驚きね...」

 少女は目を丸くした。

 この辺り……いや、この国は、他国に比べると魔物の個体数が圧倒的に少ない。出るとしても小型のものが大半だ。特にここ何年かは、その数がさらに減少傾向にあるというのが、専門家たちの見立てだった。

「そんな大物がでてくるなんて……いったいどういうことなのかしら……」

「さあ……俺には小難しいことは分かんないんで」

 いつものように青年は言い、それから訥々と報告を続けた。オーガが現れたのは王都の街道沿い。その近隣の農村で、確認されているだけでも、既に多数の犠牲者が出ている……。

「そう……嘆かわしいことね……」

 報告を聞き届けた少女は、痛ましげに目を伏せた。

「ただお嬢……その魔物なんですが」

「お待ちなさい!」

 青年の言葉を遮り、少女は人差し指を立てた。「その先は、自分で当てます!」

「そうね……やっぱり“あの二人”がちゃっかり解決したってところかしら」

「少し違います」と、青年。「今回は三人だったとか」

「あら、そうなの? 惜しかったわね」

 少女は残念そうに小首をかしげた。

 でも、“彼ら”なのは確かだろう――。少女には確信があった。自分が今知った情報なのに、昨晩のうちに王立騎士団が出てくるとは思えない。

 そこまで考え、少女の頭に妙案が浮かんだ。

「あ、そうだ。最近会ってないし、直接聞きに行きましょうか」

 新しい遊びを提案するような、楽しげな口調だった。少女の期待通り、青年は即座に顔をしかめた。

「うえ……あいつに会うんですか?」

「相変わらず彼のこと嫌いなのね」

 少女はくすくすと、さえずるように笑う。

「大丈夫よ。そんなに長居はしないから。聞くのはただ、ちょっとした確認もして、今後の方針を固めるため」

 それと――。

 少女は秘密めいた声で口にした。人差し指を唇に当てながら。

「件の三人目が、いったいどんな人物なのか……気になるじゃない?」



 屋敷を出たルミナは、うつむきがちに歩いているうちに、一輪の花を目に留めた。

 ――アリウム。

 花のそばにしゃがみ込み、ルミナは重い息を吐いた。

 「どうして....」という言葉と同時に、花がぬるい風にそよいで揺れた。

 ぽつ、と空から雫が落ちてくる。まばらだった雨脚は、少しずつ勢いを増していく。ルミナの頬に、冷たい雫と同時に、熱い雫が流れ落ちた。温度の違う雫が混ざり合い、顎を伝って地面に落ちた。

 雨が降りしきる中。髪も服もずぶぬれになるのも構わず、ルミナはそこに座り続けていた。

 ――私はただ、誰も悲しまない世界を望んだだけなのに。

 手のひらをぎゅっと握り込める。ルミナの嗚咽は、強くなった雨音の中にかき消える。

 ――なのに、なんでうまくいかないんだろう……。

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